起源

http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/176305.html 【玉矛の茂るオオタニワタリかな  高資】より

イメージ 1  石田城蹴出門 五島市池田町

イメージ 2  石田城二の丸・五島邸 五島市池田町

イメージ 3  石田城二の丸・心字が池 五島市池田町

十年ほど前、久しぶりにご当主・五島英子さんがお住まいの石田城二の丸を訪ねたら、侍女の方から沖縄から来たのですかとなぜか訊かれたのを憶えています。因みに、英子さんは、尚泰王(琉球国王)の四男・尚順男爵の三女にあたります。琉球と五島を結ぶ黒潮の道に奇縁を感じました。


http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/index.htm 【琉球弧の考古学】より

-南西諸島におけるヒト・モノの交流史-

小田静夫

はじめに

 琉球弧とは、日本列島西南端の九州島から南約1,260kmの洋上に199余の島々が花緑のように分布し、地理学上で「南西諸島」「琉球列島」などと総称される。現在の行政区分上では北半分の薩南諸島38島は鹿児島県に、南半分の琉球諸島161島は沖縄県に所属する。ちなみに南西諸島という呼称は明治時代中期以降の行政的名称で、それ以前は「南島」や「南海諸島」「西南諸島」と呼称されてきたが、ここでは広く地理学・地学的名称として、国際的に認知される「琉球弧」という名称を使用する。

 琉球弧はユーラシア大陸東端の太平洋沿岸に、世界最強の「黒潮」(日本海流・暖流)の流路に沿って弧状に分布する島嶼群である。この地理的位置から先史時代以来多くの人々が琉球弧を往来し、「南西陸橋」「道の島」「海上の道」などと呼称されている。そして今日の「日本文化の基層」には、この琉球弧経由の文化要素が多く看取され、日本人・日本文化の源流を辿る時、この島嶼地域が重要な役割を果たした証左が解明されつつある。

 本稿ではこうした日本文化の原点を、最新の「沖縄先史考古学」の成果を紹介する中で、南西陸橋とも呼ばれる琉球弧が果たした自然史・文化史的役割について考察することにしたい。

1.琉球弧の枠組み

(1)地形・地質的環境

①琉球弧の三地域区分

図1 琉球弧の自然地理的環境

 琉球弧は海底地形の二大境界線である吐喝嘲(トカラ)海峡(悪石島と小宝島間)と慶良間(ケラマ)海裂(沖縄本島と宮古島の間)を境にして、大きく「北琉球」「中琉球」「南琉球」の三つの島弧グループに区分される(木崎・大城1980;町田ほか2001)。

(A)北琉球グループには、九州島の南から大隅諸島(種子島、屋久島、口永良部島、馬毛島)、トカラ列島(ロ之島、中之島、諏訪之瀬島、悪石島、宝島)が入る。

(B)中琉球グループには、奄美諸島(喜界島、奄美大島、加計呂麻島、徳之島、沖永良部島、与論島)や沖縄諸島(伊平屋島、伊是名島、伊江島、沖縄本島、慶良間島、久米島など)が入る。

(C)南琉球グループには、宮古諸島(宮古島、伊良部島、多良間島など)や八重山諸島(石垣島、西表島、波照間島、与那国島など)が入る。

 さらに琉球弧の外側には、洋島として東側の太平洋上のフィリピン海深海底の海嶺上から発達した隆起環礁・卓礁のサンゴ礁島の大東諸島(北大東島、南大東島、沖大東島)、そして西側に東シナ海の大陸棚縁にある尖閣諸島(魚釣島、久場島、大正島)が分布する。

②高島と低島

 一方、琉球弧の島々は地質構造と関連した島の成因を含み、古期岩類や火山岩類からなる「高島」(山地を含む)と、サンゴ礁性の石灰岩からなる「低島」(台地主体)の2種に分類することができる(木崎・大城1980)。

(A)高島には、北琉球グループの屋久島、中琉球グループの奄美大島や沖縄本島、伊平屋島、伊是名島、慶良間諸島、久米島、南琉球グループの石垣島、西表島、与那国島、尖閣諸島が入る。

(B)低島には北琉球グループの種子島、中琉球グループの粟国島、伊江島、与勝諸島、南琉球グループの宮古諸島、竹富島、黒島、波照間島、大東諸島が入る。

 また最大島である沖縄本島は複数の地質構造帯が存在し、北部が国頭帯(砂泥岩類)の高島で、中・南部が島尻帯(琉球石灰岩)を主体とした低島に分類される。

 この高島と低島の二大別は地形的分類ではあるが、島の地学上の様々な判別にも有用である。高島は火山または古第三紀より古い地層から成り、酸性の赤黄色土(国頭マージ)が発達し、河川水を生活水の中心と成している。それに対し低島は新第三紀島尻層群の泥岩類とそれを覆う第四紀琉球石灰岩から成り、中性から弱アルカリ性の石灰岩土(島尻マージ)と泥岩未熟土(ジャーガル)が発達し、地下水を生活水の中心と成す。

 また中・南琉球には「珊瑚」(サンゴ)礁が発達し、世界最強の「黒潮」(日本海流、暖流)の海に特徴がある。サンゴの生育には年平均16度以上の海水温が必要であるが、この地域は20~24度と海水温が高いのでサンゴの形成が良好である。このサンゴ礁は島を棚状に取り囲み裾礁(リーフ)を形成し、その幅が250m以上になると干潮時に露出する岩盤(礁原)のヒシ(干瀬)と、浅い内海(礁池、ラグーン)状を呈する礁湖(イノー)の両方が形成される。造礁サンゴ類は日本には約400種が確認されているが、その中で南琉球の八重山諸島で約360種、中琉球の沖縄諸島で340種が存在しでいる。またサンゴ礁ではイノーやリーフ斜面で成育し、この環境に集まる多種類の生物を育んでいる。

 沖縄諸島の先史文化は「サンゴ礁文化」「貝塚文化」などと呼称され、遺跡は大きなリーフの切れ目に面した海岸砂丘上に立地する。こうした場所は島内と外世界との出入口であり、さらに外洋の豊富な魚介類がイノーに供給される地点でもあった。ちなみに狭い島環境の中では山の幸には限りがあるが、常に新しい海の幸の補給があるこうしたイノーに面した砂浜は、先史文化人の生活の場としても最適な場所であったろう。

(2)生物地理環境

図2 琉球弧の生物地理境界線

 世界の動物地理区は1857年イギリスの生物学者スレーターが鳥類の違いから世界を六っに区分し、その後1876年に同じイギリスの自然科学者ウォーレスが脊椎動物、無脊椎動物から設定した6区分(旧北区・新北区・新熱帯区・エチオピア区・東洋区・オーストラリア区)、さらに1890年にブランフォードが採用した3つの区分、すなわち北界(旧北区・新北区・エチオピア区・東洋区)、新界(新熱帯区)、南界(オーストラリア区)がある。日本列島は、その内の旧北区(北海道~九州)と東洋区(琉球弧)に属する。因みにこの二っの境界線は琉球弧のトカラ海峡である。また旧北区は北方系を主体の北海道と、北方系と南方系の複合した本州・四国・九州に二分される(木崎・大城1980;安間1982)。

①4本の生物地理境界線

 琉球弧の生物相は、「東洋区」に属する南方系種が多い。また島条件が影響し特殊種が進化したことやさらに生物的多様性が高く多数の種が共存していることに特徴がある。現在日本には106種の哺乳類が生存するが、日本の面積の1%に満たない琉球弧にはその約18%の19種が生息し、しかも固有種は15種にのぼっている。このように更新世前期以降に島嶼として隔離された特徴から固有種や亜種が多く、東京都の小笠原諸島と共に「東洋のガラパゴス」と形容される所以である。琉球弧には、現在4本の生物地理境界線が存在する(安間1982)。

