サハジャ

Facebook谷由佳子さん投稿記事

今年の6月から育てている四葉のクローバーにキノコ🍄が!!黄色く可愛いので調べてみると

『黄金絹唐傘茸(コガネキヌカラカサタケ)』みたい

このキノコちゃんが凄かった〜🙌発見すると幸福になれるみたい〜✨✨✨

「幸運のキノコ」とか「お釈迦様キノコ」とも呼ばれてるらしい!

花言葉は「幸せを呼ぶ」「高貴」「願いが叶う」なんだかとっても嬉しい言葉達❣️

本州では自生せず熱帯地方から持ち込まれた腐葉土に混ざった菌から発生するケースがあるみたい

発生してから枯れるまで3日ぐらいと短い為生えても気づかずに枯れてしまうみたいで見れたら幸運ってことみたい☝️

四葉のクローバーに黄金絹唐傘茸は最強すぎる〜✨✨✨


Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事  憧れ

「憧れ」。素敵な日本語です。憧れを私は夢の「タネ」と考えています。

素敵だなあ、こんな人になりたいなあ・・・という憧れの人がいること(憧れ)が夢を育てることだからです。

以前、千日回峰行を達成された阿闍梨さまが、なぜこんな苦行をなし終えることができたのかと問われ「先輩たちが達成したことへの、そしてそんな先輩たちへの憧れです」と答えておられていました。なんてすばらしい、と胸が熱くなりました。1000年以上も続く憧れです。

私も子供の頃、憧れの人がいました。語学の天才と言われ、地球市民という意識で世界を駆け巡った叔父です。途上国での活動になんどか連れていってもらいました。その、正直で一途な姿勢はいまでも私の中で大きな存在として残っています。

自分のことも含めて、憧れの人がいる子どもは幸せですね。困ったとき、悩んだとき「さて叔父ならどうするだろう」という問いかける人がいる・・・生きているとか亡くなったとか関係ありません。そういう存在としてずっと生き続けてくれます。

勝った・負けた、強い弱い、など所詮「結果」にすぎません。そのために努力をして、理想や夢に近づこうとすることが、結果を超越するものです。勝てないかもしれない、夢は破れるかもしれない。しかし、憧れに向かって一生懸命のとき、すでに夢はかなっているのだと、逆説的に言えるのではないでしょうか。そのタネを大人が結果(おとなの価値観)によって摘み取ってしまわないようにと思います。

なにかができる(doing行動)、なにかを持っている(having所有)よりも、「ある(being存在)」という絶対的な価値を基盤にした発想がことさら必要な時代だと思います。


Facebook石川 眞樹夫さん投稿記事

サハジャ瞑想とは、坐らず、瞑目することもなく、ただ生かされて生きることであり、これだけが真の瞑想です。この瞑想では何にもしがみつくことなく、この瞑想を生きる人には意思というものが存在しなくなります。それでも他の人からは、彼は、彼女は、普通に生きてゐるように見えます。

この瞑想の始まりでは、本人にとってさえ自我が残っているように思われますが、その自我は、燃え尽きたロープのようなものであり、ロープとしては使えません。

この瞑想は本当の自然であり、する事ではなく、何か常にそこに在るものです。それは「サハジャ」と呼ばれ、「自然」を意味します。これがサハジャ瞑想です。

我が師プンジャジの教え


https://ku-haku.jp/sahaja/ 【サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディとは何か?【自然な状態】】より

ラマナ・マハルシの本を読んでいると、〝サハジャ〟という言葉が良く出てきたりします。ラマナ・マハルシの本に限らず、インドの覚者・聖者に関する本にはよく登場するかもしれません。サハジャとは〝自然な〟という意味なのですが、大抵の場合には、「〝自然な〟って一体どいういうことなんだ?」と疑問に思うのではないかと思います。そして、ともすれば、〝自然な〟という言葉に、超越的なイメージを持たせてしまうことも少なくないのではないかと思います。でも、そういうわけじゃないんです。〝自然な〟というのは、言葉のとおりの意味です。サハジャであることに努力はいりません。でも、それは逆説的に、多くの人にとっては難しいことなのかもしれません。

サハジャとは〝自然な〟という意味

多くの動物は〝自然に〟生きています。でも、人だけは、多くの動物とは違っているようにも見えます。人には、言葉を操る知性がそなわっていますし、そしてまた、自分自身を客観的に判断する働きを持つ、自我がそなわっています。この二つの特徴があるため、人というのは、どこか二重人格的です。例えば、大好きなチョコレートを食べようと思った時に、「いやいや、最近太ってきたからチョコは控えよう」とか相反することを考えたりします。言ってみれば、理性(自我)と知性(本能)の間での方向性の不一致がよく見られるんです。

