https://pr.kyoto-np.jp/campaign/nwc_2015/culture/index05.html 【「日本人の忘れもの」知恵会議】より
原爆を受けた日本人命の尊さを忘れてはならない
京都市中央図書館館長 中西 進 ◉なかにし・すすむ
1929年、東京都生まれ。東京大ならびに同大学院で日本文学を学ぶ。国際日本文化研究センター教授、大阪府立女子大学長、京都市立芸術大学長、日本学術会議会員、日本比較文学会会長などを歴任し、現在、全国大学国語国文学会会長、インド・ナーランド大ボードメンバー。70年日本学士院賞、2013年文化勲章受章。『中西進著作集』(全36巻)など著書多数。
そもそも忘れものとは、気軽に考えているからついつい忘れ、忘れても気に留めないことから起こるのだろう。
要するにさして大事なものとも思わず、忘れたことに気付いても、取り返そうとする心がないからである。そこで、「忘れもの」の最大の忘れものは、心だということになる。
いみじくも「忘」という字は「亡れる心」と書く。万事の忘れものの根底にある心遣いを取り戻すことが、いま最大の急務ではないか。
では古き良き日本の心とは何か。誰もが知っている日本的な心の出発点は「和」にあった。一人一人の心の安らぎ、社会の安寧(あんねい)、国家の平和、これらを求めることが豊かな自然に育まれ、相互に尊敬を交わしつつ、みずみずしい海洋の中で生業(なりわい)に励む日本人が、いつしか念願としたものであった。
その第一の宣言が7世紀初めの聖徳太子による「十七条の憲法」であり、とりわけ第一条の「和をもって貴しとなす」であった。
しかもこの宣言が前年までの外国との泥沼戦争を停止し、国政を整える宣言であったことを思うと、1946年制定の現行の憲法にまで1300年間を隔てて、両者は相呼応する。
これがわが「大和(やまと)の心」であった。
だから昨年、ノーベル平和賞の有力候補に「憲法第九条」が挙げられて話題になったときも、私は第九条という一つの事柄より、そもそも日本の久しい基幹的な平和の精神として評価されたかった。
しかし残念ながら受賞できなかった基本に、世界が日本を好戦的な国と見ている点があるのではないか。
倭寇(わこう)、壬辰倭乱(じんしんわらん)(文禄慶長の役)、第二次世界大戦と思い起こすとそれもやむを得ない。まさに日本は「和」の心を忘れて久しいのである。
しかし、だからこそいま、日本は「和」の貴さを取り戻さなければならない。戦争とは殺し合いのことだ。大人は子どもに人の物を盗んではいけない、人を殺してはいけないと教えながら、一方で国を守るためなら大量殺人も認めるというのだろうか。
武力戦争だけが戦争ではない。国を愛する手段は、戦争にしかないというなら、これはもう政治でも外交でもないだろう。
そして、何よりも人間の命は尊い。原爆を受けた日本人は、決して命の尊さを忘れてはならない。いや忘れないばかりか、全世界に命の尊厳を訴え続ける責任がある。
子どもたちと美にふれ 大人も世界を広げよう
羽田 登 染色工芸家 ◉はた・のぼる
1938年、京都市生まれ。日本工芸会正会員。64年、京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)日本画科卒業。90年、日本伝統工芸展最高賞。2006年、京都府指定無形文化財「友禅」保持者に認定。11年、京都府文化功労賞受賞。旭日双光章受賞。12年、京都工芸美術作家協会理事長に就任。14年、京都市文化功労者。
幼児教育がますます盛んだが、情操教育はまだまだ不十分だと思う。水泳やバレエ、サッカーなど身体を動かすことやピアノやバイオリンなどの楽器は、幼いころから始めた方がいいといわれているが、なによりも大切にしたいのは、美しいものを観て心が動く、面白くて楽しくてたまらなくなって笑いが込み上げてくる、というような体験を、たっぷりすることだと思う。
