http://www.kanbun.org/kaze/2310.html 【トリプル・クライシスに向き合う ~気候変動、生態系、環境汚染の危機】 田崎 智宏 より
このところ、海外の情報で「トリプル・クライシス(3つの危機)」という表現が使われていることをしばしば見かけるようになった。国連環境計画では2020年にこの言葉を使ったページが作られており、地球規模の環境問題がより危機的な状況になっていることを改めて問いかけている。
どのような危機が世界的あるいは国連環境計画にとって認識されているかというと、気候変動、生態系、そして環境汚染、なかでも大気汚染である。途上国の都市部の大気汚染はひどく、特にPM2.5の濃度はWHO基準を大幅に超過している都市が多い。人によっては、資源の浪費とそれに伴う環境破壊などの危機を加えることもあり、「トリプル」という言葉にこだわりすぎずに、3つ以上の危機に我々が直面していることと捉えておいた方がよいだろう。
病気にたとえれば、これは複合的に症状が発生している状態で、かつ入院した方がよいような状況といえるだろう。
このようなときに対症療法ばかりをしていては、いたちごっことなってしまう。当面の危機を乗り越える緊急性はあるので対症療法も少しは必要だろうが、そのような対応だけでは不十分である。これは環境文明が主張し続けている人々の生活様式や企業活動といった人類の活動のあり方を創り直すことが必要という考えと同じである。
さて、翻って、日本の状況をみてみよう。実は、3つの危機は、日本の環境政策のなかでも10年以上前に取り上げられていた。2007年の「21世紀環境立国戦略」のときである。このときは、地球温暖化、資源の浪費、生態系という3つの地球環境の危機が注目され、環境政策に統合的に取り組んでいくことの重要性が指摘されていた。
しかし、先駆けた問題認識とはうらはらに、打ち出された環境立国の中身はというと、世界最先端の環境・エネルギー技術、深刻な公害克服の経験、環境保全に携わる豊富な人材、資源との共生を図る智慧と伝統の4本柱であった。それをもとに、アジアそして世界の発展と繁栄に貢献しようというのである。目の前で起きており被害が分かりやすい公害問題と今の地球環境問題の性質の違いが十分認識されているとは言い難い。また、その後の日本の実態をみれば、技術過信による震災事故、再生エネルギーの普及の遅れ、国際的に環境政策を先導できる人材の不足。さらに国際交渉においては後ろ向きの態度との海外からの批判が続いている情けない状況であり、4本柱の多くがガタガタの状況である。当時の意気込みは良かったと個人的には思っているが、願望論はもはや捨て去り、極めてロジカルに戦略的に取組を考えなければならない時機にきているはずだ。
さて、複合的な危機に立ち向かうには、統合的な視点は欠かせない。複数の事象が同時に起こる場合の結果は3つある。シナジー(相乗効果)が得られる場合、トレードオフ(相殺効果、二律背反)が生じる場合、お互いに無関係な場合のいずれかである。
このなかで、シナジーは注目されやすい。IPCCの第6次報告書でも、気候変動対策の多くは、SDGsの各ゴールの実現に資すると述べている。同様に、グリーン・ニューディールなど、環境と経済を両立させようとしてきた取組もあった。これらには複数の分野をまたがる関係者の意欲を喚起させる効果と、協働して取り組むことの可能性を拡げる効果がある。すなわち、新しいイノベーションなどを創出する機会に優れているアプローチといえる。しかし、注意も必要である。トレードオフ構造を放置したままでは、シナジーを求めた取組はより多くのトレードオフを生じさせるからである。
一方、トレードオフへの着目も実は悩ましい。個人あるいは個別の会社レベルでは、2つの問題のどちらを重視したらよいかが判断できなかったり、「今度はこの側面も評価しないといけないのか。」など自分ができることと、多面的評価で求められることとのギャップが深まったりする。結局は、誰かが強く主張する、教えてくれるまでは何もしない、という流れを生み出しやすい。 このような悩ましい状況におかれた結果、楽観主義者はシナジーに着目して新しいイノベーションなどの創出を狙い、悲観主義者はトレードオフに着目して、危機的な状況下に追い打ちをかける悪影響を回避しようとする。楽観と悲観とに分かれ、ある種の二極化が生じやすい。
