奥州王国

https://ameblo.jp/eiichi-k/entry-10478450402.html 【伊達政宗も、奥州藤原氏も、「アテルイの志」を継ぐものなのだ(と私は思います、ぜったい)】より

アテルイの話、 つづきです。

 アテルイの呪詛で幕を開ける1993年のNHK大河ドラマ「炎立つ )」(高橋克彦原作)は、奥州藤原氏の盛衰を描く三部構成のドラマでしたが、第一部の主役(藤原経清 )と、第三部の主役(藤原泰衡 )を渡辺謙が演じています。経清は前九年の役に敗れて無残に殺された人物、泰衡は鎌倉幕府軍に敗れて無残に殺された人物です。奥州藤原氏 は一般には中尊寺金色堂に祀られた三代(清衡、基衡、秀衡)が有名ですが、渡辺謙はその前(いわばゼロ代)と後(四代)を演じています。奥州藤原氏の歴史とは、ざっくり言えば「京都政権からの奥州独立を志し、いったんはそれを手中にするも、最後は夢破れる」という歴史であり、渡辺謙はその「夢」の最初と最後を演じているわけです。

 渡辺謙といえば、1987年の「独眼流政宗」の主演です。ところで、伊達政宗の「夢」とはなんだったのか。京都にのぼって天下を統一することだったか? 私は、違うと思います。彼が目指したのは「奥州独立」です。京都や江戸の支配に屈しない、奥州による奥州のための奥州の政府、それが政宗の夢だったに違いありません。伊達氏はもともと藤原秀郷(俵藤太、平将門を討伐した武将)の子孫ですが、奥州藤原氏も実は同じ「秀郷流藤原氏」です(少なくともそう自称しています)。伊達政宗が、奥州藤原氏の夢を引き継ごうとしていたことは当然です(当然だ、と私は断言しちゃいます)。「炎立つ」の主役に、伊達政宗と同じ役者を持ってきたNHKの意図は明白である、と私は考えています。

 毛利家や島津家のテーマが「全日本征覇」だとしても、伊達家のテーマは「奥州独立」です。それは戊辰戦争で「奥羽越列藩同盟」の盟主となり、土方歳三を擁して?官軍と戦うまで、一貫しているのです。

 ちなみに渡辺謙は「北条時宗」の時頼から「ラストサムライ」の勝元に至るまで、武将を演じるときは必ず「中央からの独立」をテーマにする役を演じているのです(注1)。一貫してます。そういう意味でエライと思います(たまたまかも知れませんけど)。なので、「沈まぬ太陽」の日本アカデミー賞受賞はおめでとう、と言っておきます(つうても実はまだ見ていないんですけど。だって、長いよアレ。これが映画コンクールだったら規定違反で失格だと思うけど)。

(注1)鎌倉幕府というのは、京都朝廷(税だけ取ってなんにもしてくれない無益な中央政府)に対抗してできた「武士による武士のための関東独立政権」であって、平将門の正統な後継者といえます。詳しくは永井路子先生の本などを読んでください。


http://www.oshu-bunka.or.jp/maibun/publics/index/117/detail=1/b_id=656/r_id=342/ 【仙台藩の要害】より

前沢所の表門(東から撮影)

 江戸時代の胆沢・江刺郡(現在の奥州市・金ケ崎町)は、仙台藩領の北辺に位置し、南部藩領との国境であることから、地理的に重要な地域でありました。そのことから、仙台藩の伊達家一門や重臣が、藩主から各要衝の城郭・町場などを預けられて地域支配を行います。この要衝は「要害」と呼ばれ、中心となる城郭が領主の居館「要害屋敷」と位置付けられます。

人首要害遠景(北から撮影)

 慶長20(1615)年の一国一城令によって諸大名は、複数の城郭を持つことが禁止されますが、例外的に支城を持つことのできる大名も存在しています。この法令は、画一的なものではなく、親藩や外様大名の大藩では、複数の城郭を所有して、一門・大身家臣に城郭を預けるなど、柔軟な制度としての側面もみられます。仙台藩においては、仙台城と白石城の2城が公式に許可されていますが、要害制とされる仙台藩独自の支城制が存在し、「要害屋敷」として幕府に認知されています。ちなみに、南部藩では盛岡城・花巻城・遠野城など、佐竹藩では、久保田城・横手城・大館城が許可されています。

