闘わない農業

Facebook竹元 久了さん投稿記事

🔵闘わない農業【その1】 ~雑草は先住民のようなもの~

農家の人たちは、「農業は○○との闘いだ」と言うことが多いようです。とりわけ無農薬栽培は、その闘いが多い傾向にあります。闘いには色々な種類があるようです。

①雑草との闘い

②病気や虫との闘い

③動物(害獣)との闘い

④天候との闘い

⑤周りの人との闘い

無農薬農業は、それほど戦うことが多い怖いものなのでしょうか?大自然と調和した農業を目指すのが本来の無農薬農業だと思いますが、農家の心境は調和とは逆行している様に思えてなりません。私は戦わない農業を提案します。それらの戦いのほとんどが物事のとらえ方の勘違いからくるものが多いと思うからです。

①雑草との闘い

 本来、雑草はその土地に生きてきた先住民のようなものです。作物を栽培したいという私達の都合で雑草たちを除去するのですが、先住民である雑草たちに心のなかで敬意をもつことが大切だと思います。作物を栽培する畑では、雑草が作物に障害になるほど大きく育っては問題なので、人による管理が大切です。作物が小さいうちは丁寧に除草し、作物の小さな芽を助けてあげます。作物がある程度育ってきたら、周りに雑草があっても作物の生育に問題をおこさなければ、ある程度雑草たちがあっても大丈夫だと思ってもよいでしょう。雑草を根っこから引き抜く方法や、寝際で刈り取りその場に敷き詰めるという方法がありますが、どちらも臨機応変にその状況に応じて判断したらよいと思います。

雑草たちが畑の土づくりの主役になることがあります。雑草の役割は大きくわけて3つあります。ひとつは土壌にある過剰な残留肥料を抜く役割です。有機、無機問わず施肥が多い畑では作物の育ちは良いですが、あわせて雑草の育ちも旺盛な傾向にあります。逆に土壌の残留過剰養分が少なくなり、土壌のバランスが整ってくると、雑草の種類が変わってきます。はじめは大きく強い雑草だったのが、やわらかい優しい雑草の種類へ変わるので、除草作業が楽になる傾向にあります。

二つ目は、雑草が土を耕すという役割です。畑には耕盤といって、地下約30~40㎝ほどのところに堅くなった土の層ができていることあります。それは長年の機械耕起で機械が届かない層が踏み固められてできる場合と、長年の施肥によって残留した成分が蓄積されて堅く層を作ったことによります。その耕盤層は、作物の根の生育に障害になるほか、排水性が不良になる原因といわれています。雑草たちの強い根はその耕盤層に達し、堅い層を貫き砕く働きがあります。雑草たちが土を耕してくれているのです。

そして3つ目の雑草たちの役割は、土壌の養分バランスを整えることです。残留肥料を抜く役割とは異なり、雑草が不足する養分を生み出すことがあります。 スギナが良い事例です。スギナはもともと酸性の土壌を好んで生育します。言い換えれば中性からアルカリに近い土壌にはスギナはほとんど生育していません。スギナが多く繁殖している畑をみれば、その土壌の酸度がわかります。そしてスギナの根を掘ってみると、地上部は10㎝ほどでも根は50~60㎝にも伸びています。一生懸命にスギナ取りをしている農家さんが「このスギナは、地獄草と言われていてね。取っても、取っても、どんどん増える。根っこは地中どこまでも伸びて、とり切れない。大変な草なのよ」と言っていました。まさしく雑草と戦っているのです。

中略~

しかし、もともとカルシウムの少ない土壌からカルシウムたっぷりのスギナが生えてくるという不思議な現象がおきています。なぜでしょうか?それは土壌とスギナとの間で、元素転換が起きているといわれています。元素転換の例として鶏が有名です。鶏は毎日カルシウムたっぷりの卵を産み続けますが、実際の餌のカルシウム成分を量ると生み出される卵のカルシウム量には及ばないそうです。このように自然界では日常的に元素転換がおきているのです(参考 Corentin Louis Kervran1970 Biological Transmutations)。

そしてスギナは、生えてきた場所で枯れて土にかえることで、その土地にカルシウム成分を補給します。すると酸性だった土壌が、スギナのカルシウムで徐々に中性になり、土壌の成分バランスが整います。スギナは身を尽くして土壌を良くさせようとしていたのです。無肥料栽培で「土壌の酸度調整はどのようにしますか?石灰などを入れたほうが良いですか?」という質問がありますが、スギナの役割を活用すれば、人は何も考えなくても、何も入れなくても自然の力で酸度調整がなされます。こうなるとスギナは悪者でも戦う相手でもなく、良き助け役であって、歓迎したい存在になります。