(A)三宅線は、九州本土と種子島・屋久島の間の大隅海峡に境界線があり、昆虫類、特に蝶の生息分布の相違で線引きされる。

(B)渡瀬線は、種子島・屋久島と奄美大島の間のトカラ海峡に境界線があり、哺乳類・爬虫類・両生類の生息分布の相違で線引きされる。

(C)蜂須賀線は、沖縄諸島と先島諸島の間に境界線があり、鳥類の相違で線引きされる。

(D)南先島諸島線は、先島諸島と台湾島の間に境界線があり、両地域の生物相の生息分布の相違で線引きされる。

②琉球弧の古環境

 琉球弧は更新世前期の約150万年前頃、トカラ海峡を境界線にして中国大陸南東部から台湾島を経て沖縄諸島、奄美諸島までの北東に長く延びる半島と、朝鮮半島から九州島を経て大隅諸島までの南西に延びた半島から成っており、北側の北琉球には北アジァからの生物(旧北区系)が移住し、南側の中・南琉球には南方系の生物「東洋区系」が移住していた。

 琉球弧はその後、更新世中・後期の約120万年前頃には島嶼群に分離し、それ以降現在まで大陸や台湾島、九州島と繋がったことはない。したがって大陸から移住した生物たちは、島弧として切り離され孤立し、さらに面積も小さい故に侵入や定着にも限りがあり、絶滅も起こり得る要因が重なっていた。

 世界の植物地理区は、全北区、新熱帯区、旧熱帯区、南帯区の四つに区分され、動物区との関係は全北区が旧北区と新北区、新熱帯区は新熱帯区、旧熱帯区はエチオピア区と東洋区、南帯区はオーストラリア区にほぽ該当する。日本は全北区の中国・日本区系区に属するが、トカラ海峡以南は旧熱帯区の「東南アジア区系区」に入り、台湾、中国南部、さらに南のインド、ニューギニア、インドネシアの植物相に類似する。

 琉球弧は基本的には森林型で、暖温帯の西南日本と同じイタジイ林を中心としたマテバシイ、オキナワウラジロガシ、ウラジロガシなど常緑広葉樹林が山地部を占領する。また沿岸植生には、サンゴ礁、海岸崖地、砂浜、さらに河口域に分布する植物がある。それらはサンゴ礁と砂浜にはアダン・モンパノキ、クサトベラなど、河口域にはマングローブ林(オヒルギ、メヒルギ、ヤエヤマヒルギ、ヒルギダマシ、ヒルギモドキ、マヤプシキ、ニッパヤシなど)が繁茂している(安間1982;平凡社地方資料センター編2002)。

(3)人文的環境

①考古学的地域区分

図3 琉球弧の三大文化圏

図4 琉球弧の二大文化圏

図5 琉球弧における考古学的枠組み

 琉球弧は地形・地質学的視点から北琉球、中琉球、南琉球グループという三大区分が行われ(木崎・大城19801町田ほか2001)、考古学的視点からも北部圏、中部圏、南部圏という三つの文化圏区分が定着している(国分1972;嵩元・安里1993;沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編2000,2003)。

(A)北部圏は種子島、屋久島、トカラ列島で、縄文・弥生時代を通じて九州本土の影響を受けたと考えられる「島嶼文化」が営まれた。

(B)中部圏は奄美大島、喜界島、徳之島、沖縄本島で、縄文・弥生時代に九州本土からの文化を取り入れながらも独自の「南島文化」を形成させた。さらにこの文化圏は、奄美諸島の北部と沖縄諸島の南部に二分できる(国分1972)。そしてトカラ海峡より南の島々は、黒潮本流の外側に位置し、サンゴ礁が発達しており、イノーを中心にした豊富な海産資源を利用した「サンゴ礁文化」が営まれた。

(C)南部圏は宮古島、石垣島、西表島、波照間島で、縄文・弥生文化の影響が及ばず、むしろ中国大陸や台湾島そして黒潮に乗って流れてくる東南アジア地域との関連が多く認められた。また沖縄本島の南には宮古凹地と呼ばれる広大な無島嶼海域が存在し、南部圏と北部圏の島々は相互に望見できない遠距離空間で、近世期に「琉球王国」が成立するまでは全く別々の文化圏であった。

②琉球史的視点からの二区分

 近年沖縄の考古学研究者の間で、かって存在した「琉球王国」の支配範囲を中心とした北琉球圏と南琉球圏という二っの文化圏区分が行われている(嵩元・安里1993;沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編2000,2003)。

(A)北琉球圏は、トカラ海峡以南のトカラ列鳥の一部と奄美諸島、沖縄諸島の地域で、黒潮本流の外側のサンゴ礁島に特徴を示す地域である。九州島、大隅諸島に展開された本土文化とは異なった「島嶼文化」が形成され、それは縄文文化や弥生文化の影響も多く認められる事から、この地域に本土の先史時代人が南下したことは明らかである。その証左としては、特に北九州地方の弥生時代人が求めたゴホウラやイモガイなどの南海産大形巻貝製腕輪の交易活動は広く周知されている。この交易は「貝の道」と呼ぱれ、貝の交換財として土器やガラス玉、青銅器などの製品がこの地域に多数もたらされた。

(B)南琉球圏は、ケラマ海裂・宮古凹地以南の宮古諸島、八重山諸島地域である。サンゴ礁島地域としては北琉球圏と同じであるが、先史時代は別の系統の文化が展開されていた。中でも八重山先史時代後期に特徴的に認められる「シャコガイ製貝斧」は、黒潮源流地域のフィリピン先史文化との関連が指摘されている(安里1991)。一方北琉球圏にまで影響を与えた九州本土の縄文・弥生文化は、この南琉球圏には到達した痕跡がなかった。

(4)歴史年表

 日本列島の歴史は旧石器~縄文時代の先史、弥生時代の原史、古墳~平安時代までの古代、鎌倉~室町時代までの中世、安土・桃山~江戸時代までの近世、明治~平成時代までの近・現代に大きく区分されている。しかし、この時代編年は列島中央地域での歴史事象を基本にした変遷史であり、列島北辺の青森県北部~北海道には「アイヌ」が、列島西南端の九州南部には「熊襲と隼人」が、そして最西南端の琉球弧には「琉球人」たちの歴史が過去にそれぞれ展開されていたのである。なかでもトカラ列島の一部から与那国島までの地域には、中世末~近世期に「琉球王国」と呼ばれる独立国家が形成され、東南アジア、中国、朝鮮、大和国家などとの活発な交易活動で繁栄していた。つまり琉球弧は、文化史的に古来「南島」と総称され、列島内部に展開された政治・文化領域の外側に位置し本土と別の歴史年表が作成されている(沖縄県文化振興会公文書管理部史料編集室編2000,2003)。以下の時代名称は、下記に北琉球圏/南琉球圏/本土の順で呈示した。