 要害は、中世城郭を改修したものが多く、近世城郭としては見劣りしますが、枡形や一部に石垣を設けているなど城郭そのものです。この要害制は、「城・要害・所(ところ)・在所(ざいしょ)」とした支城制を基本とした階層構造があり、仙台藩の地方知行制(家臣は藩主から直接土地を与えられ、土地の収益をそのまま受け取る制度)による格付けと密接に関係するものです。そのため、要害・所を支配する家格は、一万石~二万石クラスの一門や大身家臣が少なくなく、小幕府的な支配体制であることが窺われます。

 要害制の歴史は、伊達政宗が天正19(1591)年に旧大崎葛西領へ転封された後、家臣団を領内諸城へ配置したことに始まります。しばらくは城郭として存在してきましたが、一国一城令に反することから、貞享4(1687)年に要害屋敷として幕府に届けられます。その数は21ヶ所に及び、要害が配置されていない地域には、所が補助的に分布している特徴がみられます。胆沢・江刺郡の領主層は、水沢要害・岩谷堂要害・前沢所に一門を配し、藩境付近の上口内要害・人首要害・金ケ崎要害・野手崎所に上級家臣層を配置するなど、家格によって配置する要衝に違いもみられます。

 要害は、単なる軍事拠点ではなく、町場・宿駅などの城下町を必要とし、経済の地域拠点ともなりました。その基本的な条件としては、地理的条件が重視され、南北に縦貫する奥州街道と東西の脇街道を意識し、丘陵・段丘の縁辺部や独立丘陵上などに立地する中世城郭を再利用します。現在、奥州市内の街地は、元々、要害・所が所在した場所であり、一部にその名残がみられます。

(専門調査員 遠藤栄一)

https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=405697 【東北の歴史を紐解く その1】より

◆まず読み解いたのが東北の戦争の歴史であります。

都から蝦夷(えみし)と蔑まれ、毛皮を着て洞穴に住み獣を食しているとみられていた東北の民族。しかし、厳しい四季の環境にもめげず自然を愛し深い絆で結ばれて生活していた東北の民でした。奈良時代まだ朝廷に服属していない東北を陸奥の国と呼びその住民を蝦夷しと蔑称し、その居住区の境界線に国府多賀城柵が設置された。蝦夷の侵入を恐れてのことである。

都では東大寺の大仏建立の時期に陸奥から日本初の金山が発掘されたのを機会に朝廷の陸奥の国侵略が始まることになります。迎え撃つは蝦夷の若きリーダーアテルイであります。

宿敵坂之上田村麻呂との命を懸けた戦いが開始されます。

その一連の史実に沿いながら小説化されたのが高橋克彦著「火怨」であます。

驚きと感動で号泣の場面が多々出できます。合わせて、鈴木拓也著「蝦夷と東北戦争」の

史実資料を合わせ読むとなお理解か深まることでしょう

この38年間続いた征夷の戦争を皮切りに東北に火の手が上がります。

また、武士の発生にも大きくかかわってくることになるのです。 続く


https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=405794 【東北の歴史を紐解く その2】より

38年にわたる朝廷と蝦夷の戦さ後蝦夷はどうなったでしょうか

1つは 「蝦夷を持って蝦夷を制す」 という方針で土着の長を国府の官職として任命し

各地方を管理し始めました。これが後の地方豪族発生につながっていきます。

2つめは、蝦夷の集団暴動を恐れ千人単位で全国に移配されました。蝦夷は弓馬にたけていたことから全国各地の防人としての活用が多くみられます。遠くは北九州、瀬戸内海、坂東が多かったようです。ところが移住先で先住民とのトラブルや地元の盗賊に同化して略奪をするなど暴動が多発していました。朝廷はそれらを鎮圧するために中央から軍事貴族を派遣することになります。

それは、清和天皇より名を受けた源氏、桓武天皇から名をうけた平氏、摂関家から分かれた藤原流らが担当することになります。その中で鎮圧のため派遣されていながら土着豪族と同化かして反旗を翻したのが平将門であります。将門は独立国をめざし新天皇を名乗りますが、鎮圧にさらに派遣された藤原秀郷に斬首され将門の乱は平定されます。

この時代あたりが武士の発生と考えられのではないでしょうか。

蝦夷の全国移住が起因の一つと考えられます。 

前回の坂之上田村麻呂の征夷の戦いには、坂東から数万という単位で民兵が

徴兵されて戦ったことがわかっています。   続く

2016/03/09 08:37 (C) 高畠・まほろばの里案内人・ とだちゃんブログ

歴史

正史は征服者が書いたもの。 征する者が善で、征されし者は悪とされます。 将門は常陸の国府を争い敗れたのでした。 茨城県内および関東には将門に関わる伝説が数多くあります。 東京のど真ん中に首塚があり、丁重に祀られていると聞きます。 正史でも前九年の役、後三年の役として東北で起きた動乱が書かれていますね。 陸奥の国よりも遠い北海道は蝦夷というだけの記載で、そのほとんどは白紙のような状態だと私は思っています。 しかし、日本民族のルーツのひとつが北方から移り住んだ人々だと言われ、考古学的裏付けが進んでいますよね。 私も今年はそれらの一端を見学に北海道をゆっくり旅する計画です。


https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=405858 【東北の歴史を紐解く  その3】より

