花を詠んだ俳句

https://skawa68.com/2022/04/09/post-97282/ 【花を詠んだ俳句。花がもたらす幸せ効果、人の心を癒し、慰め励ます力を実感!】より

花を詠んだ俳句

ロシアによるウクライナ侵略が続く中、多くのウクライナ人が隣国ポーランドをはじめヨーロッパ各国に避難していますが、日本在住のウクライナ人家族を頼って日本に避難してきた人もいます。

ウクライナから母親を呼び寄せた娘が、母親の心の傷を癒そうと上野公園の桜見物に連れ出したというテレビ報道もありました。

最近は「花のデリバリー」の検索数が倍増しているそうです。余儀なく変化する日常を前に、癒しの効果がある花の力を人々は求めているのでしょう。

写真家の奥山由之氏は、「花とは人生、愛情そして祖母との失われた時間を象徴するものだ」と語っています。彼の祖母はいつも部屋に花を飾っていて、その習慣を今は彼が受け継いでいるそうです。彼は花が持つ無機質な魅力を写真に捉え、祖母との記憶と思い出を重ねています。

花には、見ている人を笑顔にする力があります。なんだか落ち込んでしまった日でも、花を部屋に飾るとそんな気分を吹き飛ばしてくれる気がします。

おうち時間が増えたコロナ禍の影響で、花や観葉植物を部屋に飾り始めた方も多いのではないでしょうか?

音楽もそうですが、花も、人の心に優しさを取り戻させたり、心の傷を癒したり、慰め励ましたりする力を持っています。

花を使った心理療法「フラワーセラピー」というのもありますね。花がもたらす幸せ効果は「五感へのアプローチ」によります。

視覚…花の色によるカラーセラピー効果や美しさによる癒し効果

嗅覚…花の香りによるアロマテラピー効果やリラックス効果

触覚…花の触り心地による刺激

味覚…ハーブティーやエディブルフラワーで味わう刺激やリラックス効果

聴覚…葉や草が優しく揺れる音などによる心地よい刺激

多くの人は花を見て、ただ美しいと思うだけかもしれませんが、心に刻んだり、瞼に焼き付ける人もいます。中には写真を撮ったり、絵に描いたりする人もいます。

最近、奈良県明日香村の「岡寺」や京都府長岡京市の「楊谷寺」、京都市の「勝林寺」などの寺や神社で「花手水(はなちょうず)」(下の画像)というものが行われており、遊び心があふれていて綺麗だと人気です。私の住む高槻市にある野見神社でも「花手水」を始めており、「フォトコンテスト」も開催されています。

遊び心溢れる花手水花手水

歌人や俳人は、その感動や花に託した思いを短歌や俳句に詠んでいます。

そこで今回は、花を詠んだ俳句をいくつかご紹介したいと思います。

冒頭の画像にある俳句についてご説明します。

・しら露もこぼさぬ萩のうねり哉(松尾芭蕉)

意味:白露をいっぱい溜めた萩の花。風に吹かれて大きくうねっても、その露を落とさずに揺らめいている

1693年(元禄6年)秋、芭蕉が杉山杉風の別邸採茶庵に咲く萩を見て詠んだ句だと言われています。「白露」も季語ですが、この句では「萩」が主役なので、「萩」が季語です。

松尾芭蕉は1694年に亡くなっていますので、晩年の作品となります。

季語になっている「萩」は、マメ科の落葉低木です。山野に自生し、初秋には白や紅紫色の蝶のかたちをした小さな花をたくさんつけます。秋の七草の1つです。

1695年(元禄8年)刊『こがらし』では、「白露をこぼさぬ萩のうねりかな」と詠まれ、1812年(文化9年)刊『栞集』では、「白露もこぼれぬ萩のうねり哉」と詠まれています。

以下、春・夏・秋・冬に分けて花の俳句を、花の画像とともにご紹介します。

1.春の花の俳句

・落椿(おちつばき)夜めにもしろきあはれかな(久保田万太郎)

落ち椿

・踏みて直(す)ぐデージーの花起き上る(高浜虚子)