(A)先史一旧石器時代/旧石器時代/旧石器時代

 貝塚時代早期~中期及び前期(縄文時代)/新石器時代前期(前期・有土器・下田原期)/縄文時代

(B)原史・古代一貝塚時代後期(弥生~平安並行期)/新石器時代後期(先島歴く原>史時代)/弥生~平安時代

(C)中世一グスク時代~第一尚氏時代/スク時代~第一尚氏時代/鎌倉~室町時代

(D)近世一第二尚氏時代前期~後期/第二尚氏時代前期~後期/安土・桃山~江戸時代

(E)近代・現代一明治~平成時代/明治~平成時代/明治~平成時代

2.旧石器時代

図6 沖縄の旧石器時代遺跡

図7 琉球弧を画する二大旧石器文化圏

 日本列島の旧石器時代文化は「ナイフ形石器」と「細石刃」という特徴的な石器器種の出現時期によって、大きくC-14年代で約3万5,000~2万8,000年前の第I期(ナイフ形石器文化I)、約2万8,000年前~1万6,000年前の第II期(ナイフ形石器文化II)、約1万6,000年前~1万2,000年前の第III期(細石刃文化)の三つの時期に区分できる。また、列島内での特徴的な石器群の分布状況から、本州島中央部を境界線にした「東北日本型旧石器文化圏」(北海道~関東・中部地方北半地域)と「西南日本型旧石器文化圏」(関東・中部地方南半~南九州地域)の二つの文化圏にも区分できる。一方、琉球弧に展開された旧石器文化は、こうした列島内部の二大文化圏の外側にあった。っまりトカラ海峡を境界線にして北側は西南日本型旧石器文化圏の一部で、南側は「琉球旧石器文化圏」と呼称できる。そしてその文化は東南アジア、南中国、台湾島などの南方地域との関連で捉えられ、議論が展開されている(安里・小田ほか編1999;安里2003;小田1999,2005;上村2004a)。

(1)九州本土

 現在、日本列島最古の旧石器文化は約3万5,000年前頃の遺跡で、西南日本地域を中心に確認されている。ちなみに全国的に旧石器遺跡の分布が確認できるのは、約2万8,000~2万6,000年前頃に起きた鹿児島湾奥の「姶良カルデラ」(AT火山灰降灰)の巨大噴火以後のことである。九州島は中国大陸や朝鮮半島に近接しており、日本列島に旧石器時代人が渡来する場合の門戸ではあるが、姶良カルデラ噴火以前(AT以前)の古期遺跡の発見は少ない。その石器群の特徴は、刃部磨製石斧、台形様石器、不定形剥片石器類を伴っている。

 噴火後(AT以後)の遺跡は全国に多数分布し、ナイフ形石器、台形石器、剥片尖頭器、石刃石器類が発達している。さらに1日石器文化の終末期の約1万6,000~1万2,000年前には、それ以前のナイフ形石器文化に取って変わった細石刃文化(野岳型)が出現する。この細石刃文化の後半期(船野型、福井型)には、無文土器や隆起線文土器が伴出することから、それを契機に「縄文時代」に突入していることが看取される(小田2003)。

(2)北琉球グループ

 九州本土に定着した旧石器時代人は、当時陸続きであった大隅諸島の種子島と屋久島に南下しており、その時期は細石刃文化の後半期(船野型)である。一方、種子島には約3万年前の立切遺跡や横峯C遺跡など、その出自系統が問題になっている旧石器文化が確認されている。しかしこの旧石器文化は九州本土と石器群様相を異にしていることから、東南アジアのスンダランドから琉球弧経由で北上してきた「南方型旧石器文化」の一員ではないかとの推論も浮上し、目下その出自系統を研究中である(小田1999,2005)。

(3)中琉球グループ

 奄美諸島から約3万~2万年前の旧石器時代遺跡が確認されている。奄美大島の土浜ヤーヤ、喜子川遺跡、徳之島の天城遺跡、ガラ竿遺跡などがそれに該当する。石器群の様相は、大きく頁岩製の磨製石斧、不定形剥片石器をもっ土浜ヤーヤ旧石器群と、チャート製の台形状石器と各種スクレイパー類をもつ天城旧石器群とに二分できる。この両旧石器群には、九州本土から列島内部に特徴的に伴う「ナイフ形石器」が認められず、それはまた、種子島の立切遺跡や横峯C遺跡で確認された「礫器・磨石」などの重量石器を中心にした南方型旧石器文化とも異なっている(小田1999)。沖縄諸島の旧石器時代資料は、琉球石灰岩の洞穴やフィッシャー(裂噂)から出土した「更新世化石人骨」である。現在7ヵ所から発見され、最古は約3万2,000年前の沖縄本島・山下町第1洞人の6歳位の女児で、成長阻害の症例であるハリス線が認められている。その後は約1万8,000年前の沖縄本島・港川人〈約1万4,000年前の上部港川人もある〉で、約9体分の個体があり2体が男性、7体は女性であうた。港川人は現代人に比べてかなり小柄で背は低いが、下半身は頑丈で走るのには好都合であったろう。やはりハリス線が認められていることから、栄養状況が悪く食糧を求めて遊動の生活を送っていたものと思われる。また、彼らには「抜歯」の形跡と葬送儀礼のキズ痕が確認されている。港川人は東南アジア・ジャワ島の「ワジャック人」に形質が酷似しており、その故郷は南方に求められている(馬場2006)。

 不思議なことに、近年まで沖縄諸島の化石人骨発見地点から確かな「石器・骨角器」などの考古学的資料の出土は確認されていなかった(安里・小田ほか編1999;安里2003)。しかし、最近山下町第1洞穴の出土資料の再検討が行われた結果、すでに報告されていた礫器1点・敲石2点は確かな旧石器遺物である可能性が指摘されている(小田2002)。

(4)南琉球グループ

 宮古・八重山諸島にも、沖縄諸島と同様に洞穴から更新世化石人骨が発見されている。それは宮古島で発見された約2万7,000~2万6,000年前のピンザアブ洞人で、子供を含む数個体があり、形質は港川人に似ているがやや原始的な特徴が認められる(馬場2006)。このピンザアプ洞穴からは沖縄本島の化石人骨発見地点と同様に、石器・骨角器などの人工遺物の出土はなかった(安里・小田ほか編1999;安里2003)。

3.新石器時代

 約1万400年前頃、長かった更新世(氷河時代)が終焉を迎え、現在と同じ温暖な完新世(後氷期)が開始する。フィリピン東海上を源流とした黒潮(日本海流、暖流)本流は、台湾島東岸から東シナ海を通過しトカラ海峡から東に大きく向きを変えて、太平洋側に流出し日本列島の太平洋沿岸を東流する。一方、支流(対馬海流)は九州島西岸を北上し、約8,000年前頃には朝鮮・対馬海峡から日本海に流入していた。こうして日本列島は島嶼環境になり、北は北海道から南は沖縄諸島まで「縄文文化」が営まれていた。一方で南琉球の宮古・八重山諸島では、北・中琉球とは異なった「新石器文化」が形成されていた。

 琉球弧での新石器時代相当期の呼称は、列島内部と北琉球、中琉球の奄美諸島は「縄文時代」、中琉球の沖縄諸島は「貝塚時代前期」、南琉球は「新石器時代前期」と呼ばれる(高宮19911嵩元・安里編1993)。また沖縄県立埋蔵文化財センターの編年表(2002)では、現行編年として沖縄諸島の「貝塚時代前期」を早期(前葉・中葉・後葉)、前期、中期に新しく三区分されている。さらに最近編纂された『沖縄県史考古編』(2003)では、沖縄諸島の「貝塚時代前期」を「縄文時代」、南琉球の「新石器時代前期」を「前期、有土器、下田原期」と改称されている(嵩元2003;新田2003;金武2003a,2003b)。

(1)九州本土

 世界最古の年代値を持つ日本の「縄文土器」(無文・隆起線文系土器)は、西北九州で旧石器文化最終段階の細石刃石器群に伴って出現している。この事実から列島内の縄文文化起源地の一っがこの地域であることは明らかだが、しかし南九州の縄文文化は、西北九州と異なる様相が看取されている。そして、この「もう一つの縄文文化」と呼称される列島西南端に繁栄した南の縄文文化は、列島内よりも早く新石器的生活基盤をその初期から保持していた(新東2006)。