サハジャというのは、理性と知性の方向性が一致するということです。例えば、理性(自我)の場合、社会的な承認欲求を満たそうとする方向性に向かうことが多いのではないかと思います。「太ってきたからチョコは控えよう」と考えるのは、他者からどう見られるのかということを気にしているからかもしれません(健康を気にしてとかもありますが)。一方、知性(本能)の場合、快楽に忠実なのではないかと思います。とにかく、味覚を満たすためにチョコレートを食べたいんです。社会的な承認欲求なんて関係ないし、太ろうが虫歯になろうが関係はないんです。

なので、理性と知性の方向性が一致するだなんてことは絶望的にも思えるのですが、一致する状態があるんです。それが、サハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディです。ニルヴィカルパというのは、〝原因の無い〟という意味で、サマーディは、〝至福感〟や〝解放感〟のことを意味します。具体的に言えば、やらなければならない仕事から解放された解放感が、原因も無く持続しているような状態です。理性や知性からすれば、「そんなことがあり得るのか?」と思える信じがたい状態なのですが、ラマナ・マハルシが言う〝サハジャ〟というのは、そういう状態です。

原因も無く解放的な感覚が持続するようになると、〝自然と〟理性と知性の方向性は一致するようになります。もちろん、外部的な影響によって、理性優勢になったり、知性優勢になったりもします。チョコレートを食べたいと思ったら食べるし、控えたいと思ったなら控えるんです。でも、際限無く、承認欲求を求め続けたり、快楽を求め続けようとする傾向は消えてしまいます。なにしろ、欲しいと思っていたものは、原因も無くここに〝在る〟からです。

サハジャは決して、超越的で、神秘的な状態じゃない

サハジャというのは〝自然な〟状態なのですが、ラマナ・マハルシが〝サハジャ〟と言うと、なんとなくそれは超越的で、神秘的な状態であるかのように感じられたりもします。僕は、そう勘違いしました。「ラマナ・マハルシの言う〝サハジャ〟というのは、もしかして、自意識が無い状態で、世界の中で機能している状態なのかな?」と思ったりもしました。その状態は、この自我とは関わりの無い状態なのであり、良く言われる〝自我が消えている〟という表現とも一致します。「もしかして、そうなのか?」という可能性を、僕はなかなか捨てることができませんでした。

でも、そういったことはないんです。その状態は、泥酔して家に帰宅したことがある人は、経験したことがあるはずです。自意識が無くとも、この身体は勝手に機能し、家に帰るんです。それは〝サハジャ〟な状態でしょうか? もしそうであるなら、ずっと泥酔していたっていいのかもしれません。でも、そういうわけじゃないんです。サハジャというのは、自意識の有る無しに関係あるわけじゃなく、自我の有る無しに関係するわけでもないんです。サハジャとはあくまでも、原因も無く、解放感が持続している状態のことなんです。

サハジャは、〝私は在る〟ということと同じ

〝サハジャ〟という言葉は、サンスクリット語版の〝私は在る〟と言っても良いと思います。同意語です。〝私は在る〟という言葉は、もともとは聖書が由来だと思いますが、真理の本質は、西洋でも東洋でも同じだということですね。なので、〝サハジャ〟とは何かを理解することは、〝私は在る〟とは何かということを理解することと同じです。

理性と知性は、何かを求めて様々な行動を起こすわけなのですが、本当に満足するということがありません。満足したとしても、それは一時的なんです。チョコレートを食べたって、味覚が満たされるのはその時だけです。チョコレートを我慢して痩せたって、褒められて承認欲求を満たせるのは1回だけかもしれません。なので基本的に、理性と知性の欲求はエスカレートしていくことが多いのではないかと思います。欲求を満たすために、多大な努力をするようになるかもしれません。にも関わらず、満足できるのはやはり一瞬だけだったりもします。人生というのは、そういうものなんでしょうか? 際限無く、努力し続けなければいけないんでしょうか? このパターンに気がついてしまった人は、その際限の無さに絶望したりします。

でも、見落とされているのは、その絶望感すら、一時的なものだということです。人によっては、その絶望感を避けるために、嫌々でも努力を続ける人もいるかもしれません。でも、そこには出口はありません。八方塞がりです。もちろん、たいした努力もなく、様々なことを実現していくことができる優秀な人は、器用にその絶望感を避けることができるかもしれません。でも、結局のところ、死という絶望にとらわれることは避けられません。そうではなく、その絶望感は、一時的なものだということを確認してみればいいんです。もちろん、それは不愉快な経験になるかもしれませんが、その絶望感は一時的なのだということを理解することは、理性と知性どちらにとっても、意外な発見になります。

あらゆる一時的な状態が、取り除かれた状態が〝サハジャ〟です。それはベースです。基盤です。それだけは取り除くことができません。もちろん、こういったことは言葉でいくら説明したって意味をもたないと思います。実際に確かめてみるしかありません。今、あなたが感じているその状態は、一時的なものでしょうか? それとも自然で持続的なものでしょうか? 理性と知性は、同じ方向性を向いているでしょうか?


