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よみがえる大野 日本語=タミル語 接触言語説
目次
まえがき 3
この本を読むにあたって 6
序章大野説否定論者の本音・・・の批判だったのか 27
第1項不可解な反応 27
第2項国語学者と言語学者 48
第3項言語統計処理手法の欠陥 51
第4項学理批判から人格非難へ 56
第5項日本語・ドラヴィダ共通祖語論の誤謬 62
第6項タミル語成立時期の曲解 65
第7項錯乱,工作,隠蔽,細工
……放たれる異様な言葉の数々 73
第8項大野博士を教え諭す人々 75
第9項大野説排斥論者が下した判定の影響力 82
第10項日本語アルタイ語説・オ諸語説小考 84
第11項「」は「摘む」と同源か……S.マーティンの方法 86
第12項日本語「とことば」を巡って 91
第13項大野博士の反論 94
第1章ズヴェレビル教授の「ドラヴィダ言語学入門」 112
第2章タミル語とは何か 118
第1項タミル語の誕生 118
fragment 1 促音の発生 119
第2項接触言語と比較言語学 122
fragment 2 足を洗う 129
fragment 3 ささらゑをとこ 137
第3章タミル語と日本語の・-c-の脱落に
よる日本語単音節語の形成 139
fragment 4 垂乳根の母 144
fragment 5 抱く・む抱く・う抱く・い抱く 146
第4章石上神宮及び川上部と裸伴の意味について 148
第5章鹿島神宮,香取神宮,息栖神社及び経津主 152
第1項 カシマとカトリの意味するもの 152
第2項 考 153
fragment 6 色々な「いろ」 154
第6章カラ,ヤカラ,ウカラ,ウカラハナレ及び
鸕鶿草葺不合尊の意味 156
第1項 いろいろな「カラ」 156
第2項 「ウガラ」と「ウカヤ」 157
fragment 7 日本語内部での合成語で増加したやまとことば 158
第7章 わたし・わたくし・わて・われとタミル語との対応 158
fragment 8 アラハバキと猿田彦及びミシャグチ神 163
第8章黄泉行きの習俗 166
第1項 絶妻之誓 166
第2項 黄泉と 167
第3項 八色雷公 170
第4項 殯と城 171
fragment 9 左佐良榎壮子 175
fragment 10 語頭音の一致での言語比較という 176
第9章アイヌ・マタギというタミル語 180
第1項アイヌ 180
第2項 タミル語としてのマタギ,
そしてタマス・シカリについて 182
fragment 11 鯨の枕詞「いすくはし」・考 183
第10章聖徳太子……厩戸豊聡耳命 185
第11章邪馬臺国と卑弥呼 189
第1項 「やまと」の意味 189
fragment 12 やぶさか 194
第2項日香天之・考
……太陽を「や」ともいうことについての追考 195
第3項 猛禽という意味のカミ 197
第4項 天孫降臨…浮橋に理,の姿 201
第5項 卑弥呼 206
第6項 邪馬臺国の版図 209
第12章 高天原の住所と天の川
…日向のの小戸の阿波岐原 212
fragment 13 田道間守 221
第13章神々の乗る船の形状と材質及び神奈備山の役割 223
第1項 船は鳩か 223
第2項 神の乗る船とは何か 224
第3項 三諸の 224
第14章天地千鳥真鵐など黥ける利目 230
第15章日本語における複合対応の必然性について 234
fragment 14 「打ち寄する」駿河の国 237
第16章万葉集未詳歌、「毛」の解釈を巡って 239
fragment 15 ツバクラメ・ツバメ・スズメとタミル語 241
第17章タミル語は日本のどこに齎されたか(推考) 244
第1項 タミルの港町matirayと魏志のmatura(末蘆) 244
第2項 縄文人と弥生人の顔の比較は正しいか 245