美しくて、面白くて、楽しいことはいろいろとあるが、私の専門は美術工芸なので、まずは美術館、博物館だ。京都にはたくさんの美術館や博物館があり、企画展や館蔵品展などで、美しいもの、面白そうなもの、歴史的に価値のあるものなど、いろんな種類のいわゆる宝物を常に観ることができる。そして、ほとんどの館が、子どもの体験を大切にしている。例えば、京都市美術館も、京都国立近代美術館も、京都国立博物館も、館蔵品展は高校生以下または18歳未満は無料。企画展も中学生以下は無料だ。未就学児も入館できる。もちろん、子どもだけで出かけることは難しいから、大人の協力が必要だ。多くの館は70歳以上は無料となるので、ぜひ、お孫さんを連れてお出かけになることをおすすめしたい。
ここで大人に求められることの第一は、子どもたちに知識を教えることではなく、人に迷惑をかけずに感動を味わうという、館内での振る舞い方を教えることだ。静かに、まずはざっと観てまわるだけでいい。子どもの興味を引いたものがあれば、一緒にじっくり観てみる。せっかく無料なのだから、贅沢(ぜいたく)な見方をするといい。じっくり観るものがひとつふたつでもいい、かえって思い出に残る。
大切なのは、解説を読んで理解するのではなく、まず自分の五感を使って感じることだ。だから幼いころから観る経験を積むことは重要だ。大人になると、つい文字情報に頼ってしまう。頭ではなく、身体で観賞するのだ。近年どの館もイヤホンガイドが充実しているが、まずはガイドなしで観賞し、ガイドを使うのは二度目以降がいい。小学生以上ならば、興味を持ったものについて話をしたり、分からないことは大人がスマホで検索してみたり。そのちょっとした興味をきっかけに子どもたちは世界を広げて行く。
今年は「琳派400年」を記念して、京都中で次々と展覧会が開催される。日頃なかなか観ることのできない宝物にも出会えるチャンス。ぜひ、子どもたちと一緒に味わって、大人も世界を広げていっていただきたい。
忘れてはいけないもの その一が歴史、その二が言葉だ
浜 矩子 同志社大学大学院 ビジネス研究科教授 ◉はま・のりこ
1952年、東京都生まれ。75年一橋大経済学部卒業後、三菱総合研究所入社。90-98年、同社初代ロンドン駐在員事務所長、同社政策・経済研究センター主席研究員を経て、2002年10月から現職。12年から財務省の財政制度等審議会臨時委員を務める。『ソブリンリスクの正体』『日本経済再生の条件』『2009-2019年 大恐慌 失われる10年』など著書多数。
喉元過ぎれば熱さを忘れる。それが人の常だ。その意味で、日本人のみならず、とかく人間には忘れ物が多い。そういえるだろう。
だが、人にはやはり忘れてはいけないものがあるだろう。それは何か。今のわれわれ日本人に関していえば、決して忘れてはいけないのに、忘却の危機に瀕(ひん)しているものがどうも二つあるように思う。その一が歴史。そしてその二が言葉だ。
歴史的記憶が風化していく。これほど怖いことはない。歴史を忘れたとき、人は必ず過ちを繰り返す。カール・マルクスいわく、「歴史は繰り返す。一度目は悲劇。そして二度目は喜劇。」言い得て妙だが、実は現実はもっと怖いかもしれない。どちらかといえば、一度目は悲劇、二度目は惨劇といった方がよさそうだ。二度にわたる世界大戦のことを想起しても、そんなイメージになる。
だからこそ、歴史を忘れてはいけない。特に、自分たちが人さまに危害を加えたときの歴史的経緯については、決して忘れてはいけない。例え相手が忘れていても、自分はそのことを生涯、心に刻み込んでおく必要がある。ところが、多くの場合、人は自分が被害者だったときの記憶は鮮明で、加害者だったときのことは忘れがちである。第二次世界大戦中において、日本が誰に対して何をしたか。それを時の流れの中の遺失物にするようではいけない。そのような健忘症にかからないよう、われわれは日頃から記憶の鍛錬が必要だ。それが歴史を知り、歴史に学ぶということにほかならない。
