Facebook大覚院 真観さん投稿記事
生きるためには仕方なかったと自分を許す
心をすり減らしやすい人は、自分が「~したい」というよりも、「正しい」「周りが認めてくれる」「嫌われたくない」など、”正解 “という名の多数意見に拘り、過去の苦い経験を後悔する傾向が強いです。
しかし、立場を越えた絶対的な ”正解 “など存在しません
過去の選択が一見、正解ないし常識に反しているように思えても、他人が知りえない事情からやむを得ずなされた、その時点の自分にとっては「精いっぱいの選択」が殆どで、多くの人は “聖人君子 ”にはなれません。
なので、後で後悔するような、どんな選択をしても、「生きるためには仕方なかった」と自分を認め、許してください。
正当化も肯定も必要ありません。自分を好きにならなくても構いません。自分を変える必要もありません。苦しいなら苦しいまま、辛いなら辛いままそれを眺める。何も言わず、ただそこにあると存在を確認する、それが「心身脱落」です。
https://ameblo.jp/kojimag/entry-12714052440.html 【『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』①〜「身心脱落」とは何か?】より
◆100分de名著 道元“正法眼蔵”第1回『身心脱落』とは何か?
解説:ひろさちや さん
日本の仏教史の中で、道元(どうげん)は、空海・親鸞と並び、宗教者であると同時に哲学者である。
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』
著者=道元⇒鎌倉時代の禅僧で曹洞宗の祖,永平寺開山。
正法=釈迦が説いた正しい教え 眼=智慧 蔵=蔵に納められた経典
仏教においては、人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏であると教えている。それなのになぜ私たちは仏になるために修行をしないといけないのか。
⇒ 仏だからこそ修行ができる。悟るための修行は「迷い」であり、悟り(仏)の世界に合一すべき。悟りたいという「邪心」は自我意識。身心脱落(しんじんだつらく)して仏になったつもりで修行はするべき。
「身心脱落」=自我意識を捨て去った境地
「自我意識」は角砂糖のようにぶつかり合うと崩れるもの。角砂糖(自我意識)をお湯(悟り)の中に放り込む。角砂糖は溶けるが無くなったわけではなく、お湯の中に溶け込んでいる。そのように悟りの世界に「私」を放り込むと「身心脱落」の境地に至る。
■「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻
(今目の前に「現れて成っている」世界をどう理解するのかという意味)
(原文)
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生(しょう)あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。万法(まんぼう)ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
(意訳)
現実世界の諸仏を仏の教えでもって眺めるなら、すなわち仏道修行の観点から見れば、そこには迷いと悟りがあり、修行があり、生があり、死があり、諸仏があり、衆生がある。現実世界を「われ」という立場を離れて眺めるとき、すなわち身心脱落したのちには、迷いもなく悟りもなく、諸仏なく衆生なく、生もなく滅もない。
(原文)
自己を運びて万法を修証(しゅしょう)するを迷(まよい)とす、万法すゝみて自己を修証するはさとりなり。
(意訳)
自分のほうから宇宙の真理を悟ろうとするのは迷いであり、宇宙の真理のほうからの働きかけでもって自分を悟らせてもらえるのが悟りである。
「迷ってはいけない」とは道元は言っていない。迷って良いと分かるのが悟り。「迷っちゃダメ!」と思って悩むのが「迷い」