(注)「デージー」は、和名「雛菊(ひなぎく)」のことです。ちなみに「デージー」は英語の「day’s eye(デイズ アイ)」が由来と言われています。お日さまが照っている日中に花を開き、形も太陽に似ていますね。

デージー

・山路(やまじ)来て何やらゆかしすみれ草(松尾芭蕉)

スミレ

・はこべらや焦土の色の雀ども(石田波郷)

(注)「はこべら」(繁縷)は「はこべ」とも言い、「春の七草」の一つです。

はこべら

・しら梅の明る夜ばかりとなりにけり(与謝蕪村)

しら梅

・まんさくに滝のねむりのさめにけり(加藤楸邨)

(注)「まんさく」は、漢字で「満作、万作、金縷梅」と書き、銀縷梅(ぎんろばい)とも言います。早春のまだ寒い時期に、ほかの花に先駆けて咲くので「まず咲く」が語源とされています。また黄金色の花が多数咲くと豊作になるといわれることから「万年豊作」に由来するとも言われています。

マンサク

・猫柳(ねこやなぎ)高嶺(たかね)は雪をあらたにす(山口誓子)

(注)「猫柳」という名前は、やわらかいビロードのような銀白色の毛に覆われた花穂が猫の尻尾を思わせることに由来します。

ネコヤナギ

・いぬふぐり星のまたたく如くなり(高浜虚子)

(注)「いぬふぐり」という名前は、果実の形状が雄犬の「フグリ(陰嚢)」に似ていることに由来します。

イヌフグリ

・山峡(さんきょう)をバスゆき去りぬ蕗の薹(ふきのとう)(三好達治)

フキノトウ

・片栗(かたくり)の一つの花の花盛り(高野素十)

カタクリ

・影は滝空は花なり糸桜(加賀千代女)

(注)「糸桜(いとざくら)」とは、「枝垂桜(しだれざくら)」の異称です。

糸桜

・大空に莟(つぼみ)を張りし辛夷(こぶし)哉(松本たかし)

(注)「辛夷」という名前の由来には、つぼみの形が赤子の拳(こぶし)に似ているからという説と、秋になる赤い実のごつごつとしている感じが拳の形に似ているためという説があります。

辛夷

・行き過ぎて尚連翹(れんぎょう)の花明かり(中村汀女)

レンギョウ

・木蓮(もくれん)の風のなげきはただ高く(中村草田男)

モクレン

・命二つの中に生きたる桜かな(松尾芭蕉)

ヤマザクラ

・奈良七重(ななえ)七堂伽藍(しちどうがらん)八重桜(やえざくら)(松尾芭蕉)

八重桜

・海棠(かいどう)の日陰育ちも赤きかな(小林一茶)

海棠

・来し方や馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり(水原秋櫻子)

(注)房状の美しい花ですが、花・樹皮・葉には毒がある植物です。「馬酔木」という名前は、「馬が葉を食べると毒に当たり、酔った如くにふらつくようになる木」というところから付けられました。

馬酔木

・野に出れば人みなやさし桃の花(高野素十)

桃の花

・勿忘草(わすれなぐさ)わかものの墓標ばかりなり(石田波郷)

勿忘草

・敷く雪の中に春置くヒヤシンス(水原秋櫻子)

ヒヤシンス

・世をいとふ心薊(あざみ)を愛すかな(正岡子規)

2.夏の花の俳句

・牡丹散ってうちかさなりぬニ三片(与謝蕪村)

牡丹

・つる薔薇や若きリルケの住みし家(有馬朗人)

つる薔薇

・泰山木(たいさんぼく)天にひらきて雨を受く(山口青邨)

泰山木

・桐咲いて雲はひかりの中に入る(飯田龍太)

桐の花

・風塵のアカシヤ飛ぶよ房のまま(阿波野青畝)

アカシヤ

・一八(いちはつ)の白きを活(い)けて達磨(だるま)の絵(正岡子規)

