月光の浮かせてゐたる力石

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「力石」とは力試しのために抱え上げる大きな石のことで、神社や寺の境内によく祀られています。江戸時代から明治時代に身体の鍛錬や娯楽のために力石がよく用いられました。また力石を持ち上げて、重いと感じるか軽いと感じるかで、吉凶や願い事の成就を占う「石占」にも使われました。力石は多くの剛力(ごうりき)伝説が残るほど重く、常人ではとても持ち上げることはできません。満月の夜、たまたま見かけた力石は、月光によって影ができ、まるで月が浮かせているかのように見えました。

月光の浮かせてゐたる力石  黛まどか


https://kyoto.haiku819.jp/ja/about/ 【京都×俳句プロジェクトとは】より

京都×俳句プロジェクトは、コロナ禍の多大な影響を受ける京都を憂いた俳人·黛まどかさんの呼びかけに賛同する個人が、ボランティアとして参加し、活動を開始したプロジェクトです。

俳句は、花鳥諷詠…花や鳥、虫など自然の中に生きる小さな命を詠むものです。

春は桜、夏は新緑、秋は紅葉、冬は時雨など、京都には四季折々の自然の美しさや伝統行事があり、昔から多くの詠み人を魅了してきました。

日本には「歌枕」の旅という伝統があります。古歌に詠まれた地に足を運んだり、思いを馳せたりして歌や俳句を詠むのです。

このサイトでは、歌枕·京都の四季折々の風景を、世界の俳句愛好家や京都ファンが俳句に詠み合い、俳縁をつないでいきます。

コロナ禍の今だからこそ、俳句という小さな窓を通して命を見つめ、17音の器にその命を輝きを称えませんか?

そして、俳句を通してまだ見ぬ人との出会いを叶えていきませんか?

京都から世界へ、世界から京都へ。俳句がつなぐ「命」の響詠です。

本プロジェクトの趣旨にご賛同いただける方は、ぜひ「投句」という形でご参加ください。

https://www.youtube.com/watch?v=ws53O9_RtbY

https://www.ndsu.ac.jp/blog/article/index.php?c=blog_view&pk=157543953945f006f5fe164f34cb41859c0e7b3a3c&category=&category2= 【真金吹く吉備の中山 ~枕詞と歌枕の謎~|片岡 智子|日文エッセ イ85】より

著者紹介

片岡 智子(かたおか ともこ)古典文学(平安)・日本文化史担当

文学と文化史の観点から古代文学、主に和歌を研究しています。

はじめに~枕詞と歌枕~

和歌には「枕詞(まくらことば)」と「歌枕(うたまくら)」という、独特の働きをする修辞(レトリック)のための言葉があります。簡単に言うと枕詞とは最初にその歌の世界を引き出してくれる磁石のような一句であり、歌枕とは由緒ある特別な場所、歌にふさわしい名所をあらわす地名のことです。

ご存じのように枕詞で「ひさかたの」というと、「ひかり」をすっと引き出してくれます。その結果、とてもスムースに、そしてスマートにのどかな春の日が実在感を伴って表出されることになります。このように枕詞の磁力は様々なものを引き出しますが、古くはもっぱら地名である歌枕を呼び出すことから始まったようです。いずれにしても枕詞と歌枕は、いまだ謎に満ちている不思議な歌の言葉にほかなりません。

吉備の枕詞

岡山の歌枕といえば「吉備の中山」ということになりますが、その「吉備」を導き出したのが「真金吹く」という一句でした。

真金吹く吉備の中山帯にせる細谷川の音のさやけさ

この歌は平安朝の第一勅撰集である『古今和歌集』の「神遊びの歌」に入っています。宮廷で仁明天皇が即位される時に催された大嘗祭(だいじょうさい)で詠われた歌で、単なる風景の歌ではありません。

「真金」(まがね)は本当の金属という意味で、黄金あるいは鉄だといわれています。そして「吹く」とは金属を精錬する工程において風を送る作業のことです。したがって「真金吹く」は金属を溶解し、精錬するという、古代における最先端の技術をあらわした褒め言葉なのです。褒めることによって、それにふさわしい地名である「吉備」に掛かっていきます。他には『万葉集』に一例(巻十四・三五六〇)しかないので「真金吹く」は枕詞ではないという説もありますが、歌枕を導き出す表現の働きから枕詞だと認めないわけにはいきません。ちなみに『時代別国語大辞典』や多くの研究者が枕詞説を容認しています。

「吉備」は黍の国か

枕詞の「真金吹く」が直接、掛かっていくのは「吉備」(きび)という地名です。吉備とは備前・備中・備後の三国のことで、後に分国される美作も入れて、現在の岡山県を中心に兵庫県西部と広島県東部を含めた広い地域の総称です。歴史学で「吉備王国」とも称されるように弥生時代から古墳時代を通じて大いに栄えました。そのような吉備の国の先進文明が鉄をはじめ金属の精錬、精製の技術だったのです。