仏道をならうことは、自己をならうことだ。自己をならうことは、自己を忘れることだ。自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心と他人の身心を脱落させることである。
芥川龍之介『蜘蛛の糸』を道元的に観ると、主人公のカンダタが蹴落とそうとした罪人たちは他人の身心(他己)の現れ。「身心脱落」には自己も他己も含まれる。カンダタが他己を気にせず自我意識を捨て去った身心脱落の境地であったら、蜘蛛の糸は切れなかったかも⁇
(原文)
たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。…
(意訳)
薪(たきぎ)は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。だが、そうではあっても、灰は後(のち)、薪は先と見てはいけない。知るべきである、薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。灰は灰のあり方において、後があり先がある。薪が灰となった後、再び薪とならないように、人は死んだ後、再び生にならない。
病気の時は病人としてしっかり生きるべき。
ひろさちやさん曰く、身心脱落はほんのちょっとで良い。少し身心脱落して気を楽に保つのがちょうどよい。
https://ameblo.jp/kojimag/entry-12714310090.html 【◆『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』②〜迷いと悟りは一体である】より
■「生死(しょうじ)」の巻
「生死(しょうじ)」=仏教語では、人間の「迷い」の世界。⇔「涅槃(ねはん)」
(意訳)
「生死の中に仏があれば、生死はない。」
また言う、
「生死の中に仏がなければ、生死に迷わない」
ただ、生死がそのまま涅槃(ねはん)だと心得て、生死であるからといって忌避(きひ)せず、涅槃であるからといって願ってはならぬ。そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる。
迷いの中に悟りがある
悟りの中で迷っていることに気づいたらそれが悟り
迷いを無くさず、むしろ迷うべき
(原文)
ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいへ(え)になげいれて、仏のかたよりおこなは(わ)れて、これにしたがひ(い)もてゆくとき、ちからをもいれず、こゝろをもつひ(い)やさずして、生死をはなれ、仏となる。
(意訳)
身心脱落して(自我意識を捨て)、仏の子どもに「なりきる」と、仏の方から助けてくれる。仏のこころに沿って生きてゆくとき、力も入れず、こころをもついやさず、迷いを離れ、仏となる。
■「祖師西来意(そしせいらいい)」
(禅の試験問題である公案を解釈・評価した巻)
祖師(達磨(だるま)大師)がインドから中国に渡った意味を問う。仏教の真理・根本を問う問題。
(内容)
ひとりの男が、樹の上で口で枝をくわえて宙ぶらりんになっていました。樹の下に人がやって来て質問します。
「中国に禅を伝えた達磨(だるま)大師は何のためにインドから来たのでしょうか?」
これは、「仏教の根本の意味は何か」という問いに等しいものです。男は、質問に答えれば樹から落ちて死んでしまい、答えなければ、仏教の修行者でなくなります。
さぁ、どうするか…。 道元の解釈は、独特なものでした。
(意訳)
この「樹の下に突如として人がやって来る」というのは、樹の内部に人がいるといっているようなものであり、人樹なのだ。 それはまさに「人の下に突如として人がやって来て問うた」ことになる。 そうであれば、樹が樹に問い、人が人に問うているのであり、樹の全体が問うことの全体であり、西来意(せいらいい)の全体が西来意を問うているのだ。
西来意を問うときは、西来意をくわえて問うのである。
公案では「お前はどうする?」という問いかけ自体に意味がある
例えば「答えません」という答えでも良い
