http://www.kadokawaharuki.co.jp/soul/poem/0906.html 【魂の一行詩】 より
「虚空も微小も等価」
鳥籠の四温の水のふくらみぬ 小島 健
鳥籠の小鳥が啄む小さな水入れの水も三寒の後の四温の気象のせいで少しふくらんで見える、という句意である。一行詩という最短の詩型は、無限の虚空から微細な宇宙まで詠むことができる文芸である。右の句のように繊細な、そして微小な事物への感覚は、そのまま巨大な世界と等価なのである。私の作品を例にあげると、
白魚にかくも愛しき眼あり 角川春樹
「ランティエ」メール一行詩
ランティエにはメールや葉書で一行詩が多数よせられています。それらすべてに角川春樹が目を通し、選び、批評した作品群をここに掲載します。
特 選 (※批評あり)
風光る母と拾ひし父の骨 曽根新五郎 人亡くてお菓子のごとき春の雲 露崎士郎
花よりも濡れつつ花の中を行く 秦 孝浩 テネシィ・ワルツ七十八回転の夜 大久保響子
吾もまたノイズとなりぬ春霞 永島 証 生きてゆく果てにさくらの吹雪けり 大友麻楠
風花の舞ひ散る海を渡りけり 古賀由美子 風光る母と拾ひし父の骨 曽根新五郎
同時作に、
ストローの色は水色水温む
がある。上五の「風光る」の季語が「明」であるのに対して、中七下五の「母と拾ひし父の骨」の措辞が「暗」である。切実な悲しみに対して「風光る」の季語が、より一層の共感を呼ぶ力を持った。これを「季語の恩寵」と言う。
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人亡くてお菓子のごとき春の雲 露崎士郎
同時作に、
父母のしきりに恋し花の雨 引く前の鴨を見てゐてさびしかり
がある。上五の「人亡くて」は誰であるか判らなくともよい。推測すれば、その存在は父か母かもしれない。大事なのは、中七下五「お菓子のごとき春の雲」の措辞だろう。この美しい譬喩が母を連想させるからである。
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花よりも濡れつつ花の中を行く 秦 孝浩
同時作に、 黄砂降る堅き表紙の唐詩選 がある。だが、「花」の句のほうが良い。雨で濡れていない限り、花自体が濡れることはない。濡れるのは、当然、人間である。ある意味では当り前のことだが、一句全体が美しい一行詩となっていて成功した。
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テネシィ・ワルツ七十八回転の夜 大久保響子
この句には季語がないが、わざわざ季語を入れなかったことで成功した。七十八回転とは、昔のレコード盤である。上五から中七にかけての「テネシィ・ワルツ」の固有名詞が生きている。そして下五の「夜」だ。これだけで充分、「乾いた抒情詩」として成立した。
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吾もまたノイズとなりぬ春霞 永島 証
同時作に、春の雨昨日の今もここにゐた があり、この句も良い。「春霞」の一句は、人間が立てるノイズを詠ったが、上五の「吾もまた」の措辞によって、一行詩となった。下五の「春霞」の季語は、一考を要するかもしれない。
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生きてゆく果てにさくらの吹雪けり 大友麻楠
上五から中七にかけての「生きてゆく果てに」の心理的な「暗」に対して、中七下五の「さくらの吹雪けり」は「明」である。人は生きている限り、「明」と「暗」をくり返す。それが人の生であるが、作者の想念の中での、生涯の果ては桜吹雪でありたいという願望は、西行法師に通ずるところもある。
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風花の舞ひ散る海を渡りけり 古賀由美子
水上勉の社会派推理小説の『飢餓海峡』や艶歌の『津軽海峡冬景色』を連想させる一行詩。上五の「風花の」が「明」となって救われている。勿論、「実」ではなく「虚」の世界である。悲恋をイメージさせる。
