https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6413043/ 【椿】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/2594496/【黄泉平坂】
http://gototakaamanohara.livedoor.blog/archives/176301.html
【猨田毘古(さだひこ)の赫き眼や椿の実 高資】
https://blog.goo.ne.jp/mimiri87/e/0732c551562c2ae80749635a79fa6940 【秦氏と猿田彦と稲荷と八幡】より
秦氏(はたうじ)は九州北部の宇佐八幡神社がある地域を拠点にして山城(現在の京都)、さらには全国に広がっていきましたた。
松尾大社、伏見稲荷大社などを創建、氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でもっとも創建年代の古い神社で、秦氏の末裔はこれらの社家となりました。
猿田彦は秦氏が創設した伏見稲荷大社が主神の一つとしてしていいて、猿田彦命(佐田彦大神)、倉稲魂(ウカノミタマ:穀物神)神、
大宮女(オオミヤメ:職業神)命で明確な人格神は猿田彦だけでこれが秦氏の祖先神か民族神なことを示してます。
稲荷神社は秦氏最高の氏神で現在でも秦氏の荷田氏が祀っているそうです。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦であったことが分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があります。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与したとあり、山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされています。
日本書紀によると秦氏は、応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:『新撰姓氏録』では融通王)が朝鮮半島の百済より百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられています。
弓月君は、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国の「ヤマトゥ」から来たらしく、この「ヤマトゥ」の近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山があって、ハン(Khan)は族長の称号であり、テングリ(Tengri)は、天神を示すと言い、この山が「天狗」のルーツではないかと言われます。
応神天皇の283年の弓月君(融通王)の来日の前に応神天皇の父とされる仲哀天皇の199年に、 融通王の父である功満王(弓月の王)が日本を公式訪問したとされ(新撰姓氏録)、当時の中国は、後漢(25~220年)の時代だったと思われるが、後漢が弓月国あたりまで勢力を伸ばし、 後漢の弓月国への圧迫や万里の長城の苦役の強制があったと思われます。
そこで、弓月国の人々(秦氏)は、満州を経て朝鮮に逃げたらしいが、 朝鮮でも迫害を受けて、日本に来てやっと、日本の天皇に助けられたのだそうです。
また佐伯好郎は1908年1月、『地理歴史 百号』に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえました。
https://lunabura.exblog.jp/20232203/ 【徐福と弓月の君】より
竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた
本日の妄想
佐賀県には徐福伝説が深く根付いていて、上陸地の話や、当時ぬかるんでいた話など、
けっこう具体的な話が今でも話題になる。
福岡県でも筑紫野市の宮地岳、福岡市の名島など、枚挙にいとまがない。
秦の始皇帝から逃れた徐福は3000人の童男童女を連れて、日本に向かった。
生殖能力を重視したのだから、新たな国造りを意図した事がみてとれる。船の数だけでもたいそうな数だ。各船はばらばらに日本に到着したのだろう。
佐賀県の吉野ヶ里には中国の影響があると言われるが、徐福のもたらした文化を指すのではないかと思っている。ばらばらになった徐福の船団は長い時間をかけて互いの居住地を発見して、連絡を取り合うようになっていたと思われる。
徐福の死後、約400年。竹内宿禰が生まれた。父が武雄市で祀られている。母も同様。
母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。
竹内宿禰は佐賀生まれだろう。
基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。
竹内宿禰は和歌山県の紀の国の湊も利用していて、そこにも徐福伝説がある。
同じ「キ」の国なのだろうと思っている。
つまり竹内宿禰には徐福関係の血が流れているのではないか。それがずっと気になっている。
宗像市の織幡宮は「シキハム」様と呼ばれている。主祭神が竹内宿禰だから、彼の名が「シキハム」というのだろうか。まだ、確証はない。