fragment 16 オタマジャクシとカエル 248
第18章タミル語頭子音/c//y/の脱落と特定職種集団渡来考 250
fragment 17 急降下をダンブリと言っていた?とんぼの語源考 253
第19章筑紫やまとの東征による蛇神崇拝部族との衝突 255
第20章雷神としてのスメ神・スメラ・スメロキ 260
第21章近畿やまとの黎明 265
第1項 纏向……最初の橋頭堡 265
fragment 18 「うしはく」と「領らす」 268
第22章 近畿やまとに「日の出」化される日本の各地名考 271
fragment 19 タミル語pur-iと日本語fur-uの転写的対応 306
第23章日本語数詞とタミル語数詞隠語 310
第1項 日本語数詞の成立と各数詞の意味 310
第2項 天璽瑞宝十種としての数詞 315
fragment 20 御門之麻具波肥・考 316
第24章「植ゑしはじかみ 久知比々久 我は忘れじ」考 318
fragment 21 儺嗚阿摩之耳弥 懸かぬ組垣 321
第25章初期天皇和風諡号の意味と
「たらし」「ねこ諡号」「いり諡号」について 323
第1項 初期天皇諡号をタミル語で解く 323
fragment 22 転音(露出形・被覆形)及び連濁の起源について 328
第2項崇神天皇の和風諡号 338
第26章二人のハツクニシラス天皇 344
第1項 日神族と蛇神族の拮抗 344
第2項 宮殿内にある日神と蛇神の合祀廃止の意味 345
第27章やまとの美称考 348
第1項 内木綿のまさき国 348
第2項 秋津島はトンボの島か 349
第3項 磯輪上秀真国 350
第4項 細戈千足国 352
第5項 虚空みつやまと 352
fragment 23 莫囂圓隣歌を解く 353
第28章三つ栗の歌 374
第1項「ほつもり」と「ふほごもり」 374
第29章「不知火」築紫 379
第30章鎌倉の枕詞,「星月夜」 384
第31章「あしひきの」山・峰(を) 386
第32章未詳歌「伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく」 393
第33章「朝顔のとしさへこごとるがへ」 399
第34章見事な技巧を駆使した歌 402
第1項 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 402
第35章我妹子が額に生ひたる双六の
事負の牛の鞍のの瘡 405
第1項 額にが生える理由 405
第2項 なぜ吉野の山に魚がぶら下がるのか 410
fragment 24 困惑する「手」,タミル語kaiと日本語teの交替 413
第36章沖縄・那覇・首里の意味及び
ニライカナイ・御嶽考 419
第1項 太陽の国 419
第2項 ニライ・カナイ 421
第3項 催馬楽とおもろ草紙 421
fragment 25 祓う・清める 422
第37章 沖縄語における「カワ」と「テダ」 423
第1項 太陽神「てるかは」423
第2項 中央方言における「かわ」426
fragment 26 「のり」の諧調 428
第38章与許奈磨蘆ことば・方言語彙考 430
第39章 雁卵産の謎と建内宿禰命 433
第1項 衣通姫物語 433
第2項 「天だむ」考 434
第3項 波佐山の鳩 437
第4項 雁が卵を産む話から分かる建内宿禰の正体 439
第5項 枕詞「たまきはる」の意味 445
第40章うしろめたい話 447
fragment 27 枕詞…「いなうしろ・いなむしろ」 450
fragment 28 秦氏の「ハタ」とは何か 451
第41章山高み 川とほしろし 453
第1項 「とほしろ」の意味を巡って 453
第2項 とほつ神 454
fragment 29 枕詞「なつそびく」考 455
第42章みかしほ播磨速待 457
