FacebookHiromasa Suzukiさん投稿記事
小学生の頃、『なぜ人生には、こんなにも辛くて悲しいことが起きるんだろう?』
『自分はなぜ生まれて来て、起こる出来事にはどんな意味があるんだろう?』
と、人生の意味を知りたくて、毎週末になると、じーちゃんの運転する車で、小さな隣町の本屋さんに連れて行ってもらい、人生の意味を教えてくれる新しい本との出会いがないか、ドキドキしながら精神世界のコーナーでタイトルを追った。
中学生になった時、僕の育ての親であり、母親代わりのおばあさんの脳に血栓ができ、生死を懸けた手術を行うことになり、『もしも、おばあさんがこの世界からいなくなってしまったら、自分は一人ぼっちになってしまう...』という、これまで感じたことのない、『氷のような孤独の冷たさ』を感じ、怖くて震えて、誰もいない田んぼの真ん中で大声で泣いた。
そんな時に出会った江原啓之さんの本は、 僕の心を冷たい暗闇から引き上げてくれるように、 人生の希望を信じることを与えてくれました。
『人はなぜ生まれ いかに生きるのか』の著書の中で、江原さんは自身の守護霊に、ある映像のようなものを見せられ、そして、『あなたはこれから、多くの人の力になる生き方をするのですよ』という(ような)ことを伝えられます。
当時高校生だった僕は、自分も将来そんなふうに、『多くの人の力になれるような生き方をしたい』と夢見ました。
僕にとってのスピリチュアルとは、『こうすれば成功する』というようなものではなくて、
もっと根本的なところから人の苦しみや迷いを、救いたい、癒したいという探究心を持ったものでした。
今、僕がバリでやらせていただいている『海の掃除』も、僕自身が人生に生きる希望や勇気を与えてもらい、自分もそんな生き方をしたいと憧れ夢見てきた生き方の実践です。
ゆうべ不思議な夢を見て、想いが溢れてきているので、これを書きました。
今、なぜ自分の人生に、「海の掃除」がやってきて、どんなふうに世界に踏み出したか。
について書いた全7話のお話しが、第6話まで公開中です。
※今日最終話も公開予定です📖✨
僕が背中を押してもらってきたように、何か、人生に届けられるものがあればと願いながら書きました。
大人の人も、これから社会に出る子たちにも、読んでもらえたらうれしいです✨
https://bell-gardia.jp/201214-1/ 【ローマ教皇と宮沢賢治の教えてくれるもの】より
今朝、今シーズン初めて雪が降りました。と言うより夜半のことであり寝ている間に降り、朝目覚めたら7,8㎝積もっていたのです。今の時期としては珍しい積雪です。今日は、雪にちなんで綺麗な話をと思います。
ローマ教皇フランシスコは、東日本大震災の1カ月後、ワシントン大聖堂で世界の宗教の代表者を集め、犠牲者の追悼と復興を祈念するミサを行い最後に宮沢賢治の「雨にも負けず」を朗読しました。
そのローマ教皇が昨年11月25日東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、世界中で社会問題化している孤独、つまり「心の貧困」についてマザー・テレサの「孤独と誰からも愛されていないという感覚は最も残酷な形の貧困である」という言葉を引用して次のような話をしています。私たちにとって最も大切なことは「何を持っているか」や「何を得ることが出来るか」ではなく、誰と人生を共有できるかということに気付くべきだと話す。 つまり、「何のため生きるか」ではなく「誰のために生きるか」にフォーカスすべきだと言っています。教皇が訴えたかったのは、「他者のために」「他者と共に支え、支え合って」生きることの大切さです。
教皇のスピーチから思い起こされるのは岩手が生んだ天才宮沢賢治のことです。賢治の信条は「誰か他人のために」でした。賢治は、毎晩寝る前に母親イチさんから言い聞かされたという「母の教え」がありました。母イチが何度も賢治に繰り返した言葉は「人というものは人に何かしてあげるために生まれてきたのです」という言葉でした。この様にして賢治は「利他精神」に基づく独自の価値観を築き上げていった。「自己犠牲」や「利他精神」は、賢治の沢山の作品を貫く大きなテーマであると言えます。それは、幼いころからの賢治の生き方そのものであり、「人のため自分は何が出来るか」「本当の幸せとは何か」ということを生涯考え続けたのでした。
何のために生きるか・・・・。東日本大震災では、生きたくても生きれなかった人が大勢います。そう言う事実があるということは「人の生死」は自分の意思とは関係のない力が作用していると考えることが出来ます。つまり「生きる」ということは生かされていると捉えるべきで、そう気付かされる時「誰か人のために」という「心のよりどころ」を生み出す生き方が出来るのではないでしょうか
では「死ぬ」ことは自分の意志で出来ると言えるだろうか。いや違う!失職し経済的に困窮したり」「愛する人を失いグリーフを抱える」などの状況にある人が、「誰も自分の辛さを解ってくれない」「気持ちを汲んでくれる人がいない」と孤立する。その結果として、現実の社会に生きづらさを感じ自分の命を絶つという経緯を考えれば、まわりとの人間関係の希薄さが命を絶つことにつながっている。いわゆる、他人との関わり方が作用して死を選択していると捉えることが出来る。つまり、死ぬことも自分の意志でなく、他人の関わりに影響されていると言える。
「「生きる」と「生きている」は全然違うことであり、生きることは他のものとの関係で成り立つことです。自分と誰か、また何か。 生きることは誰かとつながることであり、誰かの役に立つことです。誰かとつながることで、生かされていると言い換えることが出来ます。人は皆、生まれて今まで一人で生きてきたという人はいません、必ず誰かとの関わりの中で生きています。生かされています。この事実を決して忘れないようにしなければならないと考えます。
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