俳句エッセイ「つきはひがしに」

http://www.atamatote.co.jp/enomotoryoichi/moon-east/moon-east.html 【榎本バソン了壱

ENOMOTO BASON RYOICHI 俳句エッセイ「つきはひがしに」】より

25 子規逝くや四百頁の大部の中

 最後の客が引けたのが十時過ぎ、調理場の片付けを終えてスタッフが帰ると、陳蕎麦(ひねそば)ずるるは奥のテーブル席の明りだけを残して店を暗くした。手捻りの碗に氷を入れ焼酎を目一杯注ぐと、そばに置いてあった分厚い本を脇に抱えてそろそろとテーブルに座った。ぐびっと一口飲んで碗を置くと本をパラパラとめくった。手にしている本は、関川夏央著の『子規、最後の八年』(講談社刊)である。

 新聞「日本」の記者として日清戦争に従軍し、遼東半島柳樹屯からの帰途、佐渡国丸船上で子規は喀血した。明治二十八年(一八九五)五月、「十七日 朝大なる鱶の幾尾となく船に沿ふて飛ぶを見る。此時病起れり」と記している。正岡子規二十八歳。この日から、明治三十五年(一九〇二)、「九月十九日(旧暦で八月十七日)午前十二時五十分頃、「八重(子規の母)の、「のぼさん、のぼさん」と呼びかける声に虚子は起こされた。(松山以来旧知の)鷹見夫人も唱和するその声には切迫感がある。律(子規の妹)も病間となりの四畳半から起き出してきた。時々うなっていた子規が、ふと静かになった。鷹見夫人と昔話をしていた八重が手をとってみると、冷たい。呼びかけにも反応しない。顔をやや左に向け、両手を腹にのせて熟眠しているかに見えるが、額は微温をとどめるのみであった。子規の息は、母親の眼を離した隙に絶えていた。」時に子規三十四歳と十一ヵ月、『子規、最後の八年』は、その夜までの八年間の緻密な記述である。

   病という闇に火ともす鱶の群れ

 ずるるはすでにこの本を読了していた。綿密な取材と精緻な記述、さすがノンフィクション・ノベルの雄、関川夏央渾身の傑作である。実に読み応えがあって面白い。正岡子規という人の魅力がじわじわと伝わって来る。不治の病床にありながら、絶倫の文芸活動に挑む凄まじくポジティヴな精神と、その生命力に最後まで心が踊った。しかし、読後の印象で一つだけ気になったことがあった。それでふと、もう一度目を通したくなったのである。それはずるるの高浜虚子に対するイメージが一変したことであった。

『ホトトギス』を子規から受け継ぎ、若き碧悟桐と相克を繰り返しながら、出版を成功させ、俳壇の超大派閥を作り上げる虚子。「『ホトトギス』であらずば俳人であらず」のような強固な地盤を築き、最後には文化勲章までもらった虚子に、なんとない敬遠感を抱いていた。確かに屈指の俳人たちを多く育てた。句作の平均点からいえば、子規より上かもしれない。ましてや碧梧桐の俳句など問題にならない。しかしずるるは、碧梧桐や中村不折の書や、その前衛性に限りない親近感を抱いていた。「俳句がうまいことがなんだ!」が、結局碧梧桐が俳句を止めてしまうのも、虚子に敗北したことからだろう。ただし、荻原井泉水を経て、尾崎放哉、種田山頭火の二人の自由律の俳人が碧梧桐の系から出たことは、俳史の中でどんなに貴重な事実かしれない。

 桑原武夫の『第二芸術論』にたいしても、「「第二芸術」といわれて俳人たちは憤慨してるが、自分らが始めたころは世間で俳句を芸術だと思っているものはなかった。せいぜい第二十芸術くらいのところか。十八級特進したんだから結構じゃないか」と嘯く虚子に桑原は「いよいよ不適な人物」と思ったという。まるで俳壇の天皇を気取ったような、俳句を自ら卑下して揺るぎないふてぶてしさではなかろうか。異端分子を粛正するように日野草城らを『ホトトギス』同人から除名した独裁者的な決裁にしても、その後草城の病床を訪ねて円満和解する豪腕さも、丸ビルなんかに『ホトトギス』の発行所を持っていたことも、余計な先入観だが、鎌倉の大仏さまのようなどっぷりとしたその風貌にも、違和感を感じていた。ともかく、虚子は俳壇を大膨張させた貢献と、それによる俳句のホビー的大停滞をひき起こす元凶として、ずるるは虚子が嫌いだった。もっとも、そのホビーの末端で、言葉遊びをしているにすぎない蕎麦屋の店主が、近代の大俳人に腹を立ててもしょうがない事ではあるが。それが、関川のこの本を読んで、若き日の虚子の、子規に対してもゆるぎない主張と自主性を持っていたその生き方に、「あれっ?」と思わす虚子像を目撃した思いがあった。それを確かめようと再度、ずるるはページをくくっていた。