いつのころからか、日本人は多くの言葉を忘却の彼方(かなた)に置き忘れて来たように思う。明治・大正、そして昭和初期。その辺りまでの日本人たちは、実に語彙広く、言葉巧みだった。面白いことに、彼らの雄弁さは決して日本語だけに限定されない。結構、おしゃれなことを英語やフランス語やドイツ語で言いこなしてみせている。イタリア語だって、なかなかどうして、お手の物だった。日本人の語学ベタという観念は、一体、いつのころから形成されたものなのだろう。
言葉を忘れるということは、とりもなおさず、難解さに挑む気概の希薄化につながっていく。短くて、単純で、解(わか)り易(やす)い。それが何よりも重要視される。今の日本は、急速にそんな言語文化の世界と化しつつある。あえて、難しくて、回りくどくて、長ったらしい文章の解読にチャレンジする。自分もそんな文章を書いて人を煙に巻いてみせる。そんな知的洒脱(しゃだつ)さを忘れた日本は、ちょっと寂しい。大いに悲しい。
文化財は息吹を吹き込むことで時空超え先祖の精神と交流できる
清水寺貫主 森 清範 ◉もり・せいはん
1940年、京都市生まれ。15歳で清水寺貫主大西良慶のもと得度、入寺。花園大卒業後、真福寺住職などを歴任。88年、清水寺貫主・北法相宗管長に就任。全国清水寺ネットワーク会議代表。著書に『見える命 見えないいのち』『一文字説法 観音のこころ』など多数。
清水寺境内の南苑に堂々と建つ石碑があります。石に東北地方の地図を彫り、上に「北天の雄・阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)之碑」と二人の人物の名を刻んでいます。昨年11月8日、この碑の前で盛大な慰霊法要が営まれました。ちょうど碑建立20周年の記念の法要だったのです。法要を営みながら、実に感慨深いものがありました。といいますのは、20年前の建碑はまさに歴史に新たな光を差し入れる画期的なことだったと思ったからです。
清水寺の創建は778(宝亀(ほうき)9)年のことです。縁起によれば、奈良の延鎮(賢心)上人が夢告を受け京都・東山の音羽の滝にたどり着き、練行中の行叡居士(ぎょうえいこじ)から霊木を授かり本尊の観音像を彫って祀ったのが始まりです。間もなく坂上田村麻呂公が妻の高子命婦(みょうぶ)の安産のため鹿を求めて訪れ、延鎮上人から観音の大悲大慈心を諭され観音信者になります。
そのころ、今日の奥州市一帯に蝦夷(えみし)が強い勢力を誇り独自の文化を形成していました。これに対して大和朝廷は着々と支配の浸透を図り、789(延暦8)年、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とし5万の兵を派遣したのですが、惨憺(さんたん)たる大敗を喫しました。蝦夷には主将阿弖流為と副将母禮という立派なリーダーがいたのです。そこで桓武天皇は坂上田村麻呂公を征夷大将軍に任じ4万の兵を進め、阿弖流為に帰順を申し入れ和睦したのです。公は二人を伴い京都に帰り、朝廷に助命と登用を嘆願しましたが、許されず二人は処刑されました。
以来1200年、この勇敢な二人は歴史から消えていたのです。それが平安建都1200年に奥州市を中心とした地域の人たちや関西の岩手県人会の人たちが、二人の記念碑を建てたいと願い実現したのです。1200年の時空を超えた鎮魂の碑であり、復権の記念碑となりました。以後毎年、法要が続いています。
歴史は人々の息吹を吹き込んでこそ輝きが生まれるものです。文化も伝統も実に壊れやすいもので、人々の意識と注目を失うと消えていきます。文化財とは先人の精神が形として伝わるものですが、今の私たちが注目し息吹を吹き込むことによって、時空を超え先祖の精神と交流できるのです。この意識がなくなれば、文化財は存在しなくなります。
