Facebook天の筆で時空を描く コスモアーティスト 景子 さん投稿記事
【薬師瑠璃光如来】
「薬師如来」は、”薬師瑠璃光如来”とも呼ばれ、東方浄瑠璃浄土(瑠璃光浄土)の教主。
西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来が死後に安らぎを与えてくれるのに対して、
現世に願いを叶えてくれるとされる。
瑠璃光を以て衆生の病苦を救ってくださる現世利益の仏様。
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この作品のサブタイトルは、『労(ねぎら)い』
自分を大切にする。自分を愛する。そのような意識になると、自分のこれまでの人生を尊く感じ、「よくやった!」 「よく出来た!」と、労えるようになる。
自分を大切に出来ていないうちは、「たまたま出来た」 「こんなもんだろう」と、謙遜したり、自分の価値を認められない。
しかし、現世利益の仏様である薬師瑠璃光如来の意識からすればその感覚は謙虚さではなく、"傲慢"そのもの。 自分の行いは、自身の意識を通して顕現されたもの。
その"意識"を労うことをこの作品に込めていて、 労う意識は、自身を大切にし、自身を愛し、他者を愛し、愛で満たされ豊かである世界を見ることとなる。
それが病苦から救われる利益の本質だと信じます。
Facebook草場 一壽さん投稿記事
薬師瑠璃光如来
約束しよう いま、このときに 悲を癒し 苦を報い 無明を破って 三千世界を あまねく照らすと。
強欲 猜疑 妬み 蔑み すべからく、病であれば 抜苦与楽の法薬で その愚を悟る光明を授けよう
魂が瑠璃の光りに守られて 平安が、たゆたう海のように広がっていく
ああ、いとしき方よ 瑠璃の地より 衆生救済の大願をもってくだられた
慈悲深き医王、薬師瑠璃光如来
Facebook清水 友邦さん投稿記事
愛と思いやりの意識は、前の発達段階を含んで超えて拡大し成長していきます。
現代の戦争の殆どが、自集団中心的段階の争いです。
意識は、自分の属する集団だけの繁栄を望む、自己中心的段階から、男性原理と女性原理が統合した段階に成長します。
私たちが成長すれば、暴力ではなく愛と智慧が中心の時代になるでしょう。
今年は、関東大震災100年目に当たります。
関東大震災時に、香川県から行商に訪れた被差別部落の男女15人が朝鮮人だと疑われ、自警団から暴行を加えられたり、利根川に投げ込まれたりして、9人が殺害された「福田村事件」が、森達也監督の映画によって、知られるようになりました。
福田村事件の前日9月5日に、沖縄、秋田、三重県出身者が千葉県検見川町(けみがわ)で殺害された、「検見川事件」が起きていました。
当時の検見川事件の新聞記事です。
「三名を不逞鮮人の疑いありと巡査駐在所に同行、人々は数百人で(中略)三名を針金にて縛り殺したものである」(法律新聞・1923年11月3日)
「警察署の身元証明書を出して哀訴嘆願するにも拘かかわらず(中略)滅多斬めったぎりに惨殺した」(山形民報・同年10月18日)
東北や沖縄の話しなまりが、関東で話すなまりではなかった為、暴徒化した自警団に、朝鮮人と決めつけられ殺されたのです。
同様な事件は、いたるところで起きていました。
事件を調べた人は、「普通の生活を送っていた村人が、なぜ子どもや妊婦の命まで奪ったのか、誰もが加害者になるかも知れない、自分も加害者になったかもしれない、と思うとても怖くなりました。」と述べています。
映画『福田村事件』の森達也監督はオウム真理教の信者たちの日常生活を描いた『A』(1998年)や『A2』(2001年)というドキュメンタリー映画も監督しています。
森達也監督は、映画の事件は極めて邪悪で、凶暴で、冷酷かもしれないが、やっている人が邪悪で凶暴かというと、そうではないと言っています。
今の日本社会で、関東大震災当時と同じことが起きるかと聞かれた監督は「見方を変えれば、SNSで起きていること、あるいはヘイトスピーチやヘイトクライムなど。そうしたことを含めて、「今、日本で起きたら」ではなくて、もう起きているのではないかとも考えます。」と答えています。
森達也監督インタビュー
https://www.nhk.or.jp/fukuoka/lreport/article/001/19/
第一次世界大戦とロシア革命で騒然とするヨーロッパに、忽然と現れた神秘家グルジェフは、人間の意識は眠っていると言いました。
人間は感情の記憶に支配され、外からの条件づけによって反応するだけの夢見る機械だと教えました。
その眠りは、戦争を起こすので、夜の眠りよりも危険なのです。
人は、外からの印象と刺激に反応して、昼も夜も眠ったまま機械的・習慣的に生きています。