   虚子虚像巨像に育つ明治の期

 碧梧桐と虚子の最初の確執を思わせる文章がある。「明治二十四年八月、碧梧桐は松山の中学に復学して五年生となり、二十六年九月、三高文科予科に入学した。虚子より一歳上であった碧梧桐だか、このとき虚子の下級生になった。三高正門前の下宿屋で同宿した碧梧桐は、虚子が短い期間のうちに「聖人」を脱し、大言壮語のきみのある文学書生にかわっていることに驚いた。」その四年後、明治二十八年十二月九日の午後、道灌山山頂で、ひそかに自分の後継者たらんことを望んで、学問をしたらどうかと諭す子規に、虚子は長く重たい沈黙のうち「私(あし)は学問をする気はない」と答える。「問いとも叱責ともとれる言葉への回答であった。」「子規は虚子の怠け癖、あるいは悠揚迫らなすぎる日々の態度を飽き足らずに思っていた。勃興する新文学や女性にたやすく心を揺らす虚子を不安に思っていた。」しかし、「虚子は自由人であった。同時に頑固であった。虚子は明治二十年代末の知識青年としてはめずらしく西洋的思想に強い憧れの念をもたなかった。」「虚子は、その沈黙のうちに、子規の深い失望と憔悴を読みとった。」虚子はいった。「升(のぼ)さんの好意に背くことは忍びん事であるけれども、自分の性行を曲げることは私には出来ない。つまり升さんの忠告を容れてこれを実行する勇気は私にはないのである。」「虚子はそのあと、子規に見放された心細さを感じながら上野の山をあてどなく歩いた。のみならず、病身の子規を自分の最後のひと言が絶望せしめた、という悔いが残った。しかし虚子は同時に、自分を束縛する巨大なものから解放され、五体が天地といっしょに広がったような気分を味わいもした。複雑な心境であった。」関川の名文のせいかもしれない。しかし、虚子の偽らない、媚びない、愚直な程のストレートな言動は、後の俳句の世界を束ねる駘蕩とも思える性行の一端を読んだように思えた。いずれにしてもその後子規とは瓦解し、『ホトトギス』を結局になうことになるのではあるけれど。

   親でも子でもなくそれ以上の冬の空

 明治三十一年初夏、虚子は松山の老母の病が重いので、妻子をともなって帰省すると子規にいった。その時は、萬朝報の仕事に就いていた虚子だったが、帰省を手紙で社に連絡しただけだった。「虚子はわからない、と子規は思った。素直なのに強情だ。落着いているように見えて乱暴だ。要するに、萬朝報の仕事におもしろみを見出せなかったのだな。辞めても構わぬというつもりなのだな。」そう思った。子規は近くの仕出し屋から料理をとり、虚子と晩餐をする。一本の酒を添えて自らも盃に半分だけ口にした。

 六月三十日、松山から柳原極堂が来て、いよいよ『ホトトギス』の発行が立ち行かなくなり廃刊にしたいと申し出た。子規は『ホトトギス』を東京に移転させて、虚子に受け継いでもらいたいと考えた。虚子に長い手紙を書いた。「飄亭、碧梧桐、露月等には多きを望む事出来ぬ。つまり貴兄(虚子)と小生と二人でやっていかねばならぬ。」ラブコールである。その頃虚子は長兄に三百円の借金を申し出、総合文芸誌発刊の構想を立てていた。子規からの手紙を読んで、虚子は道後温泉に行った。「それは毎夕食後の習慣であった。湯の湧き口から自分のよい分別が流れ出て来るように虚子には思われ、闘志が身の内にみなぎるのを感じた。」翌日手紙を再読して、子規に手紙を書いた。「然り。大兄と両人でやる。大兄が御病気の時は、小生独りでやる。」虚子が上京したのは、八月の下旬に入った頃であった。

   湯に沈む体よりあふるる夏闘志

 明治三十一年十月十日、東京版『ホトトギス』(第二巻一号)が出た。(第一巻は松山で出したものを総した)「虚子はできあがった雑誌を使いの者に持たせて子規宅に届けさせた。子規は、「雑誌の出来一体わるくない。」「天気はよくなる、雑誌は出来る、快々」としたため返書を使いに託した。薄くはあったが(六十四ページ)、子規の目には満足すべき出来であった。自分のグループの雑誌を持つという宿願を、ついに果たしたのである。」虚子は東京発行の『ホトトギス』を千部刷った。松山での『ホトトギス』は三百部刷っても余った。冒険だったが、自信はあった。ともかくそれくらい売れなければ、話しにならない。「印刷所から虚子の神田錦町の家に運びこまれた雑誌を、本屋がつぎつぎとりにきた。そうこうするうち二時間で千部が品切れとなった。何度目かの追加分をとりにきた本屋の小僧が、いっぱしの商売人らしい口調で、千部再版してもはけますよ、と虚子にいった。」結局、虚子は五百部を再版した。

 明治三十二年五月二十二日、虚子は急性大腸カタルで駿河台の山龍堂病院に入院した。『ホトトギス』発行の激務がたたったのだろう。月末に見舞いにきた碧梧桐が言った。「雑誌は休刊にしおるか。其れとも私等(あしら)が手伝ってよければ、手伝って出すことにしようか。」虚子はこたえた。「私は休んでもええと思うのだが、ノボさん(子規)に相談しておくれ。」虚子はむしろ休刊したかった。二、三日後、病院を再訪した碧梧桐は、「私自身でも、何だか遣って見度いような心持もするのだが、お前に異存があれば止めよう。」碧梧桐の口調は率直であった。虚子は、異存があるとはいえなかった。」出来上がった『ホトトギス』を、療養先の伊豆修善寺で見た虚子は、「碧梧桐が自分の色を存分に出している。」と思った。虚子はほどなく『ホトトギス』編集に復帰するが、子規の亡くなる明治三十五年頃は、俳書の刊行に力を入れ、雑誌実務は碧梧桐が担っている。

