ウロボロス

ウロボロスは1匹の蛇が尻尾を噛んだ図で円(無限の循環)を象徴します。

蛇と龍は同じ生き物とされてきました。しかし円を形作る龍は今まで見たことがありません。

龍は殆んど2頭で描かれています。

2頭の龍が絡んで無限大となるイメージが頭から離れません。

龍は魂を守ると言われます。DNAの螺旋はメビウスの輪を思わせます。

円も無限大も無限の象徴でありながら 何が違うのでしょう?

無限大からは振り子の繰り返しを連想し、公転の中の自転のエネルギーの動きを連想します。然し竜巻は渦。天地創造も渦から始まったと、多くの神話は語ります。

タロットでもレムネスケート(無限大)と円が使い分けられていると思うのですがどのように違うのか解りません。

どなたか教えていただけると幸いです。


Facebook森城 佐恵子さん投稿記事

明晰夢レポ:インナーマスターとの質疑応答で、ウロボロスの絵を見せられ、その口を「ホワイトホール」であることを示されました。通常「ホワイトホール」を語られる時は、ブラックホールの反転位置として「入口(ブラックホール)と出口(ホワイトホール)」として描かれますが、ウロボロスにした場合、ゼロポイントとそれ以前の次元を次ぎなる次元が飲み込みはじめていることを現していました。二元性を超え(つまり光に飲み込まれ)、トータルな世界へと入りはじめているのがはっきり感じ取れました。まさにツァラトストラの永劫回帰の世界ですね。

そのあと、大きなホールで卒業式を終えて後片付けしてる実相界の映像に移っていきました。

〜今はそのようなプロセスにいるんですね〜


https://ameblo.jp/kyat/entry-10018036502.html 【ウロボロス…土喰らうその土さえも命なる】より

「座乱読後乱駄夢人名事典・歴史上のお友達? 」を覗いていたら、どの記事もその画像などが楽しくて、つい前の記事まで遡ってみてしまった。

 すると、「ウロボロス 」という項に目が留まった。

 古来より各地でいろんな意味合いを篭められつつ継承されてきた、興味深い(ある種の)シンボルなので、小生も以前、何かの短編の中で使ってみたことがある。

 上掲の頁にも、「自分の尾を自分で食う蛇・・というのがウロボロスの概念で、中世では死と再生を繰り返す円環として、死して復活するキリストにたとえられたり、あるいは錬金術などでは、完全・世界を現すとされたりしました」など、以下、ウロボロスについて簡潔に纏められている。

→ 「ウロボロス - Wikipedia 」より

 小生としては、もう少しウロボロスの周辺を巡ってみたい。

 例によって、ネット逍遥の手引き乃至は手掛かりにしようと、「ウロボロス - Wikipedia 」を覗いてみるが、「ウロボロス (Ouroboros) は、古代の象徴の一つで、己の尾を噛んで環となった蛇もしくは竜を図案化したもの」とか、「世界創造が全であり一であるといった思想を表し、グノーシス派などが用いた。他にも終わりが始まりになる円運動、永劫回帰や陰陽など反対物の一致など、意味するものは広い」とあるが、珍しく情報が少ない。

 それでも、末尾に「今日の無限大の記号(∞)のモデルとなった」とあったのが興味深い。

 ただ、掲げられているウロボロスの像からどうやって今日の無限大の記号(∞)に成り代わるのか、分かるようで分からない。

「東京大学総合研究博物館ニュース 」のシンボルマークにもウロボロス像 が使われている。「Ouroboros(ウロボロス)とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。

始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています」といった説明はあるものの、一体、この画像は誰によって描かれたものなのだろうか。何処に典拠があるのだろうか。