様々な種類の雑草たちは、それぞれの役割を果たしながら、その土地が良くなることに働いて頂いているのです。雑草たちに感謝です。畑の先住民である雑草たちの存在を受け入れ、感謝しながら雑草たちと向き合い、雑草たちの生えてきた意味をくみ取ってゆくと、戦う気持ちではなく、楽な気持ちになれるのではないでしょうか。

②病気や虫との闘い

~中略~

③動物との闘い

~中略~

④天候との闘い

 大きな勘違いです。そもそも天候は人がコントロールできるものではなく、戦う相手でもありません。雨も風も、太陽の日差しも、温かさ、寒さも全てです。自然の天候は恵みそのものです。人の力が及ばないならば、天候に対しては「お任せして感謝する」しかないと思います。

~中略~

元来、日本では古くから、あらゆるものに神が宿るとされてきました。そのなかでも、雨や風などの天候を司る大きな力を象徴し、風神・雷神と位置づけ、尊び敬ってきました。人は自然界のなかで生かされているという当たり前の恵みに、どれだけ感謝できているでしょうか? 農家としては、ハウス栽培や水はけを良くするなど、人が出来る工夫をして、あとは天にお任せです。

引用

FacebookKUNIYOSHI KUWAHARAさん投稿記事·

コチラ、共感共鳴シェアします❣

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お盆に入る1週間前ぐらいから、田舎の農村は急に活気が出る。

近所のおじいちゃんやおばあちゃんが家の前の草抜きをしたり、お墓の周辺を草刈機をブンブン回して草刈りをしたり。

田舎の農村は、家のすぐそばにお墓がある場合が多い。

今を生きる人も過去を生きた人も、同じ場所に自然に共存している感じが温かくていい。

そんな場所を、近所のおじいちゃんおばあちゃん達はみんな子供や孫が帰省するのを楽しみにして、せっせと掃除して待っているのだ。

いつも庭の木陰に1人座って、一日中じっと外を眺めているおばあちゃん。

昨年ご主人が95歳を超えて亡くなられ、急に元気がなくなった。

「認知症が始まったようです…」と、通いのヘルパーさん。

孤独感は認知症を進行させる、と聞いたことがある。それなのか?おばあちゃんも、もうすぐ90歳だ。時々通りがかりに気になって話しかけると、決まって、「ウチはもう早くおじいちゃんのところに行きたい。ひとりで生きていても仕方がない。なんで私にゃお迎えが来てくれんのかの…」と、呟くように繰り返す。

目からポロポロ涙を流しながら。

やるせ無い気持ちになって、小さなしわしわの手を握って励ましてみる。

いつも手は力無く握り返してくれるものの、聞いていないかのような、焦点の合わない遠い目をして、じっとまた座り続けている。

そのおばあちゃんが、今朝は朝早くから割烹着に三角巾を頭に巻いてせっせと草むしりに余念がない。

庭を箒でサッサと掃き、家の前の道路までセッセと掃き清めている。

テキパキスタコラ、行ったり来たり動き回るその姿は、完全に別人で、一瞬人違いかと我が目を疑うほどだ。

一体どうしたんだろう?

「おはようございます。今日はどしたん?!なんか精が出るねー。すごく忙しそうじゃね」

そう話しかけると、クルリと振り返る。見つめ返す目にグッと力がある。別人の目だ。

背筋もしゃんと伸びている。

「そりゃもう明日ね、急に息子が帰ってくるんよ。キレイにしといてやらんと怒られるけえね。人使いの荒い生意気な息子なんよ、これが。わははは」おばあちゃん、別人のように元気だ。

人が人に会う喜び。その日を待つ喜びが生む力。これほど輝かしいものなのか。

「今年の夏は特別な夏。帰省は控えましょう」

テレビでは小池百合子都知事が相変わらず得意満面で繰り返している。

コロナ感染予防が大事なのは分かる。

高齢者にうつしちゃ大変だから、という考え方ももうお腹いっぱいに分かっている。

でも、今年の夏は特別な夏だと言える人は、来年もまたいつものように夏が来る人だ。

おばあちゃんには、その夏は来ないかも知れない。

今草刈り機を張り切って回しているおじいちゃんは、お正月にはもういないかも知れない。

そういう例は、超高齢化した田舎の農村ではいくらでも見てきた。

だから待っている人が居るなら、迷わず帰省すればいい。

こんな時期だから「帰って来て」とは言えない人の気持ちをガッツリ汲めばいい。

周りが元気で余裕もある人達は、自分の世界の常識だけで、人の帰省まで非難するのは止めた方がいい。

人生には、感染症の恐怖よりも数万分の一以下の発症死亡リスクよりも、ずっと大切な事がいくらでもあるのだ。

それが人の人生の大きさであり、重さであると思う。

コロナウイルス以上の敵、「コロナの恐怖」に負けるな人類。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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