   碧過ぎて虚空に見えし五月空

 子規は、「九月十八日は朝から様態がおかしかった。宮本医師を、陸(くが)家の電話を借りて呼んだ。異変を知った羯南(かくなん)がやってきた。午前十時すぎ碧梧桐がきた。子規の様子を見た碧梧桐が律に、虚子を呼んだかと尋ねた。いえ、まだ、と答えた律の声に、子規が、「高浜(虚子)を呼びにおやり」と小さな声でいったので、十一時頃、碧梧桐が再び陸家の電話を借りに行った。」

 戻った碧梧桐と律の介添えで、唐紙をつけた画板に辞世の句を書く。「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」。四、五分後、「啖一斗糸瓜の水も間にあはず」、さらに四、五分後、苦しい気息を整えて逆側に、「をととひのへちまの水も取らざりき」と書くと、三たび筆を捨てた。落ちた筆の穂先が、敷布を少し染めた。この間、子規は終始無言であった。「八時前に子規は目覚め、コップ一杯の牛乳をゴム管で吸った。この朝、陸家から届けられたおも湯を、わずかに口にして以来であった。「だれだれが来ておいでるのぞな」と子規が尋ねた。「寒川(鼠骨)さんに清(きよ)さん(虚子)に静さん(碧梧桐の姉)」と律がこたえた。それが、子規の生前に発した最後の言葉となった。子規はそのあと直ちに昏睡に入った。」

 子規は深夜に逝った。「虚子は住まいの近い碧梧桐と鼠骨に知らせるべく表へ出た。(略)寝静まった街区に虚子の下駄の音が響く。十七夜の月がものすごいほどに明るい。「子規逝くや十七日の月明に」虚子の口をついて出たのは、この一句であった。」「虚子が子規庵に戻ると、月光におよばぬランプの黄色い光に照らされた三人の女性が、死者のそばに座していた。八重は虚子を見て、鷹見夫人にこういった。「のぼさんは清さんが一番好きであった。清さんには一番お世話になった」それから八重は泣き伏した。隣室の四畳半から、気丈な律の泣き声が聞こえた。彼女はひっそりとそちらに移っていたのである。」

   子規逝くや四百頁の大部の中

「うーん、清さんが一番好きであった、か。」陳蕎麦ずるるは、氷が溶けて水っぽくなった焼酎の残りを一気に呑んだ。「十七日の月明り、でもあるまいが」と、ぼそぼそ店を抜け、表に出た。夏の月が出ていたが、ぼんやりと涙でにじんでいる。

   夏の月涙の縁に遊びけり

(つづく)

季刊「銀花」第十二号「幻想の版画家谷中安規」より24 夏雲に遮られておりリリシズム

 東京バウハウハデザイン専門学校で教鞭をとる老教授下奈出三郎は、京都タワーの下にある本屋の棚の前にうずくまっていた。清瀬春夏や、綾小路さゆりの上司である。老朽化した土産売り場や、営業不振のスペースに割り込んで来た100均ショップのあるその上の三階に本屋はあった。京都関係の本が多いことと、美術書を中心とした古書も売っている。展覧会カタログなどが多い。京都で開催されたデザイン関係の学会の帰りに、立ち寄ったのだ。それにしても、東京スカイツリーの開業にわくこの時期に、何ともわびしい閑散とした光景である。寒空はだかの『東京タワーの歌』を思わず口ずさむ。

   寒空は唱う京都タワーにのぼっタワー

 古書コーナーの一角に『季刊「銀花」』が三十冊ほど列んでいる。下奈出はそこにうずくまるように座り込んだ。一九七〇年代発行のものばかりで、きっと蔵書していた人が一括放出したのだろう。あるいは『銀花』を愛読していた所有者が亡くなって家族が処分したのか。下奈出が大学を卒業して、デザイン会社に勤め出した頃の出版物である。表紙デザインは杉浦康平で、その独創性にも当時から下奈出の興味を惹いていた。何冊かを引き抜いて購入することにする。一冊525円。当時の定価で560円だが、『銀花』の価値を知るものには破格の値段である。なかでも、一九七二年発行第十二号、「幻想の版画家谷中安規」の特集を見つけて下奈出は心ときめいた。佐藤春夫や、内田百閒に可愛がられた異才の版画家で、戦後間もなく餓死している。栄養失調である。身近にいた料治熊太が安規の生き様を詳細に綴っている。以前から興味のある作家だった。宝物をかかえる舌切り雀のじい様のように階段を急ぎ足で下り、一階にあるスターバックスに飛び込んだ。

