​生ききる!

https://www.mitori-bunka.com/post/%E3%80%8E%E6%AD%BB%E3%81%AB%E5%AD%A6%E3%81%B3-%E7%94%9F%E3%82%92%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E3%80%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%83%BC 【​生ききる!】より

presented by いのちプロジェクト

『死に学び 生を考える』プロジェクトについてー

更新日:2021年1月16日

『死に学び 生を考える』プロジェクトとは

 人は命をいただき、それぞれの人生の歩みの中で苦難に対処する中で幸せを享受し、そして宿命として自らに必ず訪れる「命の終わり」に向き合わなければなりません。

 しかし、誰しも命の終わりを喜んで受け入れる人はいないでしょう。人は古の昔からこの問題を解決する方法として、先人の知恵に学んできた歴史があります。

 先人とは、だれもが知る歴史上の人物であったり、哲学や文学の中で語られる生き方など、人それぞれの生き方や人生観の中で様々な形で登場してきます。

 しかし、人は自分の人生の中で生きる知恵、生き終える知恵と身近なところで必ず出会っているはずです。身近なところで旅立つ人こそ一番身近な先人なのではないでしょうか。

 身近な人の死に立ち会うという事は、旅立つ人が自らの人生でつかんだ生きる知恵との出会いの機会であると思います。

 自分が命の終わりに臨むとき、看取ってくれる人へ自分がつかんだ知恵を渡すこと、この事こそが人生最後の一番大切な仕事なのかもしれません。


https://www.mitori-bunka.com/inochinosakebi 【病床六尺に学ぶホスピスケア

正岡子規の命を懸けた生きる知恵に学ぶ】


https://www.mitori-bunka.com/hazimeni 【はじめに】

 『看取りの現場で死に学び 自らの人生の生きるための糧と成し 自らの命の終え方の力とし 残された者へ知恵として繋ぐ』ことが大切なのだと思います。

​中橋 恒(プロジェクト・リーダー/松山ベテル病院 院長)はじめに

 私が医師を志した動機は、自分でいうのもおこがましい話だが、一人でも多くのがんの患者の命を救いたいと言う純粋な思いからであった。

実際に医師として社会に出て関わり始めたのは当時死亡率が第1位の肺癌の患者で、直接治療に関われる呼吸器外科であった。腕の立つ外科医を目指して日々手術に明け暮れる日々を送っていたが、思いとは裏腹に現実は厳しく治療成績は悲観的なもので、多くの患者を看取ることを常とするような状況であった。その当時は、早期発見・早期手術が患者にとっても治療者にとっても唯一の希望であり、多くの患者ががんとの闘病の末次々と亡くなってゆく現状に、ただ医術だけではどうしようもない大きな壁にぶち当たる中で出会ったのが『緩和ケア』であった。医術というスキルを超えて患者と向き合うホスピスケアの可能性に魅せられて、50歳の節目でメスを置きホスピスケア医としての道を選ぶ決断をして、現在の松山ベテル病院の門をくぐり本格的に取り組みだした始まりである。それから20年が経ち、当時の思いは冷めることなく今も現場で患者・家族の皆さんと向き合う日々を送っている。

 仕事を始めた当時は、しっかりとした系統的な教科書と言えば洋書の原著しかなく、病棟での日々の様々な症状への対応に右往左往するばかりで、症状緩和がうまくできず昼夜を問わず駆けずり回る日々を送っていた。そんな日常の中で、外科医だったころの疾患に縛られた視点から、人間としての一人の患者の生き方に寄り添うケアの在り方に、医療の原点を看るような思いで過ごせる自分に喜びを感じる日々でもあった。ちょっとした心無い前医でのスタッフの言葉に傷つき、ホスピス病棟でのスタッフの優しさに心の傷が癒されてゆく患者や家族の姿にホスピスケアの持つ力に魅了されていた。

