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(日曜に想う)天譴と不逞から見えるもの 記者・有田哲文
100年前の関東大震災で、「天譴(てんけん)」という言葉が流行した。この地震は、乱れた世の中に対する天による「譴」すなわち「とがめ」だという主張が、少なからぬ識者たちから発せられたのだ。
その筆頭が実業家の渋沢栄一で、政界は「犬猫の争闘場と化し」、世相も心中事件を賛美するに至っていると非難した。だからこんな震災が起きたのだという主張に、キリスト教思想家の内村鑑三も賛同した。
非合理な議論が広がったのは、震災の衝撃があまりに大きかったからか。しかし天譴論の多くは、大正期の日本社会に対する違和感の表明でもあった。小説家の近松秋江は、雑誌「改造」に寄せた「天災に非(あら)ず天譴と思へ」という文で、日清・日露戦争の勝利、そして第1次世界大戦に伴う好景気に酔う日本人に対して、苦言を呈した。
〈近く二三十年来の日本国民はその国民的成功に酔っていた。殊に欧州大戦の余沢に浴してアメリカに次ぐ成金国となってからは心ある者には苦々しいまでに好(い)い気の骨頂になっていた〉
相次ぐ戦争が成功体験となり、日本人はいい気になっている。その後、この国が米国との戦争にまで突き進んだことを思えば、近松の言葉は未来への暗示とも読める。
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関東大震災100年はまた、朝鮮人虐殺100年でもある。1日、埼玉県本庄市の墓地で市長らが手をあわせた。地域住民により殺された朝鮮人を慰霊する石碑がここにあり、毎年、追悼の式が行われている。
震災の直後、本庄市(当時は本庄町)には多くの被災者が列車で逃れてきた。地元の青年団や在郷軍人会が駅に出向き、炊き出しの握り飯などを配った。しかしその救援活動は間もなく「朝鮮人狩り」に変わる。
日朝協会埼玉県連合会の呼びかけで1974年にまとめられた報告書「かくされていた歴史」によると、東京からの避難者たちが「朝鮮人による放火、暴動が起きている」との流言を伝えたという。なかには「かたきをとってくれ」と訴える人もいた。デマにお墨付きを与えたのが、県が出した通知だった。朝鮮人の暴動を防ぐため、官民が協力して警戒せよと訴えた。
人びとは避難者のなかから朝鮮人と思われる人を探し、次々に警察につきだした。その行動はエスカレートし、朝鮮人が収容されていた警察署を襲撃するに至る。こん棒や日本刀、のこぎりなどを手にした群衆が八十数人の命を奪った。犠牲者には子どもも含まれていたという。
関東のあちこちで、軍隊、警察、そして民衆が虐殺に手を染めた。そんな記録を読むたび、なぜそこまで、との思いにとらわれる。根底には、人びとの心にかたちづくられた恐怖心があったのだろう。当時、朝鮮を植民地化した日本に対する抵抗運動、独立運動が激しくなっていた。「不逞鮮人(ふていせんじん)」すなわち反抗的な朝鮮人による陰謀だ、などと偏見に満ちた言葉で新聞は報じていた。
地震の後の大火災が「朝鮮人のしわざだ」と思い込んだ人たちにとって、恐怖心は報復感情に転化したか。本庄では虐殺の後に「東京のかたきがとれた」という声があがった、との証言がある。
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偏見、恐怖、報復。そんな精神構造は、後の戦争へと持ち込まれたように思う。大震災の際の朝鮮人への蛮行は、日中戦争で掲げられた「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」(横暴な中国をこらしめる)、さらには太平洋戦争で唱えられた「鬼畜米英」と、明らかに地続きである。
歴史は、ときに形を変えて繰り返す。だから目を背けまい。いかに見たくない史実であっても。
(朝日新聞9月3日)
https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S15732413.html
https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_3/pdf/24_v2_column10.pdf 【コラム10 著名人が振り返る関東大震災】より
同時代の著名人たちは関東大震災をどう振り返り、そこから何を学んだのだろうか。
震災の翌年に近藤士郎という人物が編集した『震災より得たる教訓』(黎明社,1924年)なる
書物がある。そこには多くの著名人たちの関東大震災への回顧、そしてそれを受けての未来へ
の展望が詰まっている。近藤氏は編纂の動機を「此災害によりて如何なる暗示を興えられたか
も考へねばならぬと心付いて、平素崇敬する先輩各位の感想を聴くことが第一であると思った
から」と語っている。近藤氏の書には「詔勅」が掲載されているが、この「詔勅」の主張とは