第1項 白塩の産地としての播磨 457
fragment 30 「あずなゐ」の罪 461
第43章「みなそこふ」臣と「みなしたふ」魚 463
fragment 31 「行なふ」の「なふ」 464
第44章葦原中国 465
fragment 32 多音節語の対応…沖永良部島 468
第45章 枕詞、「飛ぶ鳥」に秘められた言霊 470
第1項 秘められた地方 470
第2項 纏向・初瀬・隠国 473
fragment 33 如何様とイカサマ 476
第46章同音異議語を用いた巧みな歌 478
第1項 神功皇后はなぜ鮎釣りをしたのか 478
第2項 伊須気余理比売の歌……「狭井河よ雲立ち和多理」 479
第3項 木之花佐久夜姫に隠された裏の意味 481
第4項 天迩岐志国迩岐志天津日髙日子番能迩々芸命 484
fragment 34 色っぽい話 488
第47章神の属性としての「神さび」「神び」 491
第48章大和は国のまほろば(まほらま) 497
第49章くすぐったい話 500
fragment 35 「祝ふ」と「忌む」 503
第50章三輪山 505
fragment 36 木石草魚の名称とタミル語 511
第51章愛宕・御嶽及び御陵・古墳について 514
fragment 37 神籬の建て方 515
第52章さまざまな意味の「カミ」 518
第53章「阿理岐奴能」の三重…日本語がタミル語由来である
ことを証明する枕詞 522
fragment 38 古衣真土山より帰り来ぬ 528
fragment 39 棚機女と人身御供 529
fragment 40 ガレー船と枯野船 532
第54章伊勢・さくくしろ五十鈴・神風 534
fragment 41 「なる」の階調 535
第55章狐はなぜ神となったか…タミル語から見た稲荷 538
fragment 42 「やすみしし」吾ご大君と「安見児」 543
第56章蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古
夜斯麻斯奴の神名を解く 547
第57章「たまはやす」武庫の渡り 549
fragment 43 源氏物語と光源氏,命名の謎 550
第58章タミルの船 553
第1項 船とイカダ 553
第59章桃太郎の誕生 556
fragment 44 母音終わりの言語 558
第60章オリオン座の神,正哉吾勝勝速日天忍穂耳 560
第1項 正哉吾勝勝速日天忍穂耳 560
第2項 宗像三女神 561
第3項 墨江を守るオリオン座カラスキ星 563
第4項 八幡神社・考 564
fragment 45 迦具土神 565
fragment 46 万葉集の「葉」の意味 566
fragment 47 「言祝ぐ」・「寿」に関する試論 568
第61章大和武の東征と火焚きの翁の「かがなべて」 573
第1項 「日日なべて」への疑問 573
第2項 蛇の討伐 576
第62章瀬織津姫の正体 579
第1項 大祓詞と日高見国 579
第2項 撞賢木厳之御魂天疎向津媛と向匱男聞襲大歷五御魂速狭
騰尊の意味を解く 585
fragment 48 「久方」は何故「天,日,光,雲,月」に掛かるのか 590
第63章箭括氏麻多智の蛇退治 592
fragment 49 言霊 593
第64章「玉藻よし」讃岐の国とカグヤ姫 597
第1項 讃岐とは何か 597
第2項 竹川のバリエーション 598
第3項 かぐや姫と金 600
第65章八俣遠呂智と足ナヅ,手ナヅ,くしナヅの謎々 603
fragment 50 「あさはか」と「そこはか」 605
第66章ナメクジとカタツムリ考 608
第67章万葉集枕詞「刺竹の大宮人」 612
第68章万葉集…「玉かぎる」とは何か 620
第1項「万葉集」の意味について 620
第2項「玉かぎる」について 621
第69章出雲の神々の意味 624
