龗神社 義経北行伝説

https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E9%BE%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%E7%BE%A9%E7%B5%8C%E5%8C%97%E8%A1%8C%E4%BC%9D%E8%AA%AC 【龗神社 義経北行伝説】より

法霊山龗神社は、源義経は平泉で死なずに北へ逃亡したという、所謂「義経北行伝説」の舞台でもある。

義経の北の方(正室)である久我大臣の姫は、義経北行の際に同行しており[3]、その北の方が亡くなって葬られたのが龗神社だと言われている。その北の方が使っていたという手鏡が現在も所蔵されている。

また、医師が老人の先祖の話を書き取ったとされる『類家稲荷大明神縁起』という古文書が所蔵されており(現在は八戸市立図書館が保存・管理)、平泉を脱出した義経一行が八戸に到着し、滞在した経緯が記されている。

(略)

享保6年(1721年)に行われた長者山虚空蔵堂(新羅神社)への神輿渡御に始まる。その後明治17年(1884年)から新羅神社との2社祭礼となり、その5年後に神明宮が加わり、現在の形となった。平成16年(2004年)に国の重要無形民俗文化財に指定されている。

法霊神楽祭

5月第2土曜日とその翌日曜日に法霊神楽(ほうりょうかぐら)を奉納する祭。法霊神楽は山伏の奉納した神楽に起源を持つが、現行のものは戦後に地元の青年が旧八戸藩領であった九戸郡から八戸市内にかけて伝わっていた江刺家手という舞い方と太鼓の打ち方を伝習したもの。演目は権現舞(ごんげんまい)や山の神、曲芸風の杵舞(きねまい)や剣舞(つるぎまい)等があり、また、八戸地方での伝承のない早池峰神楽(岩手県)の演目である八幡舞(はちまんまい)が演じられるのは特徴とされる。獅子頭をかぶった数人の舞い手が「一斉歯打ち(いっせいはうち)」という一斉に獅子頭の歯を打ち鳴らす権現舞が中心演目で、杵舞では舞い手が杵を回したり立てて乗ったりする。鳥舞では雌雄の鶏形の烏帽子をかぶった2人が扇と錫杖で悪霊を鎮める所作をする。なお、法霊神楽は神楽祭の他にも小正月(1月15日)に春祈祷(はるきとう)と称して舞われ、八戸三社大祭でも龗神社の神輿に供奉して一斉歯打ちを演じたりする[4][5]。

神職家にのみ伝わる法霊明神の由緒

龗神社歴代の神職は、曾我兄弟の仇討ちで討ち取られた工藤祐経の縁者にあたる工藤祐道末裔の坂本氏で、昭和期には龗神社の他、長者山新羅神社や三八城神社、櫛引八幡宮などの宮司を兼務していたこともある。

2020年元日現在の宮司で31代目になり、その始まりは平安後期頃からであると言われている。また、坂本家7代目の法霊は法霊明神として龗神社の主祭神の一柱に数えられているが、現神職社家の先祖になるため、代々一家系にて先祖の神を祀っているという事になる[6]。

この神職家には、一般に伝わる法霊の由緒とは全く異なる由緒が口伝で伝わっている。

一般的に伝わり、書籍などにも掲載されている法霊明神の由緒としては、八戸の民に乞われて雨乞祈祷を執り行い、それでも雨が降らなかったため自ら身投げをして雨を降らせ、その感謝を込めて法霊の御霊を法霊明神として祀ったとある。しかし神職家に真実の由緒として伝わっているのは、法霊の怨霊神としての歴史となっている。

法霊は、修験道の修行の旅の終着点として八戸の地を選び、定住して家族を持ち神仏の道をもって地域に根差していたそうである。ある時日照りに悩む八戸の民より雨乞祈祷を願われ、3日間に渡る祈願を行ったにも関わらずその功を得ず降雨は叶わなかった。八戸の人々はひどく落胆し法霊を責め、挙句には殺害してその身柄を沼に投げ捨てたところ、とたんに激しい雷雨に見舞われたため、これを法霊の祟りと心から恐れた八戸の民は、怨霊鎮めのために法霊明神として三崎社に祀り、その子孫によって怨霊を封じるために神職としたそうである。それが現在でも法霊の子孫が神職につく理由となっているそうで、この理由から、龗神社では他家からの神職を一切入れることをしないとされている。