私と思っている私は、夢想と忘却の中で、自己を喪失している夢見る機械人間なのです。
心理学者のカレン・ ホーナイは、愛を受け取れない環境で育つと基本的不安が生まれることを、明らかにしました。
基本的不安が根底にあると、自分は世界で孤立しており、いま生きていることに違和感があり、他人は得体の知れない潜在的な敵と感じられ、自分は無力だという感覚が生まれます。
それを解消しようと、外側に行動表現(アクティング・アウト)してしまうと、世界が荒廃します。
基本的不安を持った自我は、抑圧した影を境界線の外側に投影して、自分は正義で対象は悪と見ます。
外側の悪を滅ぼせば、自分の内側も平和になると思い、正義の戦いを始めますが、内側の衝動はなくなりません。
中世の魔女狩りを始めたキリスト教の聖職者達は、自分に邪悪な面はないと強く信じていた為に、ペルソナ(仮面)とシャドー(影)の強い分離がありました。
聖職者達のシャドー(影)の投影先が、邪悪な魔女でした。
思考の罠に嵌った聖職者達にとって、邪悪な魔女は滅ぼさなければなりませんでした。
外側に向かって行動表現(アクティング・アウト)しても、内面の衝動はなくならないので、魔女の火あぶりが何百年も続きました。
そのために、数百万人もの人々が、犠牲になってしまったのです。
人間の意識が根本的に変容しない限り、外に敵をつくって暴力をふるう人間の残虐性は終らわりません。
意識の成長は、前段階を含んで超えて広がり、自己中心的な段階から自己中心性が減少していきます。
1、自己中心的段階 (私)
自己中心的で、ほとんど自分のことしか思いやれません。
2、自集団中心的段階 (私+私たち)
家族や友だちなど、自分の所属する組織グループの人だけに、思いやりの心を持っています。
関東大震災の事件は、自分の属する村の外の人々を敵視しました。
現代の戦争の殆どが、自集団中心的段階の争いです。
3、地球中心的段階 (私+私たち+すべての人々)
人種、宗教、性別、信条を超えて人類すべての人に思いやりの心を持つことができます。
4、統合的段階 (私+私たち+すべての人々+すべての存在)
今までの人類の意識は、分離した自我の自集団中心的段階にあったので、争いと対立が終わることはありませんでした。
人間の本質が分離した自我なのかというと、そうではありません。
片桐ユズル(詩人・京都精華大学元名誉教授)の父親片桐大一が、18歳だった関東大震災の時に、ユズルのひいおばあさんの片桐けいが朝鮮人を助けたという話を英語で書いています。当時の大一の状況は、日本語でかけなかったのです。
片桐大一が90歳で他界した葬儀のときにユズルの弟、中尾ハジメ(京都精華大学元学長)が、その英文を日本語に訳して会葬者に渡しました。
その内容は次のとおりです。
『25万5000の家屋を倒壊させ、さらに44万7000棟を焼失させた関東大震災で、首都東京は平地と化してしまった。
一週間ほどで私たちは、めちゃめちゃにひっくり返ってしまったものをもう一度たてなおそうと、気を取りなおし始めていた。
私たちのつぶれかけた家は、引きたおし、建てなおさねばならなかった。その日の午後、荻窪駅の近くで建築業者と材木商との打ちあわせを終えて、私は家へ帰るところだった。
未曾有の破壊は東京周辺のいくつかの地域でどうにも手のつけがたい無秩序をもたらしていた。大異変が人びとの理性の平衡を失わせたのだ。最も野蛮な不法行為まで起こっていた。
もっともらしく歪められた恐ろしい噂が、またたくまに、広く走り、朝鮮人たちが反乱を企んでいる、あちこちの井戸に毒をなげこんだ、そして何人かは、その場で捕らえられた、殺された、というのだ。
家にむかいつつあった私は、近所の大地主の一人飯田さんの畑で一人を斬首刑にすると、通りがかりの人たちが話しているのを耳にした。
数分で私はそこにいた。一人の朝鮮人に行われようとしている非法な斬首刑をはっきり見ようと、私は厚い人垣をかき分けて、最前列まで無理やりすすんだ。
この男が捕らわれたのは、ただ彼が朝鮮人だったからだ。
この白昼、これほど多くの目撃者のまえで一人の人間が殺されるのを見る。なんという衝撃か。どうして、これほど多くの者がこの光景を傍観できるのか。法治社会でこんな刑罰が許されるのか。
犠牲者は地面にはだしで座らされている。若く見える。が、私にはその背中しか見えない。取り囲んで立つ男たちの手にする、にぶく光る刀が触れる瞬間、血がほとばしるのを知っているのか。
やがて永遠の瞬間がきて、刀がひらめき、無抵抗の肉と骨に落ちていくのを知っているのか。私の心臓はのどにまで上がり、息がつまる。
周りのだれも動かなかった。この逃れがたい死の場面はいつ終わるのか。何という瞬間だ!