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秀 逸
鰤起し西に戦火の海がある 加藤完司 囀りやいのちあるもの響き合ふ 中村光声
淡雪や我がてのひらに奈落あり 波多野利幸 早春を巨大な夏が死にいそぐ 村上 洋
逃げ水やエデンの園は見つからず 伊藤実那 悲しみがヒトのかたちに立つてをり 八木正幸
弔いし恋の数多よ雛納め 佐久間京子 使ひみち無き平和へと黄砂降る 山崎寿也
猪を剥ぐ檜の皮を剥ぐごとく 三好哲彦 年度末金を使つて道壊す 赤澤雄一
永き日の乗換駅の椅子にゐる 立木 司 鶯や柩は船で戻りをり 金川清子
『河』作品抄批評
三月の水平線が孕みけり 福原悠貴 芽起しと思ひし雨が雪となり 佐藤佐登子
虐殺忌ただ流れゐるジャズピアノ のだめぐみ 海女の笛鳴らし昼餉のカレー煮る 浅井君枝
クロワッサン余分に焼いて春惜しむ 岡部幸子 花衣乳房に残る火の破片 川越さくらこ
一湾に日の育ちけり雛の窓 青柳冨美子 止り木に花の杖置く西行忌 藤田美和子
蕗の薹揚げて夕暮れ窓にあり 河戸友里 雛の夜の父のいのちへ雪が降る 大多和伴彦
この地図に雪のかはりにジャズが降る 平岡 瞳
エプロンを脱いで朧となりにけり 中田よう子 水鳥に柩のあれば月光製 中尾公彦
曲水や工場ラインの静かなり 本田真木 三月の水平線が孕みけり 福原悠貴
「きらきら光る」と題する同時作に、
春岬クレヨンで描く空のいろ 白い机に二月のクロワッサン
青い目のジャックが巣箱をかけたはず きらきらと女が泣いて牡丹雪
つばめ来る幸せを売る帽子屋に
があり、「春岬」と「巣箱」の句が良い。
一方、「三月の」の句は、三月の「はいとり紙句会」で、特選3佳作2の総合得点11を獲得した作品。春になって海全体が膨らんでくる感覚を言い止めた。中七下五の「水平線が孕みけり」の措辞が適確である。印象の鮮明な絵画的な作品。
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芽起しと思ひし雨が雪となり 佐藤佐登子
春になって木の芽が一斉に吹きだすが、特に雨の後にその傾向が著しい。作者は、芽起しの雨だと思っていたら、何時の間にか雪に変っていた驚きを一句にした、水のような一行詩。さりげない表現だが、日常の細やかなドラマを一句に言い止めた佳吟。
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虐殺忌ただ流れゐるジャズピアノ のだめぐみ
同時作に、虐殺忌海の向かふに海があり クロワッサン春を包んで焼きにけり
白梅のひとつ咲きたる今日のあり 春愁の水脈に触れたるこころかな
があり、「春愁」の句以外は、二月の「はいとり紙句会」の作品。虐殺忌の二句は、今月の『河』作品のなかで一番多かった小林多喜二の忌日。『河』の今月号の投句から例をあげると、
堅雪の鼠鳴きする多喜二の忌 鎌田志賀子 多喜二忌の真つ赤なポストに投函す 飯川久子
多喜二忌やくすぶり止まぬ煙草の火 藤原 香竹藪の日の斑まぶしき多喜二の忌 岡田みつこ
ジャズピアノの「虐殺忌」は、「はいとり紙句会」で特選4秀逸2佳作2の総合得点18。海の向こうの「虐殺忌」は特選3秀逸1佳作6の総合得点17を獲得し、「のだめ祭」ならぬ「虐殺忌祭」となった。海の向こうの「虐殺忌」は、蟹工船の悲惨な海の向こうに、明るい別天地の海があることを詠んだ。しかし、それ以上に素晴らしいのはジャズピアノの一句だ。今月号の『半獣神』のなかで、次の句と共に最高点4を獲得した。
海女の笛鳴らし昼餉のカレー煮る 浅井君枝 靴の雪の溶けだすライブハウスかな 板本敦子
蕗の薹揚げて夕暮れ窓にあり 河戸友里 雛の夜の父のいのちへ雪が降る 大多和伴彦
私は安易に忌日を使用することに反対だ。かつて、故・飯田龍太が、「なんでも忌日をつければ、一応俳句になる。下五の『かな』もそうだ。しかし、忌日をつけて俳句にはなっていても、ただそれだけで、なんの感動も読む側に伝って来ない」と私に語ったことがあるが、私もそう思う。今月号の通信欄に、のだめぐみは次の文を寄せている。
