Facebook清水 友邦さん投稿記事
今日30日は盤珪(ばんけい)の命日です。道元・白隠・盤珪(ばんけい)は禅思想の三大潮流と呼ばれています。
その三人のうち、誰に会いたいかと問われれば、私はまっさきに盤珪さんと答えたいと思います。
ある日、一人の癩(らい)病人から仏弟子になりたいと盤珪さんに申し出がありました。
盤珪さんが膿がしたたる頭を丁寧に剃髪しているのを不潔に思った町田伝右衛門という者が手桶に水をくんで来て、「老師どうぞその手をお洗いください」と申し出ました。
すると盤珪さんは「この癩病人よりも、そなたが不快そうに嫌う心のほうがよっぽど汚いわい」と言ってその手洗水を使おうとしませんでした。
「悪をきらうを善じゃと思う きらう心が悪じゃもの」 盤珪
「善をしたこと善じゃとうじゃる うじゃる心が悪じゃわい」盤珪
「善きも悪しきも一つにまるめ 紙につつんで捨てておけ」盤珪
盤珪さんの膝下には、宗派を忘れて曹洞・臨済・天台・真言から儒家や神道の指導者までが集まり、盤珪さんに心酔しないものはいませんでした。
しかも、仏典や漢文書籍は一切引用せずやさしい日常の言葉で教えを説いたので大名から庶民にいたるまで「活き釈迦」と敬慕され幅広い階層の人々の帰依を受けました。
盤珪さんの有名な短気の問答です。
質問
「それがしは生まれついての短気でございまして、直そうと存じますけれども、これが生まれつきでございまして直りませぬが、これはなんと致したら直りましょうか」
盤珪さん
「ほほう、そなたは面白い物を生まれついたのう。今もここに短気がござるか? あらばここへお出しやれ。さっそく直して進ぜよう」
質問
「ただ今はござりませぬ。ひょっとした拍子に短気が出まする」
盤珪さん
「それならば、短気は生まれつきではござらぬ。なにかしらのご縁によって、ひょっとした拍子にそなたが出かすものじゃ、何かした時も、そなたが出さなければどこに短気があるものぞ。
そなたが勝手に短気を起こしておきながら、それを生まれつきというのは難題を親のせいにする大不孝者というものでござる。生まれつきなら短気は今もあるはず。
親から生まれついて持ったものは不生の仏心(セルフ)ひとつで、それ以外のものは一つもありませぬ。
一切の迷いは勝手に自分をひいき(自己中心的)にして、自分が思いを起こすからで、それを生まれつきと思うのは愚かでござる。
われが思いを出かさなければ短気がどこにもありますまい。
ない短気を直すとは無駄なことで、不生の仏心をしれば迷いたくとも迷われませぬ。不生の仏心でござれ。」
自我はたくさんの記憶で出来ています。
頭の中では思考が次々と浮かんでは消え、刻々と変化してとどまるところがありません。
思考はうつろい、常に変化してゆく諸行無常なものです。
「あーでもない。こーでもない」と言っている思考の私はいないのです。
実体のない思考を私と思い込んでしまっているのが私たちです。
ですから盤珪さんに「短気を出しなさい」と問われても「はいこれです」と差し出すことはできないのです。
盤珪さんの法話を聞きに来た十五歳くらいの小僧が盤珪さんに質問しました。
「坐禅をしておりますと、次から次へと雑念が出てきますが、どうしたらよろしいでしょうか」
盤珪さん
「いろいろさまざまに起こってくる念を、それぞれにわきまえ知ることが仏心の徳用でござる。
仏心は不生にして、しかも霊明なものであるから、わが胸の内にあるものが自然に浮かび出てくるのじゃ。
仏心には念と物とがないから、その念を払おうとも、止めようとも思わず、取りあわないでおれば、それで自然に不生の仏心にかなうことになるのじゃ」
盤珪さんの「不生の仏心」とは生まれる事も死ぬ事もない永遠の本当の自分のことです。
「無為の心はもとより不生 有為が無き故迷い無し」盤珪
盤珪さんの禅は「不生禅(ふしょうぜん)」と呼ばれました。
永遠の自己は誰もが生まれつき備わっています。
本当の自分(セルフ)に気がつけば自我(エゴ)が自分の本質ではないことがわかります。
迷う心(エゴ)は実体のない幻影(マーヤ)だと気がつくと迷うことがなくなるわけです。
「不生の仏心」に気がつけば、悟りを得ようと念仏を唱えたり、厳しい修行も坐禅もする必要がないと盤珪さんは教えました。
「仏道修行をつとめし後は 何もかわりは得ぬものを」 盤珪
「迷い悟りはもと無いものじゃ 親も教えぬならいもの」 盤珪
修行は不要と説いた盤珪さんですが、盤珪さん自身は、下の敷物が破れ、足からは血が出るほど寝食を排して何年も座禅に打ち込んでいます。
とうとう、お湯をすするだけの重い病気を患って死を覚悟しました。
苦しみぬいた朝に、真っ黒い血痰の固まりを吐き出すと楽になったので表に出て顔を洗いました。
その時梅の花の香りが鼻腔を打ちました。
その瞬間に盤珪さんは桶底が脱ける心境に達したと言われています。
「やれ、一切の事は不生の一字でととのうものを、今日までそれを知らずに、さてさてむだ骨を折ってきたことだ」盤珪
禅では悟りの境地を『桶の底が抜ける』 と表現します。
底が抜けた何もない空っぽの桶は虚空を表しています。
思考が現れては消える虚空である空っぽの桶それが自己の本質です。
「古桶の底ぬけ果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」盤珪
なかなか桶の底が抜けない探求者は、すぐれた師を探して桶の箍(たが)を緩めてもらいます。箍(たが)が緩んでしまえば、あとは時期がくれば底は自然に抜けます。
ただし、箍(たが)を緩めるつもりの講釈が逆に箍(たが)を締めてしまうことがあります。
究極では桶そのものがありませんが、準備ができていない人への講釈は、かえってマインドを強化してしまうだけなのです。
盤珪さんの教えを信ずる人々を白隠は批判しました。
「何もしなくてもそのままで良い」は無事禅として批判されました。
昔から無事禅をそのまま鵜呑みにして怠惰になり、堕落してしまう人が多かったからでした。
気づきがない状態で講釈ばかり聞いても自我が太るばかりなのです。
今の臨済宗の法系はすべて白隠から来ています。
臨済宗の法系の盤珪さんは元和八年(1622年)3月8日に播州(兵庫県)網干の浜田で生まれ、元禄六年(1693年)9月30日に姫路の龍門寺で73歳でこの世を去りましたが、残念なことに「不生の仏心」を説く盤珪さんの「不生禅」の法系は長続きしませんでした。
「昔思えば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじゃ」盤珪
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