What2

← 京大学総合研究博物館ニュース 「Ouroborosとは」 より

 ネット検索してたら、「ぼくのWeblog  ニ卵性双生児のウロボロス 」という頁に出会った。

「パトゥーカの古い伝説によると、ひとりで死を迎えることになる男のもとには、死の使いが訪ねてくる。死を怖れぬように、という配慮なのだが、それは別れた家族や、古い友人の姿をしている」以下、この頁の記述自体が読んで面白い。

 すると文中にて、「美しい画像を見付け次第メモする - 「始まりも終わりも無い」ウロボロスが好きだ 」という頁へリンクしてくれている。

 幾つか興味深い図像が載っているのだが、その冒頭に「無限大の記号(∞)のモデルとなったウロボロス」ということで、無限大の記号(∞)の元に(?)なったと(少なくとも関連が)推測される図像が掲げられている。ウロボロスというと、大概は蛇(竜)によって象徴されるのだが、その蛇(竜)が8の字が横になった形の図なのである。

 ただ、この図だと、蛇(竜)は一匹で、それが8の字の形を描いている。それはそれで瞑想を誘わなくもないのだが、これでは円環の延長の一種に過ぎなくなるような気もする。

 と思っていたら、「『信のたわむれ』 《情熱のウロボロス》 哲学日記-ウェブリブログ 」の中に興味深い記述を見つけた。

「キリスト教という共通基盤を持ち、かつ、仏教、特に禅の深い理解者たち」である「八木誠一と滝沢克巳」の思想に関連する話の一環でどうやら、八木誠一と滝沢克巳、あるいはそこに久松真一が加わっての、三竦み(さんすくみ)の状態が扱われているようだが、、その話には深入りしない(できない)。

「三竦み(さんすくみ)  」とは、「蛙(かえる)は蛇を、蛇はナメクジを、ナメクジは蛙を、それぞれ恐れてすくむこと」あるいは「三者が互いに牽制(けんせい)しあって、だれも動き出せないこと」(状態)を意味する言葉である。

 要は、「二匹のへびを円環状に配置させ、互いの尾尻が互いの頭にくるようにすることによって得られる構造、すなわちウロボロス、情熱のウロボロスとしてイメージすると分かりやすい」というわけだ。

 そして、「二匹が同じ、つまり互いに相手を喰いちぎるスピードと量が等しい場合、言い換えれば、両方の立場がその強さ、深さ、広さ、一言でいえばその根源性において等しい場合、いくつかの帰結の可能性が考えられる」として、話が展開されていく。

「無限大の記号(∞)のモデルとなったウロボロス」像というのは、一体、一匹の蛇(竜)が8の字の状態になったものを図案化したものなのか。あるいは二匹(それとも三匹、もしかするとそれ以上の蛇たち)が互いの尻尾をまさに喰わんとしている状態を象徴しているのか。

 さらには、一匹の蛇(竜)であっても、双頭の鷲がいるくらいだから、双頭の蛇(竜) 、さらには頭は一つであっても尾っぽが二本の場合だって考えられる。

 それどころか、一匹の蛇(竜)がよじれて円の状態になっている、メビウスの輪という位相をも考えてもいいわけだ。

 まこと、ウロボロスは罪深いイメージ喚起力を持つ!

11328605253

→ エッシャーのウロボロス

 それとも、それほどに現実自体が捉えどころのない、「平家物語などで、源三位頼政に射殺されたという怪物。頭は猿、体は狸、尾は蛇、脚は虎に、それぞれ似ていたという 」鵺(ぬえ)だということか。

(『古事記』での八岐大蛇(やまたのおろち)のことは、ここでは思い浮かべもしない。)

「美しい画像を見付け次第メモする - 「始まりも終わりも無い」ウロボロスが好きだ 」(「ぼくのWeblog  ニ卵性双生児のウロボロス 」)という頁には、「エッシャーのウロボロス」像も載っている。

4826900252094

← ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 』(白揚社)

 エッシャーが登場すると、話は一層、輻輳する。もう二十年以上も昔、エッシャー展に行った際の眩暈のするような感覚、あるいは、エッシャーというと思い浮かべる本のうちの一冊、ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 』(野崎 昭弘/はやし はじめ/柳瀬 尚紀 訳、白揚社)などに言及するしかなくなる!

