http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51937753.html 【目覚める龍神と諏訪の神仕掛け】より
諏訪大社、17m巨木人力で運ぶ 御柱祭始まる
長さ約17メートル、重さ約10トンの巨木を山の上から人力だけで急坂や川を越え、長野県・諏訪大社に運ぶ、6年に1度の奇祭「御柱祭」が2日、始まった。
午前7時半ごろ、太鼓やラッパがけたたましく鳴る中、地元の老若男女が大勢で縄を引いてスタート。柱の両端に取り付けた太い棒に乗った氏子らが「ヨイサ、ヨイサ」と気勢を上げた。
諏訪大社は上社の本宮(諏訪市)、前宮(茅野市)と下社の春宮、秋宮(下諏訪町)の四つの社殿がある。御柱祭では各社4本、計16本のモミの巨木を山から切り出し、約1カ月かけて境内まで運び、柱を建て替える。(共同通信)
数え年で7年に1度、2010年以来の2016年度の諏訪大社の御柱祭が本日から始まりました。
諏訪大社は上社(本宮と前宮)と下社(春宮と秋宮)の大きく上下の2つ、細かくは4つに分かれたお宮の総称ですが、まず最初に始まったのは上社の「山出し」というイベント。
この山出しは八ケ岳の麓、八ケ岳農場の下の綱置き場から曳き出されます。
上社も下社も日程のずれはありますが、最初に「山出し」が4月にあり、続いて「里曳き」が5月にあり、最後に「宝殿遷座祭」を経て各4つのお宮の4柱が新しく生まれ変わります。
以前にもお伝えしたように、今は「夜明けの晩」の最終局面に差し掛かっていて、6月21日の夏至に大きな区切りがやってくるようです。
すでに目にみえない世界での様々なゲートは開いて新時代が始まっていますが、今年の夏至以降はさらに一段と変化が加速し、様々なサイキックやシャーマン達も秋頃に何かがあるのではないかとざわついています。
イスラエル政府が作った古代ユダヤの失われた十支族を調査する公的機関「アミシャーブ」が、古代ユダヤ人の世界中の足跡を調べ上げた結果、彼らは日本を目指し、辿り着いていることを知り、アミシャーブの調査団が日本に訪れて最初に向かったのが諏訪大社をはじめとする諏訪地方でした。
ここには、聖書にも度々登場する「聖地モリヤの地」と同じ「守屋山(もりやさん)」があり、この山をご神体としているのが諏訪大社で、諏訪大社の構造からお祭りまで、すべてが古代ユダヤの文化や風習と同じであるからです。
ただし、主に上社(前宮、本宮)が古代ユダヤのお社となっており、下社は古代ヤマト、出雲王朝の構造や文化の影響で作られています。
ユダヤとヤマトの融合の地である諏訪。
2016年の現在は、ユダヤ暦で50年に1度のヨベルの年。
ユダヤの風習では、神の天地創造にあやかって6日働いて1日休むという「シャバット(安息日)」がありますが、同じように土地(農地)も6年使って1年休ませる「シュミータ(安息年)」があります。
7年に1度訪れるシュミータを7回、合計49年を過ごした翌年50年目をヨベルの年といって、これは「土地と奴隷(人)」は元の持ち主の場所へ戻す(解放する)というルールがあります。
日本もまた、本来の持ち主へと戻され、古代の魂も神々もまた元の配置へ戻る時。
夏至までに諏訪大社の御柱祭が完結するのもまた、大いなる神仕掛けの一環なのでしょう。
日本には“龍穴(りゅうけつ)”と呼ばれるパワースポットがいくつもあり、ここは地下のマントルから「磁気プラズマ(龍神)」が噴き出しているようですが、この龍穴の上に神社などは多く作られており、これらを繋ぐ線を「龍の道」と呼ぶそうです。
