Facebook河野 修一さん投稿記事
【栄養バランスの罠と正しい偏食⁇】
栄養のバランスについて、一つの見方をご紹介します。それは、頭で「バランスを考えないこと」です。(笑)
栄養素の不足を心配をしながら餌を食べている動物を見たことがありますか?
高血圧や心筋梗塞を気にしながら食事をする動物もいませんね。
そう、野生の動物は「バランス」なんて考えません。
彼らは本能的に、いつも食べているものが「栄養の完全なバランサー」であることを知っています。
そしてたいていの動物に「主食」があります。
パンダは笹を、コアラはユーカリの葉を食べるだけで身体のすべての部分を作り出し、健康を保つことができます。
見方によっては、ものすごい「偏食」ですね。でもこれが彼らにとって「正しい」偏食なのです。
「人間も同じでは」と考えてみます。主食とは、毎日食べても飽きないものです。それが自然に栄養のバランスをとってくれます。
逆に僕たちが「30品目」や「カロリー」を気にしながら食べれば食べるほど、身体はおかしくなります。
食事は「頭(思考)」で食べるものではありません。
歯の構造や、腸の長さや、消化酵素の適応からみると、どうも人間は穀類を中心にした「穀物菜食」が合っているようです。
これから世界で活躍できる国際人は、「穀菜人」かもしれませんね。^^
それから、「近くて遠いものを食べる」のが食養生の秘訣です。なぞなぞみたいですね。
「近くのもの」とは、地元で採れる季節の食材のことです。これを「身土不二」といいます。地産地消と近い考えです。
「遠くのもの」とは、霊的に言って、人類から遠い生き物のことです。四つ足の哺乳類より「鳥類」、鳥類より「魚類や貝類」、魚類より「植物性のもの」を食卓の中心にします。
そして、「よく噛み」「味わって」食べること。「愛や感謝や一体感」。これらも目に見えないけど大切な栄養素です。
当然、愛のない「贅沢な料理」より、愛のこもった「粗食」を魂は喜びます。「手間ひま(真心)」というのは、確実に存在する、ある種のエネルギーです。
愛こそが、目に見えない真の隠し味なのであり、それが僕たちの栄養と人生のバランスをとるものなのです。
※写真は南伊勢の田曽白浜ビーチから望む朝日
Facebook船木 威徳さん投稿記事【 人間と酵母菌とカメムシと鳥 】
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心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず
~二宮尊徳(金次郎)
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現代の医療が、所詮は、人間の作り物に過ぎない「化学薬品」を、あたかも病気の治療のための唯一の選択肢かのように多用し、血圧や血糖を一時的に抑えているにすぎないのに、それを「治療」や「コントロール」だのと、医者たちが勝手に息巻いているだけのように、私の眼には映っています。もう15年はそんな想いで過ごしてきました。
人間に病気を治せるわけはなく、よくなろうとしている身体の働きを後押しすることしかできない。そう、私は考えています。それなのに私たち人間が与えられている、身体がそれ自身を治し、治ってゆく力を、今の主流の医療は最大限に引き出すどころか、高い頻度で新しい病気まで引き起こしていることに、もう10年以上、私は医者というよりも、人間として途方もないやるせなさを感じてきました。その一方で、学べば学ぶほど、「奇跡」や「天地の恵み」としか思えない、野菜や、お米、魚やくだもの、さらにはそれらを途方もない年月をかけて、食材に育ててきた人類の智慧に、果てしない感動を憶えてきたものです。
特に、私は、日本の伝統食である味噌、醤油やぬか漬けなどの発酵食品、それから、だし(出汁)に、正直、心奪われるほど魅力を感じてきました。先人たちが守り抜てくれた智慧の結晶である「本来の食」を摂るなら、私は、人間に「化学薬品」などまったく不必要だと信じています。しかしながら、ただ考えるだけではなにも変わりません。
5年位前から、私は農について多くの本を読み、化学薬品を使わない農業を実践している人たちから、たくさんのことを学んできました。2年前には畑を借りて、トラクターを購入し、少しずつ作物を作り始めました。現在は作付け面積を最初の3.5倍くらいに増やし、種々の作物をテストするとともに、並行して、発酵食品の勉強をしているところです。もちろん化学農薬や化学肥料は一切使っていません。今年は、縁あって、稲作も手伝っており、来週には刈入れです。
畑では、種まきや収穫など、一気にやってしまわねばならない作業以外は、孤独です。地元の近所の農家のみなさんが、しきりに声をかけてくれますが、夏の日中、人は出てきませんので、鳥の声くらいしか聞こえません。そんななかで、私は、ふと手を止めて、空を見上げるときなどに、自分が、普段とは別の時空にいるような、妙な気持ちになることがあるのです。何時間も土に触れ、草に触れ、鳥たちの声を聴いていると、なにかはるか昔から、もしかしたら時間などまぼろしで、「今」があるだけで、自分も自然の一部としてというよりも、自然に溶けこんでいくような感覚を感じるのです。
