https://news.yahoo.co.jp/articles/53d4f6ef993141ea086309104e621f16d1b52190 【人生の終わりではない...仏教とキリスト教に共通する「死の捉え方」】より
禅僧と神父が語り合う、死を受け入れて乗り越えるそれぞれの死生観とは。
不治の病や余命を宣告されたとき、人生は一瞬で変貌を遂げる。私たちは死を受け入れることができるのか。宗教は苦しみを取り除けるのか。親しい者を失った人は悲しみを乗り越えられるのか。禅僧と神父が、宗教者に求められる最大の使命について語り合う。
なぜ自分が死ななければならないのか
【横田】先日、長野県の茅野市にある諏訪中央病院から「死」について話してほしい、とのお招きがありました。著名な鎌田實先生が名誉院長を務める病院で、若い医師いわく「患者さんがまだ元気なうちから、死をどのように受け入れるかを学び、考えてほしい」というのがそもそもの依頼の理由でした。
患者さんやご家族の多くにとって、死は「触れてはならないもの」になっています。たとえば病が重く、死期が近い男性のご家族に対し、お父さんの最期をどこでどのように迎えるか、考えてもらうように医師が伝えたところ、娘さんが「お父さんがまだ生きているのに、何てことを!」と激昂されたそうです。
【片柳】お医者さんと患者さん側の死をめぐる意識のズレは、しばしば見られますね。
【横田】われわれお坊さんが袈裟を着て病院を訪れるだけで、葬式を連想させる、といって疎まれることも少なくありません。
【片柳】死から目をそむけようとする態度は、多くの人に見られます。しかし死は必ずやってくるわけで、そのときになって自分が不治の病や余命を宣告されてから、あわてて心の拠り所を探し始める。結果として、素性のわからないあやしげな宗教とか、詐欺のような商法に引っ掛かってしまうこともあります。平素から死というものを考え、やがて死ぬにしても希望をもって生きられるような考え方、ストーリーを探しておいたほうがいいのではないでしょうか。
【横田】たとえば「延命治療をどこまで続けるか」という点について、ご家族に判断を求めても「先生、何とかお願いします」といわれるばかりで、医師の側も困ってしまうそうです。
【片柳】お医者さんは患者さんに症状や余命を伝えることはできても、患者さんの「なぜ自分が死ななければならないのか」という問いに答えることはできない。宗教者に「両者のギャップを埋めてほしい」という社会の要請があるのではないでしょうか。
「お前は十分によくやった」
【片柳】キリスト教を信じる人々にとって「死」とは、端的にいえば「神から与えられた使命を人間がこの世で果たし終えた状態」にほかなりません。「お前は十分によくやった。わたしのところへ戻ってきなさい」ということで天国に召され、先に亡くなった人々と共に永遠に神と結ばれる。各人が全力を尽くして走り切ったからこそ与えられる、祝福のようなものなのです。死は終わりではなくむしろ人間のゴール、人生の完成といってもいいでしょう。
【横田】さらに興味深いのはキリスト教の場合、天命を十分に全うした人だけでなく、事故や病気で命を早く落とした者もまた同様に祝福される、ということですね。
【片柳】はい。この世の寿命を迎える時期や理由については、われわれが理解できないだけで、神の目から見ればあらゆる人生に意味がある。たとえ短い人生であったとしても、十分に役割を果たしたと見るわけです。
【横田】それは大事なところですね。
【片柳】ただ、それだけでは納得できないでしょう。若い方が亡くなった際、残された方々に葬儀の場で伝えるのは、命が失われてしまったことより、たとえ短いあいだでも私たちと一緒にいてくれたことに感謝しよう、ということです。一緒に生きられたことが、一生の宝なんだということですね。宗教者に与えられた使命の一つは、残された人たちが親しい人の死を受け入れられるような考え方やストーリーを提供することにある、と私は考えています。
