希望の種をまく

季語が花種蒔くの句

May 0251999

 朝顔を蒔くべきところ猫通る

                           藤田湘子

朝顔は、八十八夜の頃に蒔くのがよいとされる。作者はたぶん、今日蒔こうか、明日にしようかと決めかねている状態にあるのだろう。蒔くのならばあのあたりかなと、庭の片隅に目をやると、そこを野良猫が呑気な顔でノソノソと通り過ぎていったというのである。たったこれだけのことであるが、このようなシーンを書きとめることのできる俳句という詩型は、つくづく面白いものだと思わざるを得ない。この句は鋭い観察眼の所産でもなければ、何か特別なメッセージを含んでいるわけでもない。しかし、なんとなくわかるような気がするし、なんとなく滑稽な味わいもある。この「なんとなく」をきちんと定着させるのが、俳人の腕である。初心者にも作れそうに見えて、しかし容易には作れないのが、この種の句だ。たとえば、種を蒔いたところを猫が通ったのならば、素人にも作れる。それなりのわかりやすいドラマがあるからだ。が、このように何も言わないで、しかも自分の味を出すことの難しさ。百戦練磨の俳人にして、はじめて可能な句境と言えよう。最近の私は、こうした句に憧れている。『一個』(1984)所収。(清水哲男)

March 0732000

 花種子を播くは別離の近きゆゑ

                           佐藤鬼房

作者は東北の人だから、実際に花の種子を播(ま)くのは、四月に入ってからになるのだろう。年譜によれば、三十代より胆嚢を病み、頻繁に入退院を繰り返している。したがって、句の「別離」には、みずからの死が意識されている。いま播いている種子が発芽して花をつけるころには、もはや生きていないかもしれないという万感の思い。だからこそ、いつくしみの思いをこめて種子を播き、新しい生命を誕生させたいのだというロマンチシズム。かつて詩人の三好豊一郎(故人)が、鬼房の句について、次のように書いたことがある。「俳諧の俳味に遊ぶよりも、俳句という形に自己の人生への感慨を封じこめることで、外界はおのずから作者の心象の詩的イメージとなって描き出される。そういう句が多い」(「俳句」1985年7月号)。掲句もその通りの作品で、現実の「花種子を播く」という外界的行為は、抽象化され心象化されて独特のロマンチシズムへと読者を誘っているのだ。読んだ途端に、同じ東北人だった寺山修司の愛した言葉を思い出した。「もしも世界の終わりが明日であるにしても、私は林檎の種子を蒔くだろう」。『何處へ』(1984)所収。(清水哲男)

May 0452006

 生えずともよき朝顔を蒔きにけり

                           高浜虚子

季語は「朝顔蒔く」で春、「花種蒔く」に分類。朝顔は、八十八夜の頃が播種に最適とされる。ちょうど今頃だ。昨年は蒔くのを忘れたので、今日あたり蒔こうかと思っている。といっても、土を選んで買ってきたりするのは面倒なので、垣根のわきに適当に蒔くだけだ。べつに品評会にでも出すわけじゃないから、その後の世話もほとんどしないはずである。まさに掲句のごとく「生えずともよき朝顔」というわけだ。虚子の気持ちは、一応は蒔いておくけれど、生えなければそれでもよし、生えてくれれば儲けものといったところだろう。まことにいい加減ではあるが、期待しないその分だけ、生えてきて花が咲いてくれたときには、とても嬉しい。内心では、ちゃんと生えてほしいのだ。でも、はじめから期待が高過ぎると、うまく育たなかったときの落胆度は大きいので、こういう気持ちでの蒔き方になったということだろう。うがった見方をしておけば、種蒔きだけではなく、このような気持ちでの物事への処し方は、虚子という人の処世術全般に通じていたのではないかと思う。断固貫徹などの完璧主義を排して、何事につけても、いわば融通無碍に、あるいは臨機応変に対応しながら生きてゆく。桑原武夫の第二芸術論が出て来たときに、「ほお、俳句もとうとう『芸術』になりましたか」とやり過ごした態度にしても、その一つのあらわれだったと見てよさそうだ。『新歳時記・春』(1989・河出文庫)所載。(清水哲男)


FacebookHiroshi Kaneiさん投稿記事

■古代ギリシャのことわざで、こんな言葉があります😊

“A society grows great when old men plant trees whose shade they know they shall never sit in.”🌳

老人が植えた木(種)はやがて素晴らしい大木(社会)に成長するが、彼らはその木の木陰に座ることはないということを知っている。

つまり今私たちの世代が何かアクションを起こし、社会を変えようと努力しても その変化を目の当たりにすることはできない。

しかし信じて次の世代にバトンを繋ぐことで、きっとその種子が芽となって成長する。未来の子どもたちへ享受される。

老人がその木陰に座ることはないと知りながら木(種)を植えるとき、やがて素晴らしい社会に成長する!❤

***

明日、世界が滅びるとしても、

  今日、あなたは    リンゴの木を植える🍎   ~開高健~

オリジナルは、宗教改革で知られるマルティン・ルターの言葉。「もし明日世界が滅びるとしたらどうしますか?」と聞かれたルターは、「今日、わたしはリンゴの木を植える」と答えたいう。


