https://sekkahaiku.blogspot.com/2016/04/blog-post.html 【ハンザキ」俳句会】より
石火俳句は俳誌「ハンザキ」のホームページとして新たに立ち上げました。
「ハンザキ」は2015年9月に創刊しました。
「ハンザキ」 主宰 橋本石火 購読料 ・・・ 年間6000円
申し込み先 〒515-0844 松阪市八重田町187-3 橋本石火方 ハンザキ俳句会 宛て 見本誌の申し込みも上の住所にお願いします。
「ハンザキ」の目指すもの
・自然のありのままの姿を ・生活のありのままの姿を ・そこに少しの余情を漂わせた 自然随順の句を
8月号主宰の句 (連れ鳴き)
顔と顔つきあはす牛ひかた吹く 町医者の溺愛のこの熱帯魚
夕雲のどこか明るき祭鱧 連れ鳴きの犬に西日の迫りをり
また遊び出したる亀と夕端居 土地を売るなんぞの話濁り鮒
夏草のわけても歯朶の峠かな ひとしきり鳴いて古刹のほととぎす
紫陽花の見頃や椅子がどこにでも めつたには首を伸ばさぬ牛蛙
椅子机並べ露店の夏氷 消毒のかかる青梅とは知らず
水亭のふはりと浮いてゐるやうな どの船もへさきを岸に葭雀
(奈良吟行5句)
つくろはぬ土塀に優曇華が少し 本尊に光のとどく葭屏風
板の間の板の涼しき仏かな 金堂は結界多し雲の峰
月例の在釜の寺の団扇掛
https://www.city.shiso.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/syakaikyoiku/osirase/1501657981375.html 【宍粟のオオサンショウウオ】より
オオサンショウウオの生態
「オオサンショウウウオ」という生き物をご存知でしょうか。
ふだんの生活ではあまり目にすることはありませんが、世界最大の両生類として知られ、宍粟市内の河川にも生息している生き物です。
数千万年前からほとんど姿を変えず、「生きた化石」ともいえる原始的な生き物です。
体色は、茶色に黒い斑点が散らばるものが一般的ですが、個体によっては黄色がかったものや全身が黒いものもみられます。
目はどこにあるのか分からないほど小さく、対照に非常に大きい口が特徴です。
浅瀬を泳ぐこげ茶色のオオサンショウウオ
地域によって呼び名があり、「ハンザキ」「アンコウ」という別名がよく知られています。
「ハンザキ」の由来は、口を大きく開けた様子が体が半分に裂けたように見えるとする説、体を半分に裂いても生きていられるほど生命力があるため、とする説などがあります。
「アンコウ」もその口の大きさからくる呼び名で、深海魚のアンコウが名前の由来ともされます。
「人間の赤ちゃんの手」と言われることも多いオオサンショウウオの手。
指の数は前足が4本、後ろ足が5本と両生類特有のからだを持っています。
生命力が強く、ちぎれた指や尾は数年かけて再生することが分かっています。
手で掴んだり水中で踏ん張ったりする力はあまりありませんが、あごの力が強く、数十センチ程度の段差ならあごを使って乗り越えることもできます。
市内では70センチ前後のものが最も多く保護されますが、大きい個体では1メートルを超すこともあります。
雑食性で、川魚やサワガニ、昆虫、小型の動物など色々なものを食べます。
栄養が維持できれば生涯にわたって成長を続けることが分かっています。
寿命は80年とも100年以上とも言われていますが、はっきりとは分かっていません。
寿命が長いため、飼育する人間よりも長生きするためです。
噛みつく力が非常に強く危険視されることもありますが、基本的にはとてもおとなしい生き物で、こちらから手を出さなければ攻撃されるようなことはありません。
人間とオオサンショウウオとのつながり
歴史上その名がみられるのは古く、平安時代の医学書「本草和名」にはサンショウウオとみられる生き物「はじかみいを」の記述があります(はしかみうお=山椒魚)。
江戸時代には、ドイツ人医師シーボルトがオランダへオオサンショウウオを持ち帰ったことで、国際的にその存在が知られることとなります。
オオサンショウウオの仲間としては、中国大陸のタイリクオオサンショウウオ、北米大陸のアメリカオオサンショウウオ(ヘルベンダー)などがありますが、オオサンショウウオは日本固有種でそれらとは異なる種になります。
現在国内では岐阜・愛知県以西の本州、四国・九州の一部に生息が確認されています。昭和27年には種そのものが国の特別天然記念物に指定されました。
普段は河川の岩の隙間や水草の下などに巣穴をつくり生活していますが、夏から秋にかけて産卵のため上流へとさかのぼって移動する習性があります。
その際用水路や田んぼなどに迷い込むことで、人目に触れる機会が多くなります。
