蝦夷との三十八年戦争

https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/38nen-senso/ 【蝦夷との三十八年戦争 - 名古屋刀剣ワールド】より

奈良時代は、天皇を中心とする「律令体制」(りつりょうたいせい:国家を律と令という法律によって運営する体制)が確立した時代。朝廷の勢力は全国に広がっていきましたが、東北の北部には「蝦夷」(えみし・えぞ・えびす)、九州の南部には「隼人」(はやと)と呼ばれる集団が住み、朝廷の支配下に入ることを拒んでいました。朝廷が「中央集権体制」(権力を持つ中央政府が全国を支配下に置いて政治を行う仕組み)を確立するには、この蝦夷と隼人を服従させる必要があったのです。

華夷思想

中華こそが世界の中心

歴代の中国王朝は、外交と統治の基本理念として「華夷思想」(かいしそう)という考え方を持っていました。これは、皇帝がいる中国の中心を「中華」(世界の中心という意味)とし、そこから離れるにつれて野蛮な人が住む地域になるという、同心円状の世界観です。この考え方によれば、皇帝や家臣が住む場所は「化内」(けない)、その外側で皇帝の統治が及ばない土地は「化外」(けがい)と呼ばれました。

そして化外には、東に「東夷」(とうい)、南に「南蛮」(なんばん)、西に「西戎」(せいじゅう)、北に「北狄」(ほくてき)と呼ばれる「蛮族」(ばんぞく:野蛮な民族)が住むとされました。中国古代の「後漢」(ごかん)の歴史を記した「後漢書」(ごかんじょ)で、日本や朝鮮について記載された部分を「東夷伝」(とういでん)と呼ぶのも、当時の中国が日本や朝鮮を「東に住む蛮族」と見なしていたことの現れです。

日本にもあった中華思想

実は日本でもこの華夷思想に倣い、天皇の支配が及ぶ土地を化内、その外側を化外と呼びました。なかでも、朝廷に従わない蝦夷が住む東北や北海道を「夷狄」(いてき:東と北の蛮族が住む土地)、隼人が住む九州南部を「戎」(えびす:西の蛮族が住む土地)と名付けました。

そして、化外の地に住む蛮族を従わせ、天皇の支配を全国に広めることは正しいことであるという考えのもと、蝦夷や隼人との戦いが行われてきたのです。

日本書紀

蝦夷とヤマト政権(朝廷が成立する前の、有力豪族による共同支配体制)との戦いの歴史は古く、「日本書紀」(にほんしょき:奈良時代に朝廷が編纂した日本最古の歴史書)によれば、2世紀初頭に12代・景行天皇(けいこうてんのう)は自らの子である日本武尊(やまとたけるのみこと)を東国に遣わせ、陸奥(むつ:現在の福島県から青森県に至る太平洋側一帯)の蝦夷を平定したとされます。

しかし今日の古墳調査の結果から、実際に東北がヤマト政権の支配下に入ったのは4世紀後半以降ではないかと言われます。

城柵の設営

ヤマト政権の支配下に入ってからも、蝦夷は何度も反乱を起こします。朝廷は蝦夷に対抗するため、647年(大化3年)に「渟足」(ぬたり:現在の新潟市付近)、648年(大化4年)に「磐舟」(いわふね:現在の新潟県村上市)に「城柵」(じょうさく:防御と行政の機能を持つ、辺境支配の拠点)を設置しました。

658年(斉明天皇4年)には将軍・阿倍比羅夫(あべのひらふ)が船団を率いて遠征。「齶田」(あぎた:現在の秋田市)、「渟代」(ぬしろ:現在の秋田県能代市)、「津軽」(つがる:現在の青森県西部)など、広範囲の蝦夷を降伏させました。