どちらも正しい態度とは言えないだろう。シナジーに着目することも、トレードオフに着目することも、どちらも部分を見ているだけである。全体を良くする(それらを統合していく)には、違う視点が必要である。重大なトレードオフを引き起こす構造をシナジーもしくは無関係な構造に変えることこそ、目指すべきことだろう。
統合的な環境政策の必要性は環境基本計画でも謳われており、第3次から第5次の計画(それぞれ2006年、2012年、2018年)では環境と経済と社会の3つの側面を統合するような環境政策の方向性が打ち出されている。現在、議論されている第6次環境基本計画では、脱炭素社会(カーボンニュートラル)、循環経済(サーキュラーエコノミー)、自然再興(ネイチャーポジティブ)に向けた政策を統合していこうとしている。楽観だけ、あるいは、悲観だけに終始せず、広い視野と粘り強い議論と行動がトリプル・クライシスに直面している日本や各国に要求されている。
http://www.kanbun.org/kaze/0209.html 【文人と心交わした夏 ―芭蕉、良寛、そして賢治―】 加藤 三郎 より
この夏は日本列島が、特に関東から西はことのほか暑く、体調を崩された方もいらしたかもしれませんが、夏を過ぎていかがお過ごしでしょうか。私達、環境文明21の事務局は今年も旧盆の時期、一週間ほど一斉休暇と致しました。昨年に続いて二回目です。スタッフ全員思い思いに、故郷を訪ねたり、旅行に出たりの夏休みとなりました。
私自身は家族のルーツである福島県の会津に法事出席を兼ねて行って参りました。その道すがら会津の名刹と言われるいくつかの寺々を訪ねてまいりましたが、どこに行っても耳が痛いほどの蝉時雨。会津では寺も地蔵も蝉時雨、との句が思わず口に出てまいりましたが、暑さのせいだったかもしれません。
寺と蝉といえば、やはり松尾芭蕉が『奥の細道』の途上で詠んだ、あの有名な句を誰しも思い出すと思います。実は私もそれを思い出しながら会津の古寺を訪ね歩いておりました。
「岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂莫として心澄みゆくのみおぼゆ。」
閑かさや岩にしみ入る蝉の声
誠に文学の力というものは不滅だと改めて感じ入っています。芭蕉はこの後、酒田から越後に向かい市振の関に向かったそうですが、その途中佐渡ヶ島を遠望して、これまた有名な一句を残しています。この行程は、暑さと湿気で体調が悪く、旅の記録も書けなかったそうですが、海の彼方の佐渡ヶ島を見て、
荒海や佐渡に横たふ天の河
と詠んだと饗庭孝男氏はその著『芭蕉』に記しています。
この佐渡に関連して私がすぐに思い起こすのは、芭蕉とは一味も二味も違った良寛さんです。若い時の修行時代はいざ知らず、後年の中年以降の、天真爛漫といえる良寛の歌はとても心に沁みるものばかりです。
たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかも
この歌などは良寛さんの生涯を多少なりとも知る人にとってはことのほか趣深いものだと思います。私にとって、良寛や芭蕉は子供のときから親しんで育ったいわば心の師でもあり、また私達が愛してやまない日本の文化史上に光芒を発し続けている巨星のような文人です。芭蕉は、
野ざらしを心に風のしむ身哉
この道や行く人なしに秋の暮
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
などまさに旅に生き、旅に死んだ、厳しい求道者の一生をおくったのですが、良寛は心優しい歌を沢出残してくれています。
この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春口はくれずともよし
道のべにすみれ摘みつつ鉢の子を忘れぞ来しあはれ鉢の子
今読むと、癒し系というか、まさに心温まる平明な歌が心にじんときます。
私にとって特に印象深いのは、良寛の晩年を美しく彩った弟子貞心尼とのたぐいまれな交流です。当時良寛はすでに70歳。貞心は30歳の若さだったということですが、良寛と貞心の間に交わされた初々しい歌を私が初めて知ったとき、戒律誠に厳しい江戸時代にあって、しかも二人とも仏道に身を置いているにもかかわらず、このように深く美しい心の触れ合いが可能であったことに驚きを持って見つめたものです。日本の文化のゆかしさ、奥 深さに改めて目をひらかされた思いをしたものです。二人の間にとり交わされた歌をすべて私は大好きですが、例えばこんな具合です。