建碑が契機となり、阿弖流為と母禮に生気がよみがえり、教科書や小説、テレビドラマに描かれるようになりました。そして東北の人たちと盛んな交流が生まれています。歴史や文化が人と人を、地域と地域をつなぐ大切な役目を果たすことを忘れてはいけません。
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日本の伝統的な自然観を地球の未来社会に生かす
総合地球環境学研究所所長 安成哲三 ◉やすなり・てつぞう
1947年、山口県生まれ。京都大理学研究科博士課程修了。筑波大地球科学系教授や名古屋大地球水循環研究センター教授などを歴任後、2013年、総合地球環境学研究所所長に就任。専門は気候学・気象学。現在は、地球環境を包括的に調査分析する地球環境学の分野でも活動。秩父宮記念学術賞、水文・水資源学会国際賞など受賞多数。
日本人のノーベル賞受賞科学者の多くから「日本人だったからこそもらえた」という言葉を聞いている。この意味は、欧米の研究者にはない日本人固有の発想と独創性があったから評価されたということである。では、それらはどこからきているのか。
日本列島は、四季折々に変化するモンスーン気候や山と谷、平野、海岸などが複雑に入り組んだ地形、そしてそれらによる多様な生態系に恵まれている。一方で、地震、津波、火山、台風などの自然災害にも悩まされてきた。このような自然を生かしながら、あるいは折り合いながら、私たちの祖先は縄文のころから水田稲作農業を築き上げてきた。この水田稲作は、自然をある程度改変しつつも、その恵みを受ける仕組みとして、里山という人為的自然とそれに伴う文化を築いてきた。その過程で、まさに「自然とともに生きる」という考え方が日本人には当たり前のものとして培われてきた。
約270年続いた江戸時代の鎖国は、限られた資源や自然の恵みをいかに無駄なく持続的に活用するかという工夫がなされ、江戸や大坂・京都という都市を含め、自然の循環の中で生きていく知恵と思想がさらに培われたといってもいい。このような日本人の自然観は、欧米人とは異なる発想を生み出す源になっているとも考えられる。
自然と一体になって日本人が生きてきたことを示す文化の一つが俳句である。季語を入れることにより、四季折々の中での人が自然と向き合いながら生きている姿が17文字の中に表われているが、それは論理というより人間と自然の一体感の表現そのものといえる。俳句が江戸時代に発達したのも、自然と共生する循環型社会に人々が生きていたからかもしれない。
一方、西欧で発達した近代科学では、自然は利用し、制御する対象であり、人間と自然は対立的な関係であった。明治以降、日本は、近代科学に基づく産業を発達させ、20世紀後半には世界第二の経済大国にまでなったが、同時に大気・水汚染などの公害問題を引き起こすことになった。現在、さまざまな環境問題を克服しつつ、より人間らしく生きるための「持続可能な開発」という概念が提唱されているが、人間と自然の対立関係を前提とした近代科学の発想のみでは、根本的な解決ができるとは思われない。人間も地球の自然の一部として、他の生物と共に生きる存在であるという、日本の伝統的な自然感を、如何に科学技術に生かし持続可能社会を作ることができるか。地球社会における私たち日本人の役割が今、問われているのではないか。
生きる知恵を与えてくれた 何の目的もなく集まり過ごす時間
京都大学総長 山極寿一 ◉やまぎわ・じゅいち
1952年、東京生まれ。京都大理学部卒、京都大理学研究科教授を経て、2014年より京都大総長。理学博士。アフリカ各地でゴリラの行動や生態をもとに初期人類の生活を復元し、人類に特有な社会特徴の由来を探っている。著書に『家族進化論』(東京大学出版会)、『ゴリラは語る』(講談社)、『サル化する人間社会』(集英社)など。
イチョウの葉が一斉に落ちて、秋から冬に街は急速に彩りを変えていく。急ぎ足で通り過ぎる人々を見ていると、何か昔と違うなあという気持ちになった。昔の町並みを思い返してみて、それが人々の集まり方だと思い当たった。
