FacebookJUNCORO【official】投稿記事
「分離した私」「幻想の私」なんてものを相手にして、それを癒そうとしたり、落とそうとしたり、解放しようとしたり、頑張ってしまっている皆さんへ❤️
そういうものは、そもそもどこっにも実在してませんからね😄
そういうものを癒そうとすることをただやめれば、癒す必要があるものなんてそもそもどこにもないということも明らかになります。
癒そう、落とそう、解放しよう、なんてやればやるだけ、そんな「私」が、あたかも実在しているような思い込みを強めてしまうだけで、真相がハッキリすることはありません。
わざわざ、真相が絶対にハッキリしないように、必死に努力しているようなものです笑😆
私がいるとか、分離した私があるとか、そういう思いが、あるときあるだけで、ないときないっていうだけです。
「全体としての私」なんてものも、同じことです。笑笑笑
そういう思いが、単純に、ある時にあったというだけです。
全体としての本当の私、なんてものを考えの上で実体化させ、それに目覚めなければいけない、目覚めるためには自我としての私を癒さなければならない、という考えを相手にすることを、やめてみてください。
意識のシフトなんてものを期待している方も多いですが、シフトなんて必要ありませんよ!!笑笑笑
シフト前もシフト後も、意識の範囲(認識の範囲)なんだったら同じことです。爆
本当の私ではない自我としての私、なんていうものがあるということを土台にして、そこから自我の自分の問題にカタをつけようとアプローチしている限り、あたかも”自我の私”と”自我の私の苦しみ”が実体としてそこにあるように錯覚し、決着しません😊
いきなり、私なんてもん無しで、事実があるんです。
もう決着してるんですよ😄
何かが起きるのを待つ必要はありません。
そのことをハッキリさせたいんだったら、ハッキリさせるために、自ら意図してなにかをする必要はありません。
自分なんてものを認めた上で、意図的に、その自分を癒そうとしたり、自分を捨てようとしているから、真相がハッキリしないだけですからね😊
JUNCOROがお伝えしているチンメソ実践の内容というのは、これから何かをしていく実践ではありません。
すでに実践されている皆さんも、最初は、これまで実践してこられた瞑想や、様々なメソッドをしてこられた習慣に引っ張られ、どうしても思考を見張っていたり、思考が出たら気づこうとしていたり、それから離れようとしていたり、静寂であろうとしていたり、何かをされています。
そしてそのことに、なかなか自分では気づけないので、チンメソ実践しても余計苦しい、という方も少なくはないです。
が、その間違いにしっかり気づいて、本当に余計なことをせず、言われた通りのそのままの実践をし始めた方々は、皆さんすぐに事実に触れられます😊
坐禅を学んでいる方に多いですが、事実に触れるだけでも何十年もかかるものだと思い込んでいる方も時々いらっしゃるのですが、そんなことはありませんよ!😊
チンメソ実践で、一度はっきり事実に触れて確信を得たあとは、もう、本当に今の事実のまんま任せきっていくだけでいいことが分かりますので、実践に迷いがなくなります😊
(任せよう、としているのとは違いますからね。)
ほんと、だれでもやれることです😊
「チンメソはなにもしないとのことですが、私は、とても不安感や緊張感が強いのですが、悟るためにこんな自分の感情を本当に癒さなくてもいいんですか??観念を浄化したりもして来ましたが、やはりずっと辛いんです。もうなにをしても私は駄目なんじゃないかと思ってます。」
というメールをくださった方がいらっしゃったので、同じように辛く感じてらっしゃる方に届くことを願いつつ😊🙏🏻💓
すでに決着していることがハッキリすれば、どなたでも、どんな状況でも、ほんとに安心して、気楽に生活できますよ😊
よく巷で言われてるような、安心安楽の境地、悟りの境地、なんてところに至って、そんな”境地”で ”私が”生きるんじゃないですよ。笑笑笑
幸せやな〜 楽しいな〜 嬉しいな〜 嫌やな〜 怖いな〜 悲しいな〜
そんな思いが、そのときそのときあるだけです。
(あるといっても実体はないんです)
真相のそんなありようによって、楽しかろうと悲しかろうと、楽だろうとしんどかろうと、ほんとに今救われきった、気楽な生活なんですよ😋❤️