fragment 51 魏志東夷伝倭人条の国名の意味 628
fragment 52 日本語「まる」の展開 629
あとがき 631
田中孝顕著による新刊「よみがえる大野日本語=タミル語接触言語説」(幻冬舎.2023年.650頁.2200円)は,大野晋博士の日本語タミル語由来説を,新たな視点から捉え復活させたものです。
大野説は言語学者の猛反対により否定し去られました。
大野説は比較言語学的に辻褄が合わず,馬鹿げた説である,というのがその理由です。
ところが,大野博士は後に自説を日本語=タミル語接触言語説に改めました。しかし,かつて大野説に猛反対した学者はこれを無視しました.ところが接触言語説からみると、大野説は何の問題も無く受け入れられるのです。
その証拠は,接触言語説に基づけば,万葉集や古事記・日本書紀にある意味不明語ばかりか,邪馬臺国の意味や住所,日本各地の古代地名まで綺麗に解読できるからです。
本書は,幾つか補訂を加えています。
amazonなどnetでの購入であれば比較的容易に入手できます.また,電子書籍版(1760円)でも出されています。
表記広告文に加えるべきこと、削除するべきことがあればお知らせ下さい、参考にさせていただきます。
なお、お読みになる前のご感想は伏してお願いでご遠慮下さい。
https://note.com/place/n/n1d8874ceecd3 【7000㎞離れたタミル語と日本語の旅路【本:日本語の起源、日本語の源流を求めて】】より
以前、インドで話される言語のうち、ヒンディー語とタミル語とマラヤラーム語を少しまとめていた。
今回は、タミル語が話される南インド、タミルナドゥ州在住の日本人の方に借りた、大野先生の本2冊『日本語の起源』『日本語の源流を求めて』を読んで、タミル語から見る日本語の起源について、歴史を振り返ってみたいと思う。
大野晋(1919 - 2008):言語学者。日本語のタミル語起源説やベストセラーとなった「日本語練習帳」などで知られる国語学界の第一人者。大野氏は言語を通じて「日本とは何か」という謎に挑み続けた。
「皆が普段使っている言葉がよくわかっているかどうかが、とても大事」
言葉を厳密にとらえようとする姿勢
「これからの時代は自分をはっきり相手に伝えなくちゃ」
『日本語の起源』
日本語とは、どこに起源を持つ言葉なのか?
対応語と具体的な物の世界の比較、日常の生活習慣や精神の世界比較
大野先生:大正年代中期の東京下町の商家生れの人間
山の手と下町
山の手は、ヨーロッパの言葉を操って日本の進路をきめる仕事をする人々が住む場所。「理論」が貫いて存在している場所。
下町は、外国語に縁のない生活を営んでいる大衆の住む場所。二月の初午の稲荷さまの祭り、春の海苔採り、藤の花見、夏祭りの神輿、朝顔の花数え等、春夏秋冬の移ろいに適応し、四季を感じ分け、味わうことを軸にめぐっているように思えた。
狭い東京でさえ下町と山の手ではあれほど言葉も食べ物も生活感情も違っていた。万里離れたヨーロッパの言葉と生活と感情がたやすく自分のものになるはずはない。そんな、分かるはずのないヨーロッパを追いかけなくては生きていけない日本とは一体何なのか?どうして日本はヨーロッパを追いかけなくてはならないのか?1930年頃。
古代日本語の音韻に関する論文を書いて私が大学を卒業した時、世界大戦の中で日本は敗色につつまれていた。
1945年。ヨーロッパは、自分から日本に入って来た。
比較言語学が壁に当たって、問題の答えを求めあぐねているのを見て、考古学や人類学に手懸りを求めた。
「日本文化の成立史を考えるには、北方アジア大陸に根源を求めるだけでは足りない。南方に目を向けなくてはならない。」
2000年、3000年前を振り返る。日本語起源説
1.日本語万世ー系説
2.分離説:他の言語から、分離して日本語ができ、分かれた言語は今も世界に存在しているという説