Facebook岡本 よりたかさん投稿記事 「赤い実」

ふと、思い出した。母にめちゃくちゃキレたこと。母は全く悪くはない。

裏庭で僕が大事に育てていた雑草。春になると白い花が咲き、夏には赤い実を着ける。

小学生だった僕はもちろん名前など知らなかった。だが、綺麗な花が咲いて実ができることに神秘性を感じていた。

それは雑草であり、それ以下でもそれ以上でもない。だから母にとっては育てている紫陽花の周りを覆う厄介な草でしかない。

僕は紫陽花が嫌いだった。

花はいつも青色で、当時は青が嫌だった。何を買うにも青が選ばれる。女の子は赤が選ばれるのに、僕はいつも青。

他の男の子も青だったその風景が、僕には異様に見えた。周りと一緒なのが嫌で、できるだけ青を選ばないようにしていたが、いつも親は青色の物を僕に買い与える。

筆箱も下敷きも帽子も靴も、青ばかりだった。

裏庭で守っていたその雑草の実は赤だった。憧れの赤だった。

しかしその雑草を、母は全て刈り取って捨ててしまった。邪魔になると言って、全て捨ててしまったのだ。

僕は泣き叫んだ。そしてキレて暴れた。何故泣いているか分からない様子の母を見て、ますますキレた。

そして、夏に赤い実を着けるという期待を完全に潰された僕は、部屋に閉じこもってしまった。母は一生懸命に謝り、慰めてくれるが、僕は聞く耳を持たなかった。

もう、どれだけ泣いたか分からない。どれだけの涙が出たか分からないほどだった。

さて、子どもは立ち直りも早く、数日後にはけろっとして学校に行き始めた。無くなってしまった雑草のことなど考えても仕方がないと、友だちと遊ぶ事を優先した。

それから1ヶ月ほどしたある日、母が裏庭から僕を呼んだ。何かとても喜んでいる。

僕はあまり興味がなかったが、あまり呼ぶので裏庭に行ってみた。

僕は驚いた。

紫陽花の花が咲いているのだが、その花は全て赤っぽい花だったのである。

完全な赤ではないが、毎年咲く青い紫陽花ではなかった。僕は何が起きたのか全く理解できなかったが、忌々しい青い花ではなく、少しだけ赤くなってきたその花を見て、なんだか嬉しくなった。

母も嬉しそうだった。そしてこう言った。

「やっと赤い色に変わった。あの人の言うこと、本当やったわ」

もちろん、僕には全く意味など分からないが、喜ぶ母を見て少しホッとしていた。

あの日以来、紫陽花の花は赤い花が咲くようになった。しかも、あれだけ忌み嫌っていた青い紫陽花をもう一度見てみたいとすら思うようになった。

そして、もうすっかり赤い実の雑草のことなど忘れてしまったのである。

なんでもない出来事だったのだが、大人になってから、その出来事の意味を考えてみた。

僕が小学生の頃は戦後の高度成長期だった。前に進むことが正義で、下がることが悪だと教えられる時代。

まるで軍隊のように統一化した学校生活であり、善と悪の区分けは先生や親が決める。その状況に僕は疑問を感じていた。

だからこそ、地を這うような赤い実を着ける草に、何かの期待を感じていたのだろう。他とは違う生育の仕方をし、離れていても、小さくても目立つ赤い実。その姿に希望を抱いていたのかもしれない。

そして母も実は同じだった。どこを見ても青い花ばかりの紫陽花に疑問を感じ、どこかで見た赤い紫陽花に希望を見たのだろう。

結局は、皆が疑問を感じながらも、前に進むしかなかった時代なのである。

そんなことを、新幹線に揺れながら、ふと思い出した次第である。取り止めのない話に付き合ってくれてありがとう。

※ちなみに、紫陽花は土中のpHにより花の色が変わると言われている。おそらく裏庭の土壌は酸性だったのだろう。

赤い花を咲かせるために、母は土壌に石灰を撒いたのかもしれない。土壌をアルカリ性にするためには紫陽花の下を覆う、ヘビイチゴが邪魔だったのかもしれない。

今となっては想像でしかないが。

※写真はすっかり大好きになった藍染用の蓼藍の葉っぱを乾燥させているところ(笑)。しかも蓼藍の花は赤い。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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