だれに信じてもらえるとは想いませんが、鳥やカエルや、バッタとは、たびたび話しています。会話というより、思念が通じ合うような瞬間があきらかにあるのです。私の顔から30㎝の距離のバッタや、トンボは、逃げずに、あきらかにこちらを見てなにかの想いを送りあおうとしているように、感じる瞬間があるのです。ツバメも、カラスやハトも、キジも、こちらを見て、なにかを話すというより、「送っている」ようなのです。私が自分で、おかしなことを言っているのは十分承知しています。実際、こんなことを感じている自分を、私自身がおかしいと感じていますので。
先日こんなことがありました。
私が、来年には醤油や味噌づくりを楽しみにして育てている大豆に、マルカメムシがついているのを見つけました。それまでの暑さは、冷や汗というか、全身が凍るような、気の遠くなるような体の感覚に変わりました。
もしかしたら、それを「トラウマ」というのかも知れません。
45年前のできごとです。
私が小学2年生のときのこと。私は、母親におつかいを頼まれました。その頃の私にとって、外出は、言いようもない「恐怖」でした。
―――カメムシのせいです。私はそのころ、山を切り開いて、無理矢理に作った団地群の一角に住んでいたからかもしれませんが、その年は、カメムシが異常発生し、コンクリートの建物の表面から、クズという植物の茎という茎をすべて埋め尽くしていたのです。そこらじゅうにカメムシの踏まれた殻が散らばり、さらに、数え切れないほどのカメムシが空を飛んでいたのです。学校の生き帰りには、そのカメムシが服に付いたり、服の中に入っていたりで、誤って触ったときに感じる臭いには、私は生きた心地がしませんでした。そして、ある日、
カメムシが、私の口のなかに入ったのです。
私は、自分の内臓が、すべて口から出てしまうくらいの吐き気を覚え、1時間くらい学校の手洗い場で、口をゆすぎ続けました。―――
私は、そんな経験ののち、とにかくカメムシが恐怖でなりませんでした。そして、母親は、その、私には「死」さえ連想するような、カメムシが飛び交うなかを、ひとりでおつかいに行ってこい、と・・・。断る権利は当時の私には与えられていませんでした。私は、長男に生まれた自分の運命を呪いながら、夢中で、スーパーに走りました。
帰りに、自宅への階段をのぼりながら、服に、カメムシがとまっていないことを確認し、とりあえずは任務が完了したことに安堵して、買い物袋を母親に渡したのです。
「違うよ!」
私は、焦るあまり、鳥のムネ肉とモモ肉を間違えたのです。そして、母親は一言。
「取り替えてきなさい」
と。
私は、もう一度部屋を出ました。なまあたたかい涙がとめどなくあふれてきました。でも、涙で目がかすむと、走れなくなる・・・もう、精神的に自分自身が持たないかもしれない・・・。そんな気持ちになったことだけは覚えているのですが、実は、その日のことはそれ以降、記憶にないのです。
そして、その次の3学期に、私は海が近い街に越したので、カメムシと会うことは40年以上なかったのです。そう、先日の畑で見かけるまで。
カメムシのなかでも、私を恐怖の底に突き落としたマルカメムシという小型のカメムシそのものでした。マメ科の植物を好むことは聞いていましたが、まさか、うちのかわいい大豆たちには・・・。そう、私は勝手な期待をしていたのです。こわごわ、のぞく葉の陰の茎に、かれらが並んでいるのです。まさか、いや、この株にも・・・。やっぱり、この株にも・・・。もう、その日は、私は作業を続ける気持ちも起こらず、車の中でエアコンの風にあたりながら、空を見上げていました。
それから、カメムシということばをスマホに打ち込むのもいやでしたが、私は、尊敬する無農薬農業の先輩にメールを出し、もちろん農薬を使わずに、カメムシを追い払う方法はないかを相談しました。しかし、そんな文章を打ちながら、心のなかでは、なにかいままでとは違う感覚を感じ始めていたのです。
たしかに、幼い私を苦しめたカメムシは嫌いです。実際、その姿をひさびさに見たときは、背筋が凍りました。でも・・・。私の大豆が美味いのかもしれない。私が種をまき、ひたすら雨を願い続けて、その成長を喜びながら、化学薬品を使わずに育ててきた大豆です。
そりゃそうだよね。変な薬がついていない、しかも、地元埼玉県の在来種である、おれが一生懸命選んだ、とびきりの大豆だから、カメムシにとっても美味いに決まってるよね。いいよ、少しは食べても。だけど、増えすぎないでほしい。おたがいに収穫を楽しめるように、一緒にこれからもやっていけるように、あの臭いは出さないでほしい。
畑を眺めながら、そんなことを想っていました。
それでも、対策は講じなくてはなりません。カメムシが嫌がるという「カメムシの焼酎漬け」の原液を分けてもらい、さらに、草木灰(そうもくはい)という木や草の灰も手に入れました。それらの撒き方を頭のなかでシミュレーションしながら、次の週、覚悟して、大豆畑に行ったのです。
・・・え。
いないのです。一匹さえいないのです。カメムシが。