用水路などで発見された場合、担当職員が現地へ向かい一時的に保護します。
作業着を着た人がオオサンショウウオを計測している写真
体長や体重などを計測し、写真を撮影した後、個体識別のため専用の注射器でマイクロチップを埋め込みます。
埋め込んだあとは、本来の住み家である川の本流へと返します。
トローバン社製マイクロチップインプランターとリーダーの写真
トローバン社製インプランター・マイクロチップ。
リーダーで読み取ることで、個体番号が画面に表示されます。
なお、写真のものは実際に使用しているチップとは規格が異なります。
1センチ弱ほどのマイクロチップの写真
マイクロチップは直径わずか2ミリメートル、長さは1センチ弱しかありません。
例えばチップを埋め込んだ個体を数年後に保護し測定することができれば、その間にどれだけ成長したか、どれぐらいの距離を移動したのかといったデータを得ることができます。
このデータは、オオサンショウウオの普段の暮らしを知ることができる貴重な材料となります。
生態系の保護
京都の鴨川では、外来種のチュウゴクオオサンショウウオと国産のオオサンショウウオが交雑し、ハイブリッド種(交雑種)が増加する問題が発生しています。現在鴨川水系では、生息している個体の9割もが交雑あるいは外来種であるというデータもあります。
生態系は非常に微妙なバランスにより成り立っています。ある生物が減少・絶滅することは、他の動植物の増減にもつながり、ひいては環境の変化へとつながります。河川や山林の環境の変化は、人間の安全な生活にも大きな影響を及ぼすこととなります。
生態系を保護することは、現在の人間の生活環境を維持することにも大きく関わっています。オオサンショウウオはいまだに謎が多い生き物ですが、今後研究が進むことで、自然と人間のつながりについても様々な情報を提供してくれることでしょう。
https://fragie.exblog.jp/31302209/ 【「ありのまま」は簡単なようで難しい。】より
桔梗群れ風の女を老いさすよ 鍵和田秞子
昨夜はおそるおそる運転をしてどうにか家にたどりついた。
とても乗りやすい車だったけど、つくづく思うにわたしは運転のセンスがないのだ。
だから運転席に座ったとたん身体にちからが入ってしまって、がちがちになってしまう。
センスがないという意識がさらに身体をこわばらせ必要以上に緊張をしてしまうのだ。
リラックスリラックスと自分に言い聞かせて家にたどりついたのだった。笑っちゃうでしょ。
たかが、10分も運転しない距離なのに。。。
理想を言えば、高速をぶっとばしてどこにでも一人で行ける、そんな人間になりたいのだけど、だめ、おのれ自身を知るっていうことは、神の存在を知ること(旧約聖書・箴言/第1章7節164.png)のつぎに大切であると思っているyamaokaなので、もう高望みはしない。
不器用に運転をしながらせめて事故だけは起こさないことを祈りつつ、運転をする日々だ。
新刊紹介をしたい。
橋本石火句集『犬の毛布』(いぬのもうふ)。
46判ソフトカバー装帯有り 200頁 二句組
著者の橋本石火(はしもと・せっか)さんは、昭和26年(1951)三重県生まれ、現在は三重県松阪市在住、俳誌「青」「年輪」「ゆう」を経て、平成27年(2015)年俳誌「ハンザキ」を創刊主宰、現在に至る。平成19年(2007)年輪賞受賞、平成30年(2018)年輪・汝鷹賞を受賞。俳人協会幹事。本句集は、句集『はんざき』、句集『かはほり』に次ぐ第3句集となる。
句集名の「犬の毛布」は、 〈干布団犬の毛布がその横に〉に拠る。が、句集を読んでいくと、どうやら犬好きでおられるようで犬がときどき登場する。
この句集を読みはじめてより、わたしはとても楽な気持ちになっていった。少し前のブログで、太極拳の要諦でもある「身体に力をいれないこと」をさらに敷衍させて「心に力をいれないで世界をみたい」とか書いていたとおもうが、この『犬の毛布』という句集は、心に必要以上に力をいれずに詠まれた句集であると思った。
寒餅のまだやはらかき日暮かな
最初におかれた一句である。「寒餅」という固いイメージを払拭してゆるやかな時間の流れに身をおいている作者がみえてくる。日常がゆったりとしていてその日常をかまえずに受けとめている作者の姿がこの句集には一貫してあるのだ。だから読み手もその緩やかな時間に身をおくことによってギスギスした心がすこしずつ解きほぐされていくような感覚を覚える。気持ちのいい句集だ。
遅日なる硝子の中の回遊魚
鎌の刃の青くなるまで草を刈る
ふぐりまで風を通して夕端居
背の高き草に溺れて秋の蝶
秋風や紙の切符に小さき穴
これは担当のPさんが好きな句。
ふぐりまで風を通して夕端居
