三井楽(みみらくのしま)・西方浄土

https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kurashi-kankyo/shizenkankyo-doshokubutsu/geopark/567499.html 【五島列島(下五島エリア)ジオパーク】より

2.鐙瀬溶岩海岸[1] →  https://www.orc-air.co.jp/trip/goto/trip-07  【鎧瀬溶岩海岸

(アブンゼヨウガンカイガン)】

「五島列島(下五島エリア)ジオパーク」は、2022年1月に認定された日本ジオパークです。

 日本最西端のジオパークである五島列島(下五島エリア)は、日本列島と大陸の間に位置しており、四方を海に囲まれた島々です。

 五島列島の大地は、約2200~1700万年前に大陸の砂と泥が川や湖で堆積した五島層群と呼ばれる地層が基となっており、その後、火山の噴火によって火山台地が形成されました。

 地質、地形、立地などから、多様な生態系、多種の魚に恵まれています。また、大陸と近いことから、大陸と関連する歴史(遣唐使、倭寇、潜伏キリシタンなど)や文化が数多く存在しています。 

 このようなつながりこそ、五島列島の魅力です。

 ジオパークでは、見どころとなる場所をサイトと呼び、保全の取り組みをしながら、教育・観光などで活用しています。

サイトは、大きく3種類に分けられ、地質や地形の見どころを「ジオサイト(地質・地形サイト)」、生態系の見どころを「自然サイト」、歴史・文化の見どころを「文化サイト」としています。

現在(2022年4月時点)、67箇所がサイトとして選定されており、その中から主なものを紹介します。

五島列島(下五島エリア)の主なサイト

(1)ジオサイト(地質・地形サイト) ●鬼岳

 1.鬼岳[1]

 五島のシンボルである鬼岳は、約1万8千年前に噴火した火山。名前とは裏腹に、芝生に覆われたその優しい姿は、市民の憩いの場所になっています。景観や生態系保護のため、3年に1度野焼きが行われ、その様子はまさに噴火の再現のようです。

 ●鐙瀬溶岩海岸

2.鐙瀬溶岩海岸[1]

 鬼岳や火ノ岳から流れてきた溶岩からなり、黒々でゴツゴツした岩の海岸が7kmにわたり続いています。福江島の中で最も南に位置し、南方系の植物も多く分布することもあり、黒い溶岩とあいまってまるで「ハワイ」のような景観です。 鐙瀬ビジターセンターや展望台、遊歩道などがあり、美しい風景を楽しめる場所です。

 ●大瀬崎(玉之浦の大断崖)

3.大瀬崎[1]

 福江島の最も西に位置し、東シナ海に突き出た大瀬崎では、高さ100mになる「五島層群」の大断崖が見られます。このダイナミックな断崖やその上に立つ灯台は観光スポットとしても有名です。また、大陸を目指すハチクマなどの渡り鳥や大陸系の希少な植物シマシャジンが観察できます。

 ●舅ヶ島千畳敷(奈留島)

4.舅ヶ島千畳敷[1]

 平坦な台地が広がる舅ヶ島千畳敷は、畳千枚分の広さがあるとの例えから千畳敷と呼ばれています。千畳敷の先にある小島はマグマが固まった硬い岩石でできており、この小島が荒波から守る盾となっているため、侵食を免れ平坦な台地を残しています。

 この場所が大陸の湖や川の岸辺だったころ、サイが水を飲みにやってきていたようで、サイの足跡と思われるくぼみが複数残っています。

(2)自然サイト

 ●八朔鼻の海岸植物

 5.八朔鼻[1]

 八朔鼻は、火山噴火で流れた溶岩により形成された溶岩の上に砂や礫、泥が堆積した浜や干潟が広がる場所です。この八朔鼻には、狭い範囲ながら、長崎県で見ることができる海岸植物の約3分の1が生息していて、大変貴重です。そのため、住民による外来植物の駆除や漂着ゴミの回収が行われています。

(3)文化サイト

 ●石田城(福江城)跡

6.福江城[1]

 江戸時代末期、黒船来航を機に日本の最前線での外国船警備を目的に「海城」として築城されました。石田城の石垣は、鬼岳火山群から流れた溶岩(玄武岩)で、硬くて丈夫であるという特徴があります。

 ●円畑(まるはた)

7.円畑(富江)[1]

 まわりを石垣で囲んだ円状の畑は「円畑(まるはた)」と呼ばれています。農業が機械化される前、牛を使って同心円状に耕していたことから円状になったと言われています。円畑は、平坦な溶岩台地が広がる福江島北部の三井楽地区、南部の富江地区に多く残り、火山地域の伝統的な景観です。

サイトマップ

五島列島サイトマップ

 五島列島(下五島エリア)ジオパーク サイトマップ(2022年版)です。

(※クリックすると、拡大されたサイトマップをご覧になれます。)


https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/282030 【三井楽(みみらくのしま)】より