私は、先週見た虫たちが、おそろしい数に増えているのを覚悟して、準備のうえで乗り込んだのですが、大豆の株を見て回っても、あのカメムシがいない。まったくいなくなってしまったのです。
話は変わりますが、私は、職場で、社員たちが少しでも日本の伝統食に親しみ、元気でいてくれるよう、ほとんど毎日、みんなでぬか漬けを食べています。冷蔵で育てるぬか床と並行して、千葉の農家の先生から、100年以上維持しているぬか床の種を分けてもらい、常温で使っています。平安時代にはすでに日本人はぬか漬けを食べていたといいます。1000年以上前の先祖たちが、数々の疫病に悩みながら、それでも、おいしいものを食べて、強く元気に生きていきたいという同じ想いでいたはずの日本人たちが、味噌や醤油も、納豆もそうですが、食事を通じて、そしてそれらを生み出す農業(とくに田んぼの維持、お米作り)を通じて、大切な教えを受けついてくれているはずだと、私は信じてやみません。
よく「人間も自然の一部」だとか「いつか自然や地球が人類を滅ぼすだろう」とか言う人たちがいますが、私には、そんなことを、一言でまとめてしまえるほど、人間は智慧を得ていないように感じます。よくわかりませんが、畑で、作物や動物に向き合っていると、目に見えないものごと、知識を超えて、なんとなく感じること、急にひらめいたり、理由もわからないままこだわったり、気に入ったりする感覚・・・。そうしたものをよく感じるのです。
元気、病気の「氣」というものも大事なのでしょうが、頭ではよくわかりません。
「虫の知らせ」や「虫の居所がわるい」などという「虫」ってなんだろう?
日本語は感情のありかたをあらわすときに「腹」をよく使います。
最近では腸が感情を担当しているとも言われて、話としては分かりやすいのだけど、それにしても目に見える「腸」とも、なにか違う気がします。
借りている畑の近くに、江戸年間に建てられたと伝わる小さな神社があります。
9月1日は、その天神社の二百十日祭があると聞いて、地元の氏子さんたちと見せてもらったのですが、その宮司さんの祝詞(のりと)を直接聴かせていただいて、自然、人間、鳥も虫も、お米も野菜も果物も、なんというのか、私は、おそらく人間にはそのすべてをとらえることができない次元で、つながりあって、支えあって、つり合いをとってきたのではないかと実感しました。時間や空間、知識を超えて、単なる利他心や愛情が重要などというレベルではない、なにかとんでもないものの「ごくごく一部」を、私はいま覗き始めているのかもしれないと、ツクツクボウシの鳴き声しか聞こえない空間で、腹の底で感じたという感覚。
宮司さんも話しておられましたが、今月1日は関東大震災から100年。人生には、とくに日本人にとって、天災はつきものです。地震、台風や火災でも、私たちも、先祖たちも大変な経験をしてきましたし、もちろん起きてはほしくない。しかしながら、このごろ、私はたびたび体の奥底で、というのか、もしかしたらそれを魂で感じていると言えばいいのかわからないのですが、この世のすべての生命や事象はつながっていて、そのつながりの秩序に沿った思考や想い、感情は、ますます好ましい形で具現化するし、そうでないものは「うまくいかないこと」「災い」のような形で、この世界から排除されてゆくのを、目に見えるかのようにはっきり体験しているのです。
いま、私は、急に自覚できました。私は、40年以上、とらわれていたカメムシから解放されたのです。特定の虫たちにこだわり、恐怖や嫌悪を感じていたのはなんだったのだろう。いや、私を縛っていたのは、もしかすると面倒なことを私に押し付けてくる(ように感じられていた)母親による支配関係だったのかもしれないし、心の奥そこで、親の期待にこたえなければならないと想い込んでいた自分自身だったのかもしれません。私がカメムシを畑で見たのは、事実だったのかどうかもわかりません。ただ、確かなのは、カメムシもときどき見かけるカマキリやハクビシンも、みながバランスを取って、「生きている」のだということ。
やはり、私にとっては「畑」は、天地とのつながりを「感じる」ための、大切な場なのです。
もしかしたら、この貴重な「場」で、日本人は、土を踏んで、一人で静まり、自分が一人ではないことを「感じて」いたからこそ、人生をかけて、本当に自分がやるべきことを感じ取ってきた民族なのかも知れません。だからこそ、人は「地に足が着いて」いないと、魂が落ち着かないのかも知れません。
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一人の人間は、宇宙にあっては限りなく小さいが、その誠意は天地をも動かすことができる
~二宮尊徳(金次郎)
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※写真は、畑の近くの神社、収穫を待つばかりの知り合いの田んぼ、つる返しをしたサツマイモ、雑草を初めて使う草刈り機で刈った大豆。
ふなきたけのり (2023/09/07)
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