私が子ども時代を送った1950年代は、どこでも人々がよく集まった。冬になれば、道に降り積もった落ち葉を掃いて集め、焚(た)き火をしている人が多かった。そこに何となく人々が寄り合い、四方山(よもやま)話が交わされる。子どもたちは焚き火にあたりながら、大人たちの間に交じってその話を聞いていたものだ。たいがいは近所の噂(うわさ)話で、どこの家で何があったか、どの店で何が売り出されるかなど、たわいもないことばかりだ。でも、そういった話を聞きながら、自分が住む社会の様子を頭に描き、ほのぼのと温かい気持ちになったものだ。
それは今考えてみると、人々に安心や信頼を与える装置であったように思う。近所に住んでいる人々がどんな性格なのか、世間の動きにどんな関心を持っているのか、新しい出来事にどう対処しようとしているのかを知る、絶好の機会だったのである。子どもたちはその噂話を通して、自分の信頼できる社会環境を学ぶことができた。日々引き起こされる問題に自分がどう取り組むべきかを、大人たちの態度を通して知ることができた。
現代でも人々はよく集まる。でもそれには目的があることが多い。お目当ての品物を手に入れるため、評判の料理を食べるため、イベントを見るためなど、魅力的なものやことに引き付けられて集まってくる。何となく集まって話をすることがなくなったような気がする。
今の時代、情報は人から人へと伝えられるものではなくなった。インターネットを用いれば、ほしい情報はいつでもどこでも手に入る。携帯電話やメールを使って、どこにいても友人と話ができる。しかし、それで本当に生きるために必要な情報は得られているのだろうか。人間が豊かに暮らすためには、まずその生活環境が信頼でき、安心できることが不可欠である。そのためには、文字にならない情報が必要なのだ。人々の性格や態度はなかなか言葉では言い表せない。それには集まって顔を見せ合い、噂話を通して納得するのが一番の早道なのである。
何の目的もなく集まり、ただともに過ごす。その一見無駄に見える時間が、多くの生きる知恵を人々に与えてくれたのだと、今にして思う。できれば、そんな集まりを復活させたいものである。
自然はひとりでに動く 人為を超越する
京都国際マンガミュージアム館長 養老孟司 ◉ようろう・たけし
1937年、鎌倉市生まれ。62年、東京大医学部卒。同大助手、助教授、教授を経て95年退官。東京大名誉教授。退官後は著作・講演活動のほか、昆虫特にゾウムシの採集、分類に没頭する。
未来を考える。考えようとする。これは人がよくやることである。何事もそうだが、これにも陰陽がある。あるいは表裏がある。
なぜなら未来には、考えられる未来と、考えもしなかった未来があるからである。戦前の常識で、戦後が想像できたであろうか。小学生がスマホを持って歩く時代、会社のオフィスがパソコンで埋まっている状態を、だれが戦前に想像したであろうか。
考えるのは人の意識で、意識には限度あるいは枠がある。意識は自分の枠を超えるものを想像できない。でも現代に生きていると、意識が捉えることだけが未来になる。ああすれば、こうなる。こうすれば、ああなる。それは意識の作業である。でもそこには「いつの間にかこうなった」ということは含まれていない。
例えば人口減少はその一つであろう。だれも日本人を減らそうと意図したわけではあるまい。まさに「いつの間にか減ることになった」。意識のみで世界を見ると「いつの間にか起こる」ようなことが抜ける。でもその意識自体はいつの間にか生じて、いつの間にか消える。自分の意識がいつ生じて、いつ消えるか、確言できる人は誰もいない。意識自体は意識で左右できない。
それを教えてくれるのは誰か。自然である。技術は意識が動かす面が大きい。例えば機械なら「こういうものを創ろう」と意図するからである。自然の意図は読めない。ひょっとすると、こうなるかもしれない。でもああなるかもしれない。そう想像するだけである。その想像が当たるとは限らない。