そして、龍穴は断層上に存在しており、日本最大の龍の道は、何と言っても日本列島を横断している大型断層の「中央構造線」と日本を東西に分断している溝の「フォッサマグナ」の糸魚川ラインであり、ここには数多くの龍穴があり、地名にも「竜(龍)」がつく場所、龍神と所縁の地域が多く存在しています。
この日本を東西南北に分断する2つの龍の道が交差するポイントが「諏訪大社」となります。
歴史や民族の融合だけでなく、場所としても融合や和合、調和の中心地が諏訪であり、世界の雛形である日本、日本の中心である諏訪(八ヶ岳広域エリア)の今の時期の大祭は、統合の時代に向けての非常に重要な意味を持っています。
「あ」から巡って「ん」で閉じるメビウスの龍体は、この「す」と「わ」で反転すると先日のユダヤセミナーでお聞きしました。
今年夏至まで続く諏訪の御柱祭を経て、いよいよ裏が表に表が裏に反転する大転換の仕組みが起こりそうです。
これまで歴史に封印されていたもの、タブーとされていたものが表に出て、これまでに表に出ていたものが裏に隠れる時代。
天の岩戸開きに向け、日本に眠る龍神が続々と目覚める時がやってきたようです。
ヨベルの年は令和おかげ参り??
Facebookごとう 孝二さん投稿記事 I LOVE JAPAN❤️〜世界を融和に〜
「令和おかげ参り・ええじゃないか」
もし、あなたが、ある日、神さまに、「日常の全てのくだらないことから、自由気ままに、解放してあげるよ」って言われたら、どうします?
上司へのストレス、旦那へのストレス、日常生活へのストレス、明日の仕事の心配、お金の心配、人間関係の心配、あなたを縛る法律、あなたを縛る義務、身分制度・・・、
現代社会には、あまりにも多すぎる束縛があり、もう僕らはヘロヘロだ。
でも、そんな、全ての束縛からの解放行事が、江戸時代にはあった。
それが、おかげ参り。全ての、あなたを縛る、「~ねばならない」から、完全に解放される行事だった。
おかげ参りとは、江戸時代に3回、60年周期で発生した、伊勢神宮参拝の熱狂的ブーム!!
当時の人口の、実に6人に1人が参加した、国家的な一大行事だった。
ある日、日本各地で、空から神のお札が降ってくる。人々はそれを、神のお告げとして、仕事を放り投げて、人間関係も放り投げて、義務も、上下関係も、何もかも放り投げて、踊り狂い歓喜し、伊勢神宮を目指した。
だって、「神さまが呼んでいる」のだから。何もかもを、神さまのせい(おかげ)にして、おかげ参りに参加したのだ。
庶民A
「え?明日の仕事はどうするのかって? 知るか!こっちは、神さまに呼ばれとるんじゃい!!」
商人B
「ん?私が急に抜けたら、誰がガストの皿洗いをするのかって? 知るか!誰でも洗えるだろ、そのくらい。 こっちは、あの、カ・ミ・サ・マ、が呼んどんじゃい、止めると罰当たるぞ!!」
全員
「さぁ、どいたどいた。今すぐ自由気ままな旅に出なきゃならんのじゃ!(しつこいようだけど)なぜなら、神さまに呼ばれたのだからな!」
江戸時代の庶民の信仰は厚く、次のような風潮が広がって行った。
一、店長(主人)はバイト生(奉公人)が伊勢神宮に行く事を止めてはならない。
一、親は子供が無断で伊勢神宮に旅立っても、怒ってはならない。
一、旦那さまは妻が急に伊勢神宮へといなくなっても、とがめてはならない。
それどころじゃない。
職場から無断で居なくなって、数週間後にひょっこり帰って来ても、「伊勢神宮に行ってきた証拠(お札)」さえ見せれば、誰も怒らない。
しかも、おかげ参りに行く人は、パスポートなしでも関所を越えられる。さらに、お金が無くても、全然平気。