   餓死遺才幻想の画師安規の忌

 谷中安規の作品は三十四葉掲載されている。お知らせのコーナーには、遺された安規自刻の版木から復刻した作品二点を添付した特装版を頒価三千円で売っている。当時知っていたらきっと買ったのにと、悔しく思う。しばらく安規の特集に目を通してから、パラパラとページをくくると、書店では気がつかなかった萩原朔太郎の自筆生原稿、ほぼ原寸大の俳句論のページに行き当たった。十一ページに渡っている「俳句に於ける枯淡と閑寂味」、芭蕉の俳句を中心に語っている。『萩原朔太郎全集』全五巻(新潮社刊)にも未収録という貴重な原稿である。『俳句新聞』に寄稿したものだ。

   閑寂味嫌いて彷徨の詩人おり

 ─僕は昔、若い時には俳句が大嫌ひであった。その嫌ひの理由は色々あったが、主として俳句の特性である枯淡味や閑寂味が、青年の自分に理解できない為であった。ただ蕪村の俳句だけは、南国的の明るい色彩に富み、比較的に枯淡や閑寂味が少ないので、青年の自分にもよく解って愛讀した。

 近頃になってから、僕は芭蕉に深い興味を見出して来た。それは芭蕉のポエヂイの本質に、非常に純一なリリシズムを発見したからである。

 こうして始まるその俳句論は、「芭蕉の本質を貫くものは、蕪村よりも尚若々しく、純粋で情熱的なリリシズムである」とつなげる。そして朔太郎は、俳壇、歌壇の批判に論を展開する。歌壇を見ると「世の終り」を感じるし、俳人たちはそうしたことをどう見ているのか、と警鐘する。そして俳句の世界に敷衍する「老人趣味」を厳しく批判する。解りもしないで、「枯淡や、閑寂味」を振り回す老俳人たちを痛罵している。五十代になり「老人」を自らの中に自覚するようになった朔太郎が、まるでそれを忌避するように、歌人、俳人たちの「老人趣味」を許せなかったのは、自戒の念もあったのだろう。下奈出は我が身を批判されているように、さみしい思いを持った。まわりを見渡せば、初夏のスターバックスの店内は、観光客も混じって若い人たちが多く座っている。

   スタバにもカラカラと初夏アイスカヒ

 解説を書いている伊藤信吉によると、四十代後半で朔太郎は「能」に惹かれていく。友人を誘ってよく観能に出かけている。この『俳句新聞』に書いた原稿は、五十歳の時に書いた朔太郎の『芭蕉私見』の論旨とほぼ一緒だという。その少し前の四十八歳の時に『郷愁の詩人与謝蕪村』を書いているが、能にハマる時期と一致する。朔太郎の東洋回帰、日本回帰の時期である。

 伊藤信吉は、朔太郎が蕪村に惹かれたのは、「島崎藤村以来の近代詩の情操に近似している」からだと指摘する。これは、芳賀徹の蕪村論にもしばしば指摘されていることだ。朔太郎は、短歌、俳句、詩(近代詩、現代詩)を、特に分けて考えていない。詩的リリシズムの享受という点で差別をしていなかった。そのひとつが蕪村の「青春的リリシズム」への評価であり、芭蕉の「情熱的リリシズム」であったと見ることができるだろう。「詩はリリシズム」なのである。「抒情、か」下奈出は、アイスコーヒーのカップをカラカラゆらしながらつぶやいた。

   夏雲に遮られておりリリシズム

(つづく)

23 辞書を読むSM嬢の艶黒子

 デジャヴだ。月は公園の池の東側にある動物園の森の上にあった。午後五時を回ったというのに空はまだ明るい。けれども鋭い上限の月である。菜の花はここからは見ることがない。桜のつぼみが爆発しそうになっている。よく見るともう爆発がわずかに始まっている。緑色に塗られた木製のベンチのそばを通り抜けて、二人は急ぎ足で歩いていた。野鴨が三度ほど池の暗がりで水面をたたいた。

 SOVASOVAで行われる風月亭花鳥の落語会は、満席の賑わいである。陳蕎麦(ひねそば)ずるるは自慢そうに金谷ケリーと清瀬春夏を迎える。奥の席にはすでに五室剛と綾小路さゆりが、日本酒を呑みながら蕎麦の箸をすすめている。新蕎麦も一年がくればひねる。年々歳々、歳々年々何かが微妙に変化しているのだ。

   花も人も同じからずや蕎麦ひねる

   デジャヴの似ている分の違いかな

 「談志師匠が亡くなりましたからね、何かゆかりの演目でもと思いましたが、こんな時候ですから、まずはひとつにぎやかなお話でも」といいながら、花鳥は『頭山(あたまやま)』をやり出した。さくらんぼの種をのんで、頭から桜の樹が生えて来る。すると近所のものが頭に登ってきて、その樹でお花見を始めるというとんでもなくシュールな話だ。うるさくて仕方がないから頭から桜の樹を引っこ抜くと、大きな穴が空いて、そこに水が溜まり池になる。すると今度はみんなが釣りにやってくる。たまらず本人はその池に身投げしてしまう。カフカの小説よりも凄い、国芳のだまし絵を見ているような滑稽さだ。江戸という時代の野方図な想像力を堪能する。