(2)北琉球グループ

図8 栫ノ原型石斧文化圏

 完新世の温暖気候で現海面より約140m低下していた海面が、現在よりは約3~4m上昇したことで、九州本土と陸地で繋がっていた大隅諸島(屋久島、種子島)は島嶼化した。北琉球は旧石器時代終末期(細石刃文化)以来九州本土の影響下にあり、縄文草創期に種子島で「栫ノ原型」と呼ばれる特徴的な丸ノミ形石斧の製作肚が確認された。また屋久島では縄文後期に100軒を越す大規模集落が形成されており、石皿・敲石などの植物質食糧加工具が大量に出土している。

 一方、トカラ列島の宝島では、縄文前期に比定される室川下層式土器文化人の季節的漁猟集落が確認され、多数の南海産貝製品が出土した。南島文化人の北上は宝島あたりが最北端と考えられるが、大隅諸島や鹿児島本土でも少量の南島式土器が確認されたという事実は何を物語っているのか興味がもたれる(上村1999,2004b)。

(3)中琉球グループ

図9 南島爪形文土器の出土遺跡

 トカラ海峡を境界線に南側の奄美諸島以南は、自然環境や文化的にも異なる「サンゴ礁」地域であった。約6,000年前の縄文前期に中九州の曽畑式土器が、また約3,000年前の縄文後期に南九州の市来式土器が沖縄本島で確認されている一方で、逆に中琉球で発達した「南島式土器」が、約2,000年前の縄文晩期に北琉球や鹿児島本土から少量出土している。

 この奄美諸島では九州本土の縄文文化の影響の下に、独自の「南島式土器」が誕生した。最古の土器は「南島爪形文土器」と呼ばれ、かつて九州本土の縄文草創期の爪形文土器(約1万1,000年前)との関連が指摘されたが、その後奄美大島の喜子川遺跡で、約7,000~6,500年前のアカホヤ火山灰(K-Ah)の上層から出土したことから年代的に新しい土器型式と考えられるようになった。まだその出自系統については判明していない(上村1999,2004b)。

 また沖縄諸島では本土の縄文時代に相当する時期を「貝塚時代前期(前I~V期)」、あるいは「貝塚時代早期・前期・中期」と呼んでいる(高宮1991;嵩元・安里編1993;嵩元2003)。

貝塚時代前I期(早期前葉)

図10 曽畑式土器の伝播

 約7,000~6,500年前の中琉球最古の新石器文化である。人々は海岸地帯に生活し、遺跡数は少なく、大型磨製石斧と「南島爪形文土器」を使用していた。サンゴ礁域の貝を採り、山野でイノシシ猟をする南島特有の経済基盤をすでに保有していた。この土器文化の出自系統は、現在九州本土からの南下説や東南アジア、台湾島からの北上文化説があるが、現在論争中である。

 更にこの時期に鹿児島佐多岬南の海底にある鬼界カルデラで、巨大噴火が起った。この噴火は南九州の「南の縄文文化」を一瞬にして壊滅させてしまった。この噴火後に九州は縄文前期に突入し、広域に分布する土器型式(轟式土器・曽畑式土器)が誕生した。この土器文化は南九州地域の環境回復を待った後、黒潮本流を越えて沖縄本島にまで南下した(上村2004b;新東2006)。

貝塚時代前II期(早期中葉)

 約6,500~4,500年前になると、人々は海岸と台地崖下に住まい、サンゴ礁の恵みに依る生活をしていた。その後九州本土から縄文前期の「曾畑式土器」が沖縄本島にまで南下し、「室川下層式」と呼ばれる南島特有の土器型式が誕生した。

貝塚時代前III期(早期後葉)

 約4,500~3,200年前で、人々は台地崖下と海浜に住まい、遺跡数は少ないが海産の貝類をよく採取し食糧にして生活していた。南島特有の土器型式の「面縄前庭式」が成立した。

貝塚時代前IV期(前期)

図11 市来式土器の伝播

 約3,200~2,700年前で、人々は台地崖下と海浜に住まい、ほとんどの島々に人間の居住が認められ、人口の増加、移住、居住活動が活発に展開された時期でもある。貝塚規模や遺物内容が豊富で、定住生活が一層進んだことが看取される。海産の貝や魚のほかに、陸産のマイマイ類も食糧にし、イノシシの骨・牙を道具や装身具に利用していた。この頃九州本土から縄文後期の「市来式土器」が沖縄本島にまで南下している。また南島式土器が最盛期を迎え、伊波式、荻堂式、大山式などが成立した。

貝塚時代前V期(中期)

 約2,700~2,200年前で、人々は台地縁辺部で生活し、竪穴式、石組み式などの住居を構築していた。前面にサンゴ礁の海が広がっているが、貝や骨類が遺跡からあまり出土していない。この事実はヤマイモのような根栽類の「栽培農耕」があったとも言われているが、石器の中に木の実などを摺り潰す道具(石皿、磨石)が多くなり、植物質食糧をよく調理していたことが看取される。南島式土器も終末を迎え、「宇佐浜式」が成立した時期でもある。

(4)南琉球グループ

 このグループは中琉球との間に約290km以上離れた無島海域の「宮古凹地」が広がり、別の先史文化が営まれていた。この地域の時期区分は「新石器時代」と呼ばれ、「前期」と「後期」に区分される。またこの前期は沖縄諸島の貝塚時代前期(縄文時代)に相当する。

新石器時代前期

 約4,000~2,200年前で、人々は海岸近くに発達した赤土の低い丘や砂地で生活していた。前面に広がるサンゴ礁の海から海草を採り、魚類を捕り、さらに後背地の山林から植物質食糧やイノシシなどを得ていた。石器は刃部を研磨した局部磨製石斧が中心で、断面が山形を呈するものと、平面が短冊形で平坦なものとがあった。石材は石垣島で豊富に産し、宮古島、西表島、波照間島、与那国島、竹富島などに石材産地の小世界を形成していた。

 土器は無文が主体で「下田原式土器」(波照間島・下田原貝塚出土)と呼ばれ、器形は丸底形で肩に2ヵ所の耳状杷手が付いた例もある。また少数ではあるが、細かい爪形様の刻線を部分的に施す土器があり、その例は南琉球圏における唯一の土器文様である。しかしこの土器の出自系統はまだ解明されていない(安里1989,1991;金武2003a)。

4 原史・古代

 琉球弧における本土の「弥生時代~平安時代」(約2,200~1,000年前)相当期は、中琉球南半の沖縄諸島では「沖縄貝塚時代後期」、南琉球では「新石器時代後期」と呼称される。九州本土の文化は、北琉球や中琉球までは影響を与えたが、南琉球に於いては「琉球王国」が近世期に統一するまで、全く別の文化圏であった。

(1)九州本土

図12 南海産大型巻貝腕輪の道

 地理的位置から九州はその大陸の門戸として、水田稲作農耕と金属器が最初に伝来した地域である。この新しい「弥生文化」は北九州地域から中国、近畿そして東海地方へと短期間に東漸して行った。一方、南九州地方では水田稲作に不適な土地柄であったことから、水稲拡大の限界地でもあり、狩猟・漁携・植物採取という伝統的な生活基盤が継続していた。

 弥生時代前期の鹿児島県高橋貝塚から発見された多数のゴホウラやイモガイという南海産大型巻貝の貝輪未製品は、北部九州弥生人が欲しがった貝製腕輪の材料を、南九州弥生人が「貝の道」と称するルートを通じた交易活動で、中琉球へ渡島し獲得していた証左でもある。この貝の道の存続は、古墳時代の横穴墓や群集墓の横穴式石室から、南海産大型貝製腕輪が発見されることから長く続いたであろうと理解される(木下19961中園2004)。