 医療の現場では、“患者が先生であり患者に学べ”とよく言われている。しかし科学の発達はより客観的なデーターを基にした正確な治療の在り方が求められている。病気の治療が全面的に重要な局面ではデーターはとても大切な評価の指標となる。抗がん剤治療中の患者に頻回に採血検査を行うのは、抗がん剤の副作用で白血球が減少してしまう事があり、その結果肺炎を起こしてしまった場合時として致死的な結果に繋がる危険があり、頻回なデーター収集は治療を安全にかつ確実に行うためには不可欠なものである。その一方で、病気を持った人は病気だけではなく社会で生活して行くための様々な問題を抱えながら生きて行かねばならない。“患者に学ぶ”という医療の基本が、高度に専門化された治療の現場では時として忘れ去られている現状があり、緩和ケアは病気を持った“人”を看るという視点を示す医療の基本であると言える。

 人を看る視点は思うほどたやすいものではなく、多くの患者と接する中から少しずつ実感として身につけて行く時間がかかるもので、そんな中で出会ったのが正岡子規の随筆『病床六尺』であった。子規は当時死に至る病と恐れられていた結核に罹り35歳という短い生涯を閉じている。この随筆は子規が新聞「日本」に明治35年5月5日から亡くなる2日前まで連載され、死と向き合う人の嘘偽りのない心情を余すことなく表現し、病による苦痛・煩悶、果ては号泣する苦しみにもかかわらず、ふと感じる日々の生活の中での喜びや楽しみをユーモアをもって記されている。さらに、人生を賭して取り組んでいた近代俳句創出への熱い思いも書き綴られている。子規の文章は、死と隣り合わせで過ごしている人間でなければ感じることができない生きる事、死ぬこと、日々生活する事の素直な思いが余すことなく表現されているのもで、ホスピスケアを学ぶものとして終末期ケアにおける貴重な記録と言える。

 ホスピスケアという視点から『病床六尺』を読み解くことで、生きる力へのヒントであったりケアする者への寄り添う力になる事を期待している


https://www.mitori-bunka.com/inochi-no-sakebi 【​子規と結核】より

 では、『病床六尺』をひも解いてみよう。

「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広すぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へ足を延ばして体をくつろぐことも出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさはる事、たまにはなんとなく嬉しくてために病苦を忘るるやうなことがないでもない。・・・・・・・病人の感じは先ずこんなものですと前置きして・・・・」

第1回目の書き出しである。子規は明治35年9月17日に亡くなっているが、病床六尺はその年の5月5日に連載が開始となっているので、子規の人生の最後の4か月余りを記録したものとなる。書き出しの「病床六尺、これが我世界である。・・・」からイメージすると子規は畳2枚程度の空間で生活していたことになる。トイレは別としても食べる事、寝る事、人と会う事、などなど、生活のほとんどをタタミ2畳の中で過ごしていた事になる。この様な身の上になったのは子規が結核に罹ったことが始まりとなるが、まず結核から話を始める事にする。

 記録によると子規は22歳の時(明治22年5月、1889年)に喀血をきっかけに肺結核と診断されている(注1)。その当時の結核と公衆衛生事情について見てみると、肺結核は明治期の近代化の波に乗って都市部で爆発的に流行している。当時、肺結核は肺病と呼ばれていたが、明治15年(1882年)コッホによって結核菌が発見され、肺病が結核菌によって発病することが証明された。明治37年(1904年)に「肺結核予防二関スル件」の内務省令が出され、結核が喀痰により伝染するという当時の学説に基づき、公衆の集まるところには痰壷を置き、痰の消毒を行い、結核患者が居住した部屋、使用した物品は消毒するように決められている。子規は明治35年に亡くなっているので、制令に基づく感染対策の徹底が行われる以前に自宅療養をしていたことになり、一般市民に流布する知識の中で療養していたと想像される(注2)。日本における人口動態統計は明治31年に「戸籍法」が制定されその翌年から全国統計が始まっているが、子規が亡くなった明治35年頃の死亡順位は第1位は肺炎、第2位に結核、第3位が脳血管疾患となっている。子規が発病した当時の一般の人達の肺結核に対する恐れの統計的な根拠がなかったとしても、死に至る病として認識されていたことは想像に難くない。子規は本名を常規というが、明治22年に喀血しその翌年の随筆『筆まかせ』第2編 明治23年の部「雅号」に「去歳春喀血せしより子規と号する故」という記述ある。子規とはホトトギスの異称で、ホトトギスは口の中が赤く鳴いている姿があたかも血を吐いているように見える事から、自分自身の身の上をホトトギスの姿に映したものと思われる。実際に子規は喀血した時に「卯の花をめがけてきたか時鳥」、「卯の花の散るまで鳴くか子規」などの句を詠んでいる。不治の病で先行きを覚悟した子規の思いと本名との重なりで子規と雅号した子規のその後の人生が見えてくるような重みを感じる。