アルタイ語属(トルコ語、モンゴル語)、朝鮮語、アイヌ語、マレーシア語、インドネシア語など様々な言語が、比較言語研究対象とされてきたが、結論が出ていない。
日本語(東京、宮古島)とタミル語
タミル語は、紀元前2世紀から紀元2世紀にわたる400年間の歌を集めたサンガムという歌集を持っている。それは2500首から成り、一首が長いものが多い。その全体の言語量は、日本の万葉集の4500首の持つ言語総量の数倍ある。紀元前2世紀という古い時代の言語の記録を確実に現在に伝えているのは、サンスクリット語、古典ギリシャ語、古代ヘブライ語などに準ずる古さ。文法構造は、朝鮮語、モンゴル語、トルコ語とおよそ同じで、言語学でいう膠着語(こうちゃくご)に属し、基本的に日本語と共通である。
子音と母音
ヒンディー語は、サンスクリット語系統の言語である。サンスクリット語は、インド・ヨーロッパ語族に属して、ヨーロッパ語の仲間だから、日本語との起源的な関係を求めても、そこに良い結果が得られるはずがない。が、ドラヴィダ語属の言語は違っていた。
イギリス人の宣教師コールドウェルは1856年に『ドラヴィダ語、すなわち南インドの言語族の比較文法』を公刊。その中で、すでにドラヴィダ語と日本語との同系性をすでに論じていた。日本人としては、芝氏が初めて1973年、1974年に『ドラヴィダ語と日本語』を発表。
南インドの現代語の中には、サンスクリット語系の単語が極めて多く混用されている。日本語が多数の漢語を混用しているのと同様で、タミル語でも同じ。
『ドラヴィダ語語源辞典』この辞書のおかげで、ドラヴィダ語研究が世界中に画期的に広まったといわれる。
マドラス大学のコタンダラマン教授を訪ねる
日本にはタミル語専門の言語学者がいるのかどうか知らなかった
タミル語の最古の文学サンガム
ジャフナ大学言語学科主任アルナサラム・サンムガダス教授と夫人アノンマニ・サンムガダス講師という2人のタミル人とは、10年以上共に研究を重ねる
タミル語の文法によって、日本語が理解できるようになる場面
日本語とタミル語の文法構造
1.名詞の後に助詞を使う
2.「雲は山を隠す」のように題目語ー目的語ー動詞の順に配列する
3.関係代名詞を持たないなど
五七五七七の韻律(和歌の形式)
サンガムの韻律
日本語とタミル語が関係を持っていたのはいつか?分離したのはいつか?
稲作文化の時系列
イネ(稲)、コメ(米)、モチ(餅)、タンボ(田んぼ)など
縄文時代には東日本の人口が西日本よりはるかに多かったのに、米の生産を早く始め、気候の上からその生産に有利だった西日本の人口や弥生時代に爆発的に殖えた(一般に、穀物の安定的供給が始まると、人口はひどく増大するという)。概して、西日本は東日本よりも100年あるいは200年以上早く稲作を広めていたらしい。
単語の由来を求めていくと、そのある物が日本に来た国、その物を日本に知らせた国を知ることができる
単語の由来を捜索すれば、その技術の輸出国がどこかは推知される。これは、言語の系統とは関係のない事実である。
言語からみた稲作・農耕
新年の豊作儀礼
1月15日の慣習:日本とタミルで行事だけの平行ではなく、祈りの言葉についても、タミル語ではPonkalo, Ponkalと呼び、日本ではFongara, Fongaととなえた。
マドラス博物館、ポンディチェリ博物館、マドラス大学考古学科、タミル州立考古学研究所、遺跡アリカメード、マイソール大学考古学科、ハイデラバード考古学研究所、州立マドラス博物館展示場、タミル大学など
H・S・ラマンナ著『南インドと東南アジアの巨石文化ーその比較研究』
P・パグパティ博士「南インドの巨石文化期の特徴は3つある。一つは表が赤、内側が黒色の土器。二つは鉄器。三つは土器にグラフィティがついていること」
生活の習慣、精神の世界
結婚慣習