 弥生時代中期になると、北部九州には「クニ」と呼ばれる王を擁する小国家が分立し、やがて3世紀後半のヤマトを中心に連繋を強め、律令制を軸とする統一国家「大和朝廷」が成立する。これが古墳時代の始まりで、弥生時代の甕棺墓や土墳墓などに変わって「高塚古墳」と呼ばれる大型古墳(前方後円墳)が出現することにその画期がある。一方中・南九州では、この畿内型高塚古墳と熊襲・隼人の墓制とされる地表に標識のない地下式板石積石室墓、地下式横穴墓、土墳墓などが混在して発見されている。この事実は「紀・記」の記述にもあるように、4世紀~5世紀頃の大和政権による九州異民族平定の動態を表徴するものと考えられている(上村2001,2004b;中園2004)。

(2)北琉球グループ

 大隅諸島の種子島・屋久島では、弥生時代後期~古墳時代併行期全般にかけて南島的様相が強くなり、九州文化とは本質的に異なった「南島世界の再編」が看取された。種子島の広田遺跡(弥生中・後期~古墳時代)では貝製品が副葬された墓地群が発見され、ゴホウラ、イモガイ、オオツタノハなどを使用した中国の戦国時代~三国時代の青銅器に類似した彫刻が施された腕輪、貝札が出土している。ちなみにこの「貝札」はこの種子島が北限で、中琉球・沖縄諸島の久米島が南限である。またトカラ列島の宝島から弥生文化の箱式石棺が確認され、人骨は南島人の形質を持っていると言われている(上村2001,2004b;中園2004)。

(3)中琉球グループ

 奄美諸島では北琉球を経由して南九州弥生文化の南下があり、前期~後期の弥生土器が確認されているが、これらの土器は南九州地域で製作された二次的なものであった。弥生中期併行期頃には在地的様相が芽生え、その後期併行期には奄美的南島文化が確立している。

 弥生時代~古墳時代併行期には、底広で底部にユウナ(オオハマボウ)などの木葉圧痕のある甕形と壺形土器を特徴とする奄美系の兼久式土器が出現し、沖縄諸島にも類似土器が発見されている。兼久式土器には鉄器、イモガイ製貝札、開元通宝などが伴う。また螺鋼加工用の1,000個に及ぶヤコウガイ(夜光貝)が出土した交易遺跡も確認されている(上村2001,2004b)。

 一方、沖縄諸島では貝塚時代後期(約2,200~1,000年前)に相当し、サンゴ礁の海を生活基盤にした「漁携文化」が発達した。遺跡の立地は主に台地に生活していた人々が、標高約5m~10m前後の海岸砂丘に集落を形成するようになり、遺跡集中地域が確認され、半島状に海に突き出た地形周辺の砂丘上に立地し、大規模な貝塚も多く形成されている。これは眼下のサンゴ礁海が漁携生業の中心であった為で、これらの大貝塚からは大量の大型貝、魚骨に加え、陸産のイノシシ骨も多く出土した。それは狩猟・採取活動が活発に行われた証左でもある。

 住居は砂地に掘っ立て柱を立てた四角形の平地式であった。土器は無文化し大型化していったが、一方ミニチュア土器や壷形土器も作られ器種が多様化している。石器の中では石斧が減少してきた。これは九州弥生人との交易で「金属器」がもたらされ、石斧の材料に鉄が利用されたためと考えられているが、鉄器の発見が少なく断定は出来ない。またこの時期の遺跡から「稲作」が行われていたという証は確認されていない。水田稲作農耕は南九州でも明確ではなく、南島の土地条件に不適当であったとか、サンゴ礁の幸に恵まれ稲作を必要としなかった等の諸説がある。

漁携の方法としては、釣り漁より網漁の方が盛んであった。その証拠に遺跡から釣針の出土は2ヵ所と極端に少ない。恐らく魚垣漁と呼ばれる遠浅の海に石垣を築き、潮の干満を利用して魚を捕る方法が多用された結果だと推察されている。こうした集団的・組織的な漁携活動を通して、次第に村を統括する「権力者」(首長)層が出現してきたと考えられている(新田2003)。

 この時期には、九州本土との交易活動である「貝の道」が存在していた。それはサンゴ礁域に生息する南海産大型巻貝が、北九州弥生人に腕輪の材料として珍重されたからである。沖縄本島の遺跡からは、交易用のゴホウラ・イモガイが集積した「貝溜り、貝集積遺構」が多数発見され、また同時に弥生土器、ガラス玉、金属器などが出土したことから、これらの出土品はこうした貝交易の見返り品だと考えられている(木下1996;安里・岸本編2001)。

 本土の弥生中期頃の遺跡から秦の半両銭、漢代の五鉄銭、新の貨泉、貨布などの中国貨幣が出土し、弥生時代の実年代を考察する上で重要な資料となっている。同様の中国貨幣が琉球弧からも出土し、その種類は戦国時代の燕の国で鋳造された明刀銭、前漢~階時代の五鉄銭、唐時代の開元通寳などが知られている(上村2004b)。

(4)南琉球グループ

図13 シャコガイ製貝斧の伝播

 新石器時代後期(約2,200~1,000年前)に相当する。不思議なことに、今まで使用していた土器を忘れ「無土器文化」になってしまった。こうした現象は、オセアニア地域の一部(ポリネシア)にも認められるが、他に例を見ない珍しい現象である。遺跡は海岸砂丘に立地することが多く、集落規模が前期に比べて拡大している。前面に広がるサンゴ礁の海から得られる豊富な食糧資源に支えられて、人口の増加があり漁携活動は頂点に達していた。

 石器は前期に比べやや発達し、磨製石斧が大型化すると共に、磨製部分も拡大して全面磨製例が多くなった。また石斧の身の断面が、山形や屋根形を呈する特異な例も確認されている。石材は石垣島産が利用されたことには変わりはないが、特殊な石斧では、厚手の「方角片刃石斧」が僅かに伴う。この石斧は東南アジア、南中国など南方から伝来した型式である(安里1989;高宮1991;嵩元・安里1993)。

 土器を使用しなかった南琉球の後期人は、「ストーンボイリング」と呼ばれる調理用の石蒸し遺構を多用した。宮古島の浦底遺跡では、こうした遺構が200ヵ所以上確認されている(安里1989)。またこの時期を特徴づけるものに「シャコガイ製貝斧」がある。貝斧は主にオセアニア、フィリピン地域に分布するが、このシャコガイ製貝斧は、貝殻の利用部分で大きく二つに分けられている。一つは貝の蝶番部分を用いる例、もう一っは貝の腹縁部を使用する例である。この南琉球例は前者で、フィリピンと同じ大ジャコの蝶番部分を使用することに特徴がある。ちなみにマリアナ諸島のシャコガイ製貝斧は、小型種のヒメジャコの貝殻腹縁部を使用している。したがって南琉球グループの貝斧は、使用部分、製作手法からフィリピン先史文化との関わりが指摘できる。このシャコガイ製貝斧とセットで出土する「シェルデスク」と呼ばれるイモガイ科の貝蓋も、貝斧と同様にフィリピン先史文化との関係を示す装身具であった(安里1989;金武2003b)。

5.大交易時代への幕開け

 琉球弧の古代後半~中世期には、中国、朝鮮半島、九州本土との広汎な対外交易活動が頻繁に展開されていた。中国の正史『階書』流求(国)伝636年によると流求国には「王・小王」が存在し、また『日本書紀』によると616年、620年、629年、631年に液玖人が倭国へ来航したことが記されている。こうした史書の記述から、当時の琉球弧の各島嶼には「豪族」(首長層)が台頭し、対外交渉を行っていたことが理解される(金武2003a,2003b;上原2003)。

(1)開元通宝の道(7~12世紀)

図14 開元通宝の道

 琉球弧の先史時代終末~グスク時代の遺跡から、中国の貨幣である「開元通宝」が多数出土する。1959年沖縄本島の野国貝塚で最初に発掘された当時は、後世の混入品とされた。しかし、その後各地の遺跡で出土例が増加し、当時使用されたものであることが判明した。開元通宝は621年~966年に鋳造された中国唐代の貨幣であるが、グスク時代はまだ物々交換の段階であった為、この貨幣は、東シナ海を頻繁に往来する中国商船や九州の貿易船寄港の際に、交易品と交換し入手したものであろう。

