Facebookさん投稿記事いと きょう縄文古代文字を楽しく書く会
出雲の海底遺跡。これは素晴らしい‼️最後までご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=UFfCx_WYH9Q
Facebook横山 航宜さん投稿記事【与那国島海底遺跡の謎を読み解く】
2/4から与那国島の海底遺跡に行くにあたり、与那国島を調べてみるとこのような伝説があった。
”イヌガン” と呼ばれる洞窟で、このイヌガンにはこんな悲しい伝説が残されている。
「大昔、久米島から中山王府(現在の那覇)への貢納船が出帆した。しかし船は荒天に遭い、与那国島へ漂着した。一行の中には女一人と雄犬一匹が加わっていて、ある夜から男が一人ひとり犬に噛み殺され、犬と女だけが岩屋で同棲するようになった。一方、小浜島の漁夫が荒天に遭い、与那国島へ漂着した。女はこの島に猛犬がいることを知らせ、すぐに島を離れるよう忠告するが、男は女の美貌に惹かれ、逆に犬を退治した。その後二人は夫婦になり、7人の子宝に恵まれた。長い月日が経ったある日のこと、男はこれまで隠し通してきた犬の遺骸を埋めた場所を、女に話してしまった。しかしその夜女はいなくなった。男はあたりを探しまわり、犬の遺骸を埋めてある場所へ行くと、女は犬の骨を抱いて死んでいた。犬と女が住んでいたところがイヌガンといわれている。」Wikipedia抜粋
イヌガンとは与那国島の言葉で「犬神」という意味になる。
現在、与那国島に住む島民はこの夫婦の子供の子孫であるとも言われている。
こういう物語は大体歴史的な流れを含ませているものでこれを読み解いてみた。
狗奴国は「狗(犬)」のトーテムを表し、犬狼信仰と犬狼獣祖伝説を持つ縄文人の国であると想定した。隼人は「吠え人」(狗のように吠える人)の意味で、狗奴国の末裔が隼人であると唱えたことから、与那国の物語の犬は狗の隼人族を現していると考えられる。
そして、この物語に登場する島は
与那国島、小浜島、久米島、那覇
中山王府とは、琉球王国のことでここにも伝説が残されている。
琉球王国では、中山王国を築いたのは天孫氏とされるがこれは伝説である。英祖王統に入ってから次第に按司をまとめていったものと考えられ、察度が中山王になるころまで形成されたと思われる。
天孫氏に関する記述は、『中山世鑑』(1650年)に古くからみえる。『中山世鑑』では、琉球開闢の際に、天の城に住む天帝が阿摩美久(アマミク、アマミキヨ)に、神々が暮らせる「島」を創るよう命じた。この「島」というのは、地形的な意味での島ではなく、集落と御嶽ではないかと思われる。まず最初に、国頭村辺戸に安須森(アスムイ、アシムイを、次に今帰仁村のカナヒヤブ、斎場御嶽などを創った。しかし、数万年経過したものの、人々は未だ居らず、このままでは神の霊威を顕わすことができないので、天帝は自分の子供である男女を地上に降ろした。その後、二人は三男二女をもうけ、それぞれ長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は君々(上級神女)、次女はノロの始まりとされる。長男は「天孫氏」と名乗り、国の主として統治したという。『中山世譜』(1725年)には、地上に降り立った男女の子孫から「天帝子」が誕生し、その長男が「天孫氏」であるとし、さらに後世の言い伝えでは、天帝子、天太子、天孫氏という順で称している。また1875年の『聞得大君御殿並御城御規式之御次第』には、「天タイシ」と「天テイシ」の子供の一人が天孫氏の開祖になったとあり、「天タイシ」は天帝子を表すもので、「天テイシ」とは別の神であると思われる。