「是レ実ニ上下協戮振作更張ノ時ナリ」ということである。国を挙げて力を合わせ、震災以前
の「浮華放縦ノ習」や「軽佻詭激ノ風」などの「時弊」を是正し、かつ震災復興を意味する「文化ノ紹復国力ノ振興」を達成することが謳われているものである。
近藤氏の書には、実に29名の著名人が論稿を寄せているが、それでは何名かの論稿を実際に
見ていきたい。
渋沢栄一は、論稿「道徳と経済の合一」において「大に復興に努めより以上の恢復興隆を図
るのが吾人の責任であると考えて居る」と語っている。渋沢は言わずと知れた近代日本の指導
的大実業家である。1869(明治2)年より明治新政府に仕官し(民部省・大蔵省)、新貨条例・造幣規則、国立銀行条例の起草立案、地租改正事務局設立、第一国立銀行及び抄紙会社設立などに尽力した。1873(明治6)年に大蔵省辞任後は民間にあって多くの近代的企業の創立と発達において指導的役割を果たし、引退後は社会公共事業や国際親善にも力を入れた。「物質的の復興は素より大切であるが、人心の復興即ち精神的復興は殊に大切である。国民はこの方面に大に努力する必要があると思う。精神的復興は如何にしてよきやと云うに、私は道徳と経済を一致させなければならぬと思う。道徳と経済とを一致させたならば真正の復興が出来ると思う。
人の本分と云うものは利己主義斗りでは満足が出来ない。必ず利己と同時に他も利せねばなら
ぬ。只自己斗りを考えて他を顧みない様ではいけぬ。自己斗りでは決して発達するものではな
い。他があって始[初]めて発達するのである」との渋沢の主張は、震災復興における精神面で
の復興の重要性を説き、その方法として経済における利己主義と利他主義の共存を提案してい
る。
精神面での復興を唱えたのは渋沢だけではない。海軍軍人、戦史・国防理論家で『帝国国防
論』、『帝国国防史論』、『国防新論』を著した佐藤鉄太郎は、論稿「精神的復興」で「要するに、震災の復興に就ては、物質的許りでなく精神的の復興を図ること。尚精神向上の設備をすると云う事がもっとも大切である。此の意味は、独り帝都の市民許りでなく、日本全体の国民が齋しく味い協力して大日本帝国の大復興をやる意気で進まねばならぬ」と、日本全国民の精神的復興を主張している。
ここで震災後の精神復興を語る際に多く見られた天譴論と天恵論という二つの議論について
見ておきたい。天譴論とは震災を堕落した社会への制裁とみなすもので、天恵論とは震災を世
直しの好機と捉えるものである。
政治家の元田肇は論稿「大震火災に逢うて」で「古人は天災地変ある毎に是を天譴として自
己の行動を慎んだものであるが、余は其果して天譴なるや否やを知らず、科学上より考察すれ
ば他に理由あるべし、然れども余は之を天譴として謹慎奮励せなければならぬと思う」と天譴
論支持の立場を表明しているが、過去の歴史を振り返り、世の中が混乱している時に必ず災害
が起こったので今回の震災もまた同じであると考察している。「余は我国民が斯く信じて将来幾層の戒心を加え大和民族固有の精神に立戻り、浮薄危驕の邪説を廃し、質実剛毅邁進以て吾人の福利を増進し、国家の光輝を発揚するに努力せられんことを切望するものなり」と国民が日本古来の精神に回帰して質実剛健に努めることを望む元田は、「之に反し斯る大災害大悲酸の苦を嘗めたるに拘らず、徒らに茫然自失し若くは猶改むることを知らず、災前の狂態に復するが如き事あらんか。邦家の前途寒心に堪えざるなり」と、震災で受けた苦難にただ呆然としたり、あるいは震災以前の生活に戻るようなことがあっては日本の未来はなおも暗いままであろうと警告している。
元田とは逆に天恵論を展開しているのが内務官僚で政治家の水野錬太郎である。水野の論稿
「敢て悲観を要せず」では、「一部の批評家は、彼の流言飛語に脅かされ、周章狼狽して非違の行動を敢てしたのは国民修養の足らざる処で大国民の襟度を欠くと云うけれども、是れも見様では或はそうも云えるが、当時の状況から見て強ち悲観するにも当ぬと思う」、「此気風が全国に充満するに於ては、今回の災害の復興は多くの時を費さずして完成する事が出来る。一部の人の様に悲観する必要はない。我建国三千年来の永き間養われたる国民性は一時の惨害によりて失わ[る]べきものではない。益々勇気を鼓し、此惨害を以て禍を転じて福となす動機となる覚悟を持たねばならぬ。徒らに我国民の欠点を挙げて悲観することなく、美点長所を挙げて大に奮起せしめ我帝国民をして大国民たらしむることが尤も肝要である」と国民性の美点を強調している。水野の言う国民の美点とは、物質支援が国全体から集まり挙国一致で支援・救済体制が出来上がったことや、国民個々の相互扶助である。そしてこれら震災をきっかけに広まった有形的・無形的精神修養を更に発展させるよう、水野は国民に求めている。
しかしながら、以上のような精神復興を唱える者とは対象的な議論も当時存在したというこ