   頭から桜噴き出す脳天気

   頭の池に身投げも出来る自由かな

 会のあと、ケリー、春夏、五室、さゆりら、数人が残った。春の山菜の天ぷらで酒。五室とさゆりはまだ続いている。ケリーと春夏も微妙な関係になっていた。微妙とは少し変なだけで、関係というのはみんな微妙なものなのかも知れない。五室とさゆりも微妙だ。決して奇妙ではない。あり得る範囲での妙。しかし妙は、人が思っているよりも、よほどいいかたちのものかも知れない。

「それにしても花鳥さん、今日の枕に出て来た『シンカイさんの定義』だけど、実に妙ですね」「そう、絶妙! ネタはね、ある作家と言ってますが、実は赤瀬川原平さんの『新解さんの謎』(文春文庫)という本でね。あれ、五室さん知らない? 二十年ほど前にちょっとしたブームになりましたが」と言いながらずるるが文庫本を持ってくる。「これこれ。実は私が花鳥さんに振ったネタでね」「そーなんですよ」と花鳥。「うちの店に、あの有名なアナウンサーのMさんが時々くるんだけどね、Mさんが、こんな本知ってるかってちょこっと、そこで読んでくれたんですよ。あの声でですよ。(と、向こうのテーブルを指さしながら、ページを読みだす)

 れんあい【恋愛】特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体したいという気持を持ちながら、それが常にかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。

 スゴイでしょ、これがある辞書に書かれている文章そのままなんだから。出来るなら合体したい、ですよ。常にかなえられないで、まれに合体出来るんですね、それで歓喜する。歓喜しないといけない」「わたしは、いつも歓喜しますよ」とさゆり。「えらいね、さゆりさんは。でもね、いつもしちゃうと、恋愛ではなくなっちゃうのかも知れない」「単なる愛の営み」「う、春夏ちゃん、大人になったね」「おかげさまで」

「合体がまたいい。

 がったい【合体】起源・由来の違うものが新しい理念の下に一体となって何かを運営すること。「公武合体」。「性交」の、この辞書でのえんきょく表現。

 新しい理念の下に一体となって運営する。たとえばセックスすることを、そんなふうに認識してする人いないよね。でも、間違ってはいない気がする。いや、そうした認識を持ってこそ、しなくてはいけないんだという気がしてきたね」「ずるるさん、そんなむずかしく考えていたら、合体出来なくなりますよ。合体はセックスすることのえんきょく表現なんだから」「でもなんか、合体の方がリアルに感じる」とさゆり。「セックスしようって言われるより、合体したいって言われた方が、ショックかも」「言う奴いるかな」 「そう、そこがシンカイさんの凄いところ。性交がまたいい。

 せいこう【性交】成熟した男女が時を置いて合体する本能的行為。

 まず成熟していなくては、性交にならない」「でもそれって、勃起出来るかどうかって」とさゆり。「なるほど、それは正しいかも」「いや、男の子は小さい頃から結構勃起しますよ」と花鳥。「自分がいつ頃から勃起し出したかなんておぼえてないなあ」とケリー。「挿入出来るかどうかはわからないけど、とんがる」「そうにゅうことですね」「おやおや」「確かに成熟が終わった老人もだめだわ」とずるる。「実感ですか」「やや。大切なのは、『時を置いて』ということなんです」「本能的な行為をするのに、成熟度を感じますね」と春夏。

「で、シンカイさんて何なんですか」と五室。「三省堂の新明解国語辞典なんですよ。それも4版目ぐらいから、凄くなり出す」「実は、赤瀬川原平さんに、『新解さんの謎』を書かせたSM嬢という人物がいるんですね。文芸春秋の社員なんだけど、この人が『新解さん』の魅力を発見するんです。中学に入学したSM嬢は、父親からこの三省堂の新明解国語辞典を贈られる。すぐに同級生の男子がその辞典を貸して欲しいというので貸すと、返されたあとにいくつかの項目のところに赤線が引かれているのに気づくんですね。【恋愛】【合体】【キス】【陰茎】【勃起】のようなHな言葉にね。それでSM嬢は、新解さんのある種の魅力、あるいは異常と行ってもいいかも知れないその表現の迷宮に落ちていくんです」

「赤瀬川さんに『新解さんの謎』を書かせたあと、自分でも『新解さんの読み方』(リトル・モア刊)という本を書きます。これが徹底して凄い。なにしろ新解さんに出会ってから二十年間、電車の中でも新解さんを読み続ける。私ね、アマゾンで古本見つけて買いましたけど、109円、送料250円。これね。ついでに『新明解国語辞典第4版』460円も入手しました。家宝です。しかし、SM嬢の本が109円というのには、ある種の胸の痛みを感じました。1090円でもいい。いや、10900円でもいいと、ほんと、思いました」「入れ込んでますねえ」「入れ込んでる。SM嬢の凄いところは、各版の新解さんを徹底して読み比べている。そして、新解さんの心の変化まで読み取ってしまった。『新解さんの読み方』には、SM嬢の顔写真まで出ていて、その艶黒子の妖艶なこと。SM嬢、本名鈴木マキコって言うんですよ」