嫁取り婚:女は男の家に嫁入りして、夫の家の人間になった。しかし、日本の嫁取り婚は室町時代以降のことであって、平安時代以前は女が男の家に取られてそこの家族となることは、宮廷等に限られており、一般には無かったらしい。奈良時代の結婚は、「妻問い婚」といわれるように、男っが夜になると女の家を訪れて結婚し、翌朝自分の家に帰って働くのが普通だったようである。サンガムの歌にも、妻問い婚を連想させる歌が多い。この慣習は、インド大陸のタミル州では消滅しており、ケララ州、スリランカ北部には、その慣習が続いている地域がある。
夕占(ゆふけ)
日本の古典にある占い。家の門前や家の近くの街路で夕方に行う占いである。恋人に会えるか、自分の運勢はどうなるかを知ろうとする。タミルでは、原語viricciで、viriはひらく、ということで神意をひらく意と思われる。タミルでは、愛人の動静、戦争の成り行きなどを占う。
ナマズと蛇
日本ではナマズが動くと地震になるという。タミルでは、蛇が動くと大地が揺れるといった(Kanta: Kayamuka. 46)
恥(ハヂ)
室町時代という戦乱期から江戸時代に入るころ、武士たちが最も大切にしたものは名誉であった。不名誉。これは、社会生活の上で重要な位置を占める概念だった。タミル語では、vantu(低い卑しい行為)がある。
漢語の役割
1.外交上の技術的な道具
2.仏教と儒教の導入
3.儒教の思想の伝来
日本人の世界観、論理、行動の原理など、精神の世界の軸となった言葉の多くは、漢字による漢語である。戦前ならば「忠」「孝」、「義理」「人情」、さらにさかのぼれば、「極楽」「地獄」など。世界認識あるいは行動の原理を言語化した言葉は多く漢字である。日本に漢字・漢文が伝来して、それを消化した最初の日本人は、国として中国との交渉を文書によって行えるようになろうとした王族であっただろう。当時の東アジアの文明の代表者だった中国と国家的な交際をするために、王族は国家の代表者として漢文を読解し、みずから作文をして、交流を達成しようとした。貴族・役人は競って漢文を学んだ。しかし、漢字が日本で果たした本当に重要な役割は、外交上の技術的な道具というよりも、漢字を媒体として日本に仏教と儒教を導入したことにあった。仏教ははじめは、国家鎮護のための呪法として取り入れられたが、やがては民衆が救済をうける浄土が存在するという世界観を人々に教え生きるこの世の苦しみから人間を解放するためのするためのものとなった。当初、宮廷は膨大な国家予算を投じて仏閣の建立につとめ、多くの僧侶を養成したが、平安時代以降に至って仏教は次第に民衆の生活に根をおろすようになった。日本の仏教はすべて輸入された漢字の経典の読誦を通して学習された。また、儒教の思想を日本人に伝えた。儒教は中世以降の日本人の倫理思想の秩序づけに事に大きな役割を果たした。
基層言語
原語の歴史を見ていく上では「基層言語」(substratum)を考える必要がある。ある地域に、一つの言語が使われていたとする。そこに別の言語が入って来る。それは多くは文明的に、あるいは軍事的に強い集団の言語である。受け入れ側の人々は生活の利益のためにその新しい言語を覚えて行き、何世代かの間にはやがて以前の古い言語を忘れて新しい言語に同化していくことがある。しかし、以前の古い言語が持っていた音韻の特徴、造語法、あるいは文法形式の一部分などがすべて消え去ることはなく、それらが新しい言語体系の中に生き残っていくことがある。その場合、以前の言語を「基層言語」という。
基層言語の実例を求めると、フランス語の成立におけるケルト語と俗ラテン語との関係をあげることができるように思われる。フランス語を使う地方には、以前はケルト語が広まっていた。そこにラテン文化が進出してきた。ラテン文化が地域的に広まるにあたっては、まず町が築かれ、人々が集まり、そこに行政機関や学校教育にラテン語がつかわれ、その地域は文明化された。「文明」とはcivilizationの訳語であるが、civilとは「市民の」ということであり、civilizationとは「市民化」である。文明とはまさしく「都市の市民と化すること」によって展開してきたのだった。宗教儀式における司教の言葉や、学校の教師の言葉は価値あるものと受け取られ、人々はそれをあがめ、それを学ぼうとする。