(注)「いちはつ」は、「一初、鳶尾草」とも書くアヤメ科アヤメ属の多年草です。名前は、アヤメ属の中で一番先に咲くことに由来しています。

白花イチハツ

・罌粟(けし)ひらく髪の先まで寂しきとき(橋本多佳子)

罌粟

・紫蘭(しらん)咲いていささかは岩もあはれなり(北原白秋)

紫蘭

・峠にはまだ雪消えず水芭蕉(みずばしょう)(滝井孝作)

水芭蕉

・しやが咲いてひとづまは憶(おも)ふ古き映画(三橋鷹女)

(注)「しゃが」(Iris japonica)は、漢字で「射干、著莪、胡蝶花」などと書くアヤメ科アヤメ属の多年草です。

シャガ

・しじみ蝶とまりてげんのしょうこかな(森 澄雄)

(注)「げんのしょうこ」は、下痢止めや胃腸病に効能がある薬草として有名で、名前の由来は、煎じて飲むとその効果がすぐ現れる(実際に効く証拠)ところからきており、漢字で「現(験)の証拠」と書きます。

ゲンノショウコ

・小(お)暗くて踊子草(おどりこそう)は木曾の花(中村明子)

踊子草

・晩年の父の書やさしえごの花(関戸靖子)

(注)「えごの花」は「エゴノキ」の花のことです。つぶした実の果皮を舐めると喉が刺激されて「えぐい、えごい」感じがするので、この名が付きました。

エゴノキ

・番傘に雨をはじきて菖蒲園(石原舟月)

菖蒲

・グラジオラス妻は愛憎鮮烈に(日野草城)

グラジオラス

・驟雨(しゅうう)来て矢車草(やぐるまそう)のみなかしぐ(皆川盤水)

矢車草

・原爆の地に直立のアマリリス(横山白虹)

アマリリス

・昼顔やレールさびたる旧線路(寺田寅彦)

ヒルガオ

・雫落ちて十薬(じゅうやく)の花またたきぬ(清崎敏郎)

(注)一般的には「ドクダミ(蕺)」の名で知られています。「十薬」はドクダミの生薬名です。

名前の由来としては、「十の薬効を持つ」「十の毒を消す」「重要な薬草(重草)」という三つの説があります。

ジュウヤク

・蛍袋(ほたるぶくろ)咲かせ兵士の墓一基(原田青児)

(注)「蛍袋」の名前の由来は、子供が虫籠代わりに釣鐘状の花に蛍を入れていたためという説と、釣鐘状の花が提灯に似ていて、提灯のことを「火垂る(ほたる)」と呼ぶためという説があります。

ホタルブクロ

・咲き満ちて天の簪(かんざし)百日紅(さるすべり)(阿部みどり女)

(注)「さるすべり」は、幹の樹皮が滑らかでツルツルしており、これだと猿も滑り落ちるのではないかということからで、「百日紅(ひゃくじつこう)」は、花期が長く百日も咲き続けることからです。

百日紅

・夾竹桃(きょうちくとう)燃ゆ広島も長崎も(関口比良男)

夾竹桃

・抱かれ居る児の躍るなり凌霄花(のうぜんか)(幸田露伴)

(注)漢名の「凌霄(りょうしょう)」の「霄」は、空や雲という意味で、空を凌(しの)ぐように上へ上へと伸びていく(大きな株は高さ10m近くにまで達する)様子から名付けられました。和名の「のうぜんかずら」は、漢名の「りょうしょう」が「のうしょう」に変化し、さらに「のうぜん」に変化したとも言われています。

凌霄花

・花合歓(はなねむ)の夢見るによき高さかな(大串 章)

(注)「合歓(ごうかん)」は漢名で、夜に葉が重なり合うので「合歓」と書きます。和名の「ねむの木」は、夜になると葉を閉じる(就眠運動)姿が、眠っているように見えるので、古くから「ねぶ」と呼ばれ、中世から「ねむの木」と呼ばれるようになりました。

ネムノキ

・夏椿(なつつばき)一輪が守(も)る虚子の墓(鈴木真砂女)