文献:

注1)和田茂樹 『正岡子規入門』平成5年5月 思文閣出版

注2)青木正和 『わが国の結核対策の現状と課題(1)-我が国の結核対策の歩み-』日本公衆誌 第55巻 第9号 667‐670 2008年


https://www.mitori-bunka.com/sekitui-kariesu 【脊椎カリエス】より

 『病床六尺』の第1回目の書き出しにもあるように、子規はタタミ2畳程の広さで生活のすべてを過ごしている。ほぼ寝たきりの生活であったと想像されるが、このような身の上となる病状は子規が肺結核から脊椎カリエスへと病状が進行していたことによる。ここで、脊椎カリエスについて少し詳述してみたい。

 結核は飛沫感染によって肺へ結核菌が入る事によって発症するが、局所のリンパ節を経由して血中に菌が流入し全身の臓器に広がることがある。脊椎カリエスは結核性脊椎炎のことで、結核菌が脊椎(主に胸椎、腰椎)に到達し脊椎骨の破壊、周囲へ膿瘍形成を来す病態である。抗結核剤がなかった時代は結核の病変が進むに任せるのみで、椎体の破壊や脊髄神経の障害による麻痺や痛みなどの身体機能の低下は子規の日常生活をとてつもなく不自由なものにしてしまった状況を「病床六尺、これが我が世界である・・・」と生活の広さ、いや、人生の広さを言い切る文人子規の真骨頂と言える書き出しである。さらに椎体の破壊や脊髄神経の刺激による痛みは断末魔の叫びと言えるほどの苦痛であったようで、「甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、・・・」と文章は続くのである。さらに脊椎カリエスは流中膿瘍と言われる脊椎病変部の膿が筋肉や組織の間を伝って骨盤内や背部に膿瘍を作り,挙句には皮膚を突き破り膿が流れ出し毎日の傷の処置が必要となる更なる日常生活の制限へと繋がるのである。

 流中膿瘍による皮膚の瘻孔については日々の闘病を記録した「仰臥漫録」に記述があり掲載しておく。「明治35年3月10日 月曜日 晴 日記のなき日は病勢つのりし時なり・・・ 8時半大便、後腹少し痛む 同40分 麻痺剤を服す 10時 繃帯取換にかかる 横腹の大筋つりて痛し この日始めて腹部の穴を見て驚く 穴と畏怖は小き穴と思いしにがらんどなり 心持悪くなりて泣く」。子規の苦痛、煩悶、号泣が聞こえてくるような切ない文章である。動けない、痛い、煩悶という八方塞がりの状態にもかかわらず、「それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、それさえ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つこと、癪にさはる事、たまにはなんとなく嬉しくてために病苦を忘るるやうなことがないでもない。・・・」と記述する子規の人間力には恐れ入るとしか言いようがない。子規の叫びを少しずつ紐解いてみたいと思う。

https://www.mitori-bunka.com/inochi-sakebi3 【脊椎カリエスの痛み】

 脊椎カリエスで不自由な生活を強いられる中で、とりわけ痛みは子規にとって死ぬ以上に苦しい症状であった。壮絶な子規の苦しみの叫びが第38回(6月20日)に詳述されている。

「病床に寝て、身動きのできる間は、敢て病気を辛しとも思はず、平気で寝ころんで居たが、この頃のやうに、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶を起こして、殆ど毎日気違いのやうな苦しみをする。この苦しみを受けまいと思ふて、色々に工夫して、あるいは動かぬ体を無理に動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャムシャとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。ますます絶叫する、ますます号泣する。その苦しみその痛み何とも形容することは出来ない。…もし死ぬことが出来ればそれは何よりも望むところである、しかし死ぬことも出来ねば殺してくれるものもない。…誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」。