   辞書を読むSM嬢の艶黒子

   新解さんという迷宮に入るSM嬢

「SM嬢のことはわかったけど、結局凄いのはその辞書を編集した新解さんと言うことになる」「うーん、さすがケリー君。そうなんです。累計2000万部を超えるという人気辞典で、それはまさに新解さんの力と言っていい。面白い刺激的な辞典を作ろうという情熱が爆発する。鈴木マキコさんのこの本にも終盤で出てくるけど、山田忠雄という編集主幹が『新解さん』の正体なんです。その前身の『明解国語辞典』から、金田一京助の名前が筆頭だけど、忠雄の父親の孝雄が編集に参画し、『新明解』になる頃から、『新解さん』の忠雄が登場する。その後に、忠雄の息子の明雄も、この『新明解』にかかわるという、なんと親子三代にわたる汗と涙と笑いの結晶なんだ。AKB48じゃないけど、逢いたかったー、逢いたかったー、逢いたかったー、イェイッ!」「マキコさんを通して、赤瀬川さんも山田忠雄さんに会おうとしているようだけど、新解さんは『会わない方がいいでしょう』と、一蹴したようですね」「そこは、興味本位ではない、学者なんですね」

「『新解さんの読み方』の最後、340ページに山田忠雄さんの新聞に載った死亡記事が切り抜かれて、SM嬢のノートに大事に貼ってある写真が出ている。これね! 小さくてね、凄く読みにくいのだけど、よーく読むとこう書いてある。一九九六年の二月の記事です。

 山田忠雄氏(やまだ・ただお=元日本大学教授・辞書史研究)6日午後9時23分、心不全のため、東京都武蔵野市の病院で死去、79歳。葬儀、告別式は10日正午から武蔵野市八幡町1の1の2の延命寺で。喪主は長男明雄(あきお)氏。自宅は武蔵野市吉祥寺東町3の27の9。三省堂『新明解国語辞典』の編集主幹を務めた」

 陳蕎麦ずるるは、本から顔を離すと、虚空を仰ぐようにぽつりと言った。 「何かの因縁ですかね。この延命寺って、うちの菩提寺なのよ」

(つづく)

22 掌に小さく尖る世界土産

 南フランスで、コマーシャルフィルムのフェスティバルがあった。金谷ケリーがかかわったコマーシャルがノミネートされて、フェスティバルに出向いたが、残念ながら入賞は逃してしまった。その帰りひとりパリによって二日ほど過ごすことにした。久し振りのパリ、それにしてもノエルも、ヌーヴェルアンも終わったソルドの街は、ただ寒いだけだ。大きなブランドの紙袋を抱えて歩くアジア人女性は、今では日本人とは限らない。中国人だったり、韓国人だったりするから、やたらに声もかけられない。

 人に土地の記憶というのもがあるとすれば、ケリーにとってパリは、実際に住んで蓄積した記憶ではないけれど、書籍や、画集や、展覧会、映画で経験したフランスの、それもパリの思い出が色濃く形成されていた。植草甚一が一度もニューヨークに行かずして、ニューヨークの隅々までを知っていたというエピソードに似ている。その後実際に植草がニューヨークに行くとその通りだったという後日談もあるほどだ。

 アンドレ・ブルトンの『ナジャ』を読んで、ナジャが出没したストラスブール通りの「まったくなんの役にもたたない」サン・ドニ門とか、ブルトンが好んで集めたアフリカの木彫の仮面や、小さな人間像とか、モンパルナスの女神としてアーティストたちに愛され、モデルをしたり、自らもドローイングをして人気を博したキキ(本名はアリス・プランという)。彼女は、マン・レイと「火山のような恋」をして、六年間を同棲し、キスリングとも熱愛した。その彼らが愛したモンパルナスのレストラン、ラ・クーポールは、二十世紀初頭のアーティストたちのポートレートや、アートが空間を仕切っている。『ミラボー橋』が大ヒットするアポリネールは、マリー・ローランサンとの恋に破れ、第一次大戦に従軍して頭を負傷する。ブラックもだった。しかもアポリネールはスペイン風邪でころりと死んだ。  ディアギレフ率いるバレエ・リュス(ロシアバレエ団)には、ピカソも、ミロも、デ・キリコも、ブラックも、パクストも、コクトーもかかわった。明治の豪商木綿問屋の三代目バロン・サツマ(薩摩次郎八)も、バレエ・リュスを追っかけた。当時日本からパリに渡った画家たちは、四百人ともいわれるが、その多くを薩摩は支援している。百年も前、日露戦争(1904—05)があり、第一次大戦(1914—18)が始まり、ロシア革命(1917)が起こる。そんななかで、なんでこんなに芸術が花咲いたのだろうか。貧困と迫害の流民たちのエネルギーが、こんなにまでにポジティヴに世界を表現した。さまざまなスタイルのアートを生み出した。

 しかしアートの記憶は今やすべて、文化ではなく観光になり始めている。ケリー自身、パリを歩けば文化に触れるのではなく、観光地をさまよっている気持ちになってしまう。昔の記憶をたぐればそこがカルチャーから遠ざかる。ルーブル美術館も、ガルニエ宮(オペラ座)も、エッフェル塔も記憶の収蔵庫でしかない。そのエッフェル塔の脇、ブランリ河岸に出来たケ・ブランリ美術館を覗いた。透明なガラスの巨大な壁沿いに歩くと、ランドスケープ・デザイナーのジル・クレモンの仕掛けるブッシュが待ち構える。そこをくぐり抜けるうち、巨大な赤い船腹を見せるノアのような建屋が見えてくる。奇才ジャン・ヌーヴェルの傑作である。ケリーは思わず「おーっ!」と、声を上げてしまった。