沿道沿いの人々が食事、宿、ワラジ、衣類、案内、と、何から何まで、至れり尽くせりで奉仕してくれたのだった。これらの背景にはやはり、神さまの存在があった。
伊勢に行く人々を助ける事は、神さま的に、徳が上がるぞという雰囲気や、おかげ参りへの参加を止めた奴は、神の天罰が当たるぞ的な雰囲気が広がっていた。
そう。「伊勢に行って来ます」とさえ言えば、全てのサポートを受けられたのだ。
お金の心配をしないで良い、日常の仕事を気にしないで良い、身分制度を気にしないで良い、
子育て・家事・雑務を気にしないで良い。ただただ、神さまのサポートを信じて、伊勢に旅に出よう。それが、おかげ参りです。
江戸時代に3回起こったおかげ参りは、庶民のガス抜きのようなものでした。
世の中にガスがたまると、60年に1度、自然発生的に、おかげ参りが起こりました。
それは、ある一定量のフラストレーションがたまると、自然に発生する社会的現象なんです。
人類の歴史上、ガスがたまると、絶対に起こって来た、出来事なんです。
この社会におけるガス抜きとは、群衆が行う、「世直し」の事です。
外国ではその世直しを、暴動や革命などのような、「暴力」という形で行いました。
でも日本のガス抜きおかげ参りは、笑いながら、歌い、踊り狂って、伊勢へ行進し、それはまるで、ディズニーのパレードのような「おまつり」として、表現しました。
日々の日常を忘れて、ココロの底から楽しむ事で、日本社会はガスを抜いて来たのです。
おかげ参りとは、なんと誇らしい、先祖の文化なのでしょうか。
さて、ひるがえって、最近の日本の雰囲気は、どうでしょうか?
雇用格差、増税、コロナウィルスでの自粛、マスク着用…今、まさに、過去の社会において、たまったガスが爆発したように、
いや、それ以上に、現代日本の社会的フラストレーションはたまっています。
もう、爆発寸前!
ただ、ここで、暴動や、ストライキ、デモという形で、このガス抜きを表現しては、まったくもって、日本の文化が台無しになります。
日本には、日本の知恵があるんです。日本の「世直し」があるんです。エレクトリカル・パレードがあるんです。日本には、おかげ参りが、あるんです。それが、令和おかげ参りです !
あなたにも、不満は沢山あるでしょう。
あの神話でのアマテラスの岩戸から出てきたきっかけはアメノウズメの裸踊りでのみんなの笑いからでした!
あなたはせめて、笑いましょう。
江戸の庶民は、おかげ参りの道中で、こう歌い踊りました。
たまにはサボったって、えぇじゃないか、えぇじゃないか♪ 変わらない世界も、えぇじゃないか、えぇじゃないか♪ 全てを 全てを楽しみゃ、えぇじゃないか、えぇじゃないか♪
今が楽しけりゃ、えぇじゃないか、えぇじゃないか♪
あなたが抱える、様々な不安や心配ごと。それらを少しわきにおいて、令和おかげ参りに出かけませんか?不安は全て未来への憂いから起こります。喜びは全て今にしか起こりません。
ただ、日本には、日本のやり方があるんです。
あなたの周りに、今にも政治への怒りで爆発しそうな人が居たら、伝えましょう。
「とりあえず、俺たちは楽しんでみないか?」
「踊ろうよ、歌おうよ、日常の全てから解放されて、みんなでワイワイ楽しもうよ!」
「行こうぜ、おかげ参り!!どうにかなるさ、その後の日常なんて。」
ある天才科学者の計算では、「場」の構成要素の13.7%が変われば、
全てがひっくり返るそうです。
日本人の、たった1,800万人の「気」が変われば、この国は良い方向へ進み始めます。
令和おかげ参り。
そんな素敵な文化が日本にはあるんだよという事だけでも、 知らせたいのです。
ええじゃないか!
ええじゃないか!
