宮澤賢治の歌曲の世界

https://ihatov.cc/song/  【宮澤賢治の歌曲の世界】より

1.賢治が作った歌曲

2.後世作曲家の賢治歌曲

3.保阪嘉内の歌曲

 宮澤賢治が作詞あるいは作曲したという歌曲は、『新校本宮澤賢治全集』によれば、全部で27曲あります。ここにその全曲を、コンピュータによる歌と演奏でご紹介します。

 全集に収録されている賢治の歌曲の楽譜のほとんどは、生前に賢治が歌っていた旋律を、周囲の人が後世になって採譜したもので、この楽譜にはメロディーラインしかありませんので、このコーナーの演奏は、そのメロディーに私が伴奏などを付けて、編曲したものです。一部の演奏は、青島広志氏の編曲(『宮沢賢治歌曲集 ポランの広場』)や、 林光氏の編曲(『賢治の音楽室』)にもとづいています。

 伴奏の楽器音は、古くはローランド社の音源モジュール SC-8850、その後はソフト音源 GARRITAN PERSONAL ORCHESTRA 等を、歌声は YAMAHA の‘VOCALOID’を用いています。

 ただ「27曲を全曲」と言いながら、下の「賢治が作った歌曲」の項目の数は、全部で26しかありません。それは、次のような事情によります。

 まず、『新校本全集』に掲載されている「つめくさの花の 咲く晩に」と「つめくさの花の 終わる夜は」の2曲は、同一のメロディーで歌詞だけを替えて唄われるものなので、合わせて一つの歌曲と考え、前者は一番・二番、後者は三番・四番として演奏したことにより、1曲が減少。

 さらにこの曲は、旧『校本宮澤賢治全集』まではかなりリズムの異なった「ポランの広場」として収録されていたのですが、この旧版も別に演奏・収録したことで、1曲増加。

 最後に、劇「飢餓陣営」に出てくる「一時半なのにどうしたのだらう」と「糧食はなし四月の寒さ」の2曲は、劇の中で交互に唄われるものなので、連続して一つの演奏にしたことにより、1曲減少。

 総計では、27曲からマイナス2曲、プラス1曲の結果、26曲となっています。

 また、「後世作曲家の賢治歌曲」のページには、後の著名作曲家が賢治の詩に作曲した歌を収録しています。これらの素晴らしい楽曲も、言葉と音楽が融合した非常に魅力的な世界を、現代の私たちに与えてくれるものです。

 さらに、「保阪嘉内の歌曲」のページには、賢治の親友だった保阪嘉内が作詞作曲した歌曲も、2曲だけ演奏・掲載しました。お聴きいただけばわかるように、嘉内という人は音楽の面でも、かなりのロマンチストだったようですね。

 それでは、賢治とその周辺の世界を、音楽によってお楽しみ下さい。


https://ihatov.cc/song/tane.htm 【種山ヶ原】より

1.歌曲について

 「遠き山に日は落ちて…」で知られる「家路」の翻訳歌詞は、第二次大戦後まもない1946年に、堀内敬三氏が発表したものです。その後この詞は、ドヴォルザークの旋律の魅力ともあいまって、日本中で広く親しまれてきました。

 宮澤賢治が、同じこのドヴォルザークの交響曲第九番「新世界より」の第二楽章の主題に、自分の詩をつけて「種山ヶ原」として歌っていた時期は、少なくとも1924年夏にまでさかのぼることができます。

 当時の友人斎藤宗次郎氏の自叙伝によると、この年の8月27日の項に、「農学校に立ち寄り宮沢賢治先生の篤き好意により、職員室に於て蓄音機によれる大家の傑作を聴いた、最初先生の作詞を New-World Symphony の Largo の譜に合せて朗々と歌うを聴いた実に荘厳なものであった」と記されています。

 堀内敬三氏に先立つこと20余年、賢治はこのメロディーを日本語の歌曲として歌った、最初の人だったのではないでしょうか。

 海外に目を転じると、ニューヨーク国民音楽院でドヴォルザークの同僚だったW.A.フィッシャーが、この美しい旋律に歌詞をつけて歌曲「Goin' Home」として発表したのは、1922年のことでした。

 当時の賢治がはたしてこれを知っていたのかということは、簡単には答えが出そうにない問題ですが、さすがにハイカラ好きで丸善に洋書を注文したりしていた賢治でも、このような外国のピース楽譜までチェックしていた可能性は、低いのではないかと思います。

 すなわち、太平洋の両側で、独立してほぼ同時に、ドヴォルザークの同じ旋律に作詞した歌曲が生まれていたのではないでしょうか。

 アメリカ生まれの方は、そのあと世界中に広まって、前述のように日本でもその訳詞が出されて親しまれました。いっぽう日本で生まれた方は、現在はおもにイーハトーブ花巻近辺で、宮澤賢治関連のイベントの際に歌われる程度です。