とを追記しておかなければならないだろう。芥川龍之介は、「誰か自ら省みれば脚に疵なきものあらんや。僕の如きは両足の疵、殆ど両足を中断せんとす。されど幸いにこの大震を天譴なりと思う能わず。況や天譴の不公平なるにも呪詛の声を挙ぐる能わず。唯姉弟の家を焼かれ、数人の知友を死せしめしが故に、已み難き遺憾を感ずるのみ。〈中略〉同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷たること勿れ」と述べ、天恵論、天恵論に反対している。また菊池寛も「自然の大きい壊滅の力を見た。自然が人間に少しでも、好意を持っていると云うような考え方が、ウソだと云うことを、つくづく知った。宇宙に人間以上の存在物があり、それが人間を保護しているとか、叱責するとか云う信仰もみんな出鱈目であることを知った。もし、地震が渋沢栄一氏の云う如く天譴だと云うのなら、やられてもいい人間が、いくらも生き延びているではないか。〈中略〉自然の前には、悪人も善人もない、ただ滅茶苦茶だ。今更人間の 無 力 オーンマハトを感じて茫然たる外はない。いろいろ口実を付けて、自然の暴力を認めまいとするのは、人間の負け惜しみに過ぎない」と述べている。つまり、芥川、菊池両氏とも自然の驚異の中に戒めや恩恵といった何らかの意図を読み取ることに反対しているのである。彼らが地震を通して得た“教訓”とは自然の力は人間を超越しているというごく単純なことであった。
以上見てきたように、関東大震災とは多くの著名人たちに日本の越し方、そして日本の将来
とを考えさせる一つの契機となったようである。それだけ関東大震災という災害が人々に与え
た影響は現在の私たちが想像するよりもはるかに大きなものであったということであろう。し
かし一方で、芥川や菊池のように自然対人間という構図で関東大震災を捉える視点も存在して
いたということも無視してはならないだろう。
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朝鮮人虐殺、若者らが独自の追悼式 「100年で終わりではない」
1923年の関東大震災後、流言を信じた日本人に虐殺された朝鮮人らを追悼する催しが2日、東京都墨田区の荒川河川敷で開かれた。20~40代の日本人や在日コリアンらによるグループ「百年(ペンニョン)」などが主催し、初めて実施。目撃証言や自分たちの思いを朗読し、差別にあらがう社会を誓った。
「子供たちは並べられて、親の見ている前で首をはねられた」「電柱に朝鮮人が縛られ、<なぐるなり、けるなり、どうぞ>と書いた立て札があった」。「百年」のメンバー16人は会場で、600人以上の参加者を前に虐殺の目撃証言を約30分かけて代わる代わる朗読。「100年で終わりではない。これからも関心を寄せて」。韓国から来日した犠牲者の遺族もマイクを握り訴えた。
荒川河川敷の近くには、独自の追悼式を82年から続けてきた市民グループ「ほうせんか」が設置した小さな追悼碑がある。若者らはそれぞれこの追悼碑を訪れ、「ほうせんか」のメンバーに「100年の節目は若者たちで追悼式を開いてほしい」と託されて「百年」を結成。約2年かけて準備を進めてきた。
メンバーが虐殺を知ったきっかけはさまざまだ。在日コリアン3世の鄭優希(チョンウヒ)さん(29)は幼い頃、祖父から聞かされた。遠い出来事のように感じていたが、大学生の時に追悼碑を訪れ、自分も虐殺現場を案内したいと思った。6月には現場を巡り、粘土製の小さな「追悼碑」を参加者がそれぞれ作るイベントを企画。「手を動かして追悼碑を作ることで自分の経験として残してほしかった」と語る。
大学職員の遠藤純一郎さん(29)は数年前に映像作品で虐殺を知った。「原爆のことはきのこ雲のようなイメージがあるが、虐殺は学校で習った記憶がない」。追悼式では証言朗読の企画を担当し、目撃者、被害者とさまざまな声を選び取った。メンバーの、こんな思いも「今を生きる人の証言」として朗読に盛り込んだ。「最近のトランスジェンダーに対するヘイト(憎悪)の話もそう。差別をする言論って本当に身近。差別にあらがう社会を作っていきたい」
追悼式を訪れた川崎市の女性(30)は「生々しい証言を聞き胸が痛かった。虐殺自体を否定する人もいるが、二度と事件を起こさないために関心を持って考えていきたい」と話していた。
【毎日新聞9月3日 南茂芽育】
https://mainichi.jp/articles/20230902/k00/00m/040/223000c?_gl=1*1hxt0lg*_ga*MTU3NTg0MTE5My4xNjkzNjc5Nzg3*_ga_TWF4RDH5YQ*MTY5MzY3OTc5NC4xLjAuMTY5MzY3OTc5NC42MC4wLjA.&_ga=2.172919843.1064584573.1693679807-1575841193.1693679787
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