ふるさとに帰るだけ
【横田】仏教にも、いろいろな死の捉え方があります。禅宗では、死というのは命が生まれる前のふるさとに帰るだけであり、決して消えてなくなるわけではない、という見方をします。
【片柳】死は決して終わりではない。
【横田】私はしばしば、命をシャボン玉にたとえて話をします。私というシャボン玉が割れてしまったとき、多くの人は存在が消えてなくなったものだと考える。けれども、じつは私というものを形づくる「膜」が消えただけで、いままで境界で隔てられていた中の空気が外と一体になった、ということです。命が本来の世界と一つになるだけで、何も恐れることはない、と。
以前に私がそのような講話を行なったところ、目の前にいる30代ぐらいの女性が、涙を流しているのに気づきました。事情を聞くと数ヶ月前に、彼女のお父さんがダンプカーに轢かれて亡くなってしまった、という。肉親を失った悲しみと加害者に対する憎しみで、やり場のない苦悩を抱えていたけれども、話を聞いて「父はいなくなったのではない。いつも一緒にいるんだ」と、安堵の思いで涙があふれてきたそうです。
さらに彼女は後日、交通事故を起こした加害者に宛てて「自分を責めないでほしい」という内容の手紙を送りました。「命を奪われた」という喪失の感情だけでは、やはり恨みや悲しみは消えません。反対に死を受け入れることができれば、それはやがて許しにつながるのです。
「死の受容」の5段階
【片柳】エリザベス・キューブラー=ロスという精神科医は、「死の受容」の5段階のモデルを提唱しています。
1つ目は、現実を認めたくないという「否認」。2つ目は「なぜ自分が死ななければならないのか」という「怒り」です。
3つ目は「取引」。「神様、もうお酒は飲みませんから長生きさせてください」というような断ち物や、御百度参りも取引のうちに入るでしょう。
【横田】しかしこの取引というものは、なかなか成就しないものでしょう。
【片柳】はい。そこで4つ目の反応として、願いが叶わなかったがゆえの「抑鬱」状態が訪れます。
そうした段階を経て、最後の5つ目として死を「受容」する段階が訪れる、という。「いろいろなことがあったが、なかなかいい人生だった。生まれてきてよかった」と思い、すべてを受け入れる。
興味深いのは、キリスト教においては上記の5段階をまさにイエス・キリスト自身が歩んでいる、という点です。順番に前後はあるものの、イエスは苦しみを前にして、神に「できることなら、この杯をわたしから遠ざけてください」と訴え、交渉しているように見えます。さらに「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と苦情をいい、やがて「すべてを神に委ねます」という受容に達するのです。
重要なのは、イエス自身ですら十字架上で自らの死を受け入れるまで苦悩と葛藤を重ねていた、ということ。したがって、キリスト教を信じているから「死ぬのは全然怖くありません」ということには必ずしもならない(笑)。むしろ、じたばたしたほうが人間らしいということになりますね。
【横田】最後までじたばたしてもよい、といわれると人間、安心できるものですからね。
【片柳】われわれが経験するような絶望や無力感は、じつはすでにイエス本人がすべて味わっている。
キリスト教のこうした特徴は今年、生誕100年を迎えたカトリック作家・遠藤周作の小説『沈黙』によく描かれています。