 オセアニア、アジア、アフリカ、アメリカの原始民族芸術の宝庫だ。ジャック・シラク大統領(当時)の肝煎りの構想だったこの美術館も、賛否両論が渦巻き大騒ぎの結果の開館だった。しかしこうして見ると、フランスの民族学に対する好奇心と研究心は、法外なものである。ブルトンが生きていたら、さぞかし驚嘆したのではないだろうか。コレクションのほんの一部だという展示数も、展示デザインも群を抜いて魅力がある。ケリーはそこが観光の名所とされていたとしても、充分に満足するものがあった。

 ボザールの横を抜けて、ギャラリーや古書店を覗き、サンジェルマン・デ・プレに向かう途中で日暮れて、まだ時間は早かったが小さなビストロに入った。ワインを選び、二、三品の料理を頼んで小さな道の閑散とした風情をぼんやりと眺めていた。ふと、「たまには飲まない?金曜日とか」「いいよどのへんで」去年の夏の会話が聞こえてきた。「人生相談は苦手だよ」「相談はしない。勝手に告りたくなって」「それは、彼を愛しているからだね」「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない」「じゃあもう、コメントの必要もない」「私のうちでもう一杯飲まない?」「いいよ」タクシーの中で握りしめてくる清瀬春夏の暖かい掌を思い出していた。その夜の春夏との、深くて静かな愛の時間を思い出していた。同級生という関係が二人を遠ざけていたが、その夜の春夏の肉体に成熟した女性の力を感じた。「美しいな」と思った。けれどもそれから、春夏からは連絡がなくなった。「そうか、オレから連絡すべきだったのか」。エッフェル塔の下で買った小さなエッフェル塔をケリーはバッグから出して掌にのせ、それからテーブルの上に置き、包装紙の裏に一句メモした。何となく買ったエッフェル塔だったが、そうだ、これは春夏にあげよう。東京に帰ったら手渡そう。「エッフェル塔だぜ、土産が!」ケリーはビストロの隅でひとり声を出して笑った。

  エッフェル塔 La tour Eiffel

 掌に小さく尖る世界土産

  Le souvenir mondial s'eleve mignonnement dans la paume

  ブルトン Andre Breton

 超現実的ナジャに繋がる通底器

  Vases communicants attaches a Nadja, surrealiste

  マン・レイ Man Ray

 キキの背のfの字型のヴァイオリン

  Un violon avec la lettre f au dos de Kiki

  コクトオ Jean Cocteau

 阿片吸引人體組織デッサン画帖

  Opium, et corps sur son carnet

  アポリネール Guillaume Apollinaire

 頭蓋骨割れて詩溢るゝミラボー橋

  Le Pont Mirabeau, le poeme deborde du crane casse

  デュシャン Marcel Duchamp

 便器車輪既製品(レディメイド)の反芸術

  Le ready-made, la fontaine et la roue de bicyclette, est anti-art

  ルーヴル美術館 Musee du Louvre

 遺跡より生え出すガラスのピラミッド

  La pyramide en verre sortie des vestiges

  オペラ座 Palais Garnier

 怪人もエトワールも拍手食らいて生き

  Le fantome et les etoiles vivent d'applaudissements

  パスティス pastis

 菜の色の肉桂(ニッキ)の香呑み人を待つ

  Attendre quelqu'une en buvant l'arome d'anis colore fleur de colza

  アン・ドゥミ un demi

 泡立ちて心ざわめく逢魔ケ刻

  Au crepuscule quand une bulle augumente et mon coeur est agite

  エスカルゴ escargot

 野の星のマイマイツブロ銀河系

  Galaxie, les etoiles telles qu'un escargot dans les champs

  オ・ピエ・ド・コション Au Pied de Cochon

 豚の足で牡蠣の山崩す檸檬汁

  Casser la montagne d'huitres au pied de cochon et le jus de citron

 仏訳=ひるたえみ

(つづく)

21 君がためか今冬極めて寒いノダ

Photo by Emi Hiruta 大雨がおさまると、いきなり寒気がやってきて、町の樹々が紅葉し始めた。清瀬春夏はダウンコートを出した。朝が寒かった。夜はなお寒く、部屋がガランとしているように感じた。ノダ君が来なくなったからだ。

「ノダ君の気持ちはとっても嬉しいけど、きっとうまくいかなくなるよ」「どうしてそう決めるのさ」「私がもっと年を取ったら、ノダ君、私のこと嫌いになる」「勝手に決めないでよ。それはオレの気持ちだよ。オレが決めることでしょ」「きっとそう決めると思う」「そう決めないよ、絶対」二人は口論して、それから、セックスした。うとうとしてまたセックスして、口論になって、朝、ノダ君がうなだれるように部屋を出て行くのを、春夏は見送った。