実に痛みの酷さが生々しく伝わってくる子規の告白である。

 子規が苦しめられた痛みは、脊椎骨の破壊と脊髄神経が刺激されることによって起こる痛みで、絶え間なく押し寄せてくる慢性の痛みと体動時の激痛が入り混じったものであったと想像される。2畳ほどの狭い生活空間の中で、食事をするにも起きたり寝たりと体を動かすことは必要な事で、食べれば当然用足しも必要となって来る。体を動かすたびに腰や下肢の痛みが激痛として押し寄せたに違いない。眠りという安息の中にも寝がえり一つで激痛の苦しみに苛まれた事が容易に想像できる。

 脊椎カリエスによる想像を絶する痛みは、苦痛からの解放を願って死を望むほどのものであったことが子規の記述から切々と伝わってくる。この記述は明治35年6月20日に記されたものであるが、明治34年10月13日に記された仰臥漫録の中に痛みの極致を体現していた子規の煩悶が吐露されている。すでに8ヶ月前に痛みの極みに達していた子規がどのようにして激痛への対処をしていたのか、日々の生活をどのように過ぎしていたのか、子規が書き記していた日々の生活の様子の中に私たちが死と向き合う時の知恵として何か学ぶべきものがあるように思われ、病床六尺にそのヒントを求めて話を進めてゆく。まずは、明治34年10月13日に仰臥漫録に記された痛みの極致を体現していた子規の煩悶の吐露を紹介したい。“古白日来”の文字と一緒に小刀と千枚通しの錐の挿絵が入った記述である。

「今日も飯はうまくない 昼飯も過ぎて午後2時ごろ天気は少し直りかける 律は風呂に行くとて出てしまうた 母は黙つて枕元に坐つて居られる 余は俄に精神が変になつて来た「さあたまらんたまらん」「どーしやうどーしやう」と苦しがつて少し煩悶を始める……」

とある。子規は門下生の阪本四方太に直ぐ来てくれるように母に「キテクレネギシ」の電信を頼むのである。そして記述は進み、

「……さあ静かになった この家には余一人になつたのである 余は左向きに寝たまま前の硯箱を見ると……二寸ばかりの鈍い小刀と二寸ばかりの千枚通しの錐とはしかも筆の上にあらはれて居る さなくとも時々起らうとする自殺熱はむらむらと起こつて来た……この小刀でものど笛を切断出来ぬこともあるまい 錐で心臓に穴をあけても死ぬるに違ひないが長く苦しんでは困るから穴を三つか四つかあけたら直ぐに死ぬるであろうかと色々に考へて見るが実は恐ろしさが勝つのでそれと決心することも出来ぬ 死は恐ろしくはないのであるが 苦が恐ろしいのだ……今日もこの小刀を見たときにむらむらとして恐ろしくなつたからじつと見てゐるとともかくもこの小刀を手に持つて見ようとまで思ふた よつぽと手で取らうとしたがいやいやここだと思ふてじつとこらえた心の中は取らうと取るまいとの二つが戦つている 考えて居る内にしやくりあげて泣き出した その内は母帰つて来られた……」

古白とは子規の母方のいとこでピストル自殺をして命を落としている。挿絵の「古白日来(こはくいわくきたれ)」とは古白が自分の所へ来いと呼んでいる声であったのだろう。明治34年10月13日、子規の痛みはここに極に達している。


https://www.mitori-bunka.com/mahizai 【麻痺剤】より

 子規は明治34年10月13日の仰臥漫録に痛みの極を告白し、明治35年6月20日の病床六尺にも「……誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか」と煩悶するのであるが、その間痛み苦しみ続けた訳ではなく麻痺剤を使う事で痛みの緩和を図っている。しかし、この麻痺剤の服用がいつ頃から開始しているのかはっきりとした時期はよくわかっていない。さらに、麻痺剤の種類については一般的にモルヒネを使っていた事が知られているが、和田克司氏が2005年に俳文学第57回全国大会で「正岡子規について」というテーマで講演された記録に麻痺剤の種類と開始の時期について紹介したものがありとても参考になり貴重な記録である。和田氏の講演記録を基に子規がたどった疼痛緩和の流れを見てみることにする。

  弟子のひとりである森田義郎が短歌集「心の花」に明治35年1月14日の記録として麻痺剤について記録を残している。

「小子今まで見たうちにて一番苦痛の容体に見受け申候、尤も昨夏以来イタミの休みなく夕景に及んで抱水クロラール少量を用ゐこれにて一時間ばかりはイクラか苦痛を忘れ話の一口も仕度くならるるといふ例なるに……」