大和朝廷から一目も二目もおかれ、恐れられてもいたようです。おなじみの桃太郎は大和への服属をうながすために派遣された孝霊天皇の第四王子がモデルだといわれています。平安時代になっても特別な地域であったことは、すでに述べたようにこの歌が大嘗祭で詠じられていることからもわかります。

ところで、ここで歌枕となった「吉備」の語源はいまだ定かではありません。岡山県の地名については昭和五年に出版された『岡山県県史』の「地名考」に及ぶものはなく、吉備についても文献を博捜して考察しています。「吉備はキビ(黍)にして吉備国の土地、黍殻の耕種に好適しその産額る多く古来黍酒、黍団子の料となりし」といって、黍に適した土地柄であり、黍酒や黍団子が名産であること、「黍は黄実キミ、転じてキビ」であり、「岐美、岐備、吉備、寸簸、黄薇」などの漢字の用い方はすべて当て字で、皆通じると説明しています。そして「吉備の国名が阿波、安房の粟、紀伊の木の産地に名づけたると同じく、黍の産地に因めること疑いなし。」と結論付けるのです。

吉備の黍説は、今も名物の吉備団子の由来がわかって面白いし、阿波の徳島が粟で、紀伊の和歌山が木の国で、吉備の岡山が黍だという説も説得力があります。しかし万葉学者からは、キミが転じてキビとなるという点について音韻上、無理があると指摘されています。したがって黍説は保留にされたままです。吉備の語源が明確になれば、枕詞との関連をさらに緻密に分析できることでしょう。今後の研究課題です。

おわりに~吉備の中山とは~

最後になりましたが、枕詞「真金吹く」が吉備を導き出し、いよいよ本番の「吉備の中山」が登場します。

吉備の中山は吉備平野と岡山平野の中間にある山で、古くは「吉備の児島」と呼ばれました。文字通り吉備の国の中心に位置している聖なる神体山で、港があり、吉備津彦の本拠地でした。航空写真で上空から撮影するとかつて島であったことがわかります。南側が庭瀬です。庭瀬という地名も神の山の前の海の瀬という意味だと考えられます。現在、その麓を東西に新幹線が通っています。

その吉備の中山の西側の麓には備前の一宮の吉備津彦神社が、東側の麓に備中の一宮の吉備津神社が鎮座しています。一つの山に二つの一宮が依りついている例は他にありません。吉備における最も聖なる山であり、分国されるとき二つの国がそれぞれの国の神の山と主張したのだと思われます。これほど歌枕にふさわしい山はありません。

ここまで歌を通して吉備の枕詞と歌枕について述べてきましたが、つぎの機会には三句目の「帯にせる細谷川」からお話したいと思います。


https://www.city.ibara.okayama.jp/denchu_museum/docs/2017021500080/ 【「麻田鷹司展」-京都の四季・日本の美-】より

会期

2002年4月26日~6月2日

内容

 麻田鷹司(1928年~1987年)は、伝統的な大和絵の風趣を現代に生かし、戦後の美術界に重要な足跡を残しました。

 麻田鷹司(本名 昴 たかし)は、1928年(昭和3年)、京都市に生まれました。父麻田辮自は帝展、日展で活躍した日本画家であり、母も上村松園に日本画を学んでいます。幼 い頃から芸術的雰囲気の中に育った麻田は、ごく自然に画家の道を歩み始め、京都市立美術専門学校(現・京都市立芸術大学)在学中の1948(昭和23)年には第1回創造美術展に入選し、早くも頭角を現しました。創造美術は後に、新制作協会日本画部、創画会と発展していきますが、父の友人であった上村松篁も創立同人の一人として参加しており、革新的な日本画創造の舞台として熱気に溢れていました。この頃、麻田は、渓谷や雪原、荒天の海など日本海側の風景をモチーフに、造形性を追求した作品を発表しています。1961(昭和36)年に、東京に居を移した麻田は、1969(昭和44)年には 「京都の主題による」個展を開催し、本格的に京都の風景に取り組んでゆきます。最終的には京都を五つの地域に分けて、10年で50点の洛中洛外の連作の完成を目指しました。

 また、1966年(昭和41年)からは武蔵野美術大学で教鞭をとり、後進の指導にもあたっています。

 しかし、ライフワークである京都連作の完成を見ぬまま、病のため、1987年(昭和62年)、58歳の若さで逝去。最も愛した地である京都衣笠山の麓に葬られました。

 麻田はその画業のはじめから一貫して風景を描き続けました。特に1960年頃から歌枕や浮世絵などに取り上げられた「名所」、すなわち京都をは じめ天橋立、厳島、松島の日本三景などを題材として制作を始めます。これらの「名所」を日本人の美意識のあらわれとして再評価し、写実を基礎としながらも 大和絵の装飾性を加えて、日本人が育み、磨き上げてきた感性に立脚した作品を創造しました。

 この展覧会では京都の四季を描いた名作を中心に、日本三景など代表作をあわせて展示し、その画業を振り返りました。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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