 しかし、この賢治の歌詞が前者に勝るとも劣らず、いかに格調高く詩情にあふれているかということは、ここでぜひ口ずさみつつ感じとっていただければさいわいです。

 さて、賢治が下記のような歌詞を、「新世界より」と題された交響曲に付けたのは、たんなる偶然ではないのだろうと思います。そこには、アメリカの大地に科学的で合理的な農業を根づかせた、彼の地の開拓者のフロンティア・スピリッツへの、賢治の思いがこめられていたのではないかと、私は思います。

 「銀河鉄道の夜」のなかで、いちめんのとうもろこし畑からこの旋律が流れてきて、女の子が「新世界交響楽だわ」とつぶやき、ジョバンニが「さうさうこゝはコロラドの高原ぢゃなかったらうか」と思うとき、実際の汽車の動きは、あたかも岩手軽便鉄道で北上山地を西へ、花巻の方へ向かっているところのような描写になっています(「種山ヶ原 詩群」参照)。

 賢治は、種山ヶ原を含む北上の高原を、アメリカのコロラド高原に重ねあわせていたのではないでしょうか。そして、農業には不向きなこの地の酸性土壌を、いつの日か新大陸の農業技術も応用して開墾し、豊かな稔りの土地へと変えることを夢見て、この歌に託していたのではないかと思います。

.歌詞

春はまだきの朱あけ雲を  アルペン農の汗に燃し   縄と菩提樹皮マダカにうちよそひ

風とひかりにちかひせり。 

 四月は風のかぐはしく  雲かげ原を超えくれば   雪融けの草をわたる。

繞めぐる八谷に劈靂へきれきの  いしぶみしげきおのづから  種山ヶ原に燃ゆる火の

なかばは雲に鎖とざさるゝ。

  四月は風のかぐはしく  雲かげ原を超えくれば   雪融けの草をわたる。

注:

 まだき=夜明けの薄明どき。朝まだき。

 菩提樹皮マダカ=菩提樹の皮で作った蓑。(東北方言で、菩提樹をマダという。)

 劈靂へきれき=雷。(種山ヶ原あたりは雷が多く、雷神を祀った石碑が多い。)


https://ihatov.cc/song/denchu.htm 【月夜のでんしんばしらの軍歌】より

1.歌曲について

 「花鳥風月」は日本の伝統的な詩文の題材ですが、宮澤賢治は、「でんしんばしら」をさまざまな角度からうたった、日本で最初の詩人かもしれません。

 東京市内では、電灯は1912年の時点でほぼ完全に普及したとのことですが、これ以後も日本全国への電気の拡大はつづき、1927年に全国の電灯普及率は、87%にまで達したと記録されています。

 賢治が山や野原を歩きまわっていた時期は、まさに電信柱も、日本全国の野山のすみずみに至る「進駐」をつづけていた時期だったのだと思います。

 宮澤賢治はこの新しい風物を、自然の草木に対するのと同じように、なつかしさや不思議の感覚をこめて書きとめました。

 「グランド電柱」、「電しんばしらのオルゴール」、「乾いたでんしんばしらの列」、そして「銀河鉄道の夜」の終りちかくに出てくる、あの「二本の赤い腕木をつらねた電信ばしら」…。

 1921年の日付がある童話、「月夜のでんしんばしら」のなかの、電柱のはるかな行進のイメージにも、いちど読んだら忘れられないものがあります。

 なお、岩手県一戸町の「観光天文台」の前には、この歌を刻んだ石碑が立てられています。

2.演奏

 下のファイルは、電信柱の軍隊調の行進という情景を前面に出してつくりました。最後のところの効果音も、童話の設定によっています。歌は、‘VOCALOID’の Meiko と Kaito です。

3.歌詞

「月夜のでんしんばしら」(賢治自筆画)ドツテテドツテテ、ドツテテド、

でんしんばしらのぐんたいは  はやさせかいにたぐひなし ドツテテドツテテ、ドツテテド

でんしんばしらのぐんたいは きりつせかいにならびなし。 ドツテテドツテテ、ドツテテド

二本うで木の工兵隊   六本うで木の竜騎兵       ドツテテドツテテ、ドツテテド

いちれつ一万五千人   はりがねかたくむすびたり    ドツテテドツテテ、ドツテテド

やりをかざれるとたん帽  すねははしらのごとくなり。  ドツテテドツテテ、ドツテテド

肩にかけたるエボレツト  重きつとめをしめすなり。  ドツテテドツテテ、ドツテテド、

寒さはだえをつんざくも  などて腕木をおろすべき   ドツテテドツテテ、ドツテテド

暑さ硫黄をとかすとも  いかでおとさんエボレツト。  ドツテテドツテテ、ドツテテド、

右とひだりのサアベルは  たぐひもあらぬ細身なり。  ドツテテドツテテ、ドツテテド、

タールを塗れるなが靴の  歩はばは三百六十尺。    ドツテテドツテテ、ドツテテド

でんしんばしらのぐんたいの  その名せかいにとゞろけり。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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