との記載があり、抱水クロラールが痛み止めとして子規の疼痛を緩和していた貴重な記録である。抱水クロラールは1832年にドイツで作られた薬で、当時は催眠剤として使われていた。現在も使用されている薬剤であるが、使用範囲は限定的で小児科領域における検査時の鎮静や催眠やけいれん発作時に座薬として用いられている。使用の時期は昨夏以来との記載から明治34年夏ごろから使用していることが窺える。さらに、

「この麻痺剤は昨年の夏の末ひどくいたまれてより常に用ゐられ、昨年末頃には服用しコツプを下に置くや否やイタミを忘れて談笑せられある時は、僕は一日の中でこの瞬間がなかったならばもー絶望だ。・・・」

と記述が続いている。抱水クロラールが痛みを和らげる効果を実感し、激痛の中で生きて行く辛さから一時でも解放された子規の安どの声が胸に響いてくる記述である。しかし、抱水クロラールは元々催眠剤として使われていたもので、痛み止めとしての効果は弱かったと想像され、痛みからくる心の苦痛が催眠作用で弱められることによって鎮痛効果が出ていたものと推察され、したがってその効果は持続的ではなかったと想像される。記述はさらに続き、

「……、この間も露月がたえず其薬をのむのはわるいといふてきたが、今となつてはいるとか悪いとかいつてをられる時ではない只瞬間でもこの苦痛を忘れさへすればいのだからなどと申されしに今や其薬も効なく二六時中只一秒時も苦を忘らるることかなはず、涙を流してウメかれ申候・・・・・」

と抱水クロラールの効果が見られない激痛に喘ぐ子規がそこに居た。文中にある露月とは石井露月の事で、文学を志し子規の指導の下にその才を磨いてゆくが、志を医師に変え故郷の秋田で開業の傍ら子規との交流も深めていた。医者の立場から露月は麻痺剤による鎮痛には反対の考えを持っていたようで、上記の様な記述が見られている。子規は苦痛の煩悶から生きる事の辛さを叫び、露月は医師の立場から生きることを最後まで願う思いが往復書簡に残されている。短歌集「俳星」に明治35年2月の記録として子規の書簡が紹介されている。

「百年ノ苦痛ハ一日ノ快楽ニ如カズ 長生シテ何ニナル 誤解々々 此頃ハ麻痺剤ノキヽガワルクテコマル 皆ガ僕ノ長生ヲ賀スルカラ愈困ル 翌死ヌル者ト思フテクレタラ今少シ楽ガ出来ルダロウテ」。

それに対して露月は、

「……、長生シテ何ニナル。成程苦痛の百年何にもならぬが、されバ死ンで何になるか、アヽこれでセイセイした、先刻までの苦痛は何所へやら杯と思ふことの出来るものならよけれど、さうでない以上ハ死ンだところでツマラヌ話に候。……、人間であつたものが人間にはあらで、蒼白い、ツメタイ物が横はる、声もない葬れば容もない、さびしい心細い感じは無分別に起り候。これは小生が死体検案をする時いつも起す感じに候。……、苦痛は苦痛で悲しく候へども、長生は長生で芽出度候。小生は大兄の苦痛を見ること大兄の死を見るよりはイクラ軽いか知れず候、即ち一日死延びて一日の慶と存じ候。……、イクラ患者乃家族の請求あつても瀕死の苦痛を去り安々と往生を遂げさせたいとてモヒの注射を多量にやる様なことはタヾの医者でもせざる事に候。……、以上、小生一個の感慨に過ぎるか知らねど、兎に角苦痛をこらえ長生専一と奉存候。」

苦痛に耐えて一日でも長く生きてほしいと願う露月の思いは、現代の緩和ケアの考えからすると真反対の薬の認識ではあるが、当時としては当たり前の考え方であったものと想像される。この手紙に対して子規は、

「他人デサヘソレ程死ナセタクナキモノヲ何デ自分ノ命ガ惜クナウテタマルモノカ 其大事ノ大事ノ命モイラヌ ドウゾ一刻モ早ク死ニタイト願フハヨクヨクノ苦痛アルトオモハズヤ 君ガ僕ノ長正ヲ喜ブハ君ノ勝手ナリ 僕ガ僕ノ長正ヲ悲ムハ僕ノ勝手ナリ 君ハ頻リニ死ノ悲ムベキヲ説ケドモ其悲ムベキヲ喜ブ所ノ僕ハ何ノ効力カアルベキ・・・叫喚大叫喚ノ曲ヲ聴キニ来タマヘ」