しかし、神功皇后をそこまで連れて来て、近くのハツでハタ織りを指示していることから、
秦氏の関連性が見られる。竹内宿禰は神功皇后を旗頭にして新羅攻撃をした。それから、しばらくして、新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)
弓月の君はもちろん秦氏だ。一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。
この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。
後者が弓月の君とはいえないだろうか。王族とはいえ、王位争奪に負ければ命はない。
1~2万人を連れていたので、陸路でないと移動できなかった。ふと、そう思い付いて弓月の君についてwikipediaを調べた。
弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。
そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。
弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。
渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(wikipedia)
葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。
「弓月の君」=「秦人」であれば、妄想は結実する…。ということで、久し振りの妄想コーナーですぞ。
徐福は言った。「扶桑の国(日本)に先に渡って、平和な国を創っておきまする。
貴殿(弓月の君の祖)は陸路で人々を連れて東の果てに行ってください。必ず迎えに行きます。」「分かった。東の果ての湊で待とう。扶桑の国にて必ず会おうぞ。」
そう言うと、弓月の君の祖は海路で行く徐福を見送った。徐福は有明海から入って行き、ありなれ川の右岸に着いた。近くの倭人たちに技術をもたらしながら、倭人と通婚して溶け込んで行った。その一方で、弓月の君たちの居所を確認するために使者を何世代にもわたって中国に送り続けた。
それから数百年後。
佐賀で生まれた竹内宿禰は成長して、弓月の君からの連絡を知った。「ついに約束の時が来た」息子の襲津彦を呼び出すと、加羅に迎えに行くよう命じた。
今日は、こんな妄想が浮かんでしかたがない。取り敢えずメモしないと、次に進めない。という、るなさんでした。
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11964887319.html 【秦氏の王、弓月の君の出身地である弓月国をさがした】より
日本書記の第14代「仲哀ちゅうあい天皇」の第8年に,弓月ゆづき国の巧満こうまん王が,日本の朝廷を公式訪問し、養蚕の蚕の種を献上したとある。現在、4世紀後半に当たると見ているる。応神天皇14年に弓月の君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。
日本に渡って来た弓月の君が元々居住した弓月国の場所を探してみた。現在の新彊ウイグル自治区の中にグーグルマップで検索した。この国から東方に移動し、朝鮮半島の任那から日本に渡来した。弓月国についての記述は、中国史書、資治通鑑にのっているとか。
ラビ・M・トケイヤー氏によれば,その位置は,「現在のアラル海とアフガニスタンの間」と言う。正確には,現在の中国とカザフスタンの国境付近で,都自体は,現在の「中国」(中国新疆(シンチャン)ウイグル自治区)北西部の伊寧(いねい)にあった。古代の弓月城は厳密には東の霍城との間にあると言われるらしいが、現在地の弓月城の境内の形状が日本の神社の境内に良く似ている。
伊寧市、グルジャ市は、中央アジアの中央部のイリ地方の中心にある市。現在中華人民共和国が統治しており、新彊ウイグル自治区イリ・カザフ自治州に所属する県級市である。中国語での正式名称は伊寧市(イーニンし)。ウイグル語での名称はグルジャ。カザフ族やモンゴル族などの間でもグルジャと呼称されることがある。クルジャとも表記される。また、イリ地方の中心でもあるため、話し言葉でイリと呼称されることも多い。
参考
秦氏の男性遺伝子は中東からやってきた
弓月、すなわち三日月はユダヤ人の象徴であった。ちなみに、現在のイスラムの象徴は三日月と星である。三日月は発展を意味するとか。
秦氏、キリスト教徒説
秦氏の東方移動について
近くにナラ、ヤマトがあった
朝鮮半島の任那を経由して、日本に渡来
応神天皇(ホムタワケノミコト)とヘブライ語
資治通鑑【しじつがん】、中国の史書。宋の司馬光の編著。本文294巻。英宗の援助を得て,1066年―1084年に完成。前403年(戦国時代)から959年(五代末)の史実を編年体で記す。史料は正史のほか実録から小説まで322種の書を参考にしている。(参考)
参考: 弓月国の近くにヤマト、ナラの存在の示唆
渡来人のお土産
弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記された。