(らくちんこ〜(笑)言うても、らくちんこな境地とかで生きてるんじゃないですよ✋🏻)
自分から自分を改善しようとするのをやめたら、自ずと、落ち着きます😊
今辛い方、苦しい方も、大丈夫ですからね。
Facebook内山 真理子さん投稿記事「死の恐怖に関する考察」
・先日、クライアントさんから死の恐怖にいかに対応したらいいかというご質問を受けて、色々思うところがありました。 ・
私個人としては、死ぬまでに苦しかったり痛かったりするのは恐いけれど、死そのものに対する恐怖というのは昔からなくて、世の中の結構多くの人が死ぬのが恐いと言っているのがどうにも不思議でした。 ・
また、セルフワークで出てきたある人生で、死んでいく瞬間の経過を刻々と経験したこともあるのですが、自分の体が徐々に機能を停止していく様や、この人生にもう二度と戻って来られない、明日の予定も、来年の約束も、もう果たすことができないという、何とも言えない気持ちも湧いてきましたが、そこに恐怖はありませんでした。 ・
多くの人は、本当のところ、一体死の何に恐怖を感じているんだろう?と思って、Facebookのお友達の皆さんに死ぬことは恐いですか?恐いとしたら、死の何がどんなふうに恐いですか?と質問を投げかけてみました。 ・
ご回答くださったみなさま、ありがとうございました!
心から感謝申し上げます(-人-) ・
結果、ざっと見ていくと、一番多かったのはやはり死ぬまでに苦しむのは恐いけれど、
死そのものは恐くない、という答えでした。 ・
次に多かったのは、死は全然怖くない!という方たち。(生きてる方が恐いとか。笑) ・
次は、自分が永遠に無くなる恐怖でした。 ・
個人的には、なんで自分が無くなることが恐いのか腑に落ちないのですが、自分がないのなら、苦しむ自分も恐怖に慄く自分もなく、自分が誰かの心から忘れられていく淋しさや孤独もないわけで、恐い理由がないと思うのですが、これは実際に私もその状態になってみないと
自分がどう感じるかはわかりませんね。 ・
幼少時に身近な人が亡くなって火葬されたときにひどくショックを受けられたという方も複数いらして、個人とのつながりが深いほど、強烈な印象が刻まれるようです。 ・
余談ですが、よく意識の目覚めとか悟りの延長線上で語られることのある「無」とか「空」とかの言葉。ヨーガの大家、成瀬雅春先生によると、「無」と「空」は明らかに意識の感覚が
違うというようなことをご著書の中で書いておられて、このくらいの達人になると、概念的に語られることの多い意識状態も、厳密に体験されるのだな~と
「無」も「空」も体験したことのない凡人の私は、感嘆しきりだった覚えがあります。「無」を体験できるということは、そこにそれを体験している意識があるわけで、「自分が無くなってしまう」と感じる体験も、実際のところは「自分」と考えるものはなくなるけれど、
別の何かは継続してあるものなのかな、と思いました。 ・
その次は、成人前のお子さんをお持ちの方でお子さんを残していくこと、彼らが嘆き悲しむのが恐いと。その方たちに、ではお子さんが成人されていた場合はどうですか?とお聞きしたところ、それなら恐くない、とのことでした。 ・
親御さんは、何としても子供を育てなければ!と必死の思いで子育てされてるんだな~と胸が熱くなりました。 ・
やり残したことがあるのも嫌というのも、これと同じ括りでしょう。 ・
後は順不同で、大切な人と離れるのが恐いとか、他人に迷惑かけるのがこわいとか、自分の存在を忘れてしまわれるのが恐い、未知だからとにかく恐い、死後の世界が地獄だったら恐ろしい、 することなさそうでつまらなそう、などなど。 ・
また、熊のうじゃうじゃいる東北の山で日没寸前に遭難しかかったという方からは、遭難状態で闇が迫ってくる恐怖という生々しいお話が聞けました。 ・
闇が死を象徴するものとして迫って来ていたとのことだったのですが、個人的には、闇そのものは恐怖だろうか?という疑問も浮かんできました。 ・
以前、目を開けても閉じても真っ暗な完全な暗闇の環境で瞑想したことがありますが、別に恐怖はなかったです。 ・
安全な空間で、限られた時間内だと分かっていたとしても、だとしたらなおさら、闇自体は恐怖ではないんじゃないか、という気もします。 ・