神はこの世において、病気や死を取り除くかたちでは人間を救わない。しかし、病や死の苦しみにとことんまで寄り添うことで、人間が死を乗り越える力を与えてくれる。人々の苦しみに寄り添うことによって、苦しみを乗り越える力を与える。それこそ、宗教が存在する意味といえるのではないでしょうか。神父の役割も、基本的にはそれに尽きると思っています。
【横田】かつて医学の世界では、死は医療を尽くして戦った末の敗北である、という考え方が趨勢でした。しかし、死は決して敗北ではない。拒絶や怒りを超え、死を迎える人にひたすら寄り添うというキリスト教の姿勢には学ぶところが大きい、と感じますね。
Facebook向後 善之さん投稿記事
「ぼくがいま、死について思うこと」 椎名誠 著 新潮文庫
著者のしーなさん(全く面識がないが、つい”しーなさん”と言いたくなっちゃう)は、67歳の時、主治医で精神科医の中沢正夫さんから「あなたは自分の死について真剣に考えたことはこれまで一度もないでしょう」と言われたのだそうです。
僕は、まさに今67歳。はて「自分の死について真剣に考えたことがあるか」と言われると、少しは考えたことはありますが、「真剣に」と言われると、あまり自信がありません。でも、そろそろ、そう言うことを考えるべき歳ということなのでしょう。
しかし、待てよ?「主治医で精神科医」???「主治医で内科医」ならわかりますが・・・。読み進めていくと、どうやらしーなさんの持病は、高血圧と不眠らしい。不眠だから、精神科なのかもしれません。他にも理由はあるのかもしれませんが、わかりません。わからないことは放っておきましょう。
さて、この本には、しーなさんが出あった様々な死から考えたことが書かれています。
ガンで亡くなった編集者の葬儀の時に、斎場で聞こえてきた元アナウンサーと思われる女性の、「ひとは、生まれるときに、両手を硬くにぎりしめているといいます・・・」という、ゆっくりとした、悲しみをこらえたような声に、むしょうに腹がたった話(p.28)が書かれていました。故人と縁もゆかりもない人からのもっともらしいお話には、僕もその場にいたら違和感を持つだろうなと思いました。僕も、いくつかの葬儀で、なんかオートメーションでありながら、「ここで悲しみましょう」「ここで深く感動しましょう」みたいに言われているように感じる葬儀もありました。でも、最近は遺族に寄り添ってその家族なりの葬儀をしようとしている葬儀屋さんもずいぶん出てきたよなぁと思います。グリーフサポートなどを勉強している葬儀屋さんも出てきています。僕の葬儀の時は、そういう葬儀屋さんに頼もうと思いました。
へー!という話もありました。
昭和六年の新潟県南魚沼郡の葬儀の写真を見ると、喪服は白(p.30)なのだそうです。中国も白ですから、日本も最初は喪服は白だったのだと思います。その白い喪服の伝統は、地方では昭和の初期まで残っていたということになりますね。
また、さすが世界各国を訪ねてきたしーなさん、各国の葬儀についても書いています。
例えば、チベットの鳥葬。しーなさんの奥さんは1987年から2012年まで毎年チベットに行き、チベットにかんする本を何冊か出しています。その縁で、本来立ち会えないはずの鳥葬に奥さんは2度立ち会っています。実際に見た人による話には迫力があります。鳥葬はただ死体を山に置いていくのではなく、禿鷹が食べやすいように処理する(p.63)のだそうです。処理の途中で、禿鷹たちが集まってきて、死体を持ち上げようとすることもあるのだそうです。
モンゴルでは風葬が行われるのだそうです。風葬と言われるとなんとなく風にさらされていつの間にか・・・というイメージが浮かぶのですが、実際には「野ざらし」です(p.69)。それなりに凄惨な場面もあるわけです。
驚いたのは、ゾロアスター教にも、三途の川のような話がある(p.122)ということです。どこか共通した死に対するイメージがあるのでしょうか?いやそれとも、本当に三途の川があるのでしょうか?