(注)「夏椿」という名前は、花や葉の形がツバキに似ており、夏に花が咲くことに由来します。「夏椿」は、別名「沙羅(しゃら/さら)」とも呼ばれます。これはインド北部に生えるフタバガキ科の「沙羅双樹(サラソウジュ)」(別名:シャラノキ)に似ているとされて、江戸時代中期に仏教の聖樹である沙羅双樹を夏椿にあてるようになったものです。

ナツツバキ

・ダリア切る生涯の妻足太し(清水基吉)

ダリア

・睡蓮の白いま閉じる安堵かな(野津節子)

睡蓮

・揚羽蝶おいらん草にぶらさがる(高野素十)

花魁草

・大事より小事重んじ日々草(伊丹三樹彦)

日日草

・淋しくもまた夕顔のさかりかな(夏目漱石)

ユウガオ

・山荘の月見草恋ふ心あり(稲畑汀子)

月見草

・母の亡き夜がきて烏瓜(からすうり)の花(大木あまり)

カラスウリの花

・変哲もなし鷺草(さぎそう)も咲くまでは(福永鳴風)

サギソウ

・喪の席にゐて向日葵(ひまわり)を見てゐたり(保坂敏子)

向日葵

3.秋の花の俳句

・鶏頭の十四五本もありぬべし(正岡子規)

鶏頭

・ある程の菊抛(な)げ入れよ棺の中(夏目漱石)

・ゆめにみし人のおとろへ芙蓉(ふよう)咲く(久保田万太郎)

芙蓉

・朝顔につるべ取られてもらひ水(加賀千代女)

朝顔

・白粉花(おしろいばな)妻が好みて子も好む(宮津昭彦)

オシロイバナ

・撫子(なでしこ)につながる思ひいつも母(黒川悦子)

撫子

・ふつくりと桔梗のつぼみ角五つ(川崎展宏)

桔梗

・吾亦紅(われもこう)信濃の夕日透きとほる(藤田湘子)

吾亦紅

・露草の露千万の瞳かな(富安風生)

露草

・母の忌に帰れず秋海棠(しゅうかいどう)を切る(大久保橙青)

秋海棠

・露地の空優しくなりて紫苑(しおん)咲く(古賀まり子)

紫苑

・頂上や殊に野菊の吹かれ居り(原 石鼎)

野菊

・赤も亦悲しみの色曼殊沙華(まんじゅしゃげ)(中村芳子)

曼殊沙華

・木犀(もくせい)の昼はさめたる香炉かな(服部嵐雪)

金木犀

4.冬の花の俳句

・山茶花(さざんか)の長き盛りのはじまりぬ(富安風生)

山茶花

・茶の花に人里ちかき山路かな(松尾芭蕉)

茶の花

・石蕗(つわぶき)咲いていよいよ海の紺たしか(鈴木真砂女)

ツワブキ

・ポインセチア病窓といふ額縁に(清水衣子)

ポインセチア

・人肌の日差(ひざし)とおもひ寒の梅(山上樹実雄)

寒梅

・蠟梅(ろうばい)を無口の花と想ひけり(山田みづえ)

ロウバイ

・水仙や寒き都のこゝかしこ(与謝蕪村)

水仙

・どの路地のどこ曲がっても花八ツ手(やつで)(菖蒲あや)


https://note.com/muratatu/n/n282a875ee136 【水の惑星で生きる花との関わりを記述する  ――林桂句集『百花控帖』をめぐって】より

武良竜彦(むらたつひこ)   

先ず本書の「あとがき」から著者のことばを以下に摘録する。

    ※

 (略)花を詠むとは、花そのものを書くというよりは、その関わり方を書くことだったと、まとめながら思ったことだった。(略)

 花という装置の不思議を改めて思う。地球は水の星と言われるが、また花の星であろう。喪失を癒す花がなかったら、地球はどんなに淋しい星になっていただろう。(略)

    ※

 引用文の最初のことばは、季語の本意、季語としての花そのものを詠む伝統俳句の手法とは別次元で、花との「関わり方を書く」という視座が提示されている。花と時空を共有する中での、己の生のあり様と花との関わりを書くという意味だろう。現代俳句としての矜持であるかのような見解でもある。