『中山世譜』によると、天孫氏の統治は、乙丑に始まり、丙午の年になるまでの間、およそ1万7802年、25代にわたって続いたという。平均すると、一代あたり約712年間を統治したことになる。期間を表している干支と年数に関して、多くの研究者は全く触れないか、もしくは荒唐無稽であるとしている。しかし、東恩納寛惇によれば、始まりの乙丑の年は、「流求」の名が歴史的に現れた大業元年(605年)と同じであるため、これから取り入れたと考え、また、滅亡した丙午の年は舜天が即位した1187年(淳煕14年)の前年にあたるとし、すなわち1186年(淳煕13年)を天孫氏が滅亡した年としたのではないかと述べている。
『中山世譜』によれば、天孫氏は人民に食事、住居、農業、塩や酢の製法を教え、また彼らは、沖縄を「国頭(くにがみ)」・「中頭(なかがみ)」・「島尻(しまじり)」に区分、さらに、間切や按司を設置したと記している。そして、中山にはじめて城都を建築し、これを「首里(しゅり)」としたという。しかし、首里城の築城時期の詳細は不明で、察度もしくは第一尚氏の尚巴志王代の説があるが、首里城正殿で行われた発掘調査では、それ以前の14世紀前半から中頃までには築かれていたと考えられる。
天孫氏は25代続いたといわれているが、各代の姓名は不伝である。高良倉吉は、その理由について、「天帝」という神様の子孫とするなど神話的に語られていることに関係し、実在しない王統をあたかも存在していたかのように史記に記したために、王の名前を明示しえなかったと述べている。また『中山世譜』で、前述のように天孫氏の事績を説明した後に、「遥かに古い時代で、また記録を知らない時代でもあり、さらに度重なる動乱も起きていたので、天孫氏25代の王の姓名は全くもって不明」とされている。
上記のことを読み解き仮説を立ててみた。
現在から17000年以上も前、鬼界カルデラ海底火山噴火よりも前の世界、瓊瓊杵尊の天孫降臨よりも前に、現在の国東半島にあった天御柱又の名を扶桑の木の上にある高天原より、地上に降り立った天の使いは琉球付近に王朝をつくった。
その際に文明の基礎となるカタカムナのような教えを高天原より地上にもたらした。
これはシュメール文明よりも遥か昔になる。
この時創ったのが、与那国島の海底遺跡にも関係しているのかもしれない。
そうしておよそ1万7802年、25代にわたって続いた琉球王朝の滅亡を与那国島のイヌガン伝説は現している。
那覇の琉球王国に貢物の船がたどり着かなく与那国島に難破したということは、琉球王国の財政が破綻したということを意味している。
琉球王国が滅亡の道を辿るとき、内乱が起き、隼人族が納めたが、小浜島の漁夫ということは、水軍の勢力が隼人族を制圧したということに読み取れる。
そして女は水軍の勢力の子を産むが、隼人族のことが忘れられず自害したということを表した物語だと読み解いた。
琉球方面が日本最古の文明だと言われる所以だが、よく考えてみるとつまり天御柱の上にある高天原の文明はその時にはすでに他に文明を授けられる水準の叡智を兼ね備えていたというわけだ。
これらの物語と繋がりからも、日本最古というよりも人類の文明の発祥は、地上ではなく高天原だということになる。
Facebook木村 正治さん投稿記事
沖縄県周辺の海底には巨大な神殿や海底遺跡が多数あります。
日本海にも幾つもの海底遺跡があります。日本周辺の海底を徹底調査すれば間違いなく日本の歴史は書き換えになるでしょう。
また北海道には1万年以上前から縄文人が定住していました。
また阿蘇山は幾つもの外輪山で構成されますが本来の阿蘇山が大噴火により吹き飛び、残った
一部が外輪山になっています。
太古の昔、本来の阿蘇山は遥かに富士山よりも高い巨大な山だったということです。
こうして見ると不二阿祖山太神宮がありますが、不二とは2つと無いという意味で、阿祖山太神宮の阿祖山とは私にはどう見てもかつての阿蘇山の事だとしか思えないのです。
富士山から天孫が高千穂に降臨して行ったと宮司が説明していましたが、どこか無理があります。
高千穂には阿蘇山が近くにあり、かつての阿蘇山が富士山より遥かに高く巨大な山で不二つまり2つと無い山だったとしたら阿蘇山から高千穂に天孫が降臨したと見なすほうが自然ではないでしょうか。