http://blog.ehonizm.com/?eid=523 【【絵本の紹介】「木を植えた男」【402冊目】】より

こんにちは、絵本専門店・えほにずむの店主です。今回紹介するのは「木を植えた男」です。

原作:ジャン・ジオノ 絵:フレデリック・バック 訳:寺岡襄 出版社:あすなろ書房

発行日:1989年12月15日

原作はフランスの作家ジャン・ジオノが1953年にアメリカの雑誌「リーダーズ・ダイジェスト」に発表した短編小説です。

アニメーション映画化もされ、87年のアカデミー賞短編映画賞を受賞しています。

主人公の「わたし」が、フランスのプロヴァンス地方の山深い地域で出会った一人の農夫について語るドキュメント形式の作品です。

ストーリーや地名、人物描写などあまりにもリアリティがあり、もともと「リーダーズ・ダイジェスト」の編集者は「私がこれまでに会った中で最も並外れた人物」についての執筆を依頼したという経緯もあり、しばしばノンフィクションだと思われてきた作品ですが、実は完全なフィクションです。

何十年も昔、山深い地域を旅する「わたし」は荒れ果てた廃墟を越え、水を求めて歩き続けるうち、一人の羊飼いに出会い、水を分けてもらい、その男の小屋で休息します。

男は寡黙でほとんど口をききません。

家族は犬だけ。

近隣の村では人々が厳しい自然の中、貧しく荒んだ暮らしを送っていましたが、男は俗世とは無縁のように清貧で静かな生活を営んでいました。

つつましい食事のあと、男は小さな袋からどんぐりを取り出し、念入りに選り分けて完全な形をした100粒を分類するという作業を始めます。

男に好奇心を覚えた「わたし」は、もう一日泊めてもらうことにします。

あくる日、男は仕事の合間に山道にあのどんぐりをひとつひとつ埋め始めます。

男の名はブフィエといい、かつてはふもとに農場を持っていたが妻と息子を亡くし、孤独な身の上となっていました。

ブフィエはそれから、この不毛の地に生命の種を植え付けることを自分の生涯の仕事とすることにしたと言います。

「わたし」は次の日、再び旅に出ます。

次の年には第一次世界大戦が始まり、「わたし」も兵役に駆り出されます。

5年間戦場で過ごし、帰ってきた「わたし」はあの男のことが急に思い出され、会いに行きます。

ブフィエは変わらずに木を植え続けていました。

カシワやブナやカバの木は立派に育ち、荒涼としていた不毛の地に、少しずつ自然の恵みが生まれつつありました。

一方では戦争という究極の破壊行為を成す人間が、同じ手でこんな神のような創造行為を成し遂げられることに、「わたし」は胸を衝かれます。

さらに年月は流れ、「わたし」はたびたびブフィエのもとを訪れました。

そのたびに若木は豊かに育っていました。

時には1万本ものカエデの苗が全滅し、絶望の淵に立たされることもありましたが、ブフィエは不屈の精神で仕事を続けたのです。

やがて人々もこの素晴らしい森に気づきますが、それがまさか一人の男の手によって成されたわざとは知りません。

ただ、殺伐としていた近隣の村には夢と労働への意欲がよみがえり、人々は幸せな生活を手に入れていました。

「たった一人の男が、その肉体と精神をぎりぎりに切りつめ、荒れ果てた地を、幸いの地としてよみがえらせたことを思うとき、わたしはやはり、人間のすばらしさをたたえずにいられない」

★      ★      ★

前述したようにこれは作者ジオノさんによる完全な創作ですが、「リーダーズ・ダイジェスト」は実在の人物についての原稿を求めていたため、あえて誤解を生むようなジオノさんのやり方を非難し、その後ジオノさんはこの作品の著作権を放棄しています。

この作品をノンフィクションだと思って魅了された人々はその後も絶えず、「木を植えた男」のアニメーション監督のフレデリック・バックさんですらブフィエが実在しないことをアニメ製作途中まで知らなかったといいます。

また、「木を植えた男を読む」を執筆した高畑勲さんも、長い間この作品が虚構であることを知りませんでした。

なんとなく「一杯のかけそば」を彷彿させるような経緯ですけど、私はこの作品に限らず、物語の事実性は重視しません。

もちろん、美談系の実話は実話ゆえに感動を誘うものだし、人々に力や勇気を与えるものだとは理解します。

しかし人間が他の生き物と決定的に違っているのは「物語から生命力を得る」ことができる点です。

たとえそれが虚構であっても、人間はそこから現実レベルに有効な力を受け取ることができるのです。

事実、実際には虚構であっても現実世界に影響を及ぼしているシステムは世の中にいくらもあります(例えば国家)。

作者がこの小説をノンフィクション作品だと読者にあえて誤解させるような書き方をしたのは事実でしょう。

ジオノさんはこの物語が人々に何らかの影響を与えることを狙ったはずです。

そして、おそらくその試みは成功したと言えるのではないでしょうか。

荒野にたたずむ一人の老農夫。

孤独の中で、黙々と木を植え続ける不屈の魂。

静謐で崇高な精神生活。

賞賛を求めることもせず、誰かに知られることすら望まず、見知らぬ誰かのために成される真に尊い仕事。

その人物像が生き生きと読者の胸に呼び起こされ、背筋が伸びるような思いが到来するのなら、この物語には確かに力が存在するのです。

https://www.youtube.com/watch?v=HqoSRKRsY_U&t=39s

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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