そういえば、心臓病で生死の境を彷徨った僕の父が、生還した後「三途の川」を見たと言っていました。しかし、その後「川の向こうに見慣れない奴がいてな。それが赤鬼だったんだよ。あれが青鬼だったら、向こうに行っていたな。青は『進め』で、赤は『止まれ』だから助かった」なんて付け加えるものですから、三途の川の話がどこまで本当なのかわかりませんが・・・。
しーなさんはお母様が亡くなる当日に、予知夢を見たのだそうです。「赤ん坊みたいになった母を抱いている。頭と顔をさわるとグズグズになっている。骨が砕けているのだ(p.16)」という夢だったとのこと。
そういえば、僕は当日ではないけど、父の死の前に予知夢のようなものを見ました。毎日のように、僕の友人が死んだ夢を見ました。「えっ?あいつが死んだの?」と驚いて目を覚ますということを繰り返したのです。ノートにメモしていたのですが、気味が悪いのである日そのメモを消してしまったんです。そうしたら、悪夢を見なくなりました。しかし、その1ヶ月後に父は心筋梗塞で急死してしまいました。そのため、三途の川の話が冗談だったのか本当だったのかを確かめる術はもうありません。
https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/10587 【ぼくがいま、死について思うこと』】より
目黒次は『ぼくがいま、死について思うこと』です。「波」の2011年9月号〜2012年9月号に連載して、2013年4月に新潮社から本になって、2016年1月に新潮文庫と。まず、「自著を語る」から次のくだりを引いておきます。
小さい頃から幾度も体験している日本の葬儀と、世界の様々な葬儀の極端な差は、なぜ起きるのだろうかというようなことまで思いが走ったとき、ぼくの目の前には今まで手にしていなかったたくさんの人間の死とその周辺のしきたりに関する本の山があった。それらを集中して読んでいく。するとそれまでの人生のあちらこちらで見知った葬儀なり埋葬なりの意味が、もう少し深いところから見直せるようになっていった。この本を書くのは、ぼくにとってはそのことが大きな収穫だった。
あのさ、椎名は自分の葬式について具体的に考えている?
椎名そろそろ考えないといけないよなあ。
目黒おれたちももう年だから、葬式のビジョンをもっておいたほうがいいと思う。
椎名アメリカの葬式は故人と親しい人だけが集まって、故人の思い出を静かに語って、最後に賛美歌を歌って1時間くらいで終わり。すごく簡素でいいなあと思う。
目黒島田裕巳『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)には各国の葬儀費用が書かれていて、それによるとアメリカ四十四万、イギリス十二万、ドイツ二十万、韓国三十七万、日本二百三十万と、日本が飛び抜けて高いね。
椎名お前、葬式について考えているの?
目黒こないだ、同世代の友人とその話になったんだよ。結論は家族葬がいいなと。
椎名家族葬って?
目黒親戚などの親しい人だけを呼ぶの。でも問題は、たとえ家族葬でも、セレモニーホールなどを借りてやると結構な費用になること。
椎名ある程度の費用は仕方ないか。おれも、家族葬がいいな。
目黒この本は椎名でなければ書けない内容で、とても興味深かった。抽象的な死生観を語る本かと思うと、とんでもない。世界中で見てきた各国の葬儀の話が中心になっている。葬儀のかたちに、その国の人々の死生観があるんだね。
椎名鳥葬、水葬、樹葬とさまざまな葬儀の形態がある。
目黒それを分類しているのも興味深い。たとえば、チベットの鳥葬は、遺体を切り開き、内臓を取り出し、固い大腿骨や頭蓋骨はハンマーで砕かれ、「骨はツァンパと呼ばれる、チンコー麦(裸青麦)の粉で作られたチベットの主食にバター茶をまぜたツァンパ団子にくるんだりして食べやすくしてやる」。つまり人間の体を空腹の鳥に食べさせてやる「ほどこしの思想」なんだね。だから「天葬」ではない。チベットの鳥葬に遺族は立ち会わない、というのはどうして?
椎名その姿を見るのは残酷だから、という理由じゃないかなあ。そうだ、ゾロアスター教の鳥葬はまた違うんだぞ。こちらは死体は汚れたもの、という考えだ。
目黒チベットの鳥葬とは意味が違う?
椎名汚れたものだから、土に埋めたら土が汚れるだろ。火葬にしたら火が汚れる。だから鳥に食べさせる。
目黒鳥はいいの?
椎名鳥は汚れているから、という考えだな。
目黒じゃあね、ミャンマーに「死者は捨てる」という感覚があるのは、ただの物体となった遺体よりも、そこから解放された魂の昇天が大切との考えがあるからだ、って書いているんだけど、この考えはチベットに近い?