きみにかくあひ見ることのうれしさもまださめやらぬゆめかとぞおもふ(貞心)
夢の世にかつまどろみて夢をまたかたるも夢もそれがまにまに (良寛)
しろたへのころもで寒し秋の夜の月なか空にすみわたるかも (良寛)
むかひゐて千代も八千代も見てしがな空ゆくつきのこととはずとも (貞心)
良寛が亡くなるとき、貞心にも付き添われて死の床に着いたと伝えられていますが、私には貞心尼の存在と良寛さんとの心の交流は、良寛の晩年のみならず江戸時代というものに彩りと深い味わいを残してくれたと思っています。
かたとみて何か残さん春は花山ほととざす秋はもみぢ葉 (良寛)
現代に生きる私達は、後世に何を残せるのでしょうか。バブル経済の後遺症、家庭など人間の絆の崩壊、そして地球規模の環境の破壊だけでは、良寛さんに申し訳ありません。
会津の里で、露天風呂に入り、夜空を見上げますと満天の星空です。目を凝らすと白く煙った川のような天の河がよく見えます。天の河のことを英語ではMilky Way、つまリミルクのように白い道と言われますが、見上げているとよくぞ言ったものだ、と感じ入ります。美しく妖しく輝く白い道を飽かず眺めていると、宮沢賢治がその白い道に銀河鉄道を発想したのもとても自然なように思えます。賢治は、あの有名な『銀河鉄道の夜』という誠に幻想的で不思議な、宇宙感覚というべき四次元の世界を描き出しています。ジョバンニとカムパネルラという二人の主人公の少年が銀河鉄道に乗って銀河を旅し、白鳥停車場に着いてそこから銀河の河原にやってきたときの描写は次のようになっています。
「河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。」
その賢治は、今私達が問題にしている温室効果ガスを全く別の視点から、珠玉のような文学作品に描き出しています。『グスコーブドリの伝記』という作品のなかで、幼いときに冷害のために両親が飢えて死んで孤児となったブドリが青年農業技師となったときに、火山を爆破させ、炭酸ガスを空中に噴出させることによって、その温室効果を利用して冷害をなくそうという作品です。その爆破の過程で、ブドリは命を落とすことを知りながら自らすすんで農民を救う物語です。賢治が温室効果ガスのことを知って、すばらしい作品を書いて70年以上経った今、長い時間をかけてつくりあげた温暖化対策議定書を、米国ブッシュ政権の自国の経済優先政策とロシアの足踏みによって未だに発効できない憂き目を私達は見ています。
あえて自分の身を犠牲にしながら大気を暖めたブドリ、それを美しい文学作品に描き切った賢治。その精神を思えば、南アフリカ・ヨハネスブルクで開催された国連の「持続可能な開発に関する首脳会議」が成功してくれることを祈らざるを得ませんでした(ヨハネスブルク・サミットの成果については次回、記します)。
http://www.kanbun.org/kaze/2401.html 【考え方や行動を変える 藤村 コノヱ】より
能登半島地震、羽田事故と心の痛む年明けとなりましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。昨年も異常気象の激化、ウクライナに続きパレスチナでの戦争、国内では政治と金の問題や企業の不祥事など暗いニュースの多い年でしたが、その一方で、COP28では化石燃料からの「脱却」が明記され、当会30周年記念イベントも無事終わり、大谷選手や藤井棋士など次世代の活躍など明るいニュースに救われる一年でもありました。悲しい出来事で始まった新年ですが、皆で力を合わせて様々な困難を乗り越え、少しでも明るい年にしていきたいものです。
ところで昨年11月に『持続可能な世界に向けた新たな環境教育』という本を出版しました。内容について横山裕道さんが書評で(14頁)紹介してくれていますが、環境の危機、暮らしと命の危機、人間性や民主主義の危機など、現在と将来への不安が増す中、こうした危機を乗り越えるには、私たちの考え方や行動を変えるしかない。そのためには、学校だけでなく市民・企業の学びを大きく変える必要があるとの思いから書いた本です。本では、経済に翻弄されない本来の教育や学びの価値を取り戻すことや、環境教育のやり直し、市民教育や政治教育、哲学・倫理教育、メディアリテラシー教育の強化など5つを提案しましたが、混沌とした現状を見ていると、政治家や官僚、企業トップも含め全ての人の学び直しが必要だと改めて感じています。
