https://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/kensei/aramashi/rekishi/bakumatsu-kingendai_08.html 【御用邸(ごようてい)】より
日光の旧御用邸
日光は大正天皇がこよなく愛された避暑地であった。
皇太子時代の1896年(明治29年)、日光東照宮近くの山内御用邸で初めてひと夏を過ごされ、3年後、1キロメートル程西に田母沢御用邸が新築されて以来、天皇即位後も毎年のように田母沢御用邸を利用されるようになった。しかし、昭和天皇をはじめとする皇族の方々が静養や疎開に利用したこの御用邸も、終戦とともに国有財産となりその役目を終えた。
その後、栃木県に移管され、修復整備の上、2000年(平成12年)日光田母沢御用邸記念公園となり、2003年(平成15年)には国の重要文化財に指定された。
塩原の御用邸
大正天皇が皇太子時代に栃木県令・三島通庸が自らの別荘を献上したもの。
以来多くの皇族が利用されたが、1946年(昭和21年)宮内庁から厚生省に貸下され、1964年(昭和39年)に国立塩原視力障害センターとして改築された。この時、新御座所のみは原型のまま移築され、記念館として保存されている。
那須御用邸
那須町にある那須御用邸は、昭和天皇がこよなく愛された御用邸で、植物学者でもあった昭和天皇は付近一帯の植物をお調べになり、他の学者達とともに『那須の植物』『那須の植物誌』等を御出版された。
現在でも、今上天皇や他の皇族の方々が那須御用邸を頻繁に利用されている。
御料牧場
県内の皇室関係施設としては、上記の他に御料牧場がある。新東京国際空港建設にあたり、1969年(昭和44年)に成田市から高根沢町に移転されたもので、現在は芳賀町にまたがる252ヘクタールの広大な牧草地を形成している。
https://dot.asahi.com/articles/-/106747?page=1 【病床の天皇が気にした「御辞世」の歌】
昭和天皇実録には、興味深い逸話とともに昭和天皇の御製も収められている。昭和天皇の生き生きとした姿を実録と重ね合わせて述懐するのは、昭和天皇の和歌のご相談役をつとめた、歌人の岡野弘彦さん(90)である。昭和天皇の心のひだを、和歌を通して読み解いてゆく。
* * *
昭和天皇はまた、海の原生動物の研究にご熱心で、歌にも多く詠まれた。三首目の歌は実は、昭和四年に関西地方へお出かけになったとき、紀州の博物学者・民俗学者の南方熊楠の案内で、神島に渡り二人だけで海の原生動物などの採集をされた。そのときは台風の後であまりよい標本が採れなかった。これも入江侍従長から聞いた話だが、南方は後にじっくりと採集した標本を、キャラメルの箱に入れて贈ったという。普通なら桐の箱などに収めて献上するのに、キャラメルの大箱に入れてきたのを、天皇は後々まで思い出してよろこばれたという。三十七年のこのお歌も、長く時を経て紀州へ行かれた折の回想である。
天皇は博物学者でもおありになった。その影響は今の皇族方が、植物学や鳥類、動物類の研究に、それぞれご熱心な面に影響を与えていられるのだと思う。
まだまだ、触れて申し上げたいことはあるが、最後にひとつ。
天皇のご病状が重くなって、輸血をなさっているということが伝わってきた頃、徳川義寛侍従長がいつものように御製の原稿を持って国学院大学の理事室を訪ねてこられた。
「お上が、この歌はどうしても決めておきたいとおっしゃるのです」
と言われた。それは歌集『おほうなばら』に昭和二十年のお歌として収められている、
爆撃にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも
このお作を、天皇ご自身が幾通りかに推敲(すいこう)なさっている、宮内庁の罫紙だった。じっとしばらく拝見して「この形が結構でございます」と言った。次の一首であった。
身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
「これで、お上もご安心なさいます」と言って徳川さんは帰られた。体じゅうが、じーんと音をたてて鳴っているような思いだった。
