Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
龍聖母
地のものたち 永遠より遠い天の子にして 無限の愛の海より生まれし この世には
ひとつとして孤立したものはなく ならばみな、祝福の内に招かれたり
存在は位置ではない 存在はカタチではない 喜び・・・あるいは情熱 世界に向けて灯された・・・ひとつの祈り
生きるとは
大いなる生命の一部として自らを開き 大いなる生命の全体として自らを信じること
「いとしいものよ。なにもかもが、わたしである。すべてである。」
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
季節ごとに
いま、我がふるさとは、刈り入れを待つ稲穂がたわわに実り黄金の景色です。子どもの頃から見慣れたものですが、毎年毎年、その美しさに圧倒されます。この荘厳なほどの美しさが、いのちを養ってくれるとは。本当に、ありがたいことです。
それにしても、季節ごとに、美しいものに触れることのできるこの国は、詩情にあふれていますね。
秋を「深まる」と言いますが、味わいのある表現で、こういう感じる心を自然が育ててくれたわけです。
「枯れゆく草のうつくしさにすわる」。山頭火の句。枯れゆくものに向ける、この目です。
見えないものを見るという力・・・。たとえば面影という言葉です。辞書では「記憶によって心に思い浮かべる顔や姿」となりますが、独特のイマジネーションです。
「おかげさま」につらなります。それが、ごく普通の生活の中に確かにあるということが、精神性の豊かを物語っています。
「侘び・寂び」は、難しい文化論のようですが、簡素なものに美しさを見ることです。自然を愛でる方法であるとともに、勝者や強者にはない協調性や調和を至上とする文化。
こんな感覚が希薄になったように思いますが、日本人に自分の国の特徴を尋ねると、年齢などに関係なく、かなりの確率で「四季がある」という答えが返ってくるそうです。四季というのは実際には、日本だけでなく世界の各地にあるのですが、日本人にとっての四季は、季節の変化にとどまりません。時代がかわってもなお心象をも含んだ特別なものです。「おかげさま」のご先祖様から受け継いだもの・・・。
庭先のケイトウ。畦には、彼岸花。
生と死とのまわいを感じつつ・・・物思う季節です。
Facebook近藤裕子さん投稿記事
10月14日 「観」 カン みる みせる
みる。くわしくみる。ながめる。〈観〉は二羽のコウノトリの姿と 見る を組合せた文字です。コウノトリは神聖な鳥とされ、古代中国では鳥占いなどに使われていたといわれます。
右側は「見」。
横から見た人の形の上に大きな「目」を書き、人の目を強調して「みる」という行為を意味しています。
直観 景観 美観 壮観 大観 観察 観賞 観戦、、、、。など 沢山の観の熟語があります。
仏教では
人間の外面的なものの見方を「見るの目」。人の心の本質を見透すのが「観の目」であり、〈智慧のはたらき〉と説かれています。
[遠観山里色 (とおくさんりのしきをみる)]という禅語があります。
遠くから見ないと見えないもの。ものごとは一歩引いて観察することで本質が見えて来る という意味です。
日常の目に写る物や出来事を ただ何となく捉えるのではなく「よく観る」
ことで 漫然とした日常が違って見えて来るものです。
そこから 〈退屈しない人生〉が始まる気がします。
Facebook奥土居 帥心さん投稿記事
観音様は、音を観る仏様。普通は音は、聞くものだ。見ると観るの違いは、目と言うレンズを落として、網膜に映す事が「見る」
観るとは、目に見えない映像を心に映し出す事を「観る」と言う。
観光とは、綺麗・凄い・大きいなどなど、感動を心に刻むので『観』を使う。
よって、観音様は人の聞こえない声を観る仏様だ。
風鈴の音を聴く、そして、涼しいと感じる。これは、心が感じとる音なのだ。
これを研ぎ澄ませていく事が、仏道修行。仏教は坊さんだけの修行ではない。
他人の心の声を観てみよう。きっと、耳に聞こえない世界が広がる。
Facebook百合本 知子さん投稿記事「観音力」
最近凝っている訓練です😊「見たものを聞いて、聞いたものを見る。」
もし、目が見えなかったら。それをどのように聞いたら見えるのか?
もし、今見えているものを盲目者に語るとすればどのように語るのか?