武装解除した作者の姿がみえてくる。というかもともと武装はしていない作者なのだ。端居となるとさらに自身を解き放つ。いい時間が流れる。また、自身の生きている場へ信頼もある。そのことも本句集をつらぬくもののひとつである。とてもさりげないのだが、今という時をこういう場で生きていることの安らかな信頼が見えて来る句集だ。そのことは大声で語られるわけでもなく、とてもささやかにさりげなく詠まれるので、読み手の心の底にもそっとふれてくるのだ。蝶々の触覚のようにそっと、である。
蜥蜴の子蟻におどろき走りをり
この一句もまたきわめてさりげない一句だ。なんとも愛らしい句。写生をしてやろうというガチガチの意識とは無縁なもっと自在なゆるやかな心が捕まえた一句。やっぱり力が抜けているなあって思う。おしつけがましくない分、余韻がのこる。好きな句である。
住職の蜜柑食べろとやかましく
この一句も好きである。作者の人間関係にありようが見えてくる一句だ。目にみえるような一句である。蜜柑がおいしい季節、親しくしている寺に立ち寄って世間話でもしていたのだろうか、蜜柑をすすめられた。食べないでいると住職が食べろ食べろとしつこく進める。そんな住職を好もしく見ている作者がいる。そんな場面をさりげなく一句にしたのである。力んでいるとこういう句はできない。自身をとりまく環境を素直にうけとめてありのままに詠む、そこで生まれる俳句だ。
食べ終へてうぐひす餅と思ひけり
この句には、えって思わず立ち止まってしまった。ほんと?って。そして笑った。わたしにはまずありえないから。鶯餅とがっちり認識して食べる。作者はなにか考え事をしていたのかしら、進められるままにぼーっとしながら、あるいは人の話に耳を傾けながらか、食べていたのである、が、食べ終えてはたと自分が食べていたものがうぐいす餅であることに気づいたのである。手についた黄な粉などを見て、かな。。。やっぱりここでも人間や状況に対して武装していない作者がみえてくる。
そういうありようが、この句集には一貫していて、それが読み手のこころに届く、ただ届くだけでなくかすかな波紋を呼び起こす、それがいいのだ。心地よい余韻というべきか。
心が疲れた時に読んでみたくなる句集であるかもしれない。
この第三句集は、「ハンザキ」創刊後の句を中心に構成しました。「ハンザキ」創刊の言葉に「自然のありのままの姿を 生活のありのままの姿を そこに少しの余情を漂わせた 自然随順の句を」と書きました。「ありのまま」は簡単なようでありますが、簡単なことは逆に難しいことでもあります。誰でも見ていて知っている事柄、何でもない事柄の中に、見過ごしていることの何と多いことか。それらの事柄を一つでも多く掬い取ることが出来ればと思っています。
「あとがき」の一部を抜粋して紹介した。
「あとがき」を読んではたと得心したのだった。
本句集の装丁は和兎さん。
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装画はやや都会的なイメージであるが、本句集の世界はきわめて牧歌的である。
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タイトルの不思議さと装画の意外性がこの句集をおもしろく見せている。
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題字は黒メタル箔。
用紙は肌理の荒い材質感のあるもの。
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表紙の用紙も面白い模様がある。
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よく見ると犬が。
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見返しも表紙と同じ用紙。
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扉。
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自然のありのままの姿を
生活のありのままの姿を
そこにすこしの余情を漂わせ
自然随順の句を
(「ハンザキ」創刊の言葉、より)
子の手より父の手ぬくし初螢
好きな一句である。あたたかな父の手のなかにいる蛍を、小さな子どものがぞき込んでいるのだろうか。その父の手にふれたこの手の冷たさ。きっと手をとおして父のぬくもりに触れたことだろう。こんな思い出をもつ子どもは幸せである。
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