https://www.artm.pref.hyogo.jp/bungaku/jousetsu/authors/a230/ 【かわひがし へきごとう河東 碧梧桐】より
明治6~昭和12 ジャンル: 俳人 出身:愛媛県松山市
PROFILE
兵庫県芦屋市に居住。兵庫県が舞台の作品に「玄武洞」がある。近代俳句におけるパイオニアのひとりで、正岡子規の俳句革新運動に加わり、高浜虚子と共に子規門の双璧と称された。明治6年(1873)松山市生まれ。父・河東坤(号・静渓)、母・せい(竹村氏)の5男。父・坤は松山藩士で藩校・明教館の教授であった。廃藩後「千舟学舎」を開き、ここで子規も漢学の講義を受け、漢詩の指導も受けていた。明治20年(1887)伊予尋常中学に入学。虚子とは同級。明治22年、帰省した子規からベース・ボールを教わったこと(子規は東京の碧梧桐の兄・鍛(きとう)-子規の学友-から弟へのみやげとしてボールをことづかっていた)がきっかけとなり、俳句にたずさわることになる。明治23年、発句集を作り、初めて子規の添削を受ける。明治35年(1902)の子規没後は、新聞「日本」俳句欄の選者を子規から受け継ぐなど、俳壇の主流の位置を占めていた。しかし、明治38年頃から「新傾向俳句」に走り始め、明治39年から44年にかけて前後2回にわけて、「新傾向俳句」を宣伝するための全国遍歴(俳句行脚)を行うなどした。その時の紀行文が『三千里』である。やがて「守旧派」の虚子と対立するようになり、さらに定型俳句から離れ、定型や季題にとらわれない「自由律」の句を作りはじめた。その活動が尖鋭に過ぎ、支持者を失いつつある中、昭和8年(1933)3月、還暦祝賀会の席上にて俳壇引退を表明した。「ホトトギス」の成功で、俳壇の大家となったライバル・虚子に対する批判的行動であるとみられる。腸チブスに敗血症を併発し,昭和12年(1937)2月1日永眠。墓は父静渓と同じ松山西山宝塔寺にある。
《 略年譜 》
年 年齢 事項
1873 0 2月26日、松山市千船長に生まれる。
1878 5 勝山小学校入学。
1879 6 父から子規を紹介される。
1882 9 虚子と知り合う。
1886 13 松山高等小学校入学。
1887 14 伊予尋常中学校入学。
1888 15 虚子らの回覧誌「同窓学誌」参加。
1889 16 帰省した正岡子規にベースボールを教わる。
1890 17 子規に俳句を学ぶ。青桐、女月、桐山、海紅堂等の雅号を用いる。
1891 18 一高受験のため上京。失敗して伊予尋常中学復学。
1893 20 京都第三高等中学予科入学。虚子とともに下宿し、「虚桐庵」と号す。
1894 21 学制改革のため、虚子とともに仙台第二高等学校に転校。退学して上京、子規庵に入る。
1895 22 虚子とともに下宿し、遊蕩生活。神戸病院に子規を見舞う。日本新聞社入社。
1896 23 日本新聞社退社。
1897 24 「ほとゝぎす」発刊され、選句担当。
1898 25 子規の蕪村句集講義参加、子規庵歌会参加。京華日報社入社。「ホトトギス」発行が東京に移る。
1899 26 京華日報解散、太平新聞社入社。
1900 27 ホトトギス社入社。子規庵山会参加。青木月斗の妹繁と結婚。京華日報社復社。
1901 28 自宅で俳句例会始める。
1902 29 子規死去、「日本俳句」の選者を継ぐ。
1903 30 日本新聞社再入社。「温泉百句」を発表し、虚子との論争始まる。
1905 32 小説「げんげん花」発表、漱石に賞賛される。
1906 33 第1次全国旅行(~M40)、六朝書体流行。
1908 35 「俳句界の新傾向」発表し、新傾向俳句論高まる。
1909 36 第2次全国旅行(~1907)。
1915 42 「海紅」創刊。
1919 46 芦屋に転居。大正日日新聞社会部長となる。
1920 47 大正日日新聞社解散。欧州旅行出発。