東北の支配戦略

その後も朝廷は軍事力を背景にして東北地方の支配を強めていきます。まず各地に城柵を築き、その警備と周辺の開墾(かいこん:山林・原野を切り開いて農地にすること)のために、北陸や関東から「柵戸」(きべ/きのへ)と呼ばれる開拓民を移民させてその任務にあたらせました。

一方、服従した蝦夷の人々を他の地方へ強制的に移住させるなど、徹底的な支配工作を行っています。

抗争の激化

多賀城跡

708年(和銅元年)、「出羽」(でわ:現在の山形県庄内地方)に城柵が築かれると、翌年にはこの地域の蝦夷が蜂起。720年(養老4年)にも蜂起があり、出羽国の役人が殺害されました。こうして抗争はさらに激化します。

724年(神亀元年)、朝廷は太平洋側の拠点として現在の宮城県多賀城市に「多賀城」(たがじょう/たかのき)を造営。これは東西約880m、南北700~1,000mの土地を「築地塀」(ついじべい:泥を固めて造った塀)で囲んだ巨大な城柵で、蝦夷との戦いに備えた軍事拠点であると同時に、陸奥国一帯を統治する政治拠点でもありました。

733年(天平5年)、日本海側の出羽の城柵を北進させ、出羽国にも政治・軍事拠点として「秋田城」(あきたじょう:あきたのき)を建設。その後も「桃生城」(ものうじょう/ものうのき:現在の宮城県石巻市)、「雄勝城」(おかちじょう/おかちのき:現在の秋田県横手市)を設置するなど、東北の支配を進めていきました。

隼人との抗争

九州への領土拡大

7世紀の後半には、九州南部に住む隼人と朝廷との対立が強まっていました。

702年(大宝2年)、朝廷は「太宰府」(だざいふ/おおみこともちのつかさ:7世紀後半、現在の福岡県に設置された朝鮮半島との交易及び防衛の拠点)に兵を送るとともに、現在の鹿児島県西部にのちの「薩摩国」(さつまのくに)となる「唱更国」(はやひとくに)を設置。713年(和銅6年)には鹿児島県東部に「大隅国」(おおすみのくに)を設置し、九州における朝廷の支配を強化します。

これにより、土地と人民は天皇に帰属するという「公地公民」(こうちこうみん)の考え方が九州南部にもたらされると、それまで共同体的な土地利用を行ってきた隼人との間で一気に緊張が高まりました。

隼人の反乱

720年(養老4年)には隼人が反乱を起こし、大隅国の役人を殺害します。朝廷は大友旅人(おおとものたびと)を将軍として派遣し、約1年に及ぶ戦いの末に反乱を鎮圧しました。

この戦いでは、1,400名もの隼人の兵士が捕虜になったり斬首されたりしたと言われます。これによって、九州南部までが朝廷の支配下に入ることになりました。

三十八年戦争

蝦夷との最終決戦

770年(宝亀元年)に即位した第49代・光仁天皇(こうにんてんのう)は蝦夷との敵対姿勢をさらに強め、774年(宝亀5年)、大伴駿河麻呂(おおとものするがまろ)に蝦夷の征討を命じます。

これに対して、蝦夷軍は桃生城に進行。以降、811年(弘仁2年)までの38年に及ぶ戦いを「三十八年戦争」と称します。

第1期(774~778年)

朝廷が桃生城に侵攻した蝦夷を征討したのち、東北全域で蝦夷が一斉に蜂起し、局地戦が行われます。

やがて「胆沢」(いざわ:現在の岩手県奥州市付近)が蝦夷軍の拠点となりました。この戦乱は、778年(宝亀9年)頃には一旦収束したと考えられています。

第2期(780~781年)

「伊治郡」(これはりぐん:現在の宮城県栗原市付近)に住む蝦夷の首長・伊治呰麻呂(これはり/これはるのあざまろ)は、最初は朝廷に協力的でした。

しかし、780年(宝亀11年)に突然反旗を翻し、朝廷軍の副将軍であった紀広純(きのひろずみ)らを殺害。それに呼応して「俘囚」(ふしゅう:捕虜として朝廷に仕えていた蝦夷)が多賀城を襲撃しました。これを「宝亀の乱」(ほうきのらん)と言います。