反対側に立っている群衆の中にざわめきがあがった。なんだろう。厚い人垣をかきわけて一人の女が出てきて、自警団の輪のまんなかに身を投げ出した。大地に自分をたたきつけるようにして。
その朝鮮人のまぢかに、その背中に寄りかからんばかりに座った。
何と!なぜ!どうして!
この新たな闖入者は私自身の祖母に他ならなかった。私のおばあちゃん、年老いてひ弱な、おばあちゃんは何を、何をしようというのか。
「さあ、まず私を殺しなさい。先に老いぼれた私を殺しなさい。この罪もない若者を殺す前に、私を殺しなさい。」
わめいたのではなかったが、その声はみんなに聞こえた。だれも喋らず、だれも動かなかった。
おばあちゃんは同じ言葉を数回繰り返し、繰り返すごとに、ますます毅然と決意が見えてきた。
あの威厳はどこからくるのか。
ほっとしたことに危機的な瞬間は長くは続かなかった。
引き抜かれた刀は、血を流すことなく元の鞘に収められた。
死刑執行者たちは、この坐ったままの老人と若者に背を向けると、一人また一人と去っていった。なんという変わりようだ。ほんのわずかの間にこんなに従順でおとなしくおなってしまうとは。
群衆は去り、私はおばあちゃんを連れて家に帰った、というかおばあちゃんが帰ろうと行ったのだろうか?
彼女はもはや決意も威厳も見えず、普通の年寄になっていて、私のわきをトボトボと歩くのだった。
その若い朝鮮人は、後で大工だということがわかった。私たちの近所を回り修理仕事をしていたのだ。彼の名はダル・ホヨンで、日本名をサカイといった。
何日も何週間もたち、私たちはあの事件には何も触れずにいた。というのも、あの恐ろしい私刑の場面を思い出すのが怖かったからだ。何か月かたって、おばあちゃんは警視庁に出頭せよといわれた。彼女はそこで人命救助により「警視総監賞」を受けた。』
(片桐大一)
古代の女性たちは、男性たちが戦う中に分け入り、敵対する部族同士の間に講和条約を結ばせることがありました。
年長の女性は、智慧を持っていると信じられ、尊敬されていました。
その公平な裁きには、驚くほどの友好がうまれたので血の復讐の代わりに、和平と同盟が生まれました。
女性原理は調和や平和、協力、分かち合い、優しさ、思いやり、慈悲、慈愛に関わります。
男性原理は、結果を求めて競争し、相手を打ち負かそうとします。
戦国時代は、逆らうものは皆殺しにして領土を広げ、少しでも油断すると家臣に寝首を掻かれ、利益のためには手段を選ばず、隙をうかがっては騙し騙され、あらゆる謀略の限りを尽くして勢力を拡大する男性原理の時代でした。
現代社会は、戦国時代の奪い合い、殺し合い、弱いものを滅ぼして、力の強いものだけが生き残る、競争の男性原理が今日まで引きずっています。
女性原理は、子供を平等に扱って、価値の差異や区別を無くす方向に向かいます。
愛と思いやりの意識は、前の発達段階を含んで超えて拡大し成長していきます。
意識は、自分の属する集団だけの繁栄を望む、自己中心的段階から、男性原理と女性原理が統合した段階へと向かいます。
私たちが成長すれば、暴力ではなく愛と智慧が中心の時代になるでしょう。
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