椎名そうだな。チベットにもミャンマーにも墓がないのは、遺体はただの物体にすぎないからだね。北極圏にも墓はない。
目黒どうして?
椎名永久凍土だから掘れない。埋めても腐らない。
目黒なるほど。それはそうだね。そうだ、あとはこれが興味深かった。
椎名なに?
目黒アメリカ人が日本で死んだ場合、土葬の国アメリカには遺体のまま返さなければならないってこと。
椎名キリスト教は復活を信じているから、遺体を焼いてしまったら復活が出来なくなる。
目黒アメリカが火葬じゃなくて土葬であるのは、そのためか。
椎名だから日本で火葬にして骨だけを送れば簡単だけど、そういうわけにはいかない。
目黒日本で死ぬ外国人は年間6000人以上いるから、1日に20体以上の遺体が海外に搬送されているなんて知らなかった。
https://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/7174 【ぼくがいま、死について思うこと】より
出版社:新潮社 発行年月日:2013年04月25日 椎名誠 自著を語る
本を書くというのは編集者との気持ちのやりとり、意識の交流、感覚の衝突や融合などといったことが大きく関係する。別の表現、例えば、ボクシングなどに例えれば、著者はリングで戦うボクサーであり、編集者はセコンドで全体を眺めながら指示を与えるトレーナーの役割になる。新潮社の今泉さんはもう三十数年来の長い付き合いになるが、ぼくとはまさしく今いったようなプレイヤーとディレクターにも例えられる付き合いをしてきた同士で、彼がこういう企画はどうだ、と言ってくることはまあ間違いなくぼくが気がつかないままに意識がそこに向いているということを見抜いた核心を突くテーマであり大きな刺激がある。信頼感の問題だろう。
その今泉さんがあるときぼくに「椎名さんは身体頑健で、酒もがんがん飲み、いつもあちこちで暴れ回っているのをずっと見てきましたが、失礼ながらあなたもいつか死を迎えるということを本気で考えたことはないでしょう。」とまあ本当に失礼なことを言うのだった。でもよく考えたらそれは失礼でもなんでもなく、当事者から何歩かスタンスをおいてその進んでいくさまを眺めていてくれた有意義な示唆なのである。確かに言われた通り、ぼくは自分の死について一度も真剣に考えたことはなかった。同じことを、その当時どっちが先か後かは忘れたが、やはり長年ぼくの主治医から言われたことがある。この二つの示唆が、この本を書くモチベーションになった。
どうせ書くなら初めてのテーマであるから自分自身の死についての想いはもちろん、これまで自分が直面してきた世界各国での「人間の死」について、まずありのまま書いていこうと思った。世界のいろんな国々をかなりの期間旅してきたので、その過程で生々しい死や異文化ならではの衝撃、刺激を受ける葬儀などに出会った。それらには宗教や、それよりももう少し幅の広いその国の習俗などもからんでくるので、それらの視点から改めて見直すと、異文化の境界論のようなものも頭にちらついてくる。そこにはさらになぜ、という疑問符がつく。多く回答を出してくれるのが宗教というものの存在だった。多くの例はそれをベースにして死生観がつくられていく。
小さい頃から幾度も体験している日本の葬儀と、世界の様々な葬儀の極端な差は、なぜ起きるのだろうかというようなことまで思いが走ったとき、ぼくの目の前には今まで手にしていなかったたくさんの人間の死とその周辺のしきたりに関する本の山があった。それらを集中して読んでいく。するとそれまでの人生のあちらこちらで見知った葬儀なり埋葬なりの意味が、もう少し深いところから見直せるようになっていった。この本を書くのは、ぼくにとってはそのことが大きな収穫だった。いままでおぼろげにしか頭の中で区別のつかなかった世界四大宗教のありようとか、その違いなども少しわかったような気もした。そして最終的には自分の死について、トレーナーである編集者が方向づけてくれたように、たどたどしくはあるが、じっくり本気で考え、それをまとめていくという、ぼくにとってはかなり真剣な執筆状況に入れたのである。
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