Facebook三浦 直樹さん投稿記事 【六根清浄(ろっこんしょうじょう)】
前回の大阪・望診法講座で、私が時々唱えているとお話させていただいた『六根清浄(ろっこんしょうじょう)』の祝詞についてお尋ねされたので、ご紹介を。
本当は祝詞として、もう少し長く正式な文章があるのですが、五行や五感に関するエッセンスのみをご紹介させていただきます。
普通に生活していると、ニュースなどで五感を通じて色んな情報が入ってくるのですが、心はあくまできれいな状態を保てればいいですね。
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「天」清浄、「地」清浄、「内外」清浄。
■眼に諸諸(もろもろ)の不浄(ふじょう)を見みて、心にもろもろの不浄を見みず
■耳にもろもろの不浄を聞いて、心にもろもろの不浄を聞かず
■鼻にもろもろの不浄を嗅ぎて、心にもろもろの不浄を嗅がず
■口にもろもろの不浄を言いて、心にもろもろの不浄を言はず
■身(み)にもろもろの不浄を触れて、心にもろもろの不浄を触れず
■意(こころ)にもろもろの不浄を思ひて、心にもろもろの不浄を想はず
生なる我わが身は、すなわち六根清浄(ろっこんしょうじょう)なり
六根清浄なるが故に五臓(ごぞう)の神君安寧(あんねい)なり。
五臓の神君安寧なるが故に天地(あめつち)の神と同根なり
天地の神と同根なるが故に万物の霊と同根なり
我、今、具足して心、清浄なり
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六根・五臓に感謝ですね。
Facebook近藤裕子さん投稿記事
🍀🍀大切な言葉🍀🍀《どっこいしょ》
どっこいしょ」という言葉は仏教語の「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」が語源で、修験者が霊山を登るときに唱える言葉です
「六根」とは眼・耳・鼻・舌・身・意を指す言葉で、この6つの感覚により煩悩が起こり、 人は その煩悩によって苦しむことから、修行者は 神聖な霊山を登りながらこれを唱えることで、迷 いを断ち切って身も心も浄化するとの意味を持ちます。
この「六根清浄」が登山者の間で変化していき、「どっこいしょ」になったのだと言われます。
またヘブライ語の祈りの言葉「ドケイシュ」が語源とする説もあります。
ヘブライ語では、「救う者」「イエス・キリスト」を「イシュア」と言います。
これに「押しのける」という意味の「ドケ」をつけることで、「神の救いによって押し上げる」といった祈りの言葉になるのだとか。
この「どっこいしょ」には脳を活性化させる効果があると科学的に証明されているんだそうです。
「どっこいしょ」と掛け声をかけることで、脳に刺激が加わり、タイミングを取りやすくなったり力を出しやすくなったりするのだそうです。
日々「ドッコイショ」の掛け声を大いに使って元気に過ごしたいと思います。
Facebook背古 誠徳 せいとくさん投稿記事
六根清浄のおしえ
最近あなたがもしなにもかも上手くいかないなぁと思うことは
実は向上したいという積極的な思考の現れです
こんにちはせいとくです上手くいかなくても落胆したらダメなのです
なにもかも上手くいかないなぁと思うことはいくらでもあります
もうダメだと思うことはいままで何度もあったはずです
上手くいかないことばかりではなく上手くいくこともあるんだからただ今上手くいかないだけ
上手くいかないとおもうことは今なにかに挑戦してる証です
宇宙根本の目的は進化向上にあります。
「進化したいと思うことは、宇宙根本の目的ゆえにつまり、天地の神と同根なのです天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり」
だから向上したい!