先日の句会報で、私は忌日を安易に使うことへの抵抗について書きました。そんな中で、今回は、その忌日で作句した二句を投句しています。私なりにこの忌日と向き合った結果、生まれた魂の一行詩です。
のだめぐみの「虐殺忌」の一句に深い感動があるのは、右の一文を読んで納得した。中七下五の「ただ流れゐるジャズピアノ」の措辞が抜群に良い。それは、ジャズピアノがただ流れている空間に居る、作者の見事な自画像となっているからである。のだめぐみ自身が歌手ASUKAとしてジャズピアノのレッスンに励んでいることも承知しているからでもあるが、この景はジャズライブの店の中であろう。虐殺忌というインパクトのある季語に対して、日常のドラマ性のある秀吟。
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海女の笛鳴らし昼餉のカレー煮る 浅井君枝
同時作に、ジーパンの膝に穴あけ春一番 ジョニ赤のグラスは昭和の春だつた
花柄の縞馬がゐて朧かな がある。「海女の笛」の一句は、三月の東京中央支部の句会で、特選2佳作2を取った作品だが、もっとこの句が評価されるべきだと私は思う。
「海女の笛」とは、鮑や栄螺を入れる桶の浮力を利用して呼吸を整える間、すぼめた口からもれる息の音のことである。例句をあげると、 海面に浮かびて海女の火の呼吸 山岡優介
があるが、これでは単に「海女の笛」の説明にしかなっていない。海女の昼餉の景としては、次の一句がある。
髪乾くまもなき海女の昼餉かな 檜 紀代
右の句も、海女の昼餉を詠んだだけで、なんの感動もない。それに対して浅井君枝の「海女の笛」の、中七下五の「鳴らし昼餉のカレー煮る」の措辞が良い。つまり、海女の日常がありあり見えるからである。その上、下五の「カレー煮る」には現代性とユーモアがあるではないか。浅井君枝の「海女の笛」の一句は、海女を詠った佐川広治の次の代表句と並ぶ秀吟である。
海女潜ぐる海の明るさ地に残し 佐川広治
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クロワッサン余分に焼いて春惜しむ 岡部幸子
同時作に、古雛へままごとほどのちらしずし 職なくて春の焚火をしてゐたる
があり、特に「古雛」の句が「春惜しむ」の句と並ぶ佳吟である。中七下五の「ままごとほどのちらしずし」の措辞に感心した。
一方、クロワッサンを焼いた「春惜しむ」の一句は、のだめぐみの今月号の次の句と比較してみたい。
クロワッサン春を包んで焼きにけり のだめぐみ
のだめぐみのクロワッサンに春を包んで焼いた作品は、二月の「はいとり紙句会」で特選1秀逸1佳作3の総合得点8を獲得した「のだめ調」の一句。それに対して、岡部幸子の句の中七下五の「余分に焼いて春惜しむ」の措辞が上手い。この表現によって、岡部幸子の日常が浮かびあがる手触りのある作品となった。この手触り感によって、より生き生きとした映像が見えてくるではないか。
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花衣乳房に残る火の破片 川越さくらこ
同時作に、花冷えのカウンターの疵なでてゐる があり、BAR「さくらこ」を営む作者の日常が目に浮かぶ。一方、「花衣」の句は「虚」ではなく「実」であるかもしれない。この句の背景は少し説明を要する。銀座でBARを営んでいた川越さくらこは、一九九三年五月二日の全日空機飛行機事故に遭遇する。
全日空機が雨の中、羽田空港に到着した際、機内に煙が充満し、緊急脱出時、濡れた脱出用スライドに滑り、投げ出された四九〇人の乗客中一二一人のけが人が出たものである。(徳田正樹「異色の新人──川越さくらこ小論」より)
その際、川越さくらこは全身打撲と足首の骨折で全治四ヵ月の入院となった。