 それから、ずっと部屋が寒くなった。エアコンを28度にしても、春夏は暖かくならなかった。「でもさ、これはきっと、私から望んだことだから、これには耐えないといけないんだ」目の前の幸せを保持して生きていくという勇気がなかった。決断出来なかった。悲観的になることが、自分にとってマイナスであることはわかっていたが、決めないで続けるより、決めて終わることを望んだ。「だからって、これからの私に何があるのだろう。何も起こらないということはないとしても、いいことが起こる可能性は減る」後悔もあった。ノダ君に申し訳ない気持ちもあった。ノダ君はばったり来なくなった。

 春夏は夜一人、厳しい冬の句を探して俳句の本をめくっていた。

   病雁の夜寒に落ちて旅寝かな    松尾芭蕉

   老いが恋忘れんとすれば時雨かな  与謝蕪村

   ひいき目に見てさえ寒し影法師   小林一茶

   冬灯死は容顔に遠からず      飯田蛇笏

   冬蜂の死にどころなく歩きけり   村上鬼城

   鉄鉢の中へも霰          種田山頭火

   咳をしても一人          尾崎放哉

   流氷や宗谷の門波荒れやまず    山口誓子

   毟りたる一羽の羽毛寒月下     橋本多佳子

   あはれ子の夜寒の床の引けば寄る  中村汀女

   鯛の骨たたみにひらふ夜寒かな   室生犀星

   木がらしや目刺にのこる海のいろ  芥川龍之介

   鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる   加藤楸邨

   雪はしづかにゆたかにはやし屍室  石田波郷

   水枕ガバリと寒い海がある     西東三鬼

   遺されて母が雪踏む雪明かり    飯田龍太

   冬の葬列吸殻なおも燃えんとす   寺山修司

 ずらり書き並べてみて、ホットワインで体を温めながら、あらためて春夏は膝を抱えて読み返しだした。

「俳句って、のほほんとしているのが目立つけど、厳しい俳句、結構あるね。芭蕉、そうだよなあ、病気の雁だったら、夜の寒さに耐えかねて落ちて死んでしまうかもね。蕪村、年とって人を恋したりしちゃいけないんだよね。でも、年寄りだって、恋をする。とりわけさみしい時雨ね。一茶、ふむ、部屋の行灯に揺れる自分の影法師、ひいき目に見なくったってさえなかったんだろうな。蛇笏、これも部屋の明りか。死者はまだほんのり赤く見えるけど、じきに死者の顔になるだろうって句なのかしら。鬼城、だいたい蜂が冬まで生きているってのが間違いだよな。でも、死にきれないっていうのもつらいね。山頭火、鉄鉢に霰がコツコツ当たってる感じ。手が凍えて、脚の指も凍えて、もうヤバいって状態。放哉、コホンて音が、自分しか聞こえない孤絶。誓子、宗谷はだめな船で『南極大陸』のドラマつまらなかったけど、流氷のオホーツク海は寒いよなあ。多佳子、鳥の毛毟ったら、寒くなくっても鳥肌でしょ。多佳子らしい激しさだなあ。汀女、この人、子供の句がいいね。部屋は寒いけど、母子の関係が暖かいね。犀星、鯛の骨って、鯛のかたちしているあの辺の骨かな。畳が冷えきってるんだよね、きっと。龍之介、干物にされてもなお、海の色を眼球にとどめてるなんて、龍之介の執着を読むようだね、木枯らしの音も効いているよね。秋邨、顎に鈎引っ掛けられて、吊るされて、そのまんまぶった切られるんだから、処刑だね。その後は、煮えたぎる鍋にぶち込まれて、ハフーハフー食われてしまう。波郷、病室から雪の向こうに見える霊安室を見ている。また誰かが死んだ。次は自分かしらって、思ってるのかな。三鬼、水枕が必要なんだから、熱があるんだよね。それにしても、ガバリって音感から、冬の寒々とした海を連想するなんて、さすがね。龍太、蛇笏が死んで、夜に雪道を帰ってきたのかな。雪明かりだけを頼りにサクサクトボトボサクサクトボトボ。龍太の後ろを歩いている母親の気配。修司、これも葬式か、冬の葬式はそれだけで厳しいかも知れない。死者はすっかり死んでしまっているのに、吸殻がまだくすぶって燃えようとしている。まるで生に執着する自分みたいに。でも、死ぬんだったら、やっぱり冬かな。悲しいものね、寒いだけでもう充分に」

 春夏は、ホットワインをもう一杯つくって、ふうふうしながら呑んだ。

「ノダ君、君は私のこと、きっと憎んでるよね。でも、私はノダ君のこと、まだ好きだよ。私のこと、憎んでてもいいから、思い出してね。まだ、君に忘れられるのが辛いの。それにさ、テレビに野田どじょう首相が出るたんびに、ノダ君のこと思い出しちゃうんだ。困ったもんだね。でも、春になったら、もう、忘れてもいいよ。今ね、必死に激寒の俳句書こうとしてるの。不幸な私をきちんと書こうと思ってね。でも、私には激寒の俳句なんて書けないよ。ほんとは不幸じゃないのかも知れないね。なんか、バカみたいな句しか浮かばないから。でも書いとく」

   君がためか今冬極めて寒いノダ

(以下略)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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