ケン ウィルバーbot@KenWilber_botJP
もっとも大きな死、そこでいつもと同じように、旅が終わり、そして、まさにそこで始まるのである。
坂村真民bot@shinminbot
すべてのものが 精一生きているのだ 蟻も 蜜蜂も 精一杯 働いているのだ それが生命を 与えられたものの真の姿だ
坂村真民bot@shinminbot
花には 散ったあとの 悲しみはない ただ 一途に咲いた 喜びだけが残るのだ
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
「生」という文字
生きる、の「生」という文字、もともとは芽が出ること、はえることを意味しています。ひと粒の小さなタネが芽を出し、葉っぱとなり、成長していきます。
この、「いのちの働き」が生です。お日様に当たり、雨をいただき、風を受け、大地のぬくもりに養分をもらって、伸びていくのです。
こんな意味を込めて、ひとつの文字、たった5画の「生」が生まれたと思うと、人間ってすごいな・・・と感動してしまいます。
いいえ、ものごとは、みんなそういうものですね。私たちが受け継いできた伝統とか文化の根っこは、やはり「良く生きていこう」「みんなで助け合って頑張ろう」という真摯で素直な思いによるものです。
いつの間にか、勝者だ・敗者だと、わが身がひとりで生きてきたような顔をするようになりましたが、それ・・・、恥ずかしいことです。安易に使われる「自己責任」という言葉も、「生」の文字の前には小さくなっていきます。
先日、こんな言葉に触れましたました。
「声が大きな人をそんなに気にする必要はない」。辻山良雄さんという、書店主の随想集から拾ったものだそうです。
風が心地よい時期になりました。ゆっくりと見回せば、みな精一杯の「生」にあふれています。おかげさまですね。
Facebook田中 宏明さん投稿記事·
もしあなたが死が全く怖くないとしたらもう生きている必要はないのかもしれません^ ^
死が存在しない人にとって生もまた存在しないからです
人はなぜ生きるのかという問いに対してたくさんの答えがあると思います
どうでしょう^ ^あなたならなんと答えますか?
僕ならこうきっと答えると思います「よりよく死ぬため」
そんな僕にとって「今日は死ぬのにもってこいの日」というこの言葉はまさに自分自身のテーマでもあります^ ^
「生きろ」と謳う映画や物語はたくさんありますが僕は生きることだけを重要視する風潮に
ずっと疑問がありました
いつも「死」は見えない場所に隠されてまるで人は死なないような錯覚を感じさせるからです
死が見えなくなると生も見えなくなります
今回のテーマはネイティブ・アメリカンの詩集からもらいました
その詩の一節にはこう書かれています
生きている全てのものが わたしと呼吸を合わせている 全ての声がわたしの中で
合唱している 全ての美がわたしの目の中で 休もうとしてやって来た
あらゆる悪い考えは わたしから立ち去っていった 今日は死ぬのにもってこいの日だ
宇宙や万物との調和という生における最大の祝福は死に対する最大の祝福でもあるのだと
言っているように感じました
満ちたりた日こそ死ぬのにふさわしい日なのだという
この大きな眼差しの中にこそ命に対する深い愛と信頼を感じます
死にたくないのは生き物の本能ですでも愛と信頼はその怖れの中でしか見出すことは出来ない
のだと思います
怖れは愛を知るためにあるとしたらやはり全ては愛なのかもしれません^ ^
だから常にどんな瞬間も宇宙は愛で満たされているんでしょうね😊
「宙の愛」今回のラコリーヌテアトルのテーマです✨🌈😆
お暇な方はまた異星人トリオにお付き合いくださいませ🌈
きっと途中から笑い話ししかしなくなりますが(笑)
みんなで笑顔をシェアしましょう^ ^ではまた😆らぶ💓
Facebook山平 喜一郎さん投稿記事
つまり、わたしが「彼らに」先立った愛するひとだとしたら、彼らが死んだとき、わたしが待っているんじゃないですか?
そうだよ。あなたは出迎えただろうし――出迎えるだろうね。
まいったな。すみませんが、わけがわからなくなりましたよ。「彼ら」が境界を越えたときに、わたしが待っているとしたら、そしてわたしが境界を越えたとき、もう彼らが向こうにいるとしたら、どうやって……いったいどんな順序になるんですか?
あなたがたは物理的な人生/生命の終わりに、連続同時に互いに出迎えるんだよ。
しかし、ものごとが連続的であり同時的なら、わかしはどっちを経験するんですか?
そのことは一度も説明してくださってませんよね。わたしはひとつのことのつぎにべつのことを経験するんですか。それとも、すべてをいっぺんに経験するんでしょうか?
どちらでも、あなたが選ぶほうで経験する。あなたは「壁画」の個々の絵を見ることもできるし、後ろに下がって全体を一度に見ることもできる。要は、視点の問題だ。あなたは自分に役立つどんな視点でも選ぶことができる。楽しいと思うどんな視点をとってもいいんだよ。
それって、ものすごいことですよ。だってわたしの人生/生命が終わるときには、すべてのひとの生命/人生も終わるみたいじやないですか。わたしが死ぬとき、すべてのひとが死ぬ。そんなの公平だとは思えないな。
べつに不公平なことはないさ。不当とか不公平ということは「究極の現実」ではありえない。
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