例えば、今回の政治の混乱は日本では違法の政治家への企業献金の抜け穴としてのパーティ券が問題になりましたが、気候変動やエネルギー、原発問題などは政治や企業活動に大きく左右されます。私たちNPOは常に炭素税の早期導入や石炭火力や原発の早期廃止を訴えていますが、短期的経済を優先する昨今の政治は、これらに反対する産業界の声を受けて本質的解決策を先送りするばかりで、気候・エネルギー政策の遅れは顕著です。資金力と組織力に勝る産業界は、自らの利益拡大のためにパーティ券購入などを通じて政治家に働きかけ、政治家も資金と票獲得につながる産業界の声を重視、環境省の弱腰もあって短期経済重視の政策になるわけです。この背景には政治規制の甘さだけでなく、根底には倫理観の欠落があり、長期的視点での国民の幸せと社会の持続性よりも「今だけ金だけ自分だけ」という風潮が政治家や企業の間でも蔓延しているからです。勿論そうではない政治家や経営者も私の周りにはいますが、権力などとは無縁の方が多いようです。
一方、政治家を選ぶのは私たち市民ですが、政治への無関心やあきらめ、より良い暮らしと社会のために自らが何かしようという自治意識や市民意識の低さ、明日の環境よりも今日の経済が大切といった誤った認識が政治の混乱や環境政策の遅れの一因になっています。年末に環境活動を行う若者の意見を聞く機会もありましたが、彼らでさえ、投票の意義をあまり理解しておらず、政治や環境についての学校教育の不十分さを指摘する声も聞かれました。
2016年9月号「風」で、『「知性」と「人間性」を見失わないように』というテーマで、日本に限らず世界中で、「今」「金」「自分」しか見ようとせず、考えることを放棄し、判断も行動も責任さえも他人任せの「反知性主義」的傾向が広がりつつあること。その解決には自ら考え判断し実践する力、根源的問いに向き合う思考力、他者と人間的に向き合う力、社会に参画する「市民」力など、言い換えれば、真の「知性」と「人間性」を育む教育・学びが大切と書きました。しかし、昨今の政治の怠慢や企業倫理の喪失、AIに過度に傾倒する人々を見ていると、「反知性主義」的思考がさらに深まり、それが若者にも影響しているようです。
そんな中でも、「知性」と「人間性」を持ち現状の困難を乗り越えようとする人は私の周りにもたくさんいます。また今回の地震による悲しみや苦境の中でも助け合い労わり励まし合う人々、羽田事故でも地道な訓練を重ねた乗務員の冷静な判断とそれに従う乗客の姿を見ていると、まだ日本にも知性と人間性を持った人がいることに勇気づけられます。
著書では、前述の5つを繋げた新たな環境教育・学びを提案しましたが、中でも、当会提案の「脱炭素時代の倫理」を基盤に、厳しい環境の中で生きる意味や本当の豊かさを考え議論し実践に繋げることが大切だと思っています。特に政治家や経営層が謙虚にこうした倫理を学び変わることができれば、知性と人間性を持つ多くの人々と共に、健全な民主主義も倫理ある経済も実現できるはずです。
環境派のバイブルとも言えるシューマッハ著の『スモール イズ ビューティフル』にも、“教育は最大の資源”で、“教育の核心は価値の伝達”にあり、“原子力の危険、遺伝子工学の発達に伴う乱用の恐れ、商業主義の弊害、こうした問題への対策は、結局、教育の普及と向上に帰する”とあります。教育や学びは時間もかかり、即効薬にはなりませんが、今、それを怠れば、先はありません。しかし、私たち一人ひとりが学び行動が変われば、人間が招いた災いである気候危機や原発問題なども解決し、戦争も防げるはずです。地震という自然災害さえも人間がAIなど技術を使いこなせれば被害を最小限に止めることができるかもしれません。諦めずに、私たち一人ひとりが、今より少しでも知性と人間性をもって努力をすれば、道は開けると思うのです。
30周年記念イベントでは、当会がこれまで積み上げてきた持続性の智慧や倫理(知性と人間性)を次世代に繋いでいくのが当会の使命とのご意見も頂きました。全ての生命と活動の源の「環境」を基軸にした包括的な教育や学びが多くの場で実践されれば、人々の考え方や行動を変えるきっかけにはなるはずです。そう信じて、今年も当会らしい活動を進めていきますので、引き続き、ご支援ご協力をお願いします。
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