朝廷は藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)を「征東大将軍」(せいとうたいしょうぐん:中国で用いられた称号で、東夷を征伐する軍の総指揮官)とし、翌年には反乱軍を鎮圧しました。

第3期(789~803年)

延暦8年の征夷

789年(延暦8年)、征東大将軍の紀古佐美(きのこさみ)が大規模な蝦夷征討を開始。蝦夷の拠点である胆沢に攻め込みますが、蝦夷軍の大将である「阿弖流爲」(あてるい)の激しい反撃にあって大敗を喫します。

延暦13年の征夷

791年(延暦10年)には、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を「征夷大将軍」(せいいたいしょうぐん:蝦夷を征伐する軍の総指揮官)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らを副将軍として征討軍を編成。794年(延暦13年)には、100,000名もの朝廷軍が蝦夷軍を撃破しました。

延暦20年の征夷

801年(延暦20年)、坂上田村麻呂が征夷大将軍となって遠征し、蝦夷軍に勝利。胆沢を手中に収め、ここに朝廷側の拠点として「胆沢城」(いさわじょう/いさわのき)を築きます。

坂上田村麻呂と阿弖流為

坂上田村麻呂は軍事力で敵を制圧する一方、蝦夷の指導者を説得し、平和裏に和睦を進めていきました。

802年(延暦21年)、阿弖流爲をはじめ蝦夷軍500余名が降伏すると、坂上田村麻呂は東北を平定するためには阿弖流為の力を利用する方が効果的だと考え、阿弖流為を京に連れ帰ります。

そして朝廷に助命と釈放を嘆願しましたが、「蝦夷は蛮族」という華夷思想にとらわれた貴族達は、この嘆願を却下。阿弖流為は処刑されてしまいます。

翌年、803年(延暦22年)、坂上田村麻呂は現在の盛岡市に「志波城」(しわじょう)を築き、今日の秋田と盛岡を結ぶ線までが朝廷の支配下に入りました。

二大事業の中止

その後もさらに北上する計画が立てられましたが、その頃には平安京の造営と大規模な軍事行動が朝廷の財政を大きく圧迫していました。そして805年(延暦24年)、桓武天皇は平安京の造営と蝦夷征討の中止を宣言します。

第4期(811年)

単発的な戦闘はその後も続きましたが、811年(弘仁2年)、征夷大将軍の文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が「幣伊村」(へいむら:岩手県東部)と「爾薩体村」(にさったいむら:岩手県東北部)を平定したところで、ついに蝦夷による抵抗が終了。

こうして38年に及んだ戦争は終わり、朝廷は本州・四国・九州の大部分を支配下に収め、中央集権国家としての朝廷が完成したのです。


https://www.city.tagajo.miyagi.jp/bunkazai/shiseki/bunkazai/shitebunkazai/kunishite/tagajohi.html 【重要文化財「多賀城碑」(たがじょうひ)】より

多賀城碑写真多賀城碑は、多賀城南門近くにある小さな堂の中に立っています。

この碑は、高さ196cm、最大幅92cmの砂岩で、碑面をほぼ真西に向け立てられています。

碑面には141字の文字が彫り込まれています。中央上部に「西」の一字があり、その下には140字が11行に配されています。

碑文は、前半には京(=奈良の平城京)、蝦夷国(えみしのくに)(=東北地方北半)、常陸国(ひたちのくに)(=茨城県)、下野国(しもつけのくに)(=栃木県)、靺鞨国(まつかつのくに)(=中国東北部)から多賀城までの距離が記されています。

後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝臣朝狩(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記されています。

最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれています。

この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。

松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されています。

多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられており、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定されました。

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