人々は、ラテン語を覚えることが、よりよい日常生活に近づくのに便利で役立つので、耳からそれを学んで、それを使う。ラテン文化を受け入れるために、次第に俗ラテン語の表現が社会的に広まっていき一般的となり、相対的にケルト語は力が弱くなった。
フランスの地の人々は、ケルト語を基礎原語としてラテン文化を受け入れるとともに、俗ラテン語を受け入れ、それを模倣しながら、俗ラテン語の発音については、自分たちがそれ以前に身に着けていた体系に引きつけた。
ケルト語の分布
細かい部分については、いろいろ問題があり、それについての学者の見解はさまざま異なっているが、全体としては当時、軍事、技術、芸術、そして精神生活に強い力を持っていたラテン文化が広まるにつれて俗ラテン語がいきわたり、語彙においても文法においても、基層のケルト語に代って行って、そこにフランス語が成立したというおよその見通しは肯定されるものであるらしい。
レベッカ・ボズナー著『ロマンス語入門』1982年、39ページ以下
日本とタミルの間には、「平行事象」が多く合った。同時代に見出されるこの平行は、人間生活の根源にかかわるものについてである。タミル語と日本語の対応語は約500語。そして重要なのは、その対応語が質的にどんな役割を果たしているか。ヤマトコトバ(日本人の美意識、論理意識の根底に関わる言語)がタミル語と対応する。南インドのタミル語と共にあった文明のほうが古い。時間として、日本の縄文時代をさかのぼること何百年前、タミルの稲作文化は栄えていた。地域としては、北九州に、時間としては縄文晩期後半に、南インドのモノやコトが日本に到来し展開した。
しかし日本とタミル間、距離にして約7000㎞。
タミル人が来た証拠は?7000㎞の途中に、タミル語と関係する言語は?
朝鮮語もタミル語と約400語の対応語を持つ。
ターミナル
今後、弥生時代以降の古代日本の文明と言語を知ろうとする旅行者は、きっとこの駅のプラットフォームに立って、それぞれの行く手を選ぶことだろうと私は思う。
「文化」の中核は地域の自然条件に対する人間の対し方。「文明」の中核は人間の作り出した一般性のある、思考と技術にある。「文化」はよその地域への持ち運びは不可能だが、「文明」は運び出され、運び込まれる。
このように「文化」と「文明」とを区別することが、人間の歴史を明確に理解し認識する上で重要だと思う。
『日本語の源流を求めて』
こちらの本のほうが、大野先生が「タミル語にたどり着くまで」の生い立ちが詳しく書かれている。そして、大野先生は『広辞苑』『岩波古語辞典』『角川類語新辞典』などの編纂に携わった日本を代表する国語学者であることを知る。
古事記、日本書紀、万葉集、雪国、祭る、水田稲作、源氏物語・・・
本『古寺巡礼』を抱えて、大和の寺々をめぐり、仏教芸術に親しむのが高校生の間に流行っていた。私もその中の一人だった。
「日本とは何か」
「日本語について、これだけ用意していたから、インドの一つの言語、タミル語に遭遇したとき、両言語の対応の意味を直覚できたのだと思う。
18世紀の終わりごろ、インドのサンスクリット語とギリシア語、ラテン語とが文法上、非常に類似した体系を持ち、単語にも同一の形をしたものがあることが発見されて、人々を驚かせた。
フランス語はケルト語からラテン語の仲間へ
ピジン語、クレオール語
原語の分布が拡大していくには、まず卓越した文明や武力を持った言語があり、その言語が文明について拡がっていくのである
タミル語との遭遇