「花衣」の一句の、中七下五の「乳房に残る火の破片」の措辞は、前述の事故を詠ったものかもしれないが、文字通りの「実」と取る必要はない。下五の「火の破片」は心の傷の象徴とも取れるからだ。むしろ、全日空機の事故を離れて鑑賞するほうが良いだろう。上五の「花衣」の「明」に対する、中七下五の「暗」のドラマトゥルギーの作品として読むほうが正解なのであろう。
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一湾に日の育ちけり雛の窓 青柳冨美子
同時作に、春愁や指いつぽんで弾くピアノ がある。この句も佳吟だが、驚いたことに今月号の上田郁代に同様の作品がある。勿論、偶然の一致であるが、ここに記しておく。
春愁の指一本で弾くピアノ 上田郁代
一方、「雛の窓」の一句は、上五中七の「一湾に日の育ちけり」の措辞が実にいい。それによって、下五の「雛の窓」が海に近いホテルかマンションの景であることが明確となり、窓から一湾が眺められることも、冬から春に移り変った日の光も鮮やかに感じ取れる。下五が「雛の家」ではなく、「雛の窓」であることがいい。更に、日の光が一湾に育ったという発想が素晴らしい。
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止り木に花の杖置く西行忌 藤田美和子
同時作に、春袷昨夜の雨の匂ひをり があり、この句も良い。「春袷」は三月の「はちまん句会」の兼題で、藤田美和子の作品は特選2秀逸1佳作1の総合得点9を取った。当日句は、次の通りであった。
春袷母の戦後を知つてゐる 石橋 翠 少女には昏き水あり春袷 松下由美
水のごと今を生きたし春袷 角川春樹
また「春袷」の例句をあげると、
行きずりの私語も柔らか春袷 大津信子 そよそよと生きて来しなり春袷 山田みづえ
母ならぬ身に紐つよく春袷 井上 雪
があるが、特に際だった句があるわけではない。藤田美和子の「春袷」の中七下五の「昨夜の雨の匂ひをり」の措辞が良い。一方、「西行忌」の一句は、特選3秀逸2佳作3の総合得点16を獲得した。選者の一人は上五中七の「止り木に花の杖置く」の措辞に秋山巳之流を思い浮かべたと述べたが、惜命杖と彫り込みのある杖を、石田波郷から贈られた晩年の角川源義を、私は想起した。源義の杖であれば、文字通り「花の杖」となろうからだが、勿論、誰の杖でもよいわけで、この句の眼目がただの杖でなく、花の杖であることによって「西行忌」の季語が成立した。
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蕗の薹揚げて夕暮れ窓にあり 河戸友里
河戸友里の「蕗の薹」の一句は、三月の東京中央支部の句会で私の特選と秀逸を二つ取った。河戸友里は新同人で、投句の通信欄に次の一文を寄せている。
中央支部例会に出席させていただくようになってから二年半、はじめて特選をいただきました。三句投句しても、名告れないことの方がずっと多かったので、とてもうれしく、例会に出席して学ぶこと、又良き句友を得ることの大切さをしみじみと痛感致しました。ありがとうございました。
蕗の薹の例句をあげると、細見綾子の次の代表作がある。
蕗の薹食べる空気を汚さずに 細見綾子
る蕗の薹の旨さが河戸友里の句から伝わってくる。『河』の会員で友人の武富義夫は「食べものの句は、読み手の食欲をそそる作品がいい」と私に言ったが、河戸友里の一句はまさに食欲を覚える秀吟。「映像の復元力」が効き、てんぷら油の匂いまで伝わってくる。
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雛の夜の父のいのちへ雪が降る 大多和伴彦
三月十九日に、大多和伴彦から次のファックスを受け取った。
二月最終日の二十八日に父が緊急入院し、母、家内とともに看病しておりましたが、十七日午前〇時三十四分に亡くなりました。享年七十八歳、原発性肺ガン(肝臓にも転移)でした。(略)
実際には行われなかったヘビーな精密検査を控えた前日の三月五日には私と家内、そして母に対して口頭で遺言があり、愛用していた居合い刀を托すことを告げられました。
そして、十七日、静かに、本当に静かに、息を引き取りました。