 では、この開元通宝で何を購入したのだろうか。当時、中・南琉球は鉄器時代に突入しており、この貨幣で島外の品物、特に「鉄器とその材料の鉄塊」を購入したと考えられ、またそれに伴い開元通宝を扱う商人(中国・大和)の存在も推測されている。このように8~12世紀前後の中・南琉球では、支配者の出現する「グスク時代」を迎え、更にこの貨幣経済の導入によって、有力な権力者(按司)の出現をみたのである(木下2000;木下編2002;高宮・宋2004)。

(2)ヤコウガイの道(7~14世紀)

図15 ヤコウガイの道

 ヤコウガイ(夜光貝)は、南海のサンゴ礁海域に生息するサザエ類の一種で大型巻貝である。サンゴ礁域には多くの貝類がリーフ・エッジ(礁縁)内の浅いラグーン(礁湖〉に分布しているが、ヤコウガイ、サラサバティ、ゴホウラなどはリーフ外の深みに生息している。したがって貝の採取には10m以上の潜水作業、つまり専業深海貝採取漁師の存在を窺い知ることができる。

 1994年に奄美大島のマットノ遺跡から、100個体近くのヤコウガイが3ヵ所に集中して出土し注目された。その後、同じような集積遺構が沖縄本島から多数確認された。それらの遺跡は発達したリーフと、深い根(生息域)に面した東海岸の砂丘上に立地していた。ヤコウガイは螺鋼工芸に使用され、唐代に著しく需要が増した。唐王朝は大型ヤコウガイを求めて中・南琉球に来航し、その後琉球弧で発見される「開元通宝」は、このヤコウガイの購入貨幣とも考えられている。また唐と琉球弧とのヤコウガイ交易は、時期的に大きく7~9世紀の「唐王朝」、9~12世紀の「大和」、13世紀以降の「元王朝」の三つの画期が認められている(木下2000;木下編2002)。

(3)滑石製石鍋・カムィヤキの交易(11~14世紀)

図16 滑石製石鍋・カムィヤキの交易

 石鍋は、滑石という軟らかい石を劃り抜いて作った底の広い鍋である。長崎県西彼杵半島に大原石産地とその製作地がある。石鍋は保湿性に優れており、平安時代では石鍋4個で牛1頭に相当する貴重品でもあった。石鍋の製作は9~12世紀頃で、九州島を中心に西日本から南は琉球弧最南端の八重山諸島にまで広く流通していった。

 カムィヤキは「類須恵器」「亀焼」とも呼ぱれ、約1,000度前後の還元焔で焼かれた灰色もしくは青灰色の硬い土器である。奄美諸島の徳之島伊仙町で生産された焼物で、窯跡が17基と10ヵ所の灰原が確認されている。その流通期間は11~14世紀頃で、「琉球王国」の政治的範囲を中心として一部鹿児島本土にも発見されている。

 石鍋とカムィヤキは、同じ商人達によって交易された。石鍋は長崎から運ばれ、中・南琉球で特産品のヤコウガイ(螺鋼材料)、硫黄(薬品)、赤木(刀の柄材)などと交換する交易形態だったと考えられる。またカムィヤキは焼物の本場の九州本土では雑器であったが、土器しか存在しなかった中・南琉球では、硬質であり貴重品でもあった。おそらく琉球弧を商圏とした商人が徳之島を中心にして交易活動をしていたものであろう(池田2000;木下編2002)。

6.まとめ

(1)旧石器時代

 トカラ列島南の奄美諸島から、約3万~2万年前の旧石器時代遺跡が確認された。土浜ヤーヤ(奄美大島)、喜子川(奄美大島)、天城(徳之島)、ガラ竿遺跡(徳之島)である。旧石器群の様相は、大きく頁岩製の磨製石斧、不定形剥片石器をもつ「土浜ヤーヤ旧石器群」と、チャート製の台形状石器、各種のスクレイパー類をもつ「天城旧石器群」に一分できる。そしてこの両旧石器群には、九州本土から列島内部に特徴的に伴う「ナイフ形石器」と呼ばれる背付石器が認められていない。更に、種子島で確認された礫器、磨石などの重量石器を中心にした「南方型旧石器群」とも様相を異にしている(小田1999,2001)。

 東南アジアの島嶼部から中国南部、台湾には「不定形剥片石器文化」と呼ばれる海洋適応した旧石器人の遺跡が分布している(加藤1996;宋1980)。この奄美諸島で発見された「軽量石器」を中心にした旧石器文化は、東南アジアから続く旧石器文化圏の一員で、またその最北端地域とも考えられる。つまりトカラ海峡を境にして、北側の列島内部に展開した旧石器文化(ナィフ形石器文化、細石刃文化)と、南側の列島文化の外側に展開した旧石器文化である「不定形剥片石器文化」とに二分されることが判明した。そして、これら南方型旧石器文化、不定形剥片石器文化と呼ばれる奄美諸島から種子島、本州の太平洋沿岸部に分布する旧石器群は、この沖縄に発見される更新世化石人類(旧石器人)が使用した石器類と考える事も可能であろう(小田2001,2005)。

(2)新石器時代

 九州縄文人の南下:縄文時代になると九州本土から縄文人の南下が始まる。まず縄文前期(約6,000年前)に曽畑式土器人が、そして後期(約3,000年前)には市来式土器人が沖縄本島まで渡島している(上村1989)。一方、縄文草創期(約1万2,000年前)頃に、長崎県五島列島から沖縄本島にかけての地域に「栫ノ原原型石斧文化」が形成された。また約5,000年前頃に琉球弧を経由して南九州地域に、東南アジア、中国大陸沿岸部から特徴的な磨製石斧(双刃石斧・稜付き石器)を持った海洋民の北上が認められる(小田2001)。

 南九州の初期縄文社会は、約7,000~6,500年前の完新世最大の巨大噴火(鬼界カルデラ〉によって壊滅的な打撃を被ってしまった。その後この地を逃れた南九州の縄文人は列島各地に拡散して行った。特に「海人集団」は丸木舟や筏舟で対馬暖流を北上し日本海を通り北海道へ、さらに黒潮本流に乗って太平洋沿岸地域から伊豆諸島の八丈島にまで移住した集団も確認されている。やがて巨大噴火の影響も薄れた約6,000年前頃(縄文海進最盛期)になると、九州の前期縄文人(轟B式・曽畑式土器)が、その後約3,000年前には、後期縄文人(市来式土器)もが沖縄本島にまで南下した。そして彼らは琉球列島の豊かなサンゴ礁の海に魅せられそこに定着し、独自の土器(南島式土器)と美しい貝製品を中心にした「サンゴ礁文化」(南島文化)を誕生させたのである(上村1991;新東2006)。

 黒曜石の流布:火山ガラスの一種である黒曜石は、石器時代人の石器製作材料として珍重され多用された。佐賀県腰岳産の黒曜石は九州島で最も質が良く、縄文時代には朝鮮半島や沖縄本島へも運ばれ利用された(小田2000)。

 南島人の北上:九州縄文人の大規模な南下行動に対して、南島からの先史時代人の北上行動は少なかった。最古の例は約4,500年前(縄文前期)で、沖縄本島の「室川下層式土器」が種子島で発見されている。約3,000年前(縄文後期)には屋久島まで北上した「喜念1式土器」があり、約2,500年前(縄文晩期)には鹿児島本土に上陸した「宇宿上層式土器」が知られているが、土器の出土量は少ない(高宮1993;上村1999,2004b)。