現代科学は技術優先になった。ノーベル賞ですら、京都賞ではないのに、技術に与えられる。技術は「人のつもり」で動く。でも自然はひとりでに動く。大げさにいうなら、人為を超越する。時々そういうものに目を向けよう。それが私のメッセージである。
なぜそんなことをする必要があるのか。生きることの面白さは、いわば想定外にある。想定内だけに生きることを、今では安心・安全という。それを悪いとはいえまい。でもなぜか面白くない。そう思う人も多いはずである。焼きそばからゴキブリが出てくる。この程度でもニュースになる時代である。
私自身の後半生はまさに想定外だった。想定内だった勤め人時代を考えると、実は考えたくない。今と比べたらまったく「面白くなかった」からである。まあ人の生き方は自由だけれども。
ブータンの生活の中に 日本人の「幸せ感」につながるものが
京都大学こころの未来研究センター 教授・同センター長吉川左紀子 ◉よしかわ・さきこ
京都大こころの未来研究センター教授、センター長。京都大大学院教育学研究科博士課程満期退学、博士(教育学)。追手門学院大文学部助手、助教授、ノッティンガム大客員研究員、京都大教育学部助教授、同大大学院教育学研究科教授を経て2007年より現職。専門は認知心理学、認知科学。共著書に『よくわかる認知科学』『心理学概論』ほか。
2010年、京都大学とブータン王立大学との間でブータン友好プログラムという交流事業がスタートした。経済指標でみれば発展途上国ということになるのだろうが、ブータンを訪れその文化に触れた日本人は、老若男女を問わず、何とも言い難い「なつかしさ」を感じるという人が多い。私も、訪問団のメンバーとして初めてブータンを訪れて以後、ヒマラヤの中腹に位置するこの小国の持つ引力に引かれ、何度も出掛けては、その「なつかしさ」の正体を考え続けている。ブータンの人たちの毎日の生活の中に、日本人が感じる「幸せ感」につながる何かが、潜んでいるように思えるのだ。
ブータンの民家を訪ねると、どこの家にも立派な仏間がある。家の人たちは、毎朝仏様の前に置かれた小さな器の水を替え、家族や先祖、子孫の幸福を祈るという。清潔だが質素な造りの家の中にあって、供え物に囲まれた仏像が安置された仏間は、他の部屋とは異なる「聖なる場所」の趣がある。ブータンの人たちが先祖を思う、あるいは家族の幸福を祈る時間の大切さが、そうした佇(たたず)まいから伝わってくる。
北海道の製紙工場の社宅で生まれた私は、これまで仏間や仏壇のある家に住んだことがない。それでも半世紀以上前、工場横に並ぶ小さな社宅にも、座敷には一畳ほどの床の間があり、そこは他の場所とは異なる特別な空間だった。床の間の前に正座して、母が花を生け、掛け軸を替える様子を見ていた幼少のころ、「床の間にあがっちゃいけませんよ」としつけられた記憶がある。子ども心に、床の間の前に座るときのちょっと緊張する感覚は、今もよく覚えている。
現在、私が住んでいるマンションには仏間も床の間もなく、「聖なる場所」に近い空間はない。ブータンから戻ってくると、それが何となく物足りなく感じられるようになった。そこで、玄関脇の棚に、両親から受け継いだ高さ30センチほどのどっしりとした優しいお顔のこけしを置き、小さな果物の置物などを横に並べてみた。いわば「家の中のお地蔵様」である。こうして生まれた、私製お地蔵様のお顔を見ながらしばし心を整えると、それだけで少し幸せな気持ちになるから不思議である。現世御利益ではなく、生きるものすべての幸せのために祈るというブータンの人たちとは比べられないが、こうした空間に身を置いて、静謐(せいひつ)な時間を持つことの意味は、思いのほか大きい。これまで、祈りや信心とはほとんど縁のなかった心理学者の実感である。
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