引用文の後の方のことばに、わたしが特に共感するのは、(水の惑星ともいわれるこの地球に)「喪失を癒す花がなかったら」という、作者が花というものに投げている視座の在り方だ。

 梅花(ばいか)卯木(うつぎ)に花むぐりゐる水の星

この句の含みいる思いとも通底していよう。「むぐり」は「潜り」の古語的な読みだろう。水鳥の「かいつぶり」の意味もあり、その潜水、潜在感を広げている。

これは日本詩歌の原初のあり方のアナロジーに、わたしには聞こえる。

わたしは、詩歌のはじまりは大いなる喪失という悲劇に纏る口誦的な「うたい」であったものだと理解している。だから林桂が花の存在意義のようなものとして、「喪失を癒す」という側面をいちばんに取り上げている感性に、「うた」に対する視座にも通底するものがあるに違いないと憶測するのである。

この二つのことばに、この句集を編んだ林桂の創作動機、表現意図、そして方法論が暗示されているように感じた。

それはわたしが林桂の近年の一連の試行のあり方に感じていることとも通底する、もっとも重要なことでもある。

それは「いわずに言う」「語らずにかたる」という詩歌の骨法であるとわたしが近年思うに至っていることの視座から生じているものである。

近代文学は作者があらかじめ表現において、ある企み持つ「主題」の提示を主眼としているように感じている。

 だが近代小説がそうであっても、そもそも詩歌というものは、その原初の口誦の「うた」としてのはじまりにおいて、「主題」はわが内にあるものではなかったのではないか。「うた」の生まれる現場にあったのは、ただ「うたわずにはいられない」という純粋衝動だけであり、自分も含む現世過去世に疑似体験する、大いなる喪失体験としての悲劇こそが「うたいたい」衝動を突き動かしたものではなかったか。

 長病(ながやみ)の幼馴染よ夏水仙

 不治に近いような病が罹患者の一生に取り憑き、健常者とは別次元の命を生きることになる近親者の象徴である「幼馴染」の、幼少にして負わされた宿痾に心傷めている句だろうか。そこに添えた「夏水仙」として、作者はその他者である運命に関与し寄り添わむとする表現のように感じられる。

「かたり手」はその自分自身のものでもあり得た喪失体験としての悲劇を、それを被って果てた幾多の魂たちに成り代わって「うたった」のが、詩歌のはじまりではなかったか。近代文学が、三人称を主人公として書いている場合も、あくまでも自己表出という近代文学としての形式の内に留まるのに対して、古代からの口誦的「うた」の本質は、「他己表出」的な衆人としての土俗的文化の暗黙の共有としての「うた芸」だったのではないか。

林桂が花そのものを詠むのではなく、喪失を癒す花との関わりを書くと、「まとめ」文に書いていることに、このような意味合いにおいてわたしは共感する。

そしてこのことは、高柳重信が「俳句は形式が書かせる」といったことばの理解のしかたに含まれることであると思う。

わたしはこれを単なる定型などいう形式の重要性を説いたことばだとは解さない。

詩歌としての韻律の型に準ずることによって、逆に自己表出という、近代文学観の閉塞感を超えた表現の地平を拓くという含意のことばと捉えている。

近代文学の文学的自己表出と主題主義では、自我という近代の檻を破ることは困難である。それに囚われることなく、ただ定型などの詩歌的韻律に何を盛ることができるのかということを主眼とし、試行する営為の中に、「わたくし性」を超えた、自由な表現の可能性も拓けてこよう、という含意のことばであり、真の自己という固有性という意味での独創的「わたくし性」は、その営為の中にしか生じ得ないものではないか、という問いかけとして受け止めたいのである。

林桂が近年試行している「動詞」「頭韻」という「形式」に準じることで、逆に表現の自由な地平を拓こうとしている営為も、以上の文脈の中で共感している。

その試行から、何が可能なのか、その器から何が引き出せるのか、そこに関与する「わたくし性」はどんな可能性と不可能性を顕在させるのか、そんなことを問うている試みのように受けとめている。