大多和伴彦の父君、弘明氏は昭和二十八年にNHKに入局し、国際放送のプロデューサーとして番組を制作する傍ら、東京五輪、大阪万博を初めとする数々のイベントにかかわってきた。定年退職後は特技であった英語をいかし、大学やカルチャーセンターの講師を務め、傍らに始めた居合いと合気道は四段であった。そして、ファックスの末尾に前述の一句が添えられていたのだ。句意は説明するまでもないが、上五の「雛の夜の」の「明」に対して、中七下五の「父のいのちへ雪が降る」の美しい措辞は勿論「暗」であるが、切実で美しい大多和伴彦の一代の名吟である。更に、「いのち」と「たましひ」を詠う現代抒情詩の傑作と言ってよい。
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この地図に雪のかはりにジャズが降る 平岡 瞳
同時作に、猫の恋歯ブラシひとつ増えてをり たばこ屋でアナログな春買つてゐる
春の雪ジタンの蒼に日の暮るる 啓蟄や隙間だらけの午後にゐる
があり、「アナログな春」の一句が面白い。アナログな春とは、いったいなんなのだろう。具体的な「もの」がいっさい示されていないのにもかかわらず、読み手は様々に想像し、この不思議な魅力に惹かれるだろう。多分、古めかしい莨かマッチの類なのだが、しかしそれなら何故「春」なのか説明がつかない。しかし多くの共感を得て、三月の「荒地句会」では特選1秀逸1佳作4を獲得した作品。一方、「雪のかはり」の句は、「荒地句会」でわずか佳作1点の作品。上五の「この地図に」に対して、中七下五の「雪のかはりにジャズが降る」の措辞が面白い。この地図は、現実の地図ではなく本人の歩むべき道の象徴なのであろう。その道の上に、今、雪の代りにジャズが降り注いでいる、という句意である。一句全体が、そして他四句も「ひとみ節」の作品。つまり、具象を全て抽象化してみせた平岡瞳の世界。
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エプロンを脱いで朧となりにけり 中田よう子
同時作に、啓蟄やためらひがちな尾てい骨 身のどこかうすきところに桜貝
嘘多き日は右手から発熱す 逃水を追つてタクシードライバー
があり、「逃水」の句が面白い。だが、「桜貝」の句を特選に取った岡田滋は、選評で「身のどこかうすきところに」を「身のどこかうずく(疼く)ところに」と完全に誤解して、全員の失笑を買ってしまった。当然、疼いているのは岡田滋本人。
一方、「朧」の一句は特選3佳作1の総合得点10を獲得した。私の獄中句集『海鼠の日』に、次の一句がある。
おぼろなるもののひとつにおのれかな 角川春樹
中田よう子の「朧」の句は、つまるところ作者自身が朧となっている、ということ。しかし、この句から受ける印象は、エプロンを脱いだら、そこには作者の肉体はなく、朧となった気体だけがあるという、具象を抽象化したイメージがある。例えば、包帯だらけの人間が実は透明人間であるといったようにだ。平岡瞳の句と同様に、不思議な感覚の付きまとう作品。
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水鳥に柩のあれば月光製 中尾公彦
同時作に、くちびるにパラフィン鳴らす魚は氷に 冴返るバックミラーに目のふたつ
どの皿もパセリの残る涅槃の日 逃水のなかへ自転車変声期
があり、特に「魚は氷に」の句が面白い。
一方、「水鳥」の一句は二月の東京例会の投句で、特選1秀逸1佳作2を取った作品。一句全体の言葉が緊密で余韻のある美しい一行詩。上五中七の「水鳥に柩のあれば」でいったん切れて屈折し、下五の「月光製」で着地するが、スピード感にあふれ意外な結末となってドラマが終る。まるで、フィギュア・スケートの演舞のフィニッシュのような終り方だ。この水鳥は多分白鳥であろう。白鳥を持ってくれば、どうしても「白鳥の湖」が想起されるので、敢えて水鳥にしたのだろう。何故なら、下五が「月光製」だからである。だが鑑賞する側にすれば、月光の湖に浮かぶ白鳥をイメージすることになる。そして「柩」である。この水鳥の柩は、ガラスのように透明な月光で作られているというわけだ。美しいファンタジーの一句だが、月光製の「製」によって新鮮さと無機質な感触を導き出す演出に成功した。