私はこの一首が、昭和天皇の御辞世の歌である、というような気がしている。
※週刊朝日 2014年12月19日号より抜粋
https://nezu3344.com/blog-entry-2251.html 【昭和天皇の御辞世】より
もし、自分が「あと一週間で死ぬ」とわかったら、みなさんはどうされるでしょうか。
人は、受け入れられない事態に遭遇すると、否認→怒り→取引→諦観という段階を経て、最後に受容に至るのだそうです。
これはキューブラー・ロスが「死ぬ瞬間」という著書で紹介し、それをたしか立花隆が40年ほど前に文芸春秋で「臨死体験」という連載記事を書いたときに、「死の受容過程」として広く紹介されたものです。
ガンの告知を受けたときなどがその典型ですし、あるいは昔なら、腹を斬ると決まったときや、いよいよ戦地での決戦に赴くと決まったときなどが、こうした反応に至るのかもしれません。
はじめの「否認」は、そういう現実が目の前にあるということを頭ごなしに認めない、否定するというものです。
二番目の「怒り」は、なんで自分なんだと周囲にあたり散らす。
三番目の「取引」は、なんでもしますからとにかく治してくださいと頼み込む。
四番目の「抑鬱」は、それでもどうにもならないと知ってあきらめる。
五番目の「受容」は、そういう運命とあきらめる、
という反応なのだそうです。
ところが古くは縄文時代の集落跡などをみると、日本では、集落の真ん中に墓地がありました。
このことは江戸時代になっても同じで、古い城下町や寺社を町の中心に持つ門前町などでは、まさにお城や町の真ん中に墓苑が置かれています。
おもしろいもので、罪人の首を刎ねる刑場などは町の中心からはすこし外れたところに設けましたが、それでもその場所はたいていお寺などが集中している寺社街に置かれました。
これが何を意味しているかというと、日本人は常に死者とともに共存してきたということです。
死は生の延長線上にあると考えられてきたのです。
そしてそのことは、「常に、明日死ぬという覚悟を持って生きる」という覚悟にもつながりましたし、死者でさえも共存しているくらいなのですから、生者同士は、当然に「互いに力を合わせて協同する」という姿勢にも結びついて来たわけです。
けれど、そうは言っても、死ぬことは辛いことだし、のこされた者にとっては悲しい出来事です。
6万年前のネアンデルタール人の遺跡であるイラクのシャニダール洞窟からは、死者の埋葬に花を捧げていた跡が見つかっています。
ネアンデルタール人は、いまのホモサピエンスと違う、ホモ・ネアンデルターレンシスという、現生人類よりも古い種族ですが、その旧人でさえも、死者を悼むという感情があったわけです。
死が辛いできごとであったことには違いありません。
それでも、立派に生きるために、あえて死者と共存し、常住坐臥、死ぬ覚悟を持って生きることを美徳としてきたのが日本人であったということは、すくなくとも遺跡の集落跡とみる限り、約8000年前という途方もない昔から、日本人にとっての生きるうえでの「思想」であり、DNAに深く刻み込まれた日本人の魂であるということができようかと思います。
現代の日本人は、日本的魂を失ったという人がいますけれど、たとえばずいぶん前にお亡くなりになった逸見アナウンサーなどにしても、ガンの告知を受けてから、それとしっかりと戦う覚悟を示されましたし、ガンなどで死ぬと宣告された多くの日本人は、キュープラー・ロスの「死の受容過程」とはまったく異なって、「従容(しょうよう=堂々と受け入れること)として、その事実を受け入れ、これと正々堂々と向き合ってガンと戦う「決意」を見せます。
すくなくとも、怒りに任せて周囲に当たり散らしたり、看護婦さんに怒りをぶつけるような患者さんは、まずいないし、医者を買収して生残ろうなどという取引などをする患者さんも、まずいません。
いまでも日本人はそうなのです。
こうした日本人の反応は古からの文化が違うとしかいえないのではないかと思います。
そういう日本人は、けれど、この世を去るに際して、昔は多くの人が辞世の句を詠みました。
有名なものとしては、
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂 (吉田松陰)
おもしろきこともなく世をおもしろく すみなすものは 心なりけり (高杉晋作)
風さそふ花よりもなほ我はまた 春の名残を いかにとやせん (浅野内匠頭)
あら楽や 思ひは晴るる身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし (大石内蔵助)
などがあります。
はじめの吉田松陰の句と、高杉晋作の句は、よくみると対になっていることがわかります。
この世に信念という大和魂を「留め置かまし」と詠んだ吉田松陰に対し、高杉晋作は、それを心で受け止め、「おもしろく」生きました、と師匠に報告しているのです。
これと同じことが、浅野内匠頭と大石内蔵助の辞世にもみてとれます。
尽きぬ思いを「春の名残」と詠んだ殿様に対し、大石内蔵助は「思い晴るる」と返しているわけです。
私は赤穂浪士の討ち入りについて、「これは山鹿流という天皇尊崇の思想から発した出来事」という説をとっていますが、ただの主君の意趣返し(戦後の一般説)とか、内蔵介たちの就職活動(堺屋太一説)などと異なり、あくまで「許せなかった思想上の対決」という立場をとるのは、まさにこの辞世によって確信しているものです。
辞世の句というのは、自分が生きて来た、その人生のすべてを、五七五七七というたった31文字の中にぎゅっと押し込めるものです。
たった31文字しかないのです。
その限られた中で、自分が死を前にしたとき万感の思いを、凝縮させ、歌として遺すわけです。
次は、細川ガラシャ夫人の辞世です。
散りぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ 人も人なれ
細川ガラシャ夫人は、戦国時代を代表する美人の誉れ高い女性です。
関ヶ原の戦いの少し前、やってきた石田三成の使いに捕らえられそうになり、家老の小笠原勝寄に、ふすま越しに槍で胸を突かせて自害しました。
さて、みなさんは、この歌から何をお感じになられますでしょうか?
昭和天皇は、China事変、大東亜戦争、戦後復興、高度成長、バブル経済と、まさに激動の時代を生きてこられました。そして昭和64(1989)年)1月7日、崩御されました。
第124代天皇であり、歴代天皇の中に置いても、最長といえる長いご在位でした。
その昭和天皇は、昭和63年8月15日に、全国戦没者遺族に御製を御下賜遊ばされました。その御製が、御辞世となりました。
やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど
安らかな世をずっと祈り続けたけれど、それはいまだなっていない。そのことが悔しい。
きざしはみえているけれど、そこに手が届かない。この御製は、そのような意味と拝します。
その歌を、陛下は英霊たちにささげられています。そして、「悔しい」と詠んでおいでなのです。あれから26年、世は平成へと代わり、すでに四半世紀が経ちました。
昭和天皇が祈り続けられた世を、わたしたちは実現しえたのでしょうか。
陛下が英霊たちに捧げられた思いに、わたしたちは、なにかひとつでもおこたえしてきたといえるのでしょうか。
https://www.pref.tochigi.lg.jp/c05/kensei/aramashi/rekishi/bakumatsu-kingendai_03.html 【栃木県の誕生】より
栃木県の誕生(とちぎけんのたんじょう)
野州(現在の栃木県)を襲った戊辰戦争の激しい戦火も、会津若松城が陥落するとともにおさまり、ついに明治の新政を迎えることとなった。
まず、真岡代官領が真岡県になり、翌1869年(明治2年)には日光神領と合併して日光県となった。その他の諸藩は1869年(明治2年)の版籍奉還で旧藩主が藩知事になり、1871年(明治4年)の廃藩置県でそれぞれ県になったが、その年のうちに栃木県と宇都宮県にまとめられた。この時、日光県は栃木県に合併され、初代県令に鍋島貞幹が就任した。
そして、1873年(明治6年)6月15日、栃木・宇都宮の両県が合併して栃木県となり、ほぼ今日にみる県域が確定、新しい県政のスタートが切られた。
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