 この句集『百花控帖』が、近年の俳句表現に多く見られる、狭い意味での境涯詠とは一線を画しているように感じられるのは、林桂のこのような姿勢に感じられる視座ゆえではないだろうか。

では『百花控帖』において、林桂はどんな可能性と不可能性を顕在化させたのか、その試行に関わることによって、ほんのりと可視化される林桂固有の「わたくし性」の秘密を、作品に即してうかがってみよう。

一頁一句の明朝太字体という編集にも驚かされるが、その黒々とした巻頭の句が次の句だ。しかもかつての印刷物文化にあったような総ルビ表記である。(失礼だが、読みが重要である場合を除いて、本稿の引用ではルビは省いて表記させていただく)

 花薄巨石は神となりにけり

花薄は風に揺れることの象徴のような花だ。それと地球時間の地学的凝結物としての巨石に聖性を見出す古代的感性を対比させる表現である。秋という四時のひとときを揺れる花薄の限定的時間と、地球が岩石を生み出してから現在・未来を貫いてゆく時間の表現に、ことばとしては登場しない「わたし」という存在の束の間の関与が暗示されている表現といえばいいのだろうか。

花を生かしている水のモチーフは当然すぎるので、まず動態としての「風」の中に置かれた花との「関わり」具合を調べてみよう。

《風》

 二の腕に風の来てゐる稲の花

 海からの風の中なる桔梗かな

 秋桜の花影花に揺れてあり

 夕焼や吾亦紅にさす風の影

 夕風に明日咲くべき牡丹かな

 白(は)木蓮(くれん)に風の道空く光かな

 山薫る躑躅見に来(こ)し風の中

 風出でて午後をひかりの土佐水木

 百年を風と遊んで花茅萱

 十一人ゐて夏萩に風止まず

風を含むこれらの句を、こうしてまとめて読むと、風の中に置かれた花たちの時空の中に、人間であるわたしを含む誰かが、共に在り、何かしらの思いを揺らしていることが明確に感じられる表現になっていることに気付かされる。

「十一人ゐて夏萩に風止まず」の句からは先ずサッカーのことを想起する。 少年サッカーの八人制が大人の十一人制になるとコートのサイズが倍になる。そのサイズに空間の把握と動きの制御を学び直す必要がある。つまりこの句の十一人はそのようなことを踏まえた、少年期から思春期、青春期、青年期の過渡期のこころの揺らぎが風に揺れる萩の姿に託されているのかもしれない。十一人という数字からは他に、鎌倉攻めの際の十一人塚や、黒沢映画の集団抗争時代劇『十一人の侍』、萩尾望都の青春友情恋愛ミステリー漫画『11人いる!』も想起する。何か悲劇や危機を孕んだ象徴的な数字のようだ。

《明かり 照り 光》

  花終はり続けて木槿明かりかな

  山落暉野に紺色の菊照りて

  空の彼方に海あるひかり曼珠沙華

母と訪ふ日向明かりの梅の園

しののめの光りそめゐる花辛夷

菜の花に身体(からだ)明るくして戻る

ひさかたの光を開くチューリップ

  光の中に垂れてひかりの藤の花

  白木蓮に風の道空く光かな

風出でて午後をひかりの土佐水木

花菖蒲脂(あぶら)のごとく水明かり

光という陰影の中に置かれた花たちと共に、私たちの身体という直接性の中にも光は差し込んできている。「菜の花に身体(からだ)明るくして戻る」という官能を花たちも、今ここで、という実存的な時空を共有している。

 《翳り 暮れ 闇》

  茶の花の翳りそめゐる昼の月

  暮れ泥むもののひとつに花馬酔木

  捩花の日ごと日暮を惜しみけり

  紫陽花や地球半分翳りつつ

  泰山木の蔭に翳りて仰ぎゐる

  夕闇の始めの螢袋かな

  九輪草庇の影を出でて午後

  柿の花集まるところから翳る

 陰や闇は単に光の属性として発生している現象ではなく、命の実存的陰影を深め、命そのものの実存性を際立たせるものとして表現されているように感じる句群である。「紫陽花や地球半分翳りつつ」は咲き切った紫陽花の球形をなぞるように、地球という影ある球体を出現させて、太陽に照らされて共に在る命として、そこに存在し恥じる。それに立ち会う人の命も同じである。