このような経緯から、その後も八戸の民は強い罪悪感や後ろめたさを抱え、法霊明神を八戸にとっての特別な神と崇め祀る事でその怨念から逃れようとしていたものが、時代とともに変遷して八戸の総鎮守神とされ篤い崇敬を集める事になってきたとされている。

この由緒は一般には公開されていないが、龗神社神職の名刺裏に非公開口伝の御由緒として記載されており、名刺交換をした人のみが知り得るものとなっている(2020年6月9日名刺交換により確認)。


https://yamagata.chokuso-keikaku.jp/s0018/0018-001/ 【源義経の伝説から生まれたジンギスカン】より抜粋

「義経焼」の由来は、平安時代の武将・源義経

「義経焼」は、1960年に、なみかた羊肉店の初代が開発したジンギスカン用の肉。ところで、ネーミングが気になりますよね?三代目の進之介さんに聞いてみたところ、平安時代の武将・源義経に由来するそうです。歴史上、奥州・平泉で自害したことになっている義経。しかし、「実は生き延びて、米沢を経由し、モンゴルのチンギスハンになったのではないか?」とも言い伝えられてきました。その伝説にちなみ、「ジンギスカンとは一線を隠す新しい商品を作りたい!」という、初代の思いが込められています。


Facebook長堀 優さん投稿記事

「義経公と大アジア圏構想」

 今年の十月、東北大学名誉教授の田中英道先生の新刊「義経はやはりチンギス・ハーンだった」出版記念講演会に参加したときのことです。

 懇親会でご一緒した岩手県ご在住の研究家によれば、大谷翔平選手のお父さんは、本当は彼の名を「義経」にしようと考えていたそうです。

 しかし、それではあまりにも、ということで思い直し、翔平にしたそうですが、「翔」は、義経の八艘飛びから、そして「平」には、平泉への思いが込められていると言います。

 それだけではありません。驚いたことに、エンゼルスのホームランセレモニーで使われていたあの兜はなんと、義経タイプに近いのです。

 https://www.touken-hiroba.jp/blog/otani-kabuto/

 写真に示しますが、実際に、白旗神社に鎮座する義経公像の兜も、まさに大谷選手のものと瓜二つです。

 この兜を注文したのは水原一平通訳です。大谷選手と一緒にドジャースと十年契約を結んだ一平さんですが、じつは大谷選手と義経の秘密をご存知なのかもしれません。

 今日大谷選手のドジャース入団会見が行われましたが、あの兜をぜひ新天地でも使ってほしいものです。

 ところで、にわかには信じがたい話ではありますが、先の研究家によれば、大谷選手とお父さんとの間では、巨額の契約金の一部を使い、平泉の黄金都市を再建する計画が共有されているといいます。

 もし本当なら、なんとも夢と浪漫に溢れた話です。今回の交渉で、「僕にはお金なんて必要じゃない」と言い切ったという大谷選手なら、本当に実現してくれるかもしれません。

 ご存知のように、大谷選手の申し出もあり、巨額の契約金のほとんどが十年後に払われることになったそうですが、チームの補強に有利となるというもっともな理由の他に、ひょっとしたらなにか思惑があるのでは、と余計な勘繰りをしてしまいます。