全国に15万とも20万あるとも言われる古墳であるが、ここから出土する土器は殆どが須恵器である。高坏、器台、装飾壺、あるいはそれらの複合土器であり、全国どこへ行っても同じような須恵器が古墳に副葬されている。どうしてここまでそっくりなんだと思える土器が、主に6-7世紀の西日本の古墳を中心に出土している。また昨年、「加羅・新羅の旅」と称して韓国南西部を旅した時に見た古墳の須恵器は、全く日本の古墳から出土したものと同じであった。(歴史倶楽部HP、「日本人の源流を求めて」のコーナー参照。)これらの事実は、「須恵器=渡来人=古墳築造=・・」という図式を思い浮かばせる。・・の部分は人により色々であろう。「製鉄」であったり「機織り」であったり、或いは「騎馬民族」「天皇」であるかもしれない。出土する須恵器のなかには、明らかに中央アジアの遊牧の民に源流をもつと思われる須恵器、皮袋形器や角杯形などがある。江上波夫博士が古墳築造の民を「騎馬民族」と想定したのもうなずける。(引用)
猿田彦も弓月国辺りからやって来た
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-11974175823.html 【猿田彦、天狗、天、あま、海人】より
猿田彦(サルタヒコ)は天津神(天孫)と国津神の間を取り持つ神で、鼻が長く、天狗サルのような顔であった。古事記および日本書紀の天孫降臨に登場する。古事記では猿田毘古神・猿田毘古大神・猿田毘古之男神、日本書紀では猿田彦命と書く。猿田彦命が筑紫の日向の高千穂の峯に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を御案内した。
天狗のような顔をして新羅から渡来した猿田彦はインドの天部の神の恵比寿天と習合した。恵比寿天は出雲の国譲りに出て来る事代主命で、大国主命の養子であり、命の代理で天孫と交渉した。各地の神社に祭られている道祖神として目につく、さらに事代主命は武内宿爾(安曇磯良、蘇我氏の祖)でもある。
(wikiより)
参考
日本における初出は『日本書紀』舒明天皇9年2月(637年)、都の空を巨大な星が雷のような轟音を立てて東から西へ流れた。人々はその音の正体について「流星の音だ」「地雷だ」などといった。そのとき唐から帰国した学僧の旻が言った。「流星ではない。これは天狗である。天狗の吠える声が雷に似ているだけだ」と!飛鳥時代の日本書紀に流星として登場した天狗だったが、その後は文書の上で流星を天狗と呼ぶ記録は無く、結局中国の天狗観は日本に根付かなかった。そして舒明天皇の時代から平安時代中期の長きにわたり、天狗の文字はいかなる書物にも登場してこない。平安時代に再び登場した天狗は妖怪と化し、語られるようになる(wikiより)。すなわち、天狗は中国以外の概念が伝わった。
秦氏の渡来は、日本書紀によれば、応神天皇の283年に弓月君が百済から127県の1万8670人を連れて来たという。弓月君の名前は新撰姓氏録では融通王と呼ばれ、天山山脈の北にあるバルハシ湖に流れるイル川の上流にあった弓月国から来た。この近くに「ハン・テングリ(Khan Tengri)山」という山がある。この山が「天狗」のルーツではないかと云われ、ハン(Khan)は族長の称号であり、テングリ(Tengri)は天神と言われる(参考)。キルギス語: Kan Tengir、ウイグル語: Khan Tengri(天の王)、中国語: 汗騰格里峰、カザフ語: Kan Tau(血の山)という(wikiより)。
ハン・テングリ山は、中国新疆ウイグル自治区西端に位置する天山山脈第2の高峰で,カザフスタン、キルギスとの国境にある。標高6995m,漢字では汗騰格里峰。1931年ウクライナ隊が初登頂,南西方のポベダ峰(7439m,中国名は勝利峰)が発見されるまでは,天山山脈中の最高峰とされていた(コトバンクより)。
モンゴル族の至上神テングリtengriは同時に天空を意味し,今日においてもアルタイ系民族,アジア極北民族,フィン・ウゴル語族系諸族の多くは,天空と至上神とを同じ言葉であらわしている(コトバンクより)。
テングリ教は古代宗教であり、とりわけフン族やモンゴル人を始めとする中央アジアの人々と深い関係がある。テングリ教は、天上神テングリと大地の女神エイエに対する信仰を基本としている。しかし、聖職者などはおらず、他者に布教するようなこともないため、はっきりとした教義を持たないことで知られる。テングリ教の信徒は周囲の環境と調和することに重点を置き、地上の資源を神聖なものであると考えている。特に水は、テングリ教の信徒が多くいた中央アジア大草原では貴重であったこともあり、より神聖視された。テングリ教の信徒は現在もアジアの一部にいると考えられているが、その正確な人数は分かっていない(参考)。
天狗は日本で山の神で、日本には仏教が伝わる前から山岳信仰があり、天狗のその姿は山伏によく似ている。また、山伏の姿はユダヤ教徒の姿ともよく似ている。天狗は秦氏の弓月国あたりの中央アジアの言葉でも山の神を意味する。九州の求菩提山(くぼてやま)と京都の愛宕山(あたごやま)が天狗で有名である(参考)。
弓月国を見つけた
弓月国の東にナラ、ヤマトを見つけた
猿田彦神社
あま、あめ(天) [ama、ame]