 この本、日本においては、まさにバブル経済に突入する最初の年1985年に刊行されたのだった。

(バブル…。泡。ウロボロスの環を何も円(たとえそれが二重であっても)に限る必要などないわけで、球状という様相を想定してもいいはずだ。現実というのは点、線、面、立体、さらには四次元やそれ以上の位相空間がありえるわけなのだし。でも、そうしたことも、ここでは我が手に余るし、想定の外に置いておく。)

 この本は、数学や論理学、記号論その他が苦手でも、一読の価値はある。エッシャーの絵を眺める楽しみはあるし、バッハの曲を何かしら流しながら、読みつつ瞑想…という名の居眠りに落ち込んでいくのも愉しからずや、である?!

4826901259015

→ ダグラス・R・ホフスタッター著の『ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環 』(白揚社)……20周年記念版 が出ていた! 今も読み継がれている!

 余談だが(この記事自体が余談?!)、小生は「エッシャーの騙し絵」という呼称が好きではない。上記したように、現実というものはエッシャー以上に鵺的な世界だと思う。エッシャーは、むしろ、現実を理解する、ある種の明快な通路(ルート)の幾つかを示したに過ぎないのではなかろうか。

 実体験、観察、感情、瞑想と、現実に迫る道は様々にある。様々というより、際限のないほどのルートがあるということの証左の一つに過ぎないのではないかと思われるのである。

4409590111096

← 吉野 裕子著『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰 』 (人文書院)

 さらにネット検索していくうちに、「So-net blogカイエ蛇と聖ゲオルギウスと時間 」なる頁に遭遇。

 ここでは、吉野 裕子著の『山の神―易・五行と日本の原始蛇信仰 』 (人文書院) などが参考にされていて、記事自体が面白く、一読の価値がある。

 吉野氏は、「神社のしめ縄は、交合している二匹の蛇である」と言うのだが、なるほど、上記したように野暮な三竦みばかりを想う必要はなく、「交合している二匹の蛇」のほうが、生々しい!

「蛇は何度も脱皮を繰り返すことから再生と不死身のシンボルであり、強い治癒力の象徴でもある」といった蛇への思い入れは古来より日本に限らずされてきたようである。

 蛇が忌み嫌われるのも、その形や土の中、家の床下など、住む場所にも関係するのだろうが、その殺しても殺しても生き返ってくる(かのような)不死性への嫉妬と恐怖の念も預かって大きいのかもしれない。

(余談だが、小生は以前、蛇を想って、「嫌われて床下 潜む守り神」といった迷句を作ったことがある!)

 紹介した頁で小生が一番興味深かったのは、「ウロボロスは、自らの尾を喰らう円形の蛇または竜として表される。円は、永遠の循環、すなわち、終末が、始点につながる永劫回帰を象徴し、天地創成神話やグノーシス派では、「世界創造が全にして一であること」を示す象徴として使われている。また、錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」という、まさに、後段の「錬金術においては、原初のカオスに対立する、秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」点にある。

 なるほど、ウロボロスは、「秩序世界や、宇宙の永続性や循環性を象徴するという」コスモスそのものの象徴なのだった。

 さて、ここらで最初の記述「Ouroboros(ウロボロス)とは、自分の尾を噛んで環を作る蛇または竜で表現されるシンボルをいいます。始めと終わりがないことから、自己の消尽と更新を繰り返す永劫回帰や無限、真理と知識の合体、創造など幅広い意味を持っています 」に戻ろう。

