https://zatsuneta.com/archives/10201a5.html 【碧梧桐忌(2月1日 記念日)】より
俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の1937年(昭和12年)の忌日。寒が明けて「立春」となる頃であることから「寒明忌(かんあけき)」ともされる。
河東碧梧桐
河東碧梧桐について
1873年(明治6年)2月26日に現在の愛媛県松山市に生まれる。本名は秉五郎(へいごろう)。正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。
季題と定型を無用とする自由律俳句を主張し、ヒューマニズム色のある個性的な俳句を生み出す。俳誌『海紅』『碧』『三昧』などを創刊する。後に自作を短詩と称した。63歳で死去。著書には『碧梧桐句集』や紀行文集『三千里』などがある。
https://books.bunshun.jp/articles/-/5216 【代表作「赤い椿白い椿と落ちにけり」だけではない 伝説の俳人の全容を明らかに】より
文:松浦 寿輝
松浦寿輝が『河東碧梧桐』(石川九楊 著)を読む 出典 : #週刊文春
『河東碧梧桐』(石川九楊 著)
河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)と聞いてただちに思い出すのは、「自由律」の俳人だということ、そして代表作と言うべき「赤い椿白い椿と落ちにけり」の一句。今日の世人の文学的常識としてはせいぜいそんな程度か。「赤い椿……」が名句であることはすぐにわかる。これは上五が六音の字余りになっているだけの定型句とも言えるが、「赤い椿白い椿と」という散文的な畳みかけには、因習的な定型音律をはみ出した清新なしらべがあり、また詠まれた光景も視覚的に鮮烈で美しい。
だが、初期から最後期まで、俳人碧梧桐の作品の全体を見渡してみると、そこには、ほんのちょっぴり規矩からはみ出しただけのこんなおとなしい一句をはるかに超える、過激な実験性が溢れていたことがわかる。その全容を明らかにし、異才が敢行した文学的冒険の意味と価値を改めて顕彰した野心的な労作が本書だ。
「写生」概念を梃子として近代俳句の礎を築いたのは正岡子規だが、その子規の後継者二人、高浜虚子と河東碧梧桐のうち、俳壇の本流になっていったのは、俳誌『ホトトギス』を主宰した虚子のほうだった。題材は「花鳥諷詠」、音律は伝統的な五七五、そして季語と「や」「かな」等の切れ字を俳諧の本質的二要素とするという虚子の詩学が、今日の俳句を支配しているのは周知の通りだ。
それに対して、五七五の枠組みをぶち壊し、季語も切れ字も不要とする「新傾向俳句」を提唱し、かつ実践した碧梧桐の試みは、傍流にとどまり、しかもそのかぼそい流れもいつしか途絶えてしまったかに見える。なるほど「咳をしても一人」の尾崎放哉や、「うしろすがたのしぐれてゆくか」の種田山頭火がおり、今日なお多くのファンに愛誦されてはいる。しかし、こうした詩法の始祖と言うべき碧梧桐の実作は、実は放哉・山頭火よりずっと過激な「表現の永続革命」(本書の副題を借りるなら)であるのに、「赤い椿……」の一句のみを例外として他はすっかり忘れ去られている。
本書に漲っているのは、こうした現状に対する石川九楊氏の義憤である。その義憤ないし公憤の激しさとともに、もう一つ、本書を意義深い批評的達成たらしめているのは、碧梧桐の俳句を彼の個性的な書と緊密に関係づけつつ論じるという、書家の石川氏ならではのアプローチである。
『中國書史』『日本書史』『近代書史』の三部作は、引かれた線、打たれた点を身体運動のなまなましい痕跡(石川氏はそれを「筆蝕」と呼ぶ)として読み解いた驚くべき大業である。その達成を踏まえ、石川氏は、歪み、誇張、不均衡をものともしない碧梧桐の奔放な書のうちに、この不羈(ふき)の俳人の革新的な発語意識の露出のさまを透視し、かつ聴取してゆく。日本語表現における文字の決定的な役割を再認識させてくれる、スリルと刺激に満ちた批評の書だ。
いしかわきゅうよう/1945年、福井県生まれ。書家。「筆蝕」の分析・考察から書論、文明論を展開してきた。『書の終焉』『筆蝕の構造』『中國書史』『日本書史』『近代書史』など著書多数。
まつうらひさき/1954年、東京都生まれ。詩人、小説家、批評家。『名誉と恍惚』『人外』『秘苑にて』『黄昏客思』など著書多数。
Facebook俳句大学投句欄 ·辻村 麻乃 ·さん投稿記事
おにぎりは温めない派寒明忌 十八番
寒明忌といえば河東碧梧桐の忌日である。碧梧桐は1937年2月1日、63歳で他界した。
子規より野球及び俳句を教わった。子規没後に新聞欄の選者を継ぐも新傾向俳句に走る。
そんな才能溢れる碧梧桐の忌日との取り合わせのおにぎりには深いものがあろう。
お米は温めればα化して消化が良くなるが、冷たいままの方が血糖値があがりにくいという。
なので温めない派という措辞に碧梧桐の気概のようなものが見える気もする。
さりげない日常に俳人としてのあり方の見える句である。
ここを借りて最近の傾向からみなさんにアドバイスをする。何年も俳句歴のある方には周知のことだろうが、俳句は一句の中に原因結果が見えては良い句とはならない。
二句一章(今回も忌日の季語との取り合わせの句なので参考になろう)の場合は季語とつき過ぎても離れ過ぎても駄目で、ここは料理人の塩加減、まさに塩梅というところである。
一つの事柄を上五から形容していって仕上げる一句一章はまた別の技法である。
一季語一動詞一切れ字を心掛けたい。
俳句を上達したい人は、十七音しかないのに重複した表現はないのか、省略できないか、原因結果のような説明や単なる報告となっていないか先輩諸般の例句から学ぶと良い。
自身への自戒も含めて書かせて頂いた。
Facebook秋山 忠義さん投稿記事
自由律俳句の夜明け寒明忌 白兎 じゆうりつはいくのよあけかんあけき
碧梧桐忌(へきごとうき)は晩冬の季語。子季語に、寒明忌。
二月一日。俳人・随筆家・書家の河東碧梧桐(一八七三~一九三七、六十三歳)の忌日。本名秉五郎(へいごろう)。虚子と共に子規に俳句を学ぶ。子規没後、新聞「日本」の俳句欄を継承。新傾向俳句の指導者として一時期を画した。
愛媛県温泉郡千船町(現・松山市千舟町)にて松山藩士で藩校・明教館の教授であった河東坤(号・静渓)の五男として生まれる。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山淳五郎(真之)を「淳さん」と敬愛していた。
新傾向俳句から更に進んだ定型や季題にとらわれず生活感情を自由に詠い込む自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と行動を共にした。しかし、1915年(大正4年)には井泉水と意見を異にし、層雲を去っている。碧梧桐はその年の3月、俳誌『海紅』を主宰。更にこれも中塚一碧楼に譲る。
子規は、碧梧桐と虚子について「碧梧桐は冷やかなること水の如く、虚子は熱きこと火の如し、碧梧桐の人間を見るは猶無心の草木を見るが如く、虚子の草木を見るは猶有上の人間を見るが如し。」と評していた。画像出典:愛媛大学教育学部。
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