もしそうだとしたら、死への恐怖の本質は、別のところにある可能性もあるように思えます。未知への恐怖というのも、私は個人的に、全く分からないものに対しては反応できない、つまり恐怖すら湧かないで???ってなると思うので、未知だから必ずしも未知を恐怖に感じるはずとは思っていないのですね。
生物的な本能だと言っても、それは生物発生以来DNAに刻まれた様々な経験の蓄積データから、未知に何かしらを投影して自分に害をなすものかもしれない等と反応しているだけだと捉えています。 ・
まぁ、道行がわからないと難儀するという恐れは昔からあったわけで、そういう不安を解消するために死後はこうなっていてこんな風なことが起こってくる、というガイドブック的な教えや儀式なんかも、世界各地でありました。
今だったら、「地球の歩き方」ならぬ「死後の世界の歩き方」なんて一冊にまとめておいてくれたら、結構売れるかもしれません。笑 ・
いずれにせよ、今回のアンケートはとても興味深かったです。 ・
引き続き考察して、機会があったら何か書いてみようと思います。
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 東京大学・医学部生への私の授業 】
私は、都内の小さなクリニックを経営するどうということもない普通の街の医師にすぎません。そんな私も、縁あって、東京大学医学部の最終学年である6年生の臨床実習の指導を担当させていただいております。(担当は地域医療、特に在宅医療に関して)
毎年100名弱しか入学できない最難関に合格しもちろん、私より、知識も、思考力も忍耐力も
はるかに優れたみなさんに何かを伝えるのは正直言って、相当骨が折れることです。
しかし、いまは、私だけでなく私のクリニックの他の医師も、学生さんたちが実習に来るのを
楽しみにしています。私が、学生さんひとりずつに時間をとって教えていることを、特別に、その一部だけ公開いたします。
授業の要点は、「人間の苦しみとはなにか?」ということです。人間の数だけ、人間の痛み、悩みがあるでしょう。
ですから、その結果として生まれる「苦しみ」を、端的に定義するのは、難しいことです。
難しいから方法もなく、多くの人たちが、「人に話してもどうしようもないこと」と考えやすく「苦しみとは主観的なもので、医師は、目に見えることしか変えられない。
患者の主観的なものは家族に、なんとかしてもらうしかない。」などと最初から、自分の仕事を控えめにしてしまっているようにも感じます。
スライドにも挙げましたが、私は、つまるところ「苦しみとは、患者の客観(起きている事実)と、患者の主観(想い、願い、価値観など)の隔たり、ギャップから生まれるもの」だと考えます。
患者の客観、例えば、「私は、末期癌だ」というひとつの事実と、その時点での主観「どうしよう、悲しい、助かる見込みはないのか、医者がうそをついているかもしれない、どこかに名医がいるはずだから、なんとかしてもらおう・・・」が、大きく異なるので、そのギャップが大きければ大きいほど、苦しみ、痛みや悩みも大きくなります。
私たち医師や他の医療職は、まず、患者の客観、すなわちありのままの現実を患者の主観に近づけようとします。早期のガンならそれを取り去ってしまう、骨の変形が神経を圧迫して痛みを生じているなら、そこを削って、神経に触らないようにする。
高血圧症や糖尿病の患者に薬を処方し血圧や血糖を正常範囲に近づけるのもこの「客観を変え、患者の主観に近づける」という行為に含まれるでしょう。
これら、「客観を主観に近づけて隔たりを少なく」する行為を総称して「治療(キュア)」と
呼んでいると、私は考えるのです。
しかしながら、「キュア」には限界があります。先に例に挙げた「末期癌」の患者でいうなら
客観(事実)は、もはや手術はできない、抗癌剤も効果は見込めない、数か月のうちに
食事も摂れなくなり、事実上の寝たきりになりかねない「だろう」と、評価されていることと言えましょう。
この際、それで、もう苦しみを軽減する、つまり患者の主観・客観のギャップを埋める方法がまったくないかと言うと、そうではありません。「患者の主観」すなわち、患者の想い、願い、価値観が変わることをサポートすることで、客観を受け入れやすくしてあげるという道があるのです。