「さとうみつろうブログ 笑えるスピリチュアルより」
https://yaoyoro.net/%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B0%E3%82%B8.html 【諏訪に根付く謎の神、ミシャグジ神。縄文からの信仰が色濃く残ると言われるミシャグジ神。古事記や日本書紀にも出てくる天孫降臨のもう一つのお話とは・・・!】より
ミシャグジ神は謎の神ではない。
ミシャグジ神というと謎の神というイメージが強いが、実は全く謎の神というわけではない。なぜかというと、ミシャグジ神(本来ならば『ミシャグチ』であるが信仰の伝播により名前が変遷してゆき、『ミシャグジ』の方が正式名称として通用しているという逆転の現象が起きている)を古代から祀ってきた一族の末裔がミシャグジ神はどのような神かということを、「神長官守矢史料館のしおり/平成三年発行」(以降は『しおり』と略す)の中で語っているのである。
この『しおり』の第一部、「守矢神長家のお話し」の中で守矢神長官家(詳しい説明は次の章に譲る)七十八代目、守矢早苗氏が語るところによれば、
「諏訪大社の祭政体はミシャグチ神という樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり)に降りてくる精霊を中心に営まれます」
とあることから、ミシャグジ神は「樹や笹や石や生神・大祝(おおほうり・説明は次の章に譲る)に降りてくる精霊」であることが分かる。(この『しおり』において守矢早苗氏は一貫して『ミシャグチ神』と語っていることから本来は『ミシャグチ』の音であったことが伺える)
また、ミシャグジ神が蛇体の姿で表現されることが多いことから、同じ諏訪の蛇神であるといわれる白蛇ソソウ神との混交も指摘される。しかし、日本の蛇信仰について興味深い考察をしている吉野裕子氏はミシャグチを「御赤口」と解し、御は尊称であり、本体は「赤口」であることから「ミシャグチ」は本来赤蛇であるが、尊く、また恐るべき存在の名をそのまま「赤口」と記してしまうことを避けて「ミシャグチ」という音だけが残ったがゆえに、様々な表記の揺れあるのだと推測している。
白蛇か赤蛇か、実はそのこと自体に深い意味はない。古い文献を紐解いても常陸国風土記のヌカヒメ伝承や大物主が蛇神であるという伝承から古代日本では蛇に対する信仰が深かった。諏訪地方もまた、蛇を頭にのせた女性土偶などが発掘されており、蛇信仰が濃厚だった。
実際、諏訪大社前宮境内にある「御室社」の前には、「現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇型の御体と称する大小のミシャグジ神とともに「穴巣始」といって冬ごもりをした遺跡地である」という説明看板が出されており、諏訪大社上社で正月に行われる「御頭御占神事」は、土室の中のミシャグジ神の神体といわれる巨大な藁蛇の前で行われる。また、諏訪大社宝物館に展示されている「諏訪大明神御神画像」には大祝の絵姿とおぼしき、衣冠の姿絵、鎌、蛇体らしきものが描かれている。これらから、ミシャグジ神が蛇神として古代から信仰されていたことはほぼ間違いないといっていいだろう。
また、建御名方神が諏訪へ来る以前に土着していた「漏矢神」と同一視も散見されるが、それは、守矢早苗氏が伝える事実と比較すれば間違いではなかろうか。
そもそもミシャグジ神は「守矢一族」の守り神的存在の精霊であった。その守矢一族の先祖が後に建御名方神と争うことになる『漏矢神』(=現人神・建御名方神に表される『出雲族』と戦った諏訪の土着の狩猟系先住民族)である。(この系譜は守矢早苗氏が口伝として伝えて来た『守矢氏系譜』(『しおり』に掲載)に明記されている)この順を踏まえればミシャグジ神と洩矢神は別物であると理解できる。
もう一つの国譲り伝承
諏訪にはもうひとつの国譲り伝説が伝えられている。