と地獄の苦しみに等しい苦痛の叫びを送っている。子規が麻痺剤として抱水クロラールを使い始めたのが明治34年夏ころで、その年の12月頃には効果が見られにくくなり苦痛にあえぐ日々を送っていた状況が上記の書簡記録から胸がえぐられる思いで伝わってくる。その後の明治35年3月の高浜虚子から露月へ宛てた書簡に

「……モヒの頓服も多き時は四回迄に上り候。朝起きるより夜寐る迄、激しき時は夜中も、唯煩悶に煩悶を重ねられ如何トモ致し方ナク僅にモヒの頓服を命と致サレ候。……子規君の話に、モヒを飲むが今にては何よりの楽しみなり。……」

という記載があり、明治35年3月頃からモルヒネの服用が始まったこと推測され、モルヒネの効果を実感し痛みからの解放を喜ぶ子規の心持が伝わる記述である。闘病記の一つである仰臥漫録は明治34年10月29日でいったん終了し、翌年の明治35年3月10日より記録が再開されていて、記録の内容は日々の暮らしぶりを綴る内容ではなくモルヒネの服薬日記の体裁の記録となっている。明治34年10月から明治35年3月までの仰臥漫録の空白の期間は、上述した内容で窺い知れるように自ら死を望むほどの地獄の苦しみにも等しい痛みとの戦いと、モルヒネの使用により痛みから解放され人間らしい正岡子規を取り戻した時期までの痛み地獄から生還した子規の記録と言える。

引用文献:1.和田克司 俳文学会第57回全国大会 講演録 P31-41、2005年10月9日 於松山東雲女子大学キャンパス


https://www.mitori-bunka.com/moruhine 【モルヒネについて】より

 モルヒネの元であるアヘンはケシの実の汁を乾燥したもので、その歴史は古く紀元前3000年以上前にメソポタミアでケシが栽培され、古代エジプト中期にはアヘンが鎮痛薬として使われていた記録が残されている。その後は痛み止めや下痢止めとして使われていたが、中毒を起こしてしまうという薬の性格から社会問題となる薬でもあり、1840年にアヘン戦争と呼ばれる英国と清国との戦いに発展した歴史を残している。戦争まで引き起こしてしまう薬であったが、モルヒネがアヘンから純粋な形で抽出されたのは1806年で、治療薬として医療の現場で忘れ去られる事なく長きにわたって使用されている稀有な良薬であると私は思っている。

 日本におけるモルヒネの治療薬としての使用の記録は、月澤美代子によると(注1)、『順天堂医事雑誌』の1876年(明治9年)3月刊行の巻五に、舌内皮癌割出治験において「止痛薬ヲ与フ、モルヒネ 四分瓦ノ一、甘草末十瓦、右散為三包分服」とある。術後の疼痛のためモルヒネを使用した記述である。この時期にモルヒネの内服が行われていた記録は、子規においても鎮痛薬としてモルヒネの恩恵を受けることができたことの査証となろう。子規は東京根岸で療養をしていたので、松山での療養であったならば当時の医療事情から考えるとモルヒネの恩恵に浴することができたかは、筆者としてあずかり知らぬところでもある。

 現代におけるモルヒネの鎮痛薬としての位置づけについて触れておきたい。モルヒネは麻薬であるがために使用上の注意や管理においての法的な規制がある薬剤で、臨床の現場では近年まで頻用される薬剤ではなかった。