「あま[ama]」が「あめ」の古い形。[a]のいる絶対の場[ma]。タミル語<amar>、サンスクリット語<amara>に起源。サンスクリット語からタミル語に入ったと考えられる。人間の住む世界の上にある神の世界のこと。「そら(空)」が何もないことを意味するのに対している。この意味で「あめ(あま)」の対語は「くに」である。「あめ(あま)」が「空」の意味を強めるにつれ、「つち(地)」の対語と考えられるようになる(参考)。
あま(海人)
古文献に海人、海部、蜑、白水郎などと記す。海を主なる生業の舞台とし、河川、湖沼で素潜(すもぐ)りする漁民をはじめ、釣漁、網漁、塩焼き、水上輸送・航海にたずさわる人々を、今日いう男あま(海士)、女あま(海女)の区別なく〈あま〉と総称する。
[系統と分布]
日本民族の形成過程のなかで、かなり明瞭にあとづけられるのは南方系であり、インドチャイニーズ系とインドネシア系に大別されよう。前者は、古典にみえる阿曇(あずみ)系およびその傍系である住吉系漁労民で、中国南部の閩越(びんえつ)地方の漂海民の系統をひき、東シナ海を北上し、山東半島から遼東半島、さらに朝鮮半島西海岸を南下し、多島海ら済州島方面を経て玄海灘に達する経路をたどったと推定される(コトバンクより)。宗像系漁労民はインドネシアから台湾、南九州の隼人族を経て宗像を根拠地とした(参考)。
事勝国勝長狭
https://lunabura.exblog.jp/14036654/ 【馬見神社(3)】より
系図から見えて来たこと
ホを受け継ぐ一族がいた
馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた_c0222861_1359693.jpg
このエリアには父と子が配置されている
この馬見山は英彦山とセットで捉えてお話しています。
英彦山に降臨したのが天の忍穂耳の命で、馬見山に降臨したのがニニギノ命です。
二人は、父と子です。いわゆる天孫。天皇家の祖先です。
このファミリーにはもう一つ大事な人がいます。ニニギノ命のお兄さんのニギハヤヒの命です。
ニギハヤヒの降臨地としては大和の国が有名ですが、このエリアにもまた降臨した山が伝えられていました。
ここからは、ずっとずっと下流になります。
この三柱のファミリーをそれぞれの山に配置した氏族がこの遠賀川流域にいたという事です。
彼らの神々は「ホ」という単語でつながっていました。
それが次の系図です。
天照大御神には五人の男の子がいて、そのうちの二人にホがついています。
それから孫、ひ孫の世代はホの○○という形です。漢字ではこう表記されています。
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
天の菩卑能命
天火明命
天邇岐志国邇岐志天津日高日子番の邇邇藝命
火照命
火須勢理命
火遠理命(天津日高彦穂穂手見命)
「穂・火・番・菩」はどれもホと読みます。
地名もこの辺りは穂波、嘉穂と、筑穂がつくものがいくつもあります。
高千穂も穂がつきます。
豊葦原の瑞穂の国。(ここは豊の国)
昔は漢字がなかったので、発音がたよりでした。
このファミリーはホの血筋である事が分かるようにネーミングしています。
彼らは、いわゆる天孫ですが、これまでの固定観念を捨てるために、この一族を
ホの一族と呼んでみたいと思います。
結婚の系図
結婚の系図を見ると、ホの一族がどうやって、他部族と融合して行ったかが見えて来ました。
次の系図はアマテラスの子供、孫、ひ孫の結婚の図です。
高木神の一族と結ぶ
ホの一族はまず高木の神の一族と婚姻関係を結びます。
この高木の一族はアンドロメダをシンボルとする人たちでした。
その事は高良大社の所に書いていますが、かれらは、歳差運動のために、
観測地点がずれてきたために、移動したのではないかと、推測しましたが、
神社誌を見ていたら、この嘉穂盆地にたくさんの高木神社が出て来ました。
すると、高木の一族はこのエリアにかつて居たのではないかと考えました。
久留米から嘉穂に来たのか、嘉穂から久留米に行ったのかは分かりませんが、
私の仮説を裏付ける可能性があります。
高木神社については英彦山とも関わるので、詳しくはそちらで検討したいと思います。
いずれにしろ、高木の神の一族の近くに、ホの一族がやってきて、
高木の王女と結婚する事で、平和裏に同族となったのではないかと考えました。
大山津見の一族と結ぶ
上の系図の第二世代を見て下さい。
ホのニニギの命は大山津見の神の王女と結婚する事で、大山津見の一族と結びつきました。
海人族の一族と結ぶ
それから、また次の世代になって、大綿津見の神の王女たち、豊玉姫や玉依姫と結婚する事で、
海人族たちと結びついて行くのが、この系図で読み取れます。
ホの一族が日本にやって来た時には、すでにいろんな国があったのでしょう。
そこで、彼らは武力を使わずに、結婚によって融合していく方法を取ったのがよく分かります。
それぞれの国には土器・武器・船・馬の飼育など、優れた文化があります。
それらは技術者たちで支えられているので、戦争ではその技術を手に入れる事が出来ません。
そこで、結んで行く事で互いの文化を交流させて行ったと考えました。
どの国とも親戚となることで、単一民族の意識が養われていったのではないでしょうか。
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