比較の条件の中で文法構造については、日本語はアルタイ語と共通点が多いと言われている。しかし、単語についてはモンゴル語と日本語の間には対応語はない。南インドには、使用人口が2億人以上に達するドラヴィダ語族といわれる言語がある。
テルグ語、ドラヴィダ語・・・丸善へ
インド大使館に電話して、「タミル語を話す人はいますか」と訊いた。
日本人は、理性的、論理的であるよりも、感覚的、感情的であるという。
日常的に気候が微妙に変化するという風土があり、やさしい、にこやか、かわいいという感覚を日本人は好む。それがマイナスの方に動くと、さびしい、かなしい等へと行く。
インド最古の文献『リグ・ヴェーダ』Rig Veda
古代インドの聖典であるヴェーダの1つ。サンスクリットの古形にあたるヴェーダ語で書かれている。全10巻で、1028篇の讃歌からなる。
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Rig Verda
これを読んで、「生きている神話」と言われる、アイルランドにある、Trinity College Library所蔵の『ケルズの書』を思い出した。
The Book of Kells
水田耕作、機織りも南インドから
スリランカに住むタミル人は、タミルの古い習慣を保っていることがある。インドのタミル社会は、チョーラ王朝(AD九世紀から十三世紀ごろまで)の間にアリアンの習俗を大幅に取り入れたので、古い生活慣習を失った点がある。結婚の方式についても、インド本土のタミル人社会では変わってしまったが、スリランカのタミル人は「サンガム」時代の妻問い婚の習慣を今もって守っている。
小正月の行事:豊作祈願の行事
1月15日の朝、小豆入りの甘いお粥を作って食べるのが仕来りだった。
マドラス、今のチェンナイでは、1月1日には何の正月らしきこともせず、普段のように皆働いていた。1月10日を過ぎると、街角で小さい太鼓などを売る出店が現れ、郵便局などに横断幕が張られ、それに大きな字でHappy Pongalと書いてあった。Pongalとは、豆入りの赤米のお粥であり、1月15日の新年そのものも意味した。
祭り(タミル語で、mat-u)
神:タミル語のko-manは、日本のカミとほとんど同一の性格を持っている
陶器や墓、記号分
タミルの文明は、陸路を経て日本に到来したものではなく、海路によって日本に到着したと想像する。もし陸路によったならば、途中にある数多くの異言語の間を通るうちに、単語の語形が影響を受ける為。
日本語の歩んだ道
1.日本では、縄文時代には西日本ではポリネシア語族の一つが使われていた。その単語はすべて母音終わりであった。
2.そこにタミル語が到来して、ヤマトコトバが作られてきた
3.ヤマトコトバは南へ、東へと、その高い文明と共に広まっていった
4.その頃、北海道、東北地方にはアイヌ語がいきわたっていただろうが、時の経過とともにヤマトコトバに同化され、アイヌ語は江戸時代には北海道、樺太、千島へと退いた。
5.タミル語の到来によってヤマトコトバが成立した後、朝鮮半島から高句麗語が入り、数詞の一部分と共に、他の単語やタミルと異なる文明を日本にもたらした。
6.その後、朝鮮半島を経て漢字が伝来した。その字音を学んで、次のように言語が変遷していった。推古音→呉音→漢音(中国の都が長安に移った時代)→唐音(遣唐使の派遣は途絶え、それ以降の宋、元、明の発音を、僧侶、商人が伝えたもの)
7.明治以降、日本が中国に先んじて欧米語を漢字に飜訳したので、その一部を中国が輸入。経済、社会、哲学、特許、方法、階級など。その数は1000に達するという。
8.江戸時代から、ポルトガル、オランダと交渉を生じ、カステラ、スポイトなどのヨーロッパ語が入って来た。
9.明治以降、西欧の文明の摂取に努めて以来、英独仏語が日本語に加わった。
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