一般的に、国譲り伝説といえば、大国主が天津神に葦原中国を差し出すエピソードである。この際に、大国主の息子である建御名方神が了承せず、天津神である武甕槌命と力比べをして敗北し、諏訪まで逃走し、「この地からは出ないから殺さないでくれ」という命乞いをする。(このエピソードが載っているのは古事記のみである。日本書紀にも出雲国風土記にも載っていない)
この建御名方神の諏訪逃走劇を別の角度から考えると、諏訪という土地の特殊性が浮き彫りになる。
つまり、建御名方神が諏訪へ逃げ込んだ、という逸話は、諏訪から見れば、建御名方神に象徴される出雲系の稲作民族の侵入に他ならない。建御名方神率いる稲作民族が諏訪に侵入した際に、洩矢神に象徴される狩猟系先住民族が天竜川河口で迎えうったという言い伝えが諏訪には残っている。この際に建御名方神は藤の蔓を手に、洩矢神は鉄の輪を手に戦うのだが結局、洩矢神は負けてしまう。古事記で負けた神が諏訪では勝つ側として描かれている。
しかし、実情は「洩矢神は負けることによって出雲系稲作民族との共存、もしくは容認という形を選んだ」のであり、決して諏訪が出雲系稲作民族に占領されたわけでなさそうだ。その証拠に、「御柱」という古代祭祀の形式が現在まで残っており、洩矢神を祖とする神長官(後述)を中心とする諏訪独特の祭政体は明治5年まで続いていた。もし、本当に洩矢神を筆頭とする諏訪の勢力が負けていたなら、出雲と、その背景にある大和の力によって諏訪は現在のような特殊な古代祭祀形態は保っていなかったはずである。
神長官 守矢一族と現人神 諏訪氏
前述の通り、建御名方神が諏訪へ侵攻していた際に、迎えうった洩矢神の末裔が守矢一族である。神長官を含む五官祝(諏訪大社上社における神職の名称。神長官、祢宜大夫、権祝、擬祝、副祝)という制度は神社が国家神道へと変遷し制度改革の行われた明治初期になくなってしまったが、その血が絶えていないことは記述してきた通りだ。『しおり』に寄稿している守矢早苗氏は洩矢神から七十八代目である。参考までにあげれば、出雲大社の千家宮司が現在、八十四代、海部氏家系図で有名な籠神社宮司は、現在、八十二代である。いずれの社家にも劣らない。
守矢氏の祖先は、現在の前宮周辺に居を構えていた。その後、建御名方神の子孫である諏方氏に前宮を譲ると、現在の守矢家と守矢史料館のある高部扇状地に移る。この高部扇状地そのものが高部遺跡であり、縄文時代から中世までの人々の生活跡が発掘されている。古墳時代には諏訪地方の豪族の墓城でもあった。実際、この付近を歩いたが扇状地のあちこちに古墳や小さな祠(どんな小さな祠にも御柱が立っている)が点在し、少し奥に分け入れば磐座信仰の名残を残す小袋石が祀られている。古代よりここが重要な信仰の場所であったことが伺える。
前述の通り、諏訪大社の祭政体は現人神・諏訪明神に降りて来るミシャグジ神を中心に営まれてきた。そのミシャグジ神の祭祀権を持っていたのが守矢神長官家であり、ミシャグジ上げやミシャグジ降ろしの技法を駆使して祭祀を取り仕切ってきた。この守矢家の神長官の秘法は、「真夜中、火の気のない祈祷殿の中で、一子相伝により『くちうつし』で」(『しおり』の守矢早苗氏の文章より引用)伝承されたという。この一子相伝、くちうつしの秘法は七十六代実久氏で終焉を迎える。
一方、建御名方神の子孫である諏方氏は「大祝」という生神(つまり諏訪明神の依代)の地位に着く。諏方氏が最初に居住し、祭祀を行っていたのが現在の前宮である。ここに諏訪大社の発祥を見ることができる。
しかし、大祝は事実上の祭祀権を握ることはなかった。なぜならば、諏訪氏が諏訪明神になるには、神長官守矢氏の力が必要であった。筆頭神官である神長官の降ろしたミシャグジを身につけて初めて、現人神大祝=諏訪明神になれたのだ。そして神降ろしの力や、神の声を聞く力は神長官のみが持つとされており(つまりミシャグジ祭祀は神長官のものであったために)この地の信仰及び政治の実権は守矢家が持ち続けていたのだと守矢早苗氏は言う。