1922 49 ヨーロッパからアメリカを経て帰国。上京。中央新聞社編集顧問・社会部長となる。
1923 50 個人雑誌「碧」創刊(~1925)。
1925 52 「碧」終刊し、同人雑誌「三昧」創刊。
1933 60 還暦祝賀会の席上にて俳壇引退を表明。
1937 64 腸チブスに敗血症を併発し、2月1日永眠。
逝去地
東京
兵庫県との関係
居住 芦屋市
Facebook北野 和良さん投稿記事
『大正から昭和へ』 --競り合うかな女、久女と「主婦」の誕生ー
(『胸に突き刺さる 恋の句』 第三章 要約)
《呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉》 (長谷川かな女)
《花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ》 (杉田久女)
虚子は明治41年に「ホトトギス」に「雑詠欄」というページを新設し、広く一般から俳句の投稿を募る新企画を始めた。
虚子と碧梧桐とは、有季VS無季、定型VS非定型、伝統VS前衛と対立した。碧梧桐は「新しい俳句の行き方」を全国行脚し新傾向俳句は、大流行の勢いとなった。
虚子は一般からの投稿による雑詠欄で碧梧桐の勢いを止めようとした。
《春風や闘志抱きて丘に立つ》
子規は二人を評して「虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐は冷ややかなること水の如し」言った。
虚子の決断力は、「台所俳句」「主婦俳句」という形になって、女性の才能を俳句の世界に呼び込むことに成功した。
男社会の俳壇に登場したかな女は、ひとり輝くマドンナ。
《あるじよりかな女がみたし濃山吹》 (原石鼎)
世間に負けない芯の強さ、柔軟さ、日本橋生まれの都会的センス、その蔭にあるある種の凄み、こういったさまざまな要素を兼ね備えた女性だったと思われます。
もうひとりのホトトギス俳人・杉田久女と軋轢もあった。
《虚子ぎらひかな女嫌ひのひとへ帯》 (久女)
《花蜜に命うるさし歌を詠む》 (かな女)
《青柿落ちる女が堕ちるところまで》 (かな女)
虚子は大部数を誇る「主婦の友」にも読者投稿のによる俳句欄を創設する(大正11年)。読者に対して、蕪村の句のような「素直な」「ありのままな」写生句を作るよう強く勧めた。
《春の灯に金粉けむる睫かな》 (かな女)
《残雪や水しむ靴に爪紅く》 (同)
《足袋つぐやノラともならず教師妻》 (久女)
《張りとほす女の意地や藍ゆかた》 (同)
《押しとほす俳句嫌ひの青田風》 (同)
昭和11年、理由も不明のまま久女はホトトギス同人から除名された。
ーーーーーーーーーーーーーーー
かな女と久女、ふたりの句の景色の向こうに恋と、さらにその向こうに男の影を見る気がする。
Facebook野島 正則さん投稿記事
2017.01.31 一日一季語 碧梧桐忌(へきごとうき) 【冬―行事―晩冬】
清秉五碧梧桐忌はまだ寒中 川崎展宏
https://ameblo.jp/masanori819/entry-12243098422.html?fbclid=IwAR05wk26LsbOFsEbaZR426b8CHMb2yhygbiBLBlHfgYLmh79X6DumcYcDi0 【一日一季語 碧梧桐忌(へきごとうき) 【冬―行事―晩冬】】 より
清秉五碧梧桐忌はまだ寒中 川崎展宏
川崎 展宏(かわさき てんこう、本名ではのぶひろ、1927年1月16日 - 2009年11月29日)は、広島県出身の俳人、国文学者。呉市生まれ。父は海軍士官。1953年、東京大学文学部国文学科卒業。1958年、同大学院満期退学。米沢女子大学、共立女子大学を経て、明治大学法学部教授。
東京府立第八中学校で加藤楸邨に教わり、のちに俳句を楸邨に師事、「寒雷」に参加する。