事実、高千穂周辺を歩きましたが、地理的にも歴史的にも違和感がありません。
高千穂近くにある幣立神宮には高天原がここにあったと説明がありますし、しばしば世界権力が幣立神宮を訪れている事実を見れば、何かが見えてきます。
人類の祖である五色人が祀られているのも唯一、幣立神宮だけです。
赤人、黄人、青人、白人、黑人の祖を五色人神として幣立神宮だけに祀られていて5年ごとに
五色人神祭りが幣立神宮にて行われますが必ず世界中のセレブが参加するそうです。
何事かを物語っていますね。
この幣立神宮は応神天皇が生まれるに際して対立が生じ、この付近で内乱が生じて多数の人々
が死んでいます。これを高天原の乱といい、これがために幣立神宮は長い歴史の時間において表から姿を隠しました。
しかしもはや幣立神宮が表に出なければ世の中が定まらないという事になり幣立神宮の存在を表に出るようにしたという経緯があります。
幣立神宮の宮司に話を聞いた際には、高天原の乱で亡くなった人々を付近の千人塚に祀っているが近付かないほうが良いと戒められました。
千人塚に立ち入った者は良からぬ事が次々と起きるからだと宮司が説明しました。
ちなみに幣立神宮の宮司は昨年12月に私が皆様と一緒に参拝するために石段を登り本殿の前に出た瞬間に本殿に立っていて、「あ、君は大阪から来たね。」と初対面でまだ会話もしていない段階で私に言ったので不思議でした。
私の事を知っていたのか何かの特殊な能力がおありなのか、いきなり次に「大阪から日本を建て直さなければならない。」と私に宮司が言ってきました。
何とも不思議な宮司でした。幣立神宮の本殿には御祭神を説明した板が掲げられていて、それによると・神漏岐命・神漏美命 アソヒノオオカミは2柱の大御名なり・大宇宙大和神 →大和民族最古神 ・天之御中主大神 →皇室の太祖 ・天照大御神 →皇御祖(すめみおや)
以上、5枝の大御名を天照皇太神という。とありました。
ちなみに太神は男神、大神は女神ですからここに天照皇太神とあるからには男神ということになりますね。また大和民族の最古神として大宇宙大和神が祀られているのは幣立神宮だけで、名前からして何事かを感じますよね。
大和民族は地球で生まれた地球外人と言えるでしょう。またこの5枝の主祭神の配神として、
・大和国六始神(天、地、風、水、火、雨)・神代七代・天神七代・五色神(世界の民族の祖神を祀る)とありました。
幣立神宮に行くと何か人類史の秘密が分かったような思いになりました。世界の民族の祖神である五色神は配神であり、大和民族の最古神である大宇宙大和神のほうが上にある事が分かります。
日本が世界の文明の祖である事が明らかになってきていますが、幣立神宮に行けばそれが事実だと体感できるでしょう。
色々と知れば日本の本当の姿が見えてきて、やはり深いですね。
日本人としてしっかりと日々を過ごしていきたいですね。
Facebook長堀 優さん投稿記事「ムー大陸の中心は沖縄?」
八幡書店の書籍・古書目録が、毎月私のもとに送られてくるのですが、ついに「失われたムー大陸」という本を探し出し手に入れることができました。
この本は、一九二六年、かつてインドに駐屯していた元英国陸軍大佐ジェームズ・チャーチワードにより著されました。
チャーチワードは超古代、太平洋上にあったムーという大陸が、火山の活動により一夜にして海中に没したという、いわゆる「ムー大陸伝説」を、この本を通じて世に広めたのです。
彼は、インドで古い寺院の院主である老僧と出会い、古代文字の読み方を習ったことをきっかけにして、その後五〇年をかけ、世界中を旅行し、古代文字の彫られた円板や事実の収集に努めました。
そして、ロマンに満ちたムー大陸の物語を紡ぎあげたのです。
伝承では、豊かで美しい熱帯の国であるムー帝国の人口は、約六四〇〇万人だったと伝えられています。時代を考えれば、信じがたいほどの数です。