諏方氏はその後、系譜が曖昧になるが、伝承によると、806年、諏訪明神が桓武天皇の皇子、有員親王に神衣を着せて「我に体なし、祝をもって体をなす」と神勅をくだし、大祝の中興の祖となる。現在の諏方氏の祖はここに起原を持つ。その後、また系譜が曖昧になるも、十六代頼信から現在まで諏方氏は続いている。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
日本の神社に祀られている神は大きく天つ神と国つ神に分けることが出来ます。
国つ神は自然界の精霊や地霊、先住していた人々の祖先神です。
天つ神は高天原に生まれた神々を子孫とする氏族が祀る神です。
天つ神は天孫族と称し海(アマ)の彼方から渡ってきた神(渡来人)のことでもあります。
紀元前5世紀から紀元後3世紀までの弥生時代の間に、海を渡って様々な地域から日本列島に渡来して来た人々がいました。
日本の弥生時代は天つ神と国つ神の二重構造になっています。
先に渡来してきた人々と、後から渡来してきた人々との間で勢力争いがあり、権力の正当性を腐心するために、国つ神が天つ神を詐称するということも起きたと思います。
『古事記』に製鉄を行った鍛冶の神として天津麻羅(あまつまら)が出て来ます。
天津麻羅(あまつまら)は天孫族ではないので神や命(カミ・ミコト)の尊称がもちいられずに呼び捨てにされています。
天津麻良はニギハヤヒが天磐船に乗って降下する時、お供した五人の中の一人であり、物部系氏族の祖神となっています。
また天津麻羅(あまつまら)は天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同神とされ、天の岩屋戸に隠れた天照大神を導き出すため、伊斯許理度売命(いしこりどめ)とともに、八咫鏡を作り、「鉄鐸(さなぎ)」という鈴を作った神でもあります。
奈良県磯城郡田原本町の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)は伊斯許理度売命(イシコリドメ)が中央に祀られていました。
伊斯許理度売命(いしこりどめ)は日本書紀では石凝戸辺(いしこりとべ)と書くので冶金を扱う部族の女性首長だったのでしょう。
古代は母系だったので女性がリーダーでしたが男性原理が強くなると女性はタタラ場から締め出されてしまいました。
アニメもののけ姫に出てくる工房集落『タタラ場』のエボシ御前はイシコリドメがモデルだったかもしれません。
鍛冶職人に信仰される神は金屋子神(かなやごかみ、かなやこかみ・金山姫)という女神で天目一箇神と同神とされています。
鍛治をあつかう氏族は天目一箇神を祖霊神として信仰して来ました。
宮城県多賀城市のアラハバキ神社(荒脛巾神社)の隣では、鍛冶・製鉄の神天目一神を祀っていました。
「海部氏勘注系図」によると天目一箇神は、滋賀県野洲の御上山に祀られている天之御影神(あめのみかげのみこと)と同一神で、海部氏(あまべ)の祖先に当たります。
『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条には、天目一箇神が女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)と天目一神との間の子と記されています。
道主日女命(みちぬしひめのみこと)は、「海部氏勘注系図」で天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻とされています。
神武天皇は、大物主と勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との間に生まれた娘を、皇后にしています。
奈良市最古の率川神社(いさがわじんじゃ)は、媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祀っています。