 思えば、人は過去の遺産を喰って生きている。石炭、石油、天然ガスなどのいずれにしても、「動物や植物の死骸が地中に堆積し、長い年月の間に変成してできた有機物の燃料 」である化石燃料に他ならないわけで、「その燃焼に伴い、地球温暖化の原因とされる二酸化炭素や、大気汚染の原因物質である硫黄酸化物、窒素酸化物などが発生」するのは別にしても、要は過去の遺物という尻尾を今に生きる我々が喰っているわけである。その尻尾は何も蛇(竜)などでははいにしても、大地であり大地の恵みの結果(象徴)のはずなのではないか。

706

→ 水上勉著『土を喰う日々 』(新潮文庫)

 われわれが直接口にするどんな食べ物も、見かけは洗練され糊塗されていても、何らかの生き物の変形であって、要するに生き物を食べていることに他ならない。

 水上勉に『土を喰う日々 』(新潮文庫)という本がある。副題に「わが精進十二ヶ月」とある。

 これは、「少年の頃禅寺で精進料理をつくり、かつ本を書いた時点でも自分で野菜達を作り料理を作り続けている作家」の本なのである。名著だと思っている。

 

「土を喰う日々」!

 言いえて妙ではなかろうか。我々は誰しもウロボロスの輩(ともがら)なのである、などと決め付けたりしたら野暮の極みなのだろうけれど、息をするだけで、大気中の無数の微生物を吸い込み殺してしまうことを想うと、菜食主義や精進料理など、小生には片腹痛くなる(体質で野菜しか食べれないなどの理由は別儀として)。

 生きているだけで、自分のものか他人のものか分からない尾っぽに喰らい付き、齧り、貪り、煮、焼き、ソースをかけ、大地を、この世を喰っている。

 その我々も、遅かれ早かれ灰となる。煙となる。霞となる。そうして土となって、土壌を肥やし養い喰われる立場になるわけである。

 

「世界創造が全であり一である」というグノーシス派の思想、「終わりが始まりになる円運動、永劫回帰や陰陽など反対物の一致」という表現をすると、やや仰々しいようだが、でも、ウロボロスといった観念は案外と素朴な現実の一端を捉えている象徴であるとは思っていいのかもしれない。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