征夷の38年の戦いが終わって250年

その間朝廷と蝦夷の間では小競り合いはあったものの大戦さは起こらなかった。

蝦夷で蝦夷を制する対策で地場の長の中には地方豪族として強大な力を保持するものが出てきた。

陸奥国では安倍一族、出羽では清原一族がそれにあたる。

それに国府の出先に派遣された役人と地方豪族が婚姻関係を結び土着化が進んだ。

亘理の役人藤原経清、伊具郡の役人平永衡は安倍一族の娘と結婚している。

ちなみに 藤原経清は平将門を討った藤原秀郷嫡流となります。

そのような環境の中で陸奥国の安倍一族が所領の境界線を越えて南進するとともに

貢租を拒んだことから再び蝦夷と朝廷の争いが勃発してしまいます。

この戦いが後に前9年の戦いと称されることになります。

この戦いでは源氏の棟梁源頼義、義家親子が派遣されますが安倍一族の防戦は固く

出羽の清原の援軍を頼ることで終結を見ます。安倍一族は斬首され崩壊します。

亘理の藤原経清、伊具の平永衡親戚関係となる安倍側に味方し安倍一族とともに処刑さてしまいます。安倍の所領は出羽の清原が受け継ぐこととなり東北すべてを所領とします。

戦後、安倍一族の娘であった藤原経清の妻と男の子はいかなる理由か、清原の後妻として生き残ることになります。清原家にはすでに先妻の子嫡男がおり、更にその後男子が生まれ、連れ子と含め3人の男子の複雑な関係がその後の後三年の戦いに引き継がれていきます。

写真は1巻から3巻までですが 前九年の戦いを藤原経清を主人公とした蝦夷側から見た歴史物語がつづられています。 続く


https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=405875 【東北の歴史を紐解く  その4】より

前九年の役後の陸奥の国は清原一族が統治しています。

棟梁は武貞である。その子供として本妻の子嫡男真衡(さねひら)、後妻の連れ子清衡、側室のあらたな子家衡、と3人の男子は種違い腹違いの複雑な関係である。清衡は幼名を清丸だったが清原家に入ってから 武貞は武衡と改名し、清丸は清衡に改名した。 清は父経清の一字、衡は永衡の一字が用いられている。両者とも朝廷側から安倍側に寝返って安倍のため死した因縁の名前である。清衡の母が提案した模様である。いずれは安倍血筋の再興を狙っていたのかもしれません。

武貞から嫡男の真衡(さねひら)に家督が移ると一族の長老出羽の吉彦秀武(きみこのひでたけ)と対立し内紛が勃発します。真衡(さねひら)、は出羽の秀武攻めに出陣するが途中病死してしまいます。その後領地は清衡と家衡に分け与え内紛は小康状態となります。

が領地配分に不満を持つ家衡が清衡の館を奇襲し妻子を殺害武力対立となります。

難を逃れた清衡の訴えで陸奥守に赴任した源義家は数千騎で家衡が立てこもる出羽の沼柵に清衡軍とともに出撃します。おりしも冬将軍まっただ中の為決着つかず一時引き返します。その後家衡軍は出羽金沢柵に移転し籠城するも義家清衡軍の兵糧攻めにあい全滅します。清衡勝利となり後三年役終了となりました。ここに、もともと陸奥の支配者であった安倍の血筋の清衡の手中に領地が戻ったことになり 奥州平泉の開祖としての立場が確立することになります。

写真の4巻は後三年役の歴史物語が描かれています。 つづく


https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=406060 【東北の歴史を紐解く  その6】 より

東北の歴史を紐解くとき騒乱は重要なポイントとなるものと考えます。

常に中央から攻め込まれて防戦する形をとってきた東北の民

われらの先祖たち  蝦夷と蔑まれながら 蝦夷のプライドをかけて戦って守ってきた戦さの連続でした。

耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び 都から確立した独立国家樹立したしたたかさ。

源頼朝は新政権の体制づくりに奥州平泉の仕組みを学び取り入れようとしました。

平泉の研究が東北人の心意気を知る一つのポイントとになるものと確信します。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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