日本書紀で媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)は、古事記で富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすずひめのみこと)別名が比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)といいます。
大阪府茨木市五十鈴町の溝咋神社は、母の富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめ)別名玉櫛姫(たまくしひめ)と娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)と父親の三島湟咋(みしまみぞくい)を祀っています。
日本書紀は事代主神が三島湟咋(みしまみぞくい)の姫のもとに通って媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)を生んだとあります。
事代主神は製鉄氏族の賀茂氏の祖神で溝咋神社の近隣に鴨神社が鎮座しています。
鴨神社と溝咋神社の近くには弥生時代の集落跡である「東奈良遺跡」があり、そこでは銅鐸の生産が行われていました。
たたら製鉄は、5000年前のアナトリア先住民「ハッティ」を起源として鉄の道(アイアンロード)を通って、中央アジアから日本に来ました。たたらは、インドで熱をタタトル、モンゴル系部族のタタール(韃靼)は猛火をタターラと呼びます。そして、ヒンディー語で鋼をサケラーといい出雲で鋼をケラといいます。
このことから、たたら製鉄法はインド経由できたとも、いわれています。
火のことを〈ホ〉と呼び、製鉄で火を起こす火鑽臼(ひきりうす)のくぼみを〈ホト〉といいました。
神武皇后の母ホトタタライススキ姫(富登多多良伊須須岐姫)のホトとは女性器のことです。
炉を熱して砂鉄を溶かし、炉からドロドロの真っ赤な鉄を流すことを〈ホト〉を突くといいます。
たたら製鉄は〈マラ〉と呼ばれる鍛冶師が巧みな技術で〈ホト〉を突いて生まれた和鉄という子宝をイシコリドメという産婆が取り出すという比喩になっています。
古代の天皇家は、タタラの技術を持っていた物部系氏族から皇后を迎えていました。
製鉄集団は鉄を神として祀る風習がありました。
東北には物部氏とたたら製鉄に関する痕跡が残されています。
アラハバキ神は、大和朝廷の文献である『記紀』および『風土記』などにはまったく登場しない、出所が不明な謎の神とされています。
アラハバキ(荒覇吐、荒吐、荒脛巾)の名前がついた神社が東北にいくつかあります。
宮城県大崎市岩出山の荒脛巾神社(アラハバキ神社)の地名は、荒脛巾でバス停の名前も荒屋敷です。
武蔵一宮氷川神社でアラハバキ神は客人神(まろうどがみ)としてまつられています。
客人神とは神社の建つ前の地主神、つまり土着の神です。
アラハバキが、現在のトルコのアナトリア半島の古代ヒッタイトの先住民ハッティ人(紀元前3千年-紀元前2千年)のハッティ語の鉄を意味するハパルキから来ているという説があります。
アラハバキ神を祀る津軽半島の洗磯崎神社は以前に荒覇吐(アラハバキ)神社と呼ばれていましたが、そのご神体が鉄鉱石だといわれています。
荒覇吐の「荒(アラ)」は、山伏やタタラでは「鉄」を意味し、蛇はハハ、ハバとも呼ぶのでアラハバキ神は鉄の蛇ということになります。
大和朝廷と戦った蝦夷(エミシ)たちの刀は蕨手刀(わらびてとう)と呼ばれ都に負けない優れた製鉄技術が蝦夷(エミシ)にありました。
蝦夷(エミシ)鍛冶の蕨手刀は日本刀の元型と言われています。
アラハバキ神を氏神としていたのが蝦夷の安倍氏です。
『陸奥話記』には、安倍貞任の与党賊徒のなかに、藤原経清、とともに物部惟正という名が出てきます。
製鉄技術を持っていた物部氏と縄文の末裔が混血したのが蝦夷なのでしょう。
安倍氏はニギハヤヒを祖先とする登美の長髄彦の兄アビヒコを先祖としています。