(3)原史~古代

 九州弥生人の南下:水田稲作農耕を中心にした弥生社会は、水田に適さない土地柄であった琉球弧には定着しなかった。しかし、弥生土器と弥生系土器(現地製作品)、鉄器、青銅器、ガラス玉、紡錘車などが奄美大島から沖縄本島に至る遺跡からも出土している。最近では弥生の甕棺までが確認され、弥生人との交流は縄文人以上の関わりがあったと考えられている(木下編2002)。

「貝の道」の成立:弥生人南下の目的の一つは、南海産の大型貝殻の入手にあった。サンゴ礁域の美しい貝殻・貝製品は九州本土の縄文、弥生人を魅了した。特に南海産大型巻貝(ゴホウラ、イモガイ)製の腕輪は、北九州弥生人によって珍重され、琉球弧との間に交易ルートである「貝の道」が開設され、その後南海産大型巻貝製腕輪は、権力者の威信財として古墳時代にまで引き続き使用されていた(木下1996)。

(4)大交易時代の幕開け

 中国人の交易活動:奄美大島、沖永良部島の名が記された8世紀前半頃の木簡(荷札)が、福岡県太宰府跡から出土した。これは貢納品の赤木にっけた木札だとされる。この頃の遣唐使が、南島路を利用した時期でもあることから、中国や日本船がこの地域で活発に活動していたことが分かる。その証拠に琉球弧の遺跡から、中国銭貨傭代)の「開元通宝」が多数発見され、また奄美大島では「夜光貝」(ヤコウガイ)を多量に出土する遺跡が多数存在している。ちなみにヤコウガイは当時の中国で螺細製品の材料として珍重され、中国人商人によって交易された可能性が大きい(木下2000;木下編2002)。

 カムィヤキの流通:カムィヤキは11~14世紀頃に奄美諸島の徳之島と呼ばれる場所で焼かれ、日本の中世硬質陶器に器種構成が行われ、製作技法は高麗の無粕陶器に類似し、類須恵器、亀焼とも呼称される。壺・甕・鉢を主体にした種籾保存のための貯蔵容器と考えられ、この頃イネ・オオムギ・コムギ・マメ科などの「雑穀栽培」の畠作普及が進行しつつあった琉球弧にとっては、価値の高い製品であった。

 カムィヤキの流通圏は、北は鹿児島本土から南は与那国島、波照間島まで広く分布するが、その中心は「琉球王国」の勢力(文化)範囲に重なっている。カムィヤキ窯の経営者は琉球弧の利権を掌握しょうとしたヤマトの商人や武士集団の可能性が指摘されている。彼らは朝鮮半島の高麗や南九州の陶工を呼び100基以上の穴窯を操業していた商業集団でもあった(池田2000;木下編2002)。南琉球(宮古・八重山諸島)との関係:南琉球グループと北琉球グループの島々は、お互いに目視出来ない遠距離にある。このことが先史時代~両地域の文化的関係を疎遠にしていたが、1429年第一尚氏が「琉球王国」を誕生させた後、両地域は初めて一つの政治勢力圏に統合された。この頃、中国陶磁器の白磁玉縁口縁碗・白磁端反碗や長崎県に産地がある滑石製石鍋、徳之島産のカムィヤキが、セットで琉球王国圏に流通していた。これは琉球弧に産地があるヤコウガイ・ホラガイに経済価値を求めた商業集団により、中国、大和、朝鮮地域など広い範囲での交易が展開されていた証拠であり、グスク時代を経て琉球王国の「大交易時代」の始動を示す活動証左でもある(木下編2002)。

(5)琉球弧は先史時代の「道の島」

 「島」という環境は、一般的には面積も狭く、安定した食糧の獲得が困難な場所と考えられている。これは移住してきた先史人集団にとって、新しい島環境は生活食糧の獲得、人口の維持など定住する条件を獲得するには大変な努力が必要であった(高宮2005)。

 最新の人類学的知見では、約5万年前頃にアジア人の故郷と呼ばれる東南アジアの「スンダランド」から、新人の一集団が人類史的に未開拓の海世界「オセアニア」に進出する行動が確認されている。彼らはウォーレス線を越えて「サフルランド」に定着し、やがて黒潮圏海域に拡散して行った。黒潮は約6万年前には、日本列島の南側にまで到達していたので、流路の島嶼群、つまり「道の島・琉球弧」を北上するルートを選択し、拡散して来た人々もあったろう(小田2005;海部2005)。


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【スートラ(お経)と布斗麻邇(フトマニ)】

スートラとは、サンスクリット語で「糸」や「教義」という意味を持つ言葉で、仏教の教えや教義を記述した文献を指します。具体的には、釈迦の言行録や彼の弟子たちの講義を記録したものを指すことが多いです。

スートラは仏教の聖典であり、多くの仏教系統や学派が独自のスートラを持っています。スートラは、仏教の教えや瞑想の実践方法、歴史や伝説、道徳的な教えなど、多岐にわたる内容を持つことが特徴です。

いわゆる「カタカムナ」と呼ばれている図象符とウタヒを法則に基づいて展開することを、『布斗麻邇(フトマニ)に占(ウラヘ)る』といいます。

それは、人類の根源種大和人からの継承であり、その製法でかつて天竺ではお経が生成されました。

布斗麻邇(フトマニ)に占(ウラへ)て、出現させた音(こえ)は、森羅万象を明らかに定義し、この世の「摂理」「真実」「歴史」「未来」を示す音(こえ)となり顕現してきます。

次の出版の、その次の原稿からですがその内容を一部公開させていただきます。

何千年の時を経て、仏教、神道の根源である布斗麻邇(フトマニ)から、現代語のスートラ(お経)となります。

神仏習合、ヤハウヱ、八幡、稲荷、布斗麻邇の御灵、八咫鏡、カタカムナ

法華経の梵語(サンスクリット)の原題は『サッダルマ・プンダリーカ・スートラ』

逐語訳は「正しい・法・白蓮・経」で、意味は「白蓮華のように最も優れた正しい教え」(植木雅俊訳)である。

これを古代大和人は『布斗麻邇(フトマニ)に占(ウラへ)』ていたのです。

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カタカムナ言靈解  

タの灵 水中の火灵 より抜粋

ここに現される生命の源は、全ての生命の根源を宰り、一から百千へと数を増やす万物生命の本源である。この万物生命の本源には、カラダとタマシイという二つの要素が存在し、これらは羊水(あまみず)に溶け込むのである。目に見えない空中の水の循環から吹き別れたタマシイの灵は、形のない氣として存在し、その存在は空中の大氣としても現れている。

一方、遺伝子を構成する物質が渦を巻きながら連続して組み立てられ、肉体は形成される。吹き別れたカラダの灵は全てを含む水となり、地球を「体の水」と「魂の火」の二つとなり、おのずから和らぎ、塊まりめぐりながら生命を生み出す本(もと)となっている。

天からのタマシイが子宮に宿り、母胎の水と結びつく氣。この氣は具体的な形を持たないが、天と地の生命の具現としてそこに凝縮する。その背後には、この現象を支える法則があるのである。

灵也。

すべての生命の根源を宰り、無数の存在を生み出す。天地からの氣が子宮に流れ込み、生命を授ける。子宮は天地の命の源を引き寄せ、その命を我が身に宿す。肉体と魂は羊水を介して繋がり、目には見えない魂が空を巡り、宿った肉体と共鳴する。この魂が宿ることで肉体を形成し、羊水がそれを保護・育てる働きがある。命の誕生は、形を持たない魂が羊水と結びつき、物質的な身体を形成することによって、万物の魂の奇跡を具現化するものである。