そうすれば隅々まで見る事が出来るようになりました。観るようになりました。
もし、耳が聞こえなかったら。それをどのように見せたら聞こえるのか?
もし、今聞こえているものを耳が聞こえない人に聞かせるとしたら、どのように見せるのか?
そうすれば、よく聞こえるようになりました。隅々まで聴くようになりました。
目で聴く。耳で観る。何が言いたいのかと言うと、私達は見える、聞こえるから、よく見てないし、よく聞こえてない。
この2つを意識してから、よく物事が見えて、よく物事が聞こえるようになりました。
聞く時は見る。音を見る。観音です。聞く言葉ではなく、言葉から情景を見ています。
その本質を観るのです。それを意識してから、その言葉ではなく、その音からその人が伝えたい事がわかるようになりました。
こんな風に文章にすると複雑ですが、要は感じる事がすべてで、この2つを訓練すると感じる力が強くなります。
この記事を書いている時に、カラスが庭で鳴きました。そのカラスの鳴き声を観ると、
カラスが伝えてたい事がわかります。カラスは、地球の壮大さと愛を伝えています。
「観ると聴くを逆にしてみるそんな訓練に凝っています😊😊😊
FacebookMasayo Takanoさん投稿記事
◼️目に見えないものを観る、聴く、感じる〜 🌐物質次元からの移行へ〜『独り言』😊
長きに渡り目に見えるものにコントロールされ続けてきた時空間
目に見えるもの 目に見える事柄… 形から入る、外見が大事、第一印象…
もちろん、どれも一理ある。決して等閑には出来ない。
しかし、表面的にそれらを追い求め、くっつけ、演じてみても何かが違う。
一方で、シンプルな装いで、一見どこにでもいる人のように見えても、その存在感から出たつ何かがあるひと、もの、も存在する。
これらの違いは一体何なのか?
対話をすれば、その存在感の違いは明らかで、対話をすればするほどに、その違いを感じる。
太古から日本人は、自然を愛で、敵対対象ではなく、共に生きる共生の道を歩んできた。
気候的にも温暖、穏やかで、その性格が日本人の内面性を養い、育て確立してきたのかもしれない。
自然の周波数、波長に合わせ、見えないものを観て、聞こえない音を心のひだから感じとり、その恩恵や警告にあずかってきたのだろう。
自然の本質と共に生きてきた情緒が、国民性を育み、豊かな文化を継承してきた。
和歌や俳句などに凝縮された情緒や気持ちを表現し、伝える技法。
うたわれた和歌、俳句から、間接的に受け止め、気持ちやその背景、情景に想いを馳せる文化。
これらの温和な波長の中に"本質"が込められていた長きにわたる文化、伝統。
それらが、戦後からじわじわと"崩壊させる目的"により、じわじわと学ぶ機会や日常から消されつつきた今日。
古き良き書物に触れることの限りなく少ない教育環境。
そのかわりに表面的な伝える教育や論理力に比重をしめられ、肝心な"伝える中身"を自身の人生経験から醸成する機会も奪われてきた洗脳教育。
数値という一側面による偏重思考。それにより大切なものを失い続けてきた歳月。
………………………………………………………
自分とは、何なのか?自分とは、何のために存在しているのか?
………………………………………………………
決して、"今だけ、金だけ、自分だけ"を意識的、無意識的に求めていても、決して満たされることがないことに、もうそろそろ気づく時。
自然や人々から分断し、二項対立という構図の中で問題点を上げて、問題解決しても、それらは、"本質"を見過ごしているだけの虚しいソリューション。
見せかけの下手な劇団劇は、終了。
そろそろ地球、自然、人々の"本質"が抑え切れなくなってくる時にきている。
見ている現実見させられている現実。
………………………………………………………
それらの本当の姿はどこにあるのか?それらの"本質"は一体、何であるのか?
………………………………………………………
"そもそも"論で考え、その背景を冷静に観ていく。目を見開いて、現象の大元を観る
聞いている情報による大元を聴く、そして、自身の湧き立つ感情を俯瞰してみる。
現象を思考で分析、判断せず、心身全体、肌感覚で感じてみる。
深い自分は何に反応しているのか?
そして、なぜそのように反応し、感じるのか?
頭を休ませ、長きにより眠らされ続けてきた”感じる感覚”を呼び覚ませ‼️
もう本当に、目を覚そうぜーっ‼️^_^
0コメント