しかし、今から約一万二〇〇〇年前、このムーを突然の大地震と噴火が襲い、帝国全体が海底に沈んでしまったというのです。
チャーチワードによれば、ムーの下の地盤には、爆発性のガスが充満した空洞があり、このガスの圧力で岩盤に割れ目が生じたのが沈没のきっかけとなったといいます。
そのガスが空中へ逃げ出したことにより生じた地下の大空洞が崩壊し、ムーは海中に没してしまったのです。
そのムーの名残が、太平洋全体に散らばっている島々というのです。
与那国島沖の海底遺跡調査で知られる木村政昭・琉球大名誉教授は、太平洋のど真ん中にあったという大きな大陸については、地質学的知見からその存在を否定しています。
しかしながら、太平洋の西部地域に限れば、7万~2万年前に広大な陸域があったことは、海洋学的にも認められると述べます。
なぜかといえば、その当時は最終氷期に入った頃であり、海水が凍結して海面が低下していたために、日本と朝鮮半島、中国大陸はもちろん、マレー半島からフィリピンの島々を包含する広大な陸地が存在したと考えられているからです(写真をご参照ください)。
しかし、2万年以降の地球温暖化と地殻変動により、氷が溶け海面が上昇し、全体にこの地域は水没していったのです。
とりわけ、トカラ諸島、沖縄から八重山諸島にかけての地域は、大きく陥没したと考えられています。
なぜなら、この地域は火山の連なりであり、地下には巨大なマグマ溜まりがあるからです。
つまり、木村氏が「琉球古陸」と呼ぶこの地域は、火山の噴火によってこのマグマ溜まりが解消されると、大きな陥没が起こる可能性があるわけです。
木村氏は、火山の噴火による「琉球古陸」の沈没は実際に起こり、一万8000~4000年前以降をピークに、長さ1200キロ、幅100キロにわたる大規模な地域の段階的な陥没を起こしていたと考えています。
たいへん興味深いことに、この時期は、ムー大陸を世に紹介したチャーチワードが指摘するムー水没の時期と重なっています。
チャーチワードは、大変動の原因として、爆発性ガスが充満する地下の空洞の陥没を挙げていました。
この空洞を八重山の火山群のマグマ溜まりとすれば、「琉球古陸」水没のメカニズムも、チャーチワードの語る説とぴたり重なります。
つまり、木村説によれば、ムーの中心は、沖縄ということになってくるのです。
とは言え、現在までに発見されている与那国島沖の海底遺跡を被う生物化石の年代を測定すると(炭素14 年代測定法、ベリリウム10 年代測定法)、いずれも2000年前より新しいものであるといいます(木村政昭著「新説 ムー大陸沈没」より)。
この鑑定が正しいのであれば、海底遺跡は、チャーチワードが伝えるムー大陸の大規模陥没より、相当に新しい時期に建造されたことになり、ムー伝説とは関係ないということになります。
この点について、チャーチワードは注目すべき記述を残しています。
ロシアの考古学者P・K・コズロフ教授の地質学調査隊に加わったチャーチワードは、シベリア東部全域にわたり、数千年前に起きた恐ろしい大洪水の痕跡を発見しています。
この地域からは、氷河の跡が全くみられなかったことから、大洪水はほとんど岩盤を露出するまでに表土を洗い流したと考えられるそうです。
そうであるなら、シベリアと沖縄は離れているとは言え、この大洪水が日本にも少なからぬ影響をあたえ、ある時期の琉球地方の遺跡を根こそぎ流し去ったという可能性も否定はできません。
じつは、木村氏も、与那国島沖海底遺跡近辺の分析では、6000~5000年前より古い石灰岩は、なぜか、ずっとさかのぼって3万~2万年前より古いものしか出土していないと指摘しています。
ある時期の地層がごっそり消失しているというこの事実は、ひょっとしたら、チャーチワードが伝える大洪水の痕跡を示すものであるのかもしれません。
考古学的な調査や古文書の研究のさらなる進展が待たれるところです。
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