これを「Care(ケア)」と呼ぶのだと教える研究者がおり、私もその考えを伝えています。
「病気のためにいろいろと失ったものもあるけれどできること、これからリハビリによって、改善しうる力もたくさんあるはず。みんなで、必要なことを教えてあげますし、みんなで支えてゆくから、あきらめないで、~さんのこの目標をまず達成しましょう。」と丹念に伝え患者の主観がゆっくりと変化してゆくのを一緒に寄り添いながら支援してゆくのがつまり「ケア」です。
特に、私が尊敬する「医師」は、この、「キュア」と「ケア」を同時進行で、こなします。
そうはいっても、それがすべての医師にできるわけではない大きな理由のひとつが、「医師は、学校や臨床研修の過程で、『キュア』についてしか教えられておらず、『ケア』に関しては、自己流で学び、自分のものにしてゆくしかないというのが現状である」というものだと私は考えています。
「キュア」のために習得すべき最低限の知識や技術は膨大なものになっています。
私も、主に日本で医学教育を受け、国内の医療機関で研鑽を続けてきた身で言わせて
もらうなら、こなすべき仕事量がどんどん増加する一方で、患者側からの訴訟リスクも
高くなっているなか、いったいどうしたらいいのか?と問いたくなることがしばしばあります。学生さんたちと話すなかで、「では、『キュア』に並行して、この『ケア』の知識を身につけてゆくにはどうしたらいいのか?」を私はたびたび彼らに問います。
もちろん、ケアに関する研究や教科書もたくさんあることはあります。ただ、医師同士の「ケアに関しては、ここまでできるようになって当然だね、という『ここまで』というだいたいのコンセンサスさえないのです。
私にも、これが模範解答だ、という答えはいまだありません。ですが、私が彼らに伝えていることがあります。「私たちが、生きている以上、常に、苦しみがあるはず。はっきり言って、この地球に生まれてきたこと自体が苦しみだと言えます。
それでも人は、苦しむだけではなく、『考える』ことができます。『考える』力を持っているのです。だれもが、小さなこと、大きなことに悩み、苦しみを感じながら、『考えて』『考え続けて』、そのひとつひとつの苦しみを乗り越えてきたはず。患者さんも同じです。
患者さんひとりひとりが、自分の苦しみを乗り越えるために、不安や恐れを伴っても『自分自身の主観を変える』ためには、その患者さんが、自分だけで、自分の責任で『考え』なければなりません。
非常につらいことかも知れませんが、自分で『決める』ためには、相当な時間、『考え』なければなりません。医師として、私たちは、自分のやったこともないことを人に勧めてもなんの力も効果もありません。
『ケア』の力をつけるのに、最も大切なのは私たちが、医師である前に、自分の『苦しみ』から逃げないで、『考え』続けることではないでしょうか。
そして、私たちが『苦しみ』を乗り越えるために、自身の主観を変える上で、最も大切なのは
『ひとりで、考えて』、自分の答えにひとりだけで責任を持つ、ことだと私は考えています。」考えてみれば、人が生きている以上、私たちの主観と客観、つまり、自分の「想いと現実」は永遠に完全一致することなどないはずです。
その「想いと現実」のギャップ、すなわち、苦しみを、それぞれの得意な分野で、たがいに減らしてあげ合うのが、「仕事」だと言えるでしょう。
東大医学部を卒業しても、医師ではなく、ほかの職業についたり、会社を興したりするひとも
多いと聞きます。
私が、能力と未来の希望に満ちた若い人たちにどうしても伝えたいのは、どんな分野の、どんな場所にあっても、自分の能力を、存分に「人のために使ってあげてほしい」ということ。
自分の取るに足らない満足や小さな享楽にせっかくの能力を浪費するなど、ほんとうに残念なことでしょう。
苦しみに満ちた、矛盾に満ちた人生を心の底から楽しめる時間に変えられるとするなら自分の力を、他者のために使うよりほかに方法はないから、と私は確信しています。
そして、より多くの力を他者のために使えるようになるためには、『 ひとりで考え続ける 』 ことだと断言します。私の、かわいい学生さんたちへの授業は以上になります。
~王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
0コメント