道元は、樹に「なりきる」、相手に「なりきる」ことが問いの答えだと解釈した 例えば、暑いとき暑さそのものに「なりきる」と暑さが楽しめるようになる
問われた男は樹になりきっても質問者になりきっても良い 解決できると思うから「迷う」
■「自力」と「他力」
「自力」とは危険が迫った時に子ザルが母ザルにしがみつくようなもの。運ぶのは母ザル(仏)だが子ザル(人間)は「自力」でしがみつく。「他力」とは子ネコが母ネコにくわえられて運ばれるようなもの道元の教えでは救うのは仏だが信じるという「自力」が必要 自力も他力も大きな仏の力で救われるのは同じ
■「唯物与仏(ゆいぶつよぶつ)」の巻「ただ仏と仏とのみ」の意味
(原文)
唯仏与仏 仏法は、人の知るべきにはあらず。…
(意訳)
仏法はただひとり仏によって悟られるものであるがゆえに、「法華経(ほけきょう)」「方便品(ほうべんぼん)」は「ただ仏と仏とのみが、すなわちよく究(きわ)め尽くす」と言っている。
また、それを究め悟ったときも、悟りとはこういうものだと自分で前もって思っていたのとは違っている。たとえあれこれ思っていたとしても、その思っていた通りの悟り方ではないのだ。このことから推量すべきである、悟りの以前に、あれこれ思ったところで、悟りの役に立たぬ、と。悟る以前にあれこれ思うことが何の役にも立たないものだと気づくことは、それはそれでいいところに気づいたわけだ仏教が教える真理は人間には分からない 分からないことが分からないと分かることが悟り 今の段階において必要なだけ悟れば良い 目の前の現実を大事にする 迷っているときは迷いを大事にする
(原文)
はなにも月にも今ひとつの光色おもひ(い)かさねず、はるはたゞはるながらの心、あきも又あきながらの美悪(よしあし)にて、のがるべきにあらぬを、われにあらざらんとするには、われなるにても、おもひ(い)しるべし。
(解説)
春には春の良さがあるように、ありのままを大事にすれば良い。自分の願望を加えるから不満が生まれる。世の中の価値観にしばられず、あるがままを「拝む」
では、どうすればあるがままをあるがままに拝み、生きてゆくことができるのか。
(意訳)
昔から自然に言われていることがある、すなわち、魚でなければ魚の心を知らず、鳥でなければ鳥の跡を尋ね難い、と。この道理は仏にもある。
仏が幾世にもわたって修行されたと思われることは、小さな仏も、大きな仏も、その数えきれぬ期間を数え落とすことなく知っておられるのだ。
(解説)
魚は魚、鳥は鳥でなければその心は分からない。
例えば、鮭は生まれた川に戻るコースを知っている。渡鳥は毎年同じ場所へ帰ってくる。
人間には分からない道が分かるのです。
魚や鳥を仏に置きかえると、悟りについて道元の言いたいことが見えてきます。
仏には仏の歩んだ道が分かる。つまり仏でない者にはその道は見えません。
では、私たちはどうすればよいのでしょうか。
(意訳)
(「現成公案(げんじょうこうあん)」の巻より)
魚は水を泳ぐが、いくら泳いでも水の果てはなく、鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空の果てはない。そして、魚も鳥も、いまだ昔より水や空を離れたことはない。
(解説)
魚も鳥も世界の限界が分からぬまま、泳ぎ飛んでいる。
私たちも、悟りの世界を完全に理解してから歩もうとするのではなく、まず歩み始めれば良いのです。迷いと悟りはコインの裏表のようなもの 本当は悟りの世界にいるのにあくせく迷うのが私たち
(原文)
悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来(きた)れるゆゑ(え)に、悟りとは、ひとすぢ(じ) にさとりのちからにのみたすけらる。
悟りの方から自分にやってくるのを待てば良い ただ待つのではなく、しっかりと迷って待つ
https://ameblo.jp/kojimag/entry-12716173697.html 【『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』③〜全宇宙が仏性である】より