> 『河』作品抄批評一覧
曲水や工場ラインの静かなり 本田真木
同時作に、総務課に本日着の猫の恋 麗日に仮面を脱いだふりをするがあるが、圧倒的に「曲水」の句が良い。今月号の河作品のなかで、ただ一人最高点4を獲得した。「曲水」は三月の「荒地句会」の兼題で、当日は次の投句がなされた。
曲水におまるのアヒル流れけり 笹 公人 曲水のむかふに風雲児がをりぬ 野元恵理衣
曲水や二時間ドラマに人が死ぬ 伊藤実那 盃の流れに花の散りにけり 角川春樹
曲水の流れる水の日暮けり のだめぐみ 曲水や何かをみそこねたる 同
曲水の下流を過ぎてゆく時間 島 政大 曲水の空を見上げてゐる少女 岡田 滋
曲水やTOKYOの午後の音がする 平岡 瞳
曲水とは、貴族や文人等が庭園の曲折した水流に臨んで座り、上流から流される盃が自分の前を通り過ぎぬうちに詩歌を作り、盃の酒を飲む、という風流な宴である。例句をあげると、
曲水の詩や盃に遅れたる 正岡子規 曲水や草に置きたる小盃 高浜虚子
があるが、どの句も「曲水」という季語の本意本情を詠っているが、それだけのことだ。一方、本田真木の「曲水」は、従来の典雅な遊びに対して、中七下五の「工場ラインの静かなり」の措辞に一驚した。工場の生産ラインを曲水に見立てての句であるが、下五の「静かなり」とは、そのラインが不況のためにストップしていることを示している。「取り合わせの妙」である以上に、乾いた抒情詩として堀本裕樹の次の句と同レヴェルの秀吟である。
黒いゴミ袋に梅が散つてゐる 堀本裕樹
Facebook人の心に灯をともす投稿記事【精進をもって自分の人生を全うする】
藤尾秀昭氏の心に響く言葉より…
生きるとは息をすることである。息をするのをやめた時、人は死ぬ。しかし、息は人間が意思し努力してするわけではない。人間を超えた大きな力が働いて私たちは息をしている。
心臓が休みなく鼓動しているのも同じである。
人知人力の及ぶべくもない大きな力の間断のない働き、精進によって私たちの生がここにある。即ち生命と精進は一体なのである。絶えざる精進のないところに生命はない。
「釈迦の人生観は精進の二字に尽きる」と言ったのは松原泰道師である。
百一歳まで求道精進に生きた人の言葉だけに心に残っている。
事実、釈迦は八十歳で亡くなるまで、熱砂の中を布教に歩いた。
『大般涅槃経(だいはつねはんぎょう)』にこう記されている。
「阿難(あなん)よ、私は老い衰えた。齢すでに八十に及ぶ。阿難よ、たとえば古い車は革紐の助けによってやっと動くことができるが、思うに、私の身は革紐の助けによってやっと動いているようなものだ」
そういう状態の自分を廃車寸前になぞらえながら、「心ある人の法は老ゆることなし」
・・・心に真理を具えている人は身体は老いても、心が老いることはない、と言っている。
「この釈尊の言葉を受け、私も一所懸命勉強している」と言っていた百歳の泰道師の声がいまも耳に残っている。
『遺教経(ゆいきょうぎょう)』のこの言葉も味わい深い。
「汝等比丘(なんじらびく)、もし勤めて精進すれば、則(すなわ)ち事として難き者なし。この故に汝等当(まさ)に勤めて精進すべし。たとえば少水の常に流れて則ち能(よ)く石を穿(うが)つが如し」
精進すれば必ず道を成就できる。
少ない水でも常に流れていれば石に穴を開けることができるようなものだ、というのである。
何度も読み返し、自分のものにしたい言葉である。
そして、臨終に際し弟子たちに語った言葉。
「では比丘たちよ、私はお前たちに告げよう。すべてのものは移りゆく。怠らず努めよ」
釈迦の人生はこの言葉に凝縮している。
私たちもまた、精進をもって自分の人生を全うしたい。
『小さな修養論5』致知出版社 https://amzn.to/4bxzRlf
産婦人科医・医学博士、池川明氏は著書『ぼくが生まれてきたわけ』(KADOKAWA)の中でこう語っている。