みいらく(みみらくのしま)海浜 / 九州 長崎県 長崎県五島市 指定年月日:20141006

管理団体名:五島市(平28・2・3) 史跡名勝天然記念物

解説

五島列島の福(ふく)江島(えじま)の北西端から東シナ海へと突き出た三井楽半島には,新生代新成紀(第三紀)の終末期頃に楯状(たてじょう)火山の京(きょう)ノ(の)岳(たけ)(標高182m)から噴出した溶岩流が放射状に広がり,緩やかな傾斜面から成る円形の溶岩台地を形成している。

特に,台地の縁辺部には樹木の叢生(そうせい)しない平明な草地が広がり,波打ち際に沿って大小多様な固い黒褐色の玄武岩質(げんぶがんしつ)の溶岩(ようがん)礫(れき)が露出するなど,風光明媚な海浜及び海域の風致景観が展開する。かつて草地では牛馬の放牧が行われ,牧場(まきば)としての管理が行われていたが,現在では海岸砂丘の周辺に落葉低木及び海浜性草本などが散在している。

三井楽の地は,遣唐使が派遣された時代には日本の西のさいはてにあたり,東シナ海を横断する直前の最終寄港地として利用されてきた場所である。『肥前(ひぜんの)国(くに)風土記(ふどき)』には「美禰(みね)良(ら)久(く)之(の)埼(さき)」と記し,遣唐使船に飲料用水を供給した井戸との伝承を持つ「ふぜん河(がわ)」などのゆかりの場所が残されている。10世紀の『蜻蛉(かげろう)日記(にっき)』では「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として紹介され,後代には異国との境界にある島又は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となった。その風致景観が持つ観賞上の価値及び学術上の価値は高い。


http://vzp04542.la.coocan.jp/earth/volcano/fukue/fukue03/fukue03.htm 【三井楽火山   ~アイスランド型楯状火山の日本代表~】より

三井楽楯状火山

嵯峨島から貝津に帰る連絡船から見た三井楽楯状火山。緩やかな裾野が印象的。

1.三井楽火山の地形

山岳景観ソフト「カシミール」で作成。国土地理院5万分の1地形図、50mメッシュデータを使用。

三井楽(みいらく)火山の地形

 嵯峨島から戻った午後、三井楽火山を廻ってみました。

 福江島の火山の中では溶岩年代が30万年前と比較的古い火山ですが、強固な玄武岩で当初の地形を良好に残しています。

 中心の京ノ岳(標高183m)を中心とした楯状火山。

 日本には本当の意味での楯状火山はほとんど存在しません。

 いわゆる地理の教科書(地学ではない)にいまだに登場する「アスピーテ」は、日本各地に結構存在しますが、正しい意味での楯状火山、すなわち流動性の高い玄武岩質溶岩の噴出による火山を指しているものはほとんどありません。部分的に平坦な溶岩地形を指しているものがほとんどです。

 楯状火山は大きくは二つに分類されています。

 ひとつはハワイ型楯状火山。ハワイ島のマウナロア火山を代表とする、リフトゾーン(割れ目噴火)からの度重なる噴火を重ねた巨大楯状火山。

 もうひとつはアイスランドに見られる、比較的短期間に噴出した単成の小型楯状火山をアイスランド型楯状火山と呼びます。

アイスランド型楯状火山の日本代表

 三井楽火山はアイスランド型の小型楯状火山、すなわち比較的短期間に噴出した小型の単成火山の特徴を満たしている、数少ない日本の火山のひとつといえます。 ・・・というより、日本にこれほど均整のとれた楯状火山を他に知りません。

アイスランドの楯状火山

 アイスランドの楯状火山の中でも最大級のひとつ、中央高地北部にあるTrolladyngja。基底からの比高は約500mで三井楽火山よりもスケールが大きいですが、山容はよく似ています。

 (1997.8 Nikon F2 28mm/2.8 ベルビア)

2.三井楽の風景

カモメ(ウミネコ?)が休んでいます。

高崎鼻

 西の貝津港から半島を横断して一度東側に抜け、半島の海岸にそって西に回ってみました。

 三井楽火山の溶岩流が厚いところは海岸線も脹らんで「鼻」という地名がつけられています。

 三井楽ではめずらしい白砂の海岸にウミネコが集団で休んでいたのは、島の北東部の高崎鼻の近くの海岸。

 白砂の供給源は当然、玄武岩質の三井楽ではなく、おそらく半島の付け根に注ぎ込む川から、福江島内部の砂が供給されて回り込んできたのかもしれません。

 