1970年、森澄雄の「杉」創刊に参加、編集を務める。
1980年、超結社の同人誌「貂」を創刊、2003年まで代表を務める。2004年より名誉代表となる。
1991年、句集『夏』で読売文学賞受賞。
1998年、句集『秋』で詩歌文学館賞、評論『俳句初心』で俳人協会評論賞受賞。
1990年から1993年まで「日経俳壇」選者、1994年から2006年まで「朝日俳壇」選者を務めた。
【傍題季語】
寒明忌(かんあけき)
【季語の説明】
俳句の季語には、俳人の忌日を命名したものが少なくない。
二月一日。俳人河東碧梧桐(一八七三~一九三七)の忌日。本名秉五郎(へいごろう)。愛媛県松山市生まれ。高浜虚子と並び正岡子規門の双璧(そうへき)といわれた。子規没後、虚子と袂を分かち、新傾向俳句へと進み、無季・自由律・口語俳句などを試みた。進歩派の巨匠として異彩を放ちながら、昭和八年、還暦を期に俳壇を引退、同十二年東京にて没。句集に『碧梧桐句集』、著作に『三千里』『続三千里』など。
河東碧梧桐の代表句 赤い椿白い椿と落ちにけり 明治29年、碧梧桐24歳の作である。
去年出た栗田靖の『河東碧梧桐の研究』(翰林書房)によると、この句が初めて新聞「日本」に載ったときには、「白い椿赤い椿…」だったという。この句形だと有名にならなかったであろう。というのも、この句は、正岡子規が評論「明治二十九年の俳句界」において、印象明瞭な句の見本として取り上げ、それが契機で有名になった。印象明瞭という観点においては、赤い椿白い椿…と赤が先に来たことで、特に印象が強くなったのではないだろうか。(坪内稔典)
「e船団」は俳句グループ「船団の会」(代表:坪内稔典)のホームページより引用
【追悼句】
たとふれば 独楽のはぢける 如くなり 高濱虚子
昭和十二年三月二十日 「日本及日本人」碧梧桐追悼号。碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり
碧梧桐が子規の写生を根源的に実践しようとしすぎて、無中心主義になったことで虚子とのあつれきが生じた。
自由律・破調といつたことはその後の変遷であって、当初は無中心によって、つまり写真のように眼前のすべてのものを写実的に俳句に盛り込もうとした。おのずと季題ばかりが中心でなくなり、かつ五七五に盛り込むことも必然でなくなる。
ある意味で碧梧桐のほうが子規の写生により従順であり、虚子のそれは季題諷詠という独自の路線に入っていったとも考えられる。
その後の歴史は周知の事実であるが、碧梧桐と虚子はプライベートにおいては昔とかわらぬ交友を続けていた。
年尾や立子も、碧梧桐の小父様と言ってはなついていたし、虚子もその死の際には、
「一月九日に青々君を失ひ、一月一日碧梧桐君を失ふ。旧友凋落、聊か心細い感じがいたします」と哀悼の意を述べている。
「独楽」が虚子と碧梧桐であることは間違いないが、この句の普遍性は世の中のライバルというもののすべてにこの句が当てはまるということであろう。
この句は弔句であるが、それは死去のすこし後に発表された。そのためか、「贈答句集」に掲載されずに「五五十句」にのせている。
単なる弔句におさまらないのは、この「たとふれば」の前置きに、重畳たる虚子と碧梧桐の明治初期から当時にいたるまでの人生の軌跡が省略されていることだ。
その数十年間の子規からはじまる、俳句の歴史がこの二人の歴史とシンクロして現代の俳句を形成したことを思えば、いかにこの句が巨大な存在であることがわかる。
喧嘩独楽は火花を散らして回り続ける。やがて負け独楽が倒れ臥すと、勝ち独楽もまた回転をやめる。
(c)Toshiki bouzyou
高濱虚子の100句を読む 坊城俊樹 第81回より引用
【例句】
今昔をけふも読み居り寒明忌 瀧井孝作
碧梧桐忌法外な寒ンもたらせり 高澤良一
碧梧桐の忌なり墨汁飛び散つて 内田美紗
0コメント