とおもうことはどんな生物だって自然界でも万物の共通したことなのです。
進化向上する過程で失敗や苦しみを経て成長することになってるのです
だから挑戦したら上手くいかないんです
挑戦してるからこそ上手くいかないんです
だけども
万物の霊と同体なるがゆえに、進化しようとすることはその願いは成就しないということは
ないのです。必ず進化向上するのです!!!!これが六根清浄のおしえです。
Facebook山地 弘純さん投稿記事 【新年法話7 「六根清浄」】
昨年特に印象深く残っている思い出が三徳山に参拝したことです。
子供たちと一緒についにあの険しい修行道場の三徳山を上り、頂上にある投入堂まで行くことができたことは、とても素晴らしい体験でした。
その登山の際に輪袈裟(タスキ)を肩から斜めにかけてお参りをします。
そこに書かれている言葉が「六根清浄」と言う言葉です。
六根清浄とは何でしょうか。
それは眼と耳と鼻と舌と身体と意(こころ)のことで、五感をうけとる五つの機能である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に、それを認識する心である意覚を合わせて六根と呼びます。
根とはサンスクリット語のインドリヤの漢訳で、「発識取境」といって、「内部の認識を発して外部の情報を取り込むこと」です。
まさに根っこですね。
般若心経の中にも「眼耳鼻舌身意(げんにびぜっしんに)」と出てきます。
この六つの根の状態でこの世界の捉え方が変わってきますので、これをクリアにしておく必要がありますよという言葉が「六根清浄」です。
皆さんもよく無意識に使っておられますね。
「どっこいしょ」って。
この六根清浄と言う言葉がいつしかどっこいしょと言う言葉になったとも言われているんですよ。
私たちは人との関わりの中で生活をしていると、この6つの根っこがだんだんに毒におかされていき、健全さを失うと言います。
ほとんどの苦しみは人間社会、人間関係の中にあるのです。
家庭、学校、職場、地域において、六根は毒に侵食されていきます。
眼環境はコンクリートやプラスチックなどの人工物に囲まれた上に、人との争いや暴力、差別や不公正を目の当たりにし、
耳環境は重なり合った人工音による煩わしさの上に、人の愚痴や悪口、責め合い裁き合う声にさらされ、
鼻環境は排気ガスなどのくぐもった空気に囲まれた上に、人いきれの中で呼吸も浅くなり、
舌環境は人工甘味料や添加物などの入った食べ物や塩素消毒した水に囲まれた上に、本音とはかけはなれた言葉ばかりが口からでてしまい、
身体環境は無機質な物に触れる中で、プレッシャーによるストレスは溜まるばかりで、
心という内的環境もどんどん認識を悪循環へとつなげてしまいます。
我々は、人間関係の中で六根が濁って行ってしまうのだからこそ、時々この人間関係から離れて自然の中でその6つを清らかにクリアにしていく必要があるのです。
弘法大師もやはりそれを大切にしておられました。
京都の東寺は京都の人々に教えを広めていく拠点でしたが、人との関わりに疲れた時、もう一つの拠点である俗世から離れた高野山にこもって、自然の中で鳥の声、虫の声、川のせせらぎに耳をすませながら、六根清浄につとめたのです。
そして清浄なる姿にかえり、また東寺へともどっていかれるということを繰り返したといいます。
皆様もどうでしょうか。
このストレス社会の中で、いつしか毒された清浄でない六根で、濁った世界を映し出し、それをまた他者へ巡らせていってはいないでしょうか。
そうならないように、時々人間関係を離れた自然と共に過ごす時間を取るということが必要となってきます。
森や川の下でありのままの姿を見つめて眼をクリアにし、虫や鳥たちの声を聞いて耳をクリアにし、草花や土の匂いを香って鼻をクリアにし、湧水や木の実、野草を口に運んで舌をクリアにし、どっしりとした大地に触れて身体をクリアにし、大いなる存在を感じて心をクリアにする、そんな時間をどうかとって下さい。
仏教とは何かを簡潔に答えると、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」であるといいます。
悪いことをするな。
善いことを行いなさい。
自らがその心を浄めるのです。
これが仏教です。
まさに心も含む六根清浄を保つことが、悪業にからめとられずに善業を行っていくためのベースともいえるでしょう。
「どっこいしょ」の語源が本当に「六根清浄」だったのかは知るよしもありませんが、「どっこいしょ」という言葉にはある種の苦がたまった状態であることが推測できます。
思わず言ってしまった時には、六根をクリアにするタイミングなのだと思ってくださいね。
※3月末に六根清浄のための小豆島遍路の旅を予定。一緒に行きましょう!