《匂い 香》

  大学に海の匂ひす葉鶏頭

 男郎花錆びて匂へる父の鉈

 花ならば色形と匂いだろう、というのが定番の認識だろう。だがこの句集では立った二句だけである。それも青年と壮年の男性的な身体の匂いという実存性を表現するに留めている。花といえば女性的な色形や匂いという通俗性が拒否されている。

《家族》

  蠟梅や母の忌近づきつつ遠し

  男郎花錆びて匂へる父の鉈

  娘(こ)のために使ふ一日花八ツ手

  母と訪ふ日向明かりの梅の園

  満天(どうだ)星(ん)や父恋ひ蟲を花影に

  妻留守の陽の中に出すシクラメン

  蒲公英を点して母へ帰るなり

  出征の日の父麦の花一列

  父母の死にたる家の花通草

  月下美人へ兄呼んでくる弟よ

  母死後を千年生きき花秋(オク)葵(ラ)

  花茗荷溶けて母郷や母の亡き

  母逝きて独逸(ジャーマン)菖蒲(アイリス)風を生む

  夏椿薄明薄暮を姉とゐる

 この圧倒的な表現力。ここに来て、私たちはこの句集の真の主題は「家族」だったのではないかと、思案させられることになる。ここから浮かび上がる家族という主題性を、直接的に俳句に詠んでいる句はたくさんある。だがこの動かしがたい実存性に比すればものの数ではないだろう。これらの句の中の花と人の命には、それを包む地球という今もある。だが多くの句には添え物のような、記号としての季語しかない。季語という死んだ花という命が、ともにある人の命との関係性の中で、命を取り戻しているかのような感慨を受ける表現である。

 

 他にも印象的な句がたくさんがある。

  南蛮煙管を誰にも言へぬ日暮かな

  人流の絶えて久しき蘆の花

  とこしへに戦前にあれ石蕗の花

  まだ人が空飛ばぬ日を百日紅

  花瓦斯てふ言葉のむかし合歓の花

  花柘榴漱石を持つ子規がゐて

「南蛮煙管」の句は何か悪徳の秘密を抱えてしまったような雰囲気を感じる。

「人流の」の句は新型コロナウイルス感染症流行の世相の中で多用されたことばをふくむので、屈折した思いが湧く。

「とこしへに」の句は「あり」なら傍観者の視座だが、「あれ」で祈りの想いが付与されているように感じる。

「まだ人が」の句は自然が人工物に溢れた環境へと変貌してきた近代を思ってしまう。

「花瓦斯てふ」の句の「花瓦斯」は種々な形にきれいに飾り立てたガス灯。装飾兼用の広告灯として用いられた。一八八九年パリの万国博覧会で使用されたものであるが、これをそのまま真似たものといわれる。このほか一八七六年六月、新富座の再建時にともされたガス灯のサインであった花瓦斯なども、一種のイルミネーションであるという。時代の変遷というよりも、一時代のパラダイムに縛られて生きるしかない命の象徴のように感じる句である。

「花柘榴」の句は下手な鑑賞文さえ拒絶する秀句であろう。これを読む人毎にそれぞれの思いが沸き起こる筈である。

最後に付言すれば、個人的には次の童遊びうたのような響きを持つ句がこよなく好きである。

  立葵〈ぽこぺんぽこぺんだーれか〉

句集『百花控帖』は次の句を掉尾として巻を閉じる。

  藪萱草山河神代のままになく

 花が蕭々と生きてきた神代の山河を私たちは喪失している。その悼むべき山河とわたしたちの心象へ、『百花控帖』の俳句は、まるでその「喪失を癒す」かのように咲かせ置かれている。

                 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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