 モルヒネの位置づけを変えたのは、近代ホスピスの母と呼ばれる英国の医師シシリー・ソンダースと言って過言ではない。彼女は1967年に現在のホスピスケアの原点というべき聖クリストファーホスピスの創設に携わった人で、彼女はその当時がんの終末期患者は病室の隅に追いやられ人としての尊厳もなく痛み苦しみながら死を迎える現状を憂い、モルヒネを積極的に使うことでがん性疼痛の治療を提唱した人である。英国では1950年代にブロンプトンカクテルと呼ばれるモルヒネにアルコールやシロップを混ぜた水薬が開発され、シシリーソンダースも実地で多用していた。日本ではモルヒネ水という名前で各施設で自前で調合し使用していた時代があり、現在市販されているモルヒネ塩酸塩内用液剤(商品名オプソ)の原型と言ってよい。シシリーソンダースが起こしたホスピス運動は全世界へ広がり、1986年に世界保健機構(WHO)は「がんの痛みからの解放」を発表し、その中で“WHO方式がん疼痛治療法”において医療用麻薬であるモルヒネを積極的に使うことを提唱している。その当時、医療者の中にはモルヒネを積極的に使う考えはなく、WHOによる緩和ケアの推進はがんの痛みで苦しむ患者様にとってまさに福音となる画期的な出来事であった。

 モルヒネは1800年代に登場した歴史が古い薬で、様々な臨床治験が積み上げられてきたであろうと想像されるにもかかわらず、がん性疼痛治療薬として日の目を見ることになったのは先に挙げた1986年のWHOの提唱がきっかけであり、実に最近まで積極的に使われなかった薬物である。

 その要因としてモルヒネは麻薬でありその取扱いに注意がいることと、いわゆる“麻薬中毒”という問題が大きな壁になっていたものと思われる。しかし、科学は有難いもので安全に使うための方策をちゃんと示してくれる力があり、痛みを有する患者様においてモルヒネは適正に使用すればいわゆる麻薬中毒と言われる精神依存は起こりにくいことが証明され、安全に使える薬として臨床の現場で頻用される様になっている。モルヒネを含む他の医療用の麻薬は飲み薬や貼り薬、坐剤、注射剤など様々な剤形が開発され、患者様の病状・病態に合わせて適切に痛みを取るための治療が行えるように工夫されている。ほぼ取れない痛みはないと言っても過言ではないほど疼痛治療は進歩を遂げている領域である。

参考文献

注1)日本医史学雑誌2012;58(4)457-470.


https://www.mitori-bunka.com/moruhine2 【子規のモルヒネ服用】より

 子規がモルヒネの服用を始めたのは明治35年3月頃と推測されるが、服用の状況を随筆『仰臥漫録』に克明に記録されている。『仰臥漫録』は明治34年9月2日から記載が始まり10月29日の記録でいったん中断し、明治35年3月10日から記述が再開している。服薬の記録は明治35年3月10日から始められていて、冒頭に“記録のなき日は病勢つのりし時なり”と記されている。『仰臥漫録』の明治34年10月30日から明治35年3月10日までの空白が疼痛による生活自体の苦痛・煩悶が窺い知れる期間に思え、モルヒネの鎮痛薬としての意味が感じられる空白期間である。服薬記述は3月10日から始まり3月12日でいったん止まっている。その後は空白期間があり6月20日より“麻痺剤服用日記”と子規自ら記載して7月29日まで毎日の服用状況が記録されている。1日に1-2回服用されていて、この期間で多いときに1日3回の服用が2日あり、服用しない日が2日のみで毎日服用していた様子が残されている。その後の服薬状況の記録は見当たらないが、記録から想像すると毎日服用していたものと推測される。モルヒネの服用が子規の生活の質を維持するのに大きな働きをしていたものと思われる記述が『病床六尺』の86回(明治35年8月6日)に見られる。

「このごろはモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみとなつている。けふは相変わらずの雨天に頭がもやもやしてたまらん。朝はモルヒネを飲んで蝦夷菊を写生した。……。午後になつて頭はいよいよくしやくしやとしてたまらぬようになり、終には余りの苦しさに泣き叫ぶほどになつてきた。…、余り苦しいからとうとう二度目のモルヒネを飲んだのが三時半であつた。それから復写生をしたくなつて忘れ草(萱草に非ず)といふ花を写生した。………。とにかくこんなことして草花帖が段々に画きふさがれて行くのがうれしい。」

と綴っている。モルヒネによる疼痛緩和は十分な剤型の多様性がなかった明治のこの時代であったにもかかわらず、子規の子規らしい生活の質を保つ働きを十分にしていたことが窺える。この記述は亡くなる40日ほど前の記述であることを思うと、まさに明治期における在宅緩和ケアの実践記録と言えよう。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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