榎本了壱さん

https://www.tokyo-np.co.jp/article/130235 【奇想のおとぎ話 『幻燈(げんとう)記 ソコ湖黒塚洋菓子店』 クリエイティブ・ディレクター 榎本了壱さん(74)】より 

 年少の時から、絵を描いたり童話や詩を書いたりしていた。結局将来を考えた時に、二科展に入選していたこともあって、美術大学でデザインを学ぶことを選んだ。それでほぼ自分の人生が決まったかというと、そうでもない。高校生で同人誌の謄写版ガリ切り編集、大学在学中から粟津潔や寺山修司の編集デザインの手伝い。二十七歳で萩原朔美(さくみ)と『月刊ビックリハウス』を創刊した。

 それから出版編集、アートコンペティション、文化イベントや博覧会のプロデュース、あるいは大学教授など、無節操にも無茶(むちゃ)ぶりな仕事をしてきた。そして気がつけば、文芸も、アートも、イベントもすっかり裏方の黒子になっていた。もちろんデザインの仕事は続けていたけれど。

 しかし心の奥底で「自分はクリエイターになろうとしていたのではないか」という煩悶(はんもん)があった。プロデューサーやディレクターも、立派なクリエイターではあるけれど、これは明らかに自分に向かった仕事ではない。社会や組織と対応するワークである。成功すれば反応も大きいし、それなりの報酬も手に入れることも出来(でき)た。しかしこうした経験は、人をいい気にこそすれ、自分の中心が空洞化してしまうような、空虚さも感じていた。

 一つのきっかけは「書」を始めたことだ。二〇一三年から澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を全文書写した。

 澁澤龍子夫人にお見せして、それから大きな絵も描き出した。ギンザ・グラフィック・ギャラリーで個展をしたら、なんと横尾忠則さんに絵を褒められた。

 やっぱり自分と向かい合わなくてはいけない。俳句の同人誌『かいぶつ句集』に書いていた掌編は、すでに二冊の本になっていた。三冊目が『幻燈記 ソコ湖黒塚洋菓子店』である。

 今私は文芸の世界の熱心な読者ではない。そこには日常の繊細な記述が満載ではあるけれど、私はそういうものに強い興味がない。文芸の本道など分からないが、曖昧で不確定な想念のようなものにひかれている。あるいはこうした欲求は今や時代遅れなのかもしれないが、寓意(ぐうい)で織りなす自分のためのおとぎ話、私自身を満たすための奇想、異界、迷宮の想像世界に潜入することに、熱中している。 =寄稿

 

https://bijutsutecho.com/magazine/review/1762 【冥途の境界を航海する。椹木野衣が見た、「榎本了壱コーカイ記」】より

クリエイティブ・ディレクターとして、アート、雑誌、演劇などさまざまなジャンルを横断的にプロデュースしてきた榎本了壱。3年かけて制作した澁澤龍彦の小説『高丘親王航海記』をもとにした書写、絵巻、図絵の展示を中心に、榎本がこれまでに手がけた作品群を一堂に公開した本展を、椹木野衣がレビューする。

文=椹木野衣

榎本了壱《高丘親王航海記 繪卷》(2015-16、部分)。澁澤龍彦の遺作『高丘親王航海記』(1987)から着想を得て制作された、10メートルに及ぶ大作 撮影=三木麻奈

椹木野衣 月評第102回 コーカイ先に立たず ギンザ・グラフィック・ギャラリー第356回企画展「榎本了壱コーカイ記」

 榎本さんは、1980年代以降の「読売アンデパンダン」と呼んで過言でない「日本グラフィック」から「アーバナート」展の仕掛け人。渋谷を舞台に現在につながる新しいアートの芽生えと発表の機会を誰よりも早く、かつ大規模に支えた。私が知り合ったのはその頃のことだったから、榎本さんといえばプロデューサーというイメージだった。しかし本展を見てはっきりした。榎本さんはもともと作家であった。作家がたまたまプロデューサーをしていたのであって、逆ではない。そうでなければ、あんな大胆な企てができるはずもなかった。

 けれども、榎本さんがそんな自分の性質を長く押し殺し、裏方に徹していたのも事実だろう。だが、いまやその堰は切られた。きっかけがなんであったかは知らない。いずれにしても、榎本さんは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』を3年越しで大判の紙84枚に書き写すという、よく意味のわからないことを始めた。随所に挿絵も添えられている。これはなんだろう。きっと、本人もよくわからずにいたと思う。たぶん、そうせずにはいられなくなったのだ。

榎本了壱 高丘親王航海記 圖繪「蘭房」 2016 紙に墨、日本画絵具 85×105cm 撮影=三木麻奈

榎本了壱 高丘親王航海記 書写 2012-15 紙に墨、アクリル絵具 70×135cm

 それだけではない。次に榎本さんは、同じ物語をもとに幅が10メートルにもおよぶ巨大な絵を描き始めた。さらには、絵と書写をつなぐような素描も完成させた。と言っても相当な大きさだ。ますますもってわけがわからない。

 こんなことをして、ただで済むはずがない。案の定というべきか、昨年の2月に自宅の階段を踏み外し、意識不明となる。幸い、すぐに回復したものの、しばらくは脳内出血の後遺症で世界が二重に見えたという。ある審査会では、別のゲストがなぜだか三島由紀夫に見えたというから、実は相当に重症だったのだと思う。

 しかし、今こうしてこれらを一堂に目の当たりにすると、私には、榎本さんが死の扉を開けかけたあの転落を、どこかで予感していたようにしか思えない。いや、予感と書いたけれども、率直な印象としては、準備のほうが近いかもしれない。肝心なのは死の準備、ではなく、死にかける準備ということだ。だって、死んでしまったらこの個展はたぶん開かれていない。死にかけたからこそ、こんな境界線上の展示が実現した。これはいったい書なのか絵なのか。書写なのか創作なのか。死の世界なのか生者の世界なのか。すべてが「二重に見える」し、死者だって蘇って見える。そこには澁澤はもちろん、きっと三島もいる。

地下の展示風景。榎本がこれまでに手がけた膨大な数の作品が並ぶ 撮影=藤塚光政

 地下の展示がまたすごい。地中から滲み出た冥土の世界が銀座の繁華街と混じり合ったのが一階だとしたら、本人がこれまで描いてきた、仕掛けてきた、世に出してきた数十年にわたるあれやこれやが、なんだかマグマのようにフツフツと煮えたぎっている。その多くは広告や雑誌など社会性のある仕事のはずなのに、なぜかそう見えない。しばらく見ないうちに世界が変わってしまったのだろうか。それとも、もともと広告や雑誌のほうがそういうものだったのか。

 きっとそうなのだと思う。広告や雑誌はたぶん見世物から発している。楽しくなければ意味がない。そんな浮き立つ気分で会場から出たら、うっかり車に轢かれそうになった。まったく危険な作品群である。

PROFILE

さわらぎ・のい 美術批評家。1962年生まれ。近著に『後美術論』(美術出版社)、会田誠との共著『戦争画とニッポン』(講談社)、『アウトサイダー・アート入門』(幻冬舎新書)など。8月に刊行された『日本美術全集19 拡張する戦後美術』(小学館)では責任編集を務めた。『後美術論』で第25回吉田秀和賞を受賞。

(『美術手帖』2017年2月号「REVIEWS 01」より)



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