 さて、今日は、源氏ゆかりの鎌倉・由比ヶ浜にある「でくのぼう出版」に向かい、来春出版予定の新刊について、ゲラ刷り前の最後の細かい打ち合わせをしてきました。

 今回の内容を大雑把に申し上げると、

 ◎超太古の巨石信仰文明(ムー・ディルムン・シュメール・彦島)、

 ◎古史古伝と遺跡や土偶が伝える縄文文明、

 ◎義経は北へ、そして大陸へ

 ◎東大助教授・福来友吉博士による「千里眼実験」と千島喜久男博士による「千島学説」、

 ◎先の大戦における海軍と陸軍、戦後の下山事件、帝銀事件からJAL123、911 、

 ◎567を超え、地球は宇宙維新へ、

 と、ムーの記憶を残す超太古の時代から、未来へと向かうこの国の歴史を一挙に駆け抜けます🏃

 年代的には飛び飛びながら、実はかなりの分量があり(前の2倍弱)、ここに至るまでも涙を飲んで削った項がいくつもありました。

 それでも、「義経チンギスハン伝説」と「千島学説」は、こちらの希望をほぼそのまま通していただけました。

 ことに、「義経チンギスハン伝説」は、私の大切なメンターのお一人で、「でくのぼう出版」の創業者でもある山波言太郎先生が生涯調べ続け、私も長い間じっくりと取り組んできたテーマです。

 ・そもそもチンギスハンと義経の年代は合うのか、

 ・なぜ、言葉の通じないはずの大陸で活躍できたのか、

 ・小男とされる義経がなぜ容貌魁偉のチンギスハンたりうるのか、

 ・なぜ孫のフビライは日本に攻めてきたのか、

 などの数々の素朴な疑問についても、多くの資料をもとに、一つ一つ論証を重ねたつもりです。

 しかし、私の中では、義経チンギスハン伝説のクライマックスは、彼がどこで亡くなり、最後に何を目指したのか、でした。

 その場面を一気に書き終えた時、"なんとしても日本に帰りたい"という義経チンギスハンの最期の慟哭が胸に迫ってきました。

 そして、おそらくはあと一歩のところで帰国できたであろう彼の悔しさや悲しみが心の中にわき上がってきて、私はこみ上げてくるものを抑えることができませんでした。

 もし、彼が日本に帰り着き、その正体が日本の人々に伝わったら、ユーラシア大陸に、アジア人が、アジア人の感性で治める「大アジア圏」が出現していた可能性があるのです。

 その時、余命幾ばくもない藤原秀衡が、泰衡と義経に向け残したとされる決死の遺言、「大陸に渡り捲土重来を期すべし」が現実のものとなったはずです。

 もしそうなれば、おそらくアジアの姿は今とは全く違うものとなったことでしょう。白人によるその後の侵略もなかったかもしれません。

 田中英道先生が、この時期にこのテーマを真正面から取り上げられたことにも勇気をいただき、大胆に記述を進めることができました。

 ただし、内容が内容だけに、今日の打ち合わせは、細部にまでこだわり時間をかけて行われました。もう少し細かい調整や確認が残りましたが、今回の執筆は、私にとっては胸踊る充実した時間でした。

 今はちょっとしたロスにとらわれていますが、またゆっくりと次なるテーマを見つけていきましょう。

 由比ヶ浜の「でくのぼう出版」へ向かう道すがら、義経公の首級が葬られたとされる白旗神社(亀尾山)、そして腰越などゆかりの場所を訪ねました。

 今日は、雨の天気予報にもかかわらず、ほとんど傘を使うことなく参拝できました。

 腰越では霧雨をついて、彩雲が🌈かかりました。義経公に心からの感謝を捧げて参りました。この日に、義経兜を使っていた大谷選手の入団会見が行われたことも嬉しい偶然でした。

 この先、この地球は、567(ミロク)の体験を超え、太古のように宇宙との繋がりを取り戻し、宇宙維新へと向かいます。

 明治維新のように、国難が起きても争わず合一する日本人の精神性が、この先の空からの「黒船」による開星、宇宙維新でも、間違いなく必要になってくるはずです。

 日本人は特別、という物言いはしたくはありませんが、ユニークな特性を持っていることは確かです。新刊を通じ、日本人に、心からのエールを送ります。

 意識を合わせて2025年を乗り越え、日月神示が目出度けれと讃える2032年の「子の年」をご一緒に迎えましょう


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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