北端の柏崎。遣唐使の旅立ちの場所。

柏崎

 三井楽の北端が柏崎。

 遣唐使の時代、空海もこの海岸から中国(当時の唐)の揚子江方面を目指して旅立っていったといわれる場所です(凄いことです)。

 二度と戻れない覚悟で旅立つ最後の日本の地。

 空海による(日本のさいはての地よ、さようなら)を意味する「辞本涯(じほんがい)」の碑が建てられています。

 三角の島は北に浮かぶ「姫島」。

玄武岩質溶岩が三井楽を守る。

柏崎の溶岩

 上の「辞本涯」の碑のすぐ近くの玄武岩質の溶岩。

 この溶岩は強固なので、遣唐使が旅立った頃と今では、このあたりの風景はそれほど変わっていないのかもしれません。

嵯峨島を望む長崎鼻灯台。

長崎鼻

 西海岸の長崎鼻からは嵯峨島がすぐ近くに見えます。

 珍しい四角柱の建物は「長崎鼻灯台」。

 冬型の天気は相変わらず。黒雲の間から後光が差します。

島は道も狭く、スピードも出さず、軽自動車が最適。

長崎鼻からの京ノ岳

 ふりかえると、なだらかな三井楽楯状火山が見えます。

 京ノ岳にはこの後行ってみましたが、山頂付近は航空自衛隊の基地が占拠していて、山頂からの眺めを一般市民が見ることはできません。また山頂部まで高い木が生い茂っており、展望の利くところが少なく残念でした。

 山頂の丸いポッチはレーダーサイト。

 写真のクルマは福江港すぐそばの「チャンスレンタカー」さんで借りた軽自動車。地元の素朴なレンタカー屋さんは安くて親切です。

3.白ヶ浜万葉公園からのパノラマ

 京ノ岳を越えて、再び東側の付け根に戻ってきました。

楯状火山に接する南側高台の「白ヶ浜万葉公園」から三井楽火山をパノラマ撮影してみました。

(5枚の画像を合成。写真をクリックすると大きな画像になります)

クリックすると大きな画像

楯状火山の山麓は集落も作りやすく、住みやすい場所といえます。中央の京ノ岳から緩やかに裾野が広がる。

左(西)側に嵯峨島、中央やや右に姫島が顔を出す。中央下、やや右の建物が道の駅「遣唐使ふるさと館」。

4.高浜海岸

夕刻の海岸

日本有数の白砂海岸

 日も傾き、荒川温泉に戻ります。

 貝津過ぎてまもなく、美しい海岸で知られる高浜海岸を見下ろす高台に寄り道して写真撮影。

 正月二日の夕刻、ほとんど人の気配はありません。

 ふと、通りかかったジョギング中の地元の方が声をかけてくれました。

大変楽しい時間をありがとうございます

海岸からの贈り物

 横浜から来ましたなどと話していると、「家に遊びに来なさい」と誘ってくれました。遠慮なく貝津のお宅までおじゃまさせていただきました。

 この北川さん、高浜海岸で散歩やジョギング中、海岸に打ち寄せる小さな貝殻を集めて板に貼り付ける絵画、いや貝画を作られています。

 手前のケースの中には色毎に分類された気の遠くなるような数の貝殻。左下のピンク色はさくら貝。

 手にされているのは嵯峨島に沈む夕日ですね。

 見ず知らずの私たちにその中の一枚を下さるとのこと、ただただ感謝の気持ちで頂いてきました。帰ってから部屋に飾って楽しんでいます。自作のバラモン凧なども見せていただき、本当にありがとうございました。

 お話の中で気になったのは、以前はよく見た貝殻が最近あまり見られなくなってきたこと、海の異変が心配とのことでした・・・。

4.荒川温泉

荒川温泉地区。右下が郵便局。

日本最西端の温泉

 三井楽火山西側南端にある貝津地区を過ぎると、いわゆる普通の、入り江に富んだ日本の海岸線の風景(?)に変わります。

 

 火山を抱えた島ですが、温泉は西海岸の荒川温泉以外は、最近開発されたものが多いようです。 

 荒川温泉は大正時代に地元の子供が発見し、その後発展したといわれる古い温泉街。道に面したところにある共同浴場と豆谷(まめや)旅館さんが有名ですが、今回は二晩とも少し奥の「竹の屋旅館」さんに宿泊。

 小さい頃を思い出す懐かしい家並と、昭和を感じさせる気持ちの休まるところです。

 温泉は無色透明ですが、ほのかな硫黄の香りのする、実に気持ちのよいお湯した。竹ノ家さん、元旦からお世話になりました。

昭和40年代を思い出す風景。

入り江の風景

 荒川温泉は複雑な入り江に囲まれた玉之浦町にあります。

 かつては捕鯨でも賑わった町。古き良き漁村の風景が入り江の中にあります。

 

 福江島の中を移動していて感じるのは、玄武岩地帯の開放的な風景と、入り江に囲まれた風景が突然入れ替わる不思議さです。

 上の写真と谷の反対側から撮影。


https://www.shizensou.net/essay/stroll/series-sakai-09.html【第9回 死者に会える島】より   民俗学者・酒井卯作                        

 少し悲しい話をしよう。長崎県五島列島に三