丹内山神社の神は、滝ノ沢神社の敷地内にある滝に顕現したという文献があり丹内神社には早池峰山拝石が置かれています。
丹内山大神とは早池峰大神である瀬織津姫のことで、丹内山神社は瀬織津姫を祀っていたのです。
丹内山大神を崇敬した藤原清衡の母は安倍氏の血を受け継いでいました。
アラハバキ神を祀る神社の多くに磐座があり、おそらく古代では岩の上で巫女が祭祀をおこなっていたと思います。
沖ノ島の岩上祭祀の最古の時代に鉄製品が祭祀品として使われていました。
鉄が入ってくると人々はその輝きに神の神聖さを感じたと思います。
アラハバキ神とは、蛇を信仰していた縄文の人々と、大陸から製鉄技術をもっていた人々と、混血した神なのかもしれません。
岩手県北上市に藤原秀衡が先祖の霊を久那斗権現として祀った伝えられているクナト神を祀る久那斗神社があります。
初代藤原氏の母方は安倍氏で先祖はニギハヤヒに繋がります。
茨城県の古社息栖神社(いきすじんじゃ)も岐の神(くなどのかみ)を祀っています。
息栖神社の伝承では鹿島、香取の神を先導して出雲の神からの国譲りに成功したとされています。
出雲大社から徒歩約10分のところに、出雲大社の境外末社として岐の神(くなどのかみ)を祀る出雲井神社があります。
縄文から継続してきた聖地に祀られていた岐の神(くなどのかみ)は後から来た渡来の神に追い払われたのでしょう。
諏訪地方では縄文時代の遺跡から男性器と女性器を象徴していた棒や石皿や丸石などが出土していますが、諏訪信仰ではミシャグチ神と呼ばれ、ご神体として奉られています。
縄文時代の石器が、後に道祖神や賽の神、クナドの神になったのではないかといわれています。
婚姻史研究の高群逸枝によると、クナドのクナは婚交の義でドは所、つまりクナドは女系集落の境のヒロバでの族外婚の場所を意味すると述べています。
クナドとは交通の要所で他の集落との交易や異性が出会い結びつく場所でもあったのです。
キャサリン・ブラックリッジ『ヴァギナ 女性器の文化史』によるとアイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰という話も伝わっています。
岐の神(くなどのかみ)は辻の神(つじのかみ)、塞の神(さいのかみ)、道祖神の原型とされています。
『日本書紀』で、イザナミから逃げるイザナギが「これ以上は来るな」と言って黄泉津平坂(よもつひらさか)で、投げた杖(古事記では禊をしたイザナギのふんどし)から来名戸祖神(くなとのさえのかみ)が生まれたとしています。
黄泉津平坂(よもつひらさか)はあの世とこの世の境界でした。
縄文時代の精霊信仰は弥生に移行するとクナト神やアラハバキ神となり、古墳時代になると日本神話に登場する祖霊神へと置き換えられていったのでしょう。
宮城県多賀城の荒脛巾(アラハバキ)神社(阿良波々岐明神社)は布の脛巾(はばき)の名前から足の神様として信仰されていますが、ここは大和朝廷の蝦夷征伐の拠点として造営された城柵があった場所です。
アラハバキ神の神社は、全国に150社以上ありますが、たいていは摂社、末社として小さな祠に祀られています。
権力構造が変わり本来の祭神が、後からきた神にその座を奪われる例は世界中にみられます。
東北の地は、大和朝廷以前の縄文時代にさかのぼるアニミズムの信仰の地でした。
蝦夷と呼ばれた東北の民は文化と神話を奪われ、大和朝廷に同化して姿を消しました。
明治政府は、天皇家の祖霊を最高神とする神社を頂点にした神道の中央集権を進めました。
名もなき氏神を祀(まつ)る小さな神社や祠や道祖神などは、真っ先に廃止の対象となり姿を消しました。
アラハバキ神は神社の社格では最下層に置かれていました。
クナト神やアラハバキ神は、大和朝廷成立以前の先住の人々に信仰されていた神だったので、天孫神話の神に追い払われましたが、完全に消し去ることは出来なかったので、痕跡が今日まで残されたのです。
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