母となる卵子に、父の種子の一滴が宿ることで、新しい生命の肉体が誕生する過程が始まる。この結合によって、魂は具体的な形を持つ生命体に具現化され、その肉体は特定の寿命と形状を得るのである。こうして、各個体は独自の存在としての寿命と性別が設けられ、一つの個別の生命としてこの世に現れるのである。

父の種子は、子宮という母の神秘的な領域に向かって進む。この種子は外見上の特徴を持たず、卵子がその存在を明らかにする時、親からの遺伝の力を引き継ぎ、形を持つようになる。この瞬間、魂が初めて肉体に宿り、生命として具現化され、輝き始める。この宿った魂は、肉体を動かし、生命活動を営む源となる。そして、遺伝子という物質が渦を巻き、連続して継承されることで、肉体は海のように絶えず流れる動きを持ち、魂の氣と共鳴しながら、尽きることなく生命の循環を維持する。

これは、伊邪那岐の魂の氣が、伊邪那美の肉体の中に降り、生命の活動を繰り広げる様子を象徴している。この絶え間ない活動を、肉体の中の魂の氣、または灵と呼ぶ。すべての生命の根源の形状を視覚化し理解すべきである。

生命の活動は、魂が体に宿ることで始まる。体はその独自の形成力を持っており、この中で魂と和合し、命を包み込むことで、生命の生成の基盤となる。「体の灵」と「魂の灵」が互いに深い結びつきを持つこの婚嫁(ミトノマグワイ)の過程は、生命の具現化の核心である。命とは、魂と体、この二つの灵が具現化したものであり、これらを示す言葉が生命としての形を持つ。肉体の灵と魂の灵が一つに結びつき、この婚嫁をすることで、肉体と魂が一体化する。この一体化された存在、つまり心は、生命の活動を司る声(こえ)として現れる。心と心の結びつきから生じるこの一体性こそが、吾が「生命」と称するものである。

天は生命の源であり、魂を送り、すべての存在に命を吹き込む。魂は自在に動き、和合し、肉体はその目的を果たすために存在する。これは、真の生命の意味であり、高次の靈性の表れである。生命の息吹を共有し、統一することは、魂と肉体が協働し、お互いの志(こころざし)を分かち合う行為を示している。だが、魂と肉体の和合においては不調和が生まれることもある。それは子供が親を欺くような状態を生む場合もある。しかし、心と心が真に一つとなる時、それは肉体を通じた真の生命、正義や忠誠、そして孝行の実現となる。ただし、形状や外見だけを重視し、内面や本質を見失うと、真の仁義や道徳を理解し、身につけるためには、内面的な深い洞察と理解、そしてその理解を行動に移す誠実さが求められる。言葉の真の意味や精神を理解せず、単に形式的な知識だけを持っている者は、実質的には文盲であるとも言えるのである。

心と心が繋がる瞬間、そこには真の生命の姿が現れる。この生命の響き、すなわち魂と肉体の音(こえ)は、体内に宿る魂が示す心の鼓動として存在する。この音(こえ)は、生命を動かす正しい源としての役割を果たす。この宇宙のすべての存在は、天之御中主神の純粋な心からの生命の泉を受けて創造される。全ての生物、物体、そして事象は、根源的には天之御中主神の心から生じるものであり、その本質においては、それぞれが同じ宇宙の息吹を持つ存在である。

つまり、この広大な宇宙の中のあらゆる生命は、天之御中主神の心から生まれているのである。肉体と魂が結びつくことにより、生命は真の姿を持つようになる。この認識は、すべての存在が始まりとして同じ源を持ち、最終的にはその一つの大いなる心に帰っていくという真理を示している。だからこそ、魂と肉体、心と心の結びつきは、生命の真の源としての役割を持つ。そして、この結びつきによって、人々の意志や心が一つになることは、真の生命の源を示す象徴なのである。


https://sasaki-aiki.com/article/?v=831&c=1 【【第831回】 フトマニ古事記・布斗麻邇御霊を更に理解するために】より

合気道は魂の学びであるから、魄の稽古から魂の稽古へ変わっていかなければならない。といって、魄の稽古が悪く、魂の稽古がいいということではない。大先生も言われているように、魄も大事であり、魄の肉体をしっかり鍛えなければならない。この魄が土台となり、魂が働くことが出来るようになるからである。

しかし、魄の稽古から魂の稽古にすぐに移れるわけではない。それはこれまで研究してきた通りである。魄の稽古、肉体主動で技をつかう稽古から、息で肉体をつかう息主動の稽古、気で肉体をつかう気主動の稽古と変わってきたわけである。

気を感得し、気を生み、気をつかうことが出来るきっかけとなったのはフトマニ古事記の布斗麻邇御霊である。恐らくフトマニ古事記の布斗麻邇御霊の理解なしに気を感得し、気を生み、気をつかうことは出来なかったと思うし、技の進展は望めなかっただろう。

大先生は、「以前、神通千変万化の技を生み出す、ということは真空の気と空の気を、性と技とに結び合ってくり入れながら、技の上に科学すると申し上げたことがあります。これは皇祖皇宗のご遺訓たるところのフトマニ古事記によって、技を生み出していかなければなりません。フトマニ古事記とは神代からの歴史であり宇宙建国の生命線であり、我が国はこれを憲法としている」(武産合気P77)、また、「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。」(合気神髄 P153)と教えておられる。

しかし、はじめは、フトマニ古事記とは何か、布斗麻邇御霊はどういうものなのかなど、よく分からないだろう。『武産合気』や『合気神髄』をいくら読んでも分からないと思う。それ故に恐らくほとんどの人はギブアップするだろう。

それでは、フトマニ古事記とは何か、布斗麻邇御霊はどういうものなのをどうすれば分かるようになるかということになる。

私の場合もどうすればいいのか全くわからない白紙の状態だったわけであるが、偶然、ある本『言霊と日本語』(今の真二著、ちくま新書)に出会い、フトマニ古事記と布斗麻邇御霊を知ったのである。そしてまた、大本教教祖の出口王仁三郎がそれを重視し、それに関しての書籍『大本言霊学』(出口王仁三郎著)を発行していることを知った。そこで『大本言霊学』とその基となる『言霊秘書―山口志道霊学全集』(八幡書店)を入手し、研究出来たわけである。

大先生は大本教でも過ごされたわけだから、この『大本言霊学』も学んでおられるはずだと思っていたが、その確証はなかった。

しかし、最近、『合気神髄』のある箇所を読んでいると、大先生は確かに『大本言霊学』からフトマニ古事記と布斗麻邇御霊を研究されている事が分かったのである。

『合気神髄』では、「合気道は、真の日本武道であります。それは地球修理固成に神習い布斗麻邇の御霊から割れ別れし水、火をいただいて、研修のすえ出生する魂の気を、人類のうちに現わしていく事であります。即ち合気道は“小戸の神業”をいただくのがもとであります。合気道は宇宙の大虚空の修理固成です。」(合気神髄P.64)とある。

これを『大本言霊学』では、

「ヽ、━、|、十、ノ、ヽ、二、フ、○、□等

此形は布斗麻邇御霊より割別たる水火すいかの形かたちなり。是をもて天地の気を知ることを得」とある。

大先生は合気道、武道の達人・名人ということで、肉体的な鍛錬は行ったおられたのは容易に想像できるが、読書での修行をされているのは想像しにくい。しかし、大先生は読書三昧にふける修業にも専念されていたのである。(写真)故に、『大本言霊学』も十分に研究されたはずである。

本題に返る。大先生の『武産合気』『合気神髄』でのフトマニ古事記と布斗麻邇御霊がよく分からなければ、大先生が研究されていたはずの『大本言霊学』を研究すればいいと考える。今になると分かるが、これなくしてフトマニ古事記と布斗麻邇御霊を更に理解することはできないと考える。


コズミックホリステック医療・現代靈氣

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