意識の最初の発達段階は母親と一体化し何もせず無垢で至福に満ちた未分化の状態です。

赤ちゃんは欲しいものがすべて与えられる子宮という楽園の中にいました。

しかし、やがて、苦しい産道を潜り抜ける楽園からの追放がおきました。母親からの分離が起きたのです。楽園追放の神話は個人の無意識と関係していることを表しています。

乳児にとって母親の乳房は母子一体になっていた安全で幸福な楽園を想起させました。

生まれたばかりの赤ちゃんは自分自身と自分のまわりのものとの区別がついていません。

さまざまな出来事に気づいてはいますが分離した実体としての自己には気づいていないのです。

成長の初期段階をユング派の心理学者エーリヒ・ノイマンはウロボロス と言いました。

ウロボロスとは、尾を呑み込む蛇の姿で示されるギリシア語のouro(尾)とboros(呑み込む者)に由来します。

ウロボロスは始まりも終りもない円環構造をしていて、永劫回帰、無限循環、永遠不滅、生と死、創造と崩壊を象徴しています。

一歳頃までの乳児に欲しいときに乳房が与えられない不快な経験は不安、緊張、孤独感、無力感などの分離感をもたらします。

愛を求めて手ひどく拒絶された経験は世界が悪意と敵意に満ちていると感じさせました。

これが繰り返されると何の不安もない絶対的安心感(euphoria)を喪失して基底不安(basic anxiety)が形成されるのです。

人々は欠落感や不安を解消しようと、行動表現します。他人を操ったり支配して優位に立ち、自分に依存させようとする。相手が自分の意のままになることを常に期待する。

恋人が少しでも他の異性と話していると嫉妬をしてしまう。

自分を褒めてくれたり、認めてくれたり、受け容れられることを求めて人に近づく。

自分自身のために何かを求めることはせず、他人のためにだけ進んで事をなす。

自分で何も決められず、決断できず迷ってしまう。他者と関係を結んだりすることに過敏に反応したり避ける 異性と親密になることに恐怖する。

他人からの要請や依頼を支配的なものと受けとり一人でいることを好む。

心理学者のホーナイは不安から逃れるために次の三つのパターンがあると言っています。

他者に抵抗しようとする人々

他者に近づこうとする人々

他者から離れようとする人々

こうしてフロイトを後継した精神分析家達は母親との絆が断ち切られる経験が様々な人格形成を促すと考えました。

女性原理は子を包みこみ、守り養うことにあります。母親は子供の個性や能力に関係なく平等に愛します。

しかし、女性原理が行きすぎると包み込んで離れることを許さず子供の自立を妨げます。

自我意識が芽生えていくときの支配的な母は自分を飲み込んでしまう恐ろしい怪物(テリブルマザー/否定的母)となって現れます。

それは内なる子供にとって、見捨てられ、裏切られ、無視され、幻滅させられたと感じる体験に相当しました。

その痛みを自覚できない時、他者への投影が起きて女性に対する憎悪となってあらわれます。

母系社会から父系社会の移行期の神話に現れる女神は怪物となって英雄の前に現れました。

そして戦いが起きて女神は殺されたのです。

人間の心理が作用して人間の歴史は作られます。

女性原理は包み込み融合し、男性原理は分離を促します。

自我意識の最初は自分が母ではないと認識したときです。

成長の最初は危険か安全かを解釈する自己防衛的段階にあり、自分の衝動、生理的な欲求、および本能の発散以外の選択を持ち合わせていません。

自己中心的で他者の立場を考えることができません。

発達心理学では7歳頃から他者の立場に立つことができると言われています。

人生の前半期の自我はどうすれば力を持つことができるかにあり主に個人的・外面的な功績による成功の目標達成に向けられています。

人生の後半になって自我はようやく魂の全体性との調和を求めるようになります。

ユングは自我(ego)と自己(Self)を区別して広大な心の全体性を(Self)と呼び「人間の究極の目標は自己(Self)になることである」といいました。

男性の中の女性性をアニマと呼び、女性の中の男性性をアニムスと呼びます。

ユング派の心理学者のジェイムズ・ヒルマンはアニマもアニムスもどちらの性にもあるといっています。

ユングはアニマとアニムスに四つのレヴェルがあるといっています。

1、逞しさや力強さの力のアニムス

2、決断力や実行力の行動のアニムス

3、表現力や人を動かす言葉の力、言葉のアニムス

4、人生の本当の価値や真実を教えてくれる意味のアニムス

1、セクシュアルで性的な魅力を持つアニマ

2、ロマンティックなアニマ

3、聖母マリアのような神聖なアニマ

4、至高の智慧(ソフィア)を表すアニマ

アニマとアニムスのレヴェルは物質的な粗大な領域からより微細な領域への段階を示しています。

自我は(エゴ)は最終的に智慧(ソフィア)を獲得することによって本当の自分(セルフ)に目覚めるのです。

神秘主義でエゴと全体の神秘的合一はウニオ・ミュスティカ(unio mystica)と呼ばれます。

キリスト教神秘主義の聖婚(Sacred Marriage) に至る段階は「交際」「婚約」「結婚」に例えられます。

「私の心と人間性が欲したように、私の体は隅々まで 至福のうちに彼の体を感じ、私は満たされて恍惚状態になった。私は少しのあいだそれに耐えるる力をもっていたが、すぐにその美しい男性の姿を見失った。そのとき彼は徐々に消え、完全に溶け去ったので、私はもはや彼を私の外に求めることも、内的に彼を識別することもできなかった。その瞬間、私たちは区別なく一体化していた。」13世紀の女性神秘家ハデウェイヒ

聖なる結婚にいたると魂は永遠の愛という絶対的安心感(euphoria)の中でくつろぎます。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

0コメント

  • 1000 / 1000