https://www.i-manabi.jp/system/app/webroot/PARK/PK26980007/soseki.html 【「坊っちゃん」と松山 1】より
ターナー島・坊っちやん列車
漱石は明治25年、親友子規を訪ねて一度松山を訪れたが、俳句に関心を持ち、「坊っちやん」の題材を得たのは、明治28年4月から翌29年4月熊本第五高等学校に赴任するまで、一年間松山中学の教師として過ごしたときのことである。
「ぷうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめてゐる。野蛮な所だ。尤も此の暑さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見詰めて居ても眼がくらむ。事務員に聞いて見るとおれは此処へ降りるのださうだ。見る所では大森位な漁村だ。…」と「坊っちやん」の第二章は始まるが、これは漱石が、三津浜港に着いたときの印象でもあるのだろう。その港外の松が数本生えた、形のよい小島が、後に「坊っちやん」の主人公が赤シャツに誘われて釣りをしたとき、「是からあの島をターナー島と名づけ様ぢやありませんか」と野だいこが提案し、「赤シャツはそいつは面白い、吾々は是からさう云はうと賛成した。此の吾々のうちにおれもは這入つているなら迷惑だ。」と主人公が腹を立てる四十島である。その眺めは四季を通じて美しい。
艀から降りた「坊っちやん」の主人公は汽車に乗る。「乗り込んでみるとマツチ箱の様な汽車だ。ごろごろと五分許り動いたと思つたら、もう降りなければならない。道理で切符が安いと思つた。たつた三銭であるる。三津浜にほど近い梅津寺パークには、当時の機関車と客車が大切に保存されている。松山の人々はこれを「坊っちやん列車」と親しみを込めて呼んでいる。鉄道記念物に指定されているので、訪れる鉄道ファンも多い。市民の「坊っちやん列車」への思い入れは最近とみに強く、伊予鉄道によって復元された2本の列車が、元気よくヒューという汽笛を鳴らし、市電の線路を走っている風景は、見る人に明治への郷愁を感じさせずにはおれない。
松山観光港外の「四十島」 小説では、
野だいこが「ターナー島」と名づけようと。
当時の列車が最近復元され、市内を走って
観光に一役かっている。その復元出発式
旧藩時代の講堂「明教館」旧松山中学時代から学校の
施設として現在も使用されている。県指定重要文化財。
「漱石ゆかりの松山中学校跡」の碑。松山市一番町
「わかるゝや一鳥鳴いて雲に入る」 の句が書かれている。 松山中学校
汽車から降りるとすぐに人力車で「坊っちやん」の主人公は勤め先の中学校を訪れる。漱石は松山中学で一年間英語を教えたが、「山嵐」のモデルといわれた渡部政和という人の思い出によると、漱石には「坊っちやん」のような行動はなかったといわれている。しかし、生徒はすぐに「鬼瓦」というニック・ネームを献上し「七つ夏目の鬼瓦」と数え歌で歌ったという。漱石の顔には少し痘痕が残っていたので鬼瓦にされたのである。
当時の松山中学は一番町、現在のNTT四国支社の場所にあり、大正五年現在の持田町へ移った。松山中学は、戦後松山東高校となったが、当時の建物の一部や門柱が現在も保管されている。
初めての宿直の夜、主人公は、寄宿舎の中の宿直室の布団の中へ、勢いよく倒れ込む。すると布団の中からバッタが五六十飛び出した。尻の下で踏みつぶしたのもある。早速生徒を呼び出して、「なんでバツタなんか、おれの床の中に入れた」「バツタ何ぞな」…有名なバッタ騒動の場面である。…「バツタた是だ、大きなずう体をして、バツタを知らないた、何の事だ」と云ふと…「そりや、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。「箆棒め、イナゴもバツタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもした何だ。菜飯は田楽の時より外に食ふもんじやない」とあべこべに遣り込めてやつたら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云つた。いつ迄行つてもなもしを使ふ奴だ。」…松山方言の「なもし」は終助詞で「…ですよ」の意であって、こうした松山弁と江戸弁とが対照的で絶妙なユーモアを生み出している。
https://www.i-manabi.jp/system/app/webroot/PARK/PK26980007/soseki2.html 【「坊っちゃん」と松山 2】より
道後温泉
「おれはこゝへ来てから、毎日住田の温泉へ行くことに極めて居る。ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが温泉丈は立派なものだ。」小説の「住田の温泉」は道後温泉であるのはいうまでもない。主人公は道後で団子を食っては生徒に騒がれ、温泉で赤く染まった手拭いをぶら下げて歩いては、赤手拭いと騒がれ、温泉の湯壷で泳いでは、「湯の中で泳ぐべからず」と貼り札をされる。今日でもこの木札が湯口の側に立ててある。また、三階には「坊っちやんの間」と松岡譲氏により名づけられた漱石を記念する一室もある。
昨年松山を訪れた観光客は五百万人、道後温泉の歴史は古く、神之湯の湯壷に刻まれた山部赤人の道後温泉を詠んだ長歌と短歌(万葉集巻三)が湯浴みする人々を遥かな古代へといざなってくれる。
明治27年4月10日完工 漱石着任の
1年前。現在の道後温泉(重要文化財)
漱石が旅装を解いた「きどや旅館」
小説では「山城屋」の現在
愚陀仏庵 漱石と子規が約50日間同居した。戦災で焼失し、復元された。(松山市一番町)
愚陀仏庵跡に建つ記念碑(松山市二番町)
愚陀仏庵
「坊っちやん」の主人公の下宿は、最初は、「いか銀」という骨董屋で、次は
「萩野のと云って老人夫婦ぎりで暮らして居る」家である。漱石は現在の県美
術館分館の近くにあった骨董商の家に下宿し、次に二番町の上野家の離れ座敷を借りて住んだ。これはほぼ小説と同じである。上野家の離れ座敷を漱石は、「愚陀仏庵」と名付けた。明治28年8月正岡子規は、日清戦争の従軍記者として大陸へ渡ったが、病を得て帰国、折から戦争も終結。療養かたがた帰省して、この愚陀仏庵の階下に転がり込んだ。漱石は2階を居間とし、50日
ばかり共に住んだ。子規の帰郷を知った門人たちがどっと集まり、俳句指導が行われ、2階の漱石も積極的に子規に師事し、創作の妙味を会得した。短期間であれ、こうした同居が漱石に10年後の「坊っちやん」執筆のきっかけを与え、また、「文豪夏目漱石」の出発点となったことは、漱石を語るとき見逃せない事実である。(本文は(東京法令出版)月刊国語教育1990年6月号『名作探訪「坊っちやん」と松山』(頼本富夫著)に一部加筆して転載した。)
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