様々な宗派が生まれた鎌倉時代。
道元が望んだのは、仏の正しい教えを伝えること。
そのために、生きとし生けるものが持つという、仏になる可能性「仏性(ぶっしょう)」の意味を大胆に読み解きました。
■北越入山にかけた思い
当時、日本に蔓延(まんえん)していた末法(まっぽう)思想。釈迦が亡くなった後、時が経つにつれて、悟りも修行も無くなる末法に入るとされる思想です。
民衆の間では、現世ではなく、阿弥陀仏の浄土に救いを求める浄土教が広まっていました。また、道元と同じく、中国で学んだ禅僧、臨済宗の円爾(えんに)は、密教の加持祈祷を取り入れ、朝廷や貴族たちにもてはやされていました。
そんな時代に、道元は危機感を抱きます。道元には、純粋なる仏教を守り、後世に伝えていくのだという強い思いがありました。そのために、釈迦の教えがすたれるとされる末法思想にも、権力と結びつき大衆に迎合(げいごう)するやり方にも反対でした。「それでは釈迦の仏教が歪められてしまう。」道元はそう考えたに違いありません。こうした思いが積み重なった頃、道元は北越に移ります。
「本物の弟子」(修行•仏道に専念する者)を育てたかった。
「一箇半箇(いっこはんこ)の接得」:一人や半人という数の問題ではなく少数希少の得難い人物•人材を育てること
■「仏性」の巻
大乗仏教の『涅槃経』にある「一切衆生(いっさいしゅじょう)、悉有仏性(しつうぶっしょう)」を検証
衆生=生きとし生けるもの
一般には「いっさいの衆生がことごとく仏性を有している」という意味
道元は「いっさいは衆生なり、悉有(全宇宙)が仏性なり」と読んだ
道元にとって「仏性」はみな等価値
大きな「仏性という世界」に全存在がいる。山や川も衆生。「悉有(しつう)」は全存在・全世界を意味し「すべてが仏性」と道元は主張。
【一切衆生 悉有仏性】
(意訳)
一部の人々は思っているようだ、仏性は草木の種子のようなものである、と。枝葉が茂り花が咲き果実が実る。その果実からさらに種子ができる。こう考えるのが凡夫の浅知恵である。
たとえこのような見解を持ったとしても、種子と花と果実の一つ一つがそのまま真実の心だと考え究めるようにすべきだ。
果実の中に種子があり、その種子の中に目には見えぬが根や茎等があって生じてくる。
種も芽も花も仏性
■「無仏性」が有る?
中国禅宗の師と弟子、五祖と六祖の禅問答を例えに、道元は「無仏性」について検証。
五祖:「お前はどこの出身だ?」六祖:「嶺南人です」五祖:「嶺南人は無仏性だから仏になれない」六祖:「仏性に南北があるわけではありません」
道元は無仏性を持っていると解釈
「無仏性という仏性」の中で生き、無仏性はダメだと考えるな 無仏性の中で迷えば、いずれまた仏に到達できる
■「時節若至(じせつにゃくし)」
それまでは「仏性が現れる時をじっと待つこと」と捉えられてきたが、道元は違った。
(意訳)
仏性を知ろうと思うならば、まさに知らねばならぬ、時節因縁こそがそれ(仏性)である、と。
「時節若至」というのは、「もうすでに時節は至っているのだ、そのことをどうして疑う必要があるのか」ということだ。
時節若至をそのままとって、時節がまだ至っていないと読むのであれば、そのときの仏性は不至仏性(不至というかたちでの仏性)である。
不至仏性〜至っていない仏性 道元の時間=「現在」しかない
「有時(うじ)」(道元が時間について考察した巻)。時間とは「今現在」がつながったものというのが道元の時間論。【一般的な時間論】【道元の時間論(有時(うじ))】
(意訳)
仏性は生きているときにだけあって、死ねばなくなると思うのは、まったく認識不足である。
生(しょう)のときも有仏性であり、無仏性である。死のときも有仏性であり、無仏性である。
人間が認識できるか否かによって仏性に不思議なはたらきがあったりなかったりし、人間が感知するか否かによって仏性であったりなかったりする、といったような間違った考えに固執するのは、外道(げどう)のすることである。
仏性は生死を問わない!