https://toshiki.haiku-kachou.jp/post/625261282918006784/%E8%99%9A%E5%AD%90%E3%81%B8%E3%81%AE%E4%BF%B3%E8%A9%B1132 【「虚子への俳話」132】より
私は成田千空氏とお会いしたことはない。
一度は会いたかったが、関係の諸氏に聞くとめったに東京に出られることもないと聞いていた。
これは伝説であったのかもしれぬが、氏は陸奥の俳句そのものであって、その原点には虚子の存在があるものの、直系の草田男の精神をいわゆる郷土の志士として守っている、当時唯一の本当の守旧派の俳人であると。
その頑固さというか、神秘さもあり、一度はどんな人物か目で見て、話をしたいと思っていた。
当時のホトトギス派というか、伝統俳句派という俳人たちは、本当に虚子から受け継ぐ伝統俳句をお座敷芸に堕落させていた。
むろん山口青邨、伊藤柏翠、藤崎久をや深見けん二といった、錚々たる者も居たが、若い私の目にも、虚子忌などのセレモニー俳句とその宴会には辟易させられたものだった。
つまり私は俳句に対する、真摯で、伝統を尊ぶような真面目な俳句を希求していたのである。
もう十年以上前だが千空氏はただ一度、拙句をどこかの俳句総合誌に取り上げてくれた記憶がある。
信濃川残る寒さを流しをり 俊樹
であったと思うが。実はとても嬉しかったのである。会ったこともない者として、私は隠れ千空ファンであったからである。
成田千空は結社「松濤社」、青森俳句会に参加。農業を営みながら俳人として活動していた。
草田男主宰の「萬緑」に創刊より参加。青森県在住のまま選者に就任し、やがて主宰となる。青森高校時代の寺山修司の俳句指導をしていたとも。
兎に角、青森と東京は遠いのであるが、当時のホトトギスでの青森の大御所と言えば、村上三良であったろう。
彼は虚子の東北の重鎮として、兄の増田手古奈とともに知られた巨大な存在であった。
梵天の幸はふ国や霏々と雪 津軽いま六根清浄花りんご
草餅や生家に多き仏たち 裏声は嗚咽にも似て鳥帰る
黄落の地や無一物無尽蔵
成田千空『十方吟』
『十方吟』の十方とは、四方と四隅と上下のこと。すなわち、あらゆる方角・場所のことらしい。それが、当時の氏の志向する世界である。
土着であって土着でない。夢想家であって、客観写生家である。
現今のホトトギス派たちから異端と呼ばれてい、私の理想とする本物の写生世界であったからである。
私は成田千空のような句を目指していたのである。いや現在も目指しているのである。
雪女ひそむ気配の神輿蔵 俊樹 冬怒濤壱岐も対馬も溺れたり
秋水を吐き絢爛の鯉となる 靴音は軍靴にあらず聖夜の灯
氏と私の大いなる違いはこれらの句でわかるように、彼には立ち上がり踏ん張ってきた、故郷というものがある。
私は東京というものに生きてきた故、純然たる土着の故郷は無い。生家はあるが、そこにはもう祖先たちの息づかいは無い。
ところで私は本の題『十方吟』という措辞に惹かれた。それは私の今目指している俳句世界とうり二つだからである。
十方はつまり、この世のすべての空間のこと。
四方は平面の広がり。四隅はその平面の横軸。そして、上下とはすなわち、立体の縦軸。つまりこの世の三次元の世界そのもののこと。
それを十方と呼ぶ氏がそれらをいよよ吟詠すると、そこに時間が生まれ、命が生まれた四次元の時空というものとなる。私もまた、そうした俳句を今目指している。
「深は新なり」ではないが、今も新しい俳句を目指すというのは陳腐ではないか。
もっと、人としての存在を確かめるような、科学的であるようにさえ思え、はたしていろいろな宗教を凌駕するようにさえ感じられるもの、そのような俳句の祖であると感じている。
まぼろしの狼連れて年惜しむ 俊樹
狼の裔の毛皮を纏ひたる
鶴舞へる淡海を合せ鏡とし
これらのような直近の拙句はいかがなものであろうか。
「まぼろしの狼」はむろん、三橋敏雄の「絶滅のかの狼を連れ歩く」の本歌取りである。
氏が亡くなってから、もう狼の句にすら出会うことも無くなった。そんな哀しさと虚無感の句である。
同時に、その哀しさと飛躍の乏しさに、「鶴舞へる」の句を作りもした。
この飛躍は、「鶴」を虚子の小説『風流懺法』に出てくる、京都は祇園の舞子である三千歳の立ち姿としたことである。
それに惚れる一念という小僧坊主が、やがて琵琶湖を見下ろす叡山延暦寺の、天台宗の座主になったという。
そんな噂をまた踏まえた句と言いたいところなのだが。
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