『人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。
臨死体験をされた方々の複数の証言によると、死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、次の2つのことだけだとも言います。
1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?』
精進をするとは、まさに陰徳を積むということ。人知れず、ひそかに行う徳を積む行為。
それは、「人に親切にする」「ゴミを拾う」「人知れず掃除をする」「人のために尽くす」等々の他に、「(どんなときも)愛語で話す」「いつも笑顔で接する」「人を許す」ということもある。
つまり、人の役にたつ生き方をすること。まさに、それこそが精進だ。
そして、「自分の人生を楽しんだか」ということは、どんな困難なことが起きても、愚痴や泣き言、不平不満を言わず、不機嫌にならず、その中から楽しみを見出し、楽しんだか、ということ。
つまり、どんなことが起ころうと、いつも機嫌よくしているか、ということ。
これもまた、精進。
精進をもって自分の人生を全うする…生きている限り精進する人でありたい。
https://note.com/hiroo117/n/ncc3219291150 【人間から何を取ったら人間でなくなるか】より
西原宏夫 Nishihara Hiroo
今日のおすすめの一冊は、藤尾秀昭氏の『小さな修養論 5』(致知出版社)です。その中から「稲盛和夫に学ぶ人間学」という題でブログを書きました。
本書の中に「人間から何を取ったら人間でなくなるか」という渡部昇一先生の心に響く一節がありました。
「ゾウから鼻を取ったらゾウでなくなる。 キリンから首を取ったらキリンでなくなる。 では、人間から何を取ったら人間でなくなるか」
渡部昇一先生は生前、上智大学の教え子たちによくこういう質問をさ れたという。 味わい深い質問である。あなたなら何と答えるだろうか。 渡部先生がどういう回答をされたのかは知らないが、筆者はそれを 「心」だと考える。
詩人、坂村真民さんに「こころ」と題する詩がある。
こころを持って生まれてきた これほど尊いものがあろうか
そしてこのこころを悪く使う これほど相すまぬことがあろうか
その通りだろう。心があるから、世界があり、宇宙があるのである。 嬉しい、楽しい、幸せだという感情も、心があるからであり、心がなければ一切がなくなる。 心を持って生まれてきた、これほど尊いものはない。
しかし、その心を悪く使ってしまう。これほど相すまぬことはない、と真民さんはいう。 その通りである。なぜ素晴らしい心を悪く使うのか。それは心は放っておくと雑草が生えるようにできているからである。 私たちはたえず目を見開いて、心に生える雑草を抜き去り、心が本来の働きをするよう心の手入れを怠ってはいけない。
放っておけば雑草が生え、荒野と化してしまう心をたえず溌剌とした状態に保っておくために、心の手入れをすることを修養というのである。 その意味では修養の精神こそ人間から取ったら人間でなくなるものの最たるものだといえるかもしれない。
「人間から何を取ったら人間でなくなるか」という質問の答えとして、「魂」という回答もできると思います。
小林正観さんは「魂」についてこう言います。
「魂」は生まれ変わりを重ねながら成長していきますが、「魂」が成長できるのは、「肉体を持ったときだけ」のようです。なぜか。「魂」だけで過ごしているときは、「事件」が起きないからです。
輪廻転生という生まれ変わりの理論からすると、魂は人間という肉体を持った時だけ成長できるといいます。肉体を持った途端、病気や、人間関係や、事故や、仕事上のトラブル等々、様々な困難が押し寄せてきます。
そして、その困難やトラブルを乗り越えたときだけ、人は成長できるということです。そのために必要なのが、人間修養。困難やトラブルを自分の磨き砂として、自分を高めていきたいと思います。
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