仏性という大きな世界の中で人間は生まれて死んでいく 私たちは死の心配ばかりするが、死ぬ時に「しっかり死ぬ」というのが道元の考え方「しっかり生きてしっかり死ぬ」
過去を追うな、未来を求めるな。過去はすでに過ぎ去ったのだ。未来はまだやって来ない。
あなた方は、いま為すべきことをしっかりとせよ。 (釈迦の言葉)
今を大事に 生きていこうじゃないか (道元の考え方)
https://ameblo.jp/kojimag/entry-12716377736.html 【◆『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』④〜すべての行為が修行である】より
修行を重んじた道元が残した言葉「只管打坐(しかんたざ)」
それは、ただ禅堂で坐禅を組むことだけではありません。
道元は、中国で学んだ「生活のすべてが修行である」という禅の神髄を伝えたかったのです。
■仏性を「あおぐ」〜修行をする理由 〜 修行に関するエピソード 〜 (現成公案の巻より)
麻浴山(まよくざん)の宝徹禅師(ほうてつぜんじ)が扇を使っているところに、ある僧がやって来て問いました。
「風性常住(ふうしょうじょうじゅう)。風はいつもそこにあり、ゆきわたらぬ場所など無いのに、和尚は何を思って扇を使われるのですか?」
「お前は、風の本性が常住であることは知っているようだが、いまだどこにもゆきわたらぬ場所は無いという道理がわかっておらぬようだ。」
「では、どこにもゆきわたらぬ場所は無いという道理は、いったいどういうことですか?」
それに対して師は、ただ黙って扇をあおぎました。
僧は、礼拝(らいはい)しました。
(解説)
礼拝=納得したという返事 風 =仏性
扇をあおぐ=仏性をあおぐ〜修行をする理由(あおいで初めて風(仏性)を感じることができる)
道元の目指した修行
「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)」(歩き•止まり•坐り•臥(ふ)す)
坐禅だけが修行ではない 生活そのものが「禅修行」「只管打坐(しかんたざ)」=ただひたすらに坐(すわ)る 24時間仏として生き、生活全体が禅だと思ってほしい。
1223年、船で宋に渡った24歳の道元は、港で日本の食材を求め乗船して来た老僧に、宿泊して話を聞かせてくれるよう頼んだが、老僧は禅寺で食事の支度を任されている典座(てんぞ)という要職に就いていて、翌日寺で特別な説法があるので、修行僧たちに美味しいものを食べさせたい、明日の支度があるので帰ると断った。食事係たちにやらせれば…という道元に、老僧は「あなたは修行の何たるかが分かっていないようだ」と言って帰ってしまった。
生活そのものが「禅」だから、食事の支度も掃除も修行
「喫茶去(きっさこ)」=一杯のお茶を飲むことも修行である
宮本武蔵も「五輪書」の中で、剣術の道を極めるために、日常生活において常に剣術について考えていれば、生活のすべては修行である、と説いている。
道元は、永平寺に移ってから仏教者の養成に力を入れ、「正法眼蔵」には「洗浄」の巻(衛生の大切さや礼儀などを説く巻)で爪を切ることや長髪の禁止など、出家者の修行のあり方が詳しく書かれている。
修行と思いながら生活していると、知らないうちに悪いことができなくなる(=「諸悪莫作(しょあくまくさ)」*初期仏教の経典にある「諸(もろもろ)の悪を作(な)すこと莫(なか)れ)」とは少し意味合いが違っている)
■「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻
(意訳)
古仏が言われた、「もろもろの悪をなすことなかれもろもろの善を行なえ、みずからの意(こころ)を浄(きよ)くせよ、これが諸仏の教えである。」と。
したがって、最高・窮極の悟りを学ぶためには、教えを聞き、修行をし、悟りを開かねばならず、それを深遠にして深妙なものにせねばならぬ。
この最高の悟りを、あるいはよき指導者から聞き、あるいは経典から聞くのだが、そのとき、ついには「諸悪莫作」と聞こえてくるようになる。
知るべきである、「諸悪莫作」と聞こえるのが仏の正法だ。
(解説)
自然と聞こえる「諸悪莫作」は、命令ではない。
キリスト教の神は造物主で人間という被造物に命令できるが、仏は造物主ではないので命令しない。人間はみな「仏の子ども」だから自然と悪事をしなくなる。
■「菩提薩埵四摂法(ぼだいさったししょうぼう)」の巻
「菩薩」が実践すべき四つの徳目である四つの徳目である四摂法(布施•愛語•利行•同事)を解説
(意訳)
布施
ここで布施というのは不貪(ふとん)である。不貪とは、むさぼらないこと。
むさぼらないというのは、世の中でいうへつらわないことだ。
愛語
愛語というのは、衆生に接したときにまず慈愛の心を起し、いたわりの言葉をかけることである。いかなる暴言・悪言もなくすべきだ。世俗においては安否を問う礼儀があり、仏道においても自重自愛を祈る言葉があり、目上に対してご機嫌を伺う挨拶がある。
利行
利行というのは、貴賤(きせん)にかかわらずすべての衆生に、種々の方法でもって利益(りやく)を与えることだ。愚かな人は思うであろう、他人を利することを先とすれば、自分の利益がなくなると。そうではない。利行というのは自他の差別を超越した一つの真理であって、自分をも他人をも利するのである。
同事
同事というのは、違(たが)わざることだ。自分にも違わず、他人にも違わないことである。
(注釈)
この四つの実践項目(布施•愛語•利行•同事)の、一つ一つが四つの実践項目を具備(ぐび)しているから、十六の実践徳目になる。
例えば、「むさぼらない気持ち」で「相手に譲る気持ち」があれば布施の布施。単に相手に物をあげることが布施なのではない。
道元は「菩薩」が実践すべき教えを「八大人覚」の巻にもまとめている。
■「八大人覚(はちだいにんがく)」の巻
釈迦が亡くなる時に説いた最後の説法を解説
大人=仏道を歩む者(菩薩)
菩薩が覚えておくべき八つのこと
1253年製作。道元はその年の8月に京都で亡くなっているので、この巻が最後の作品となった。
(意訳)
第一は「少欲(しょうよく)」
人間に起きる五つの欲望(財欲•色欲•飲食(おんじき)欲•名誉欲•睡眠欲)のうち、自分がいまだ満足していないものを満足させようとしないのが、少欲と名づけるものだ。
第二は「知足(ちそく)」
すでに得たものであっても、それを受け取るのに限度をもってする。それを称して知足という。
第三は「楽寂静(ぎょうじゃくじょう)」
喧騒(けんそう)の場所を離れて、独り静かな場所に居する。それを寂静を楽しむと名づける。
第四は「勤精進(ごんしょうじん)」
もろもろの善きことに中断なく勤める、それを精進という。純粋にして混じり気がなく、進んで退かないことである。
第五は「不忘念(ふもうねん)」また「守正念(しゅしょうねん)」ともいう。
教えを守って失念しないのを「正念」といい、また「不忘念」ともいう。
第六は「修禅定(しゅぜんじょう)」
教えを心に留めて乱れない。これを名づけて禅定という。
第七は「修智慧(しゅちえ)」
仏法を開き•法の道理を思い•仏道を修し•仏の悟りを得るのを智慧とす。
第八は「不戯論(ふけろん)」
悟りを開いて分別を離れるのを戯論(けろん)(無益な議論)を離れるという。事物のあるがままの姿を究め尽(つく)すのが不戯論(ふけろん)である。
(解説)
人間の欲望は膨らむ一方。欲を少なくして満足する気持ちが、少欲•知足
物事を複雑にしないで、ありのまま受けとめるのが、不戯論(ふけろん)
(まとめ)
『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう』はたしかに難解な仏典ですが、現代を迷いの中に生きる私たちに、道元は「迷っていいんだよ。その中で、少しでも自分の仏性を活性化して生きていけばよいのだ。」と語りかけています。ゆっくりゆっくりと味わいながら読み進めてほしい。(ひろさちやさん)
「迷ってもよい」と言われると気持ちが楽になる気がします。「しっかり迷ってしっかり生きる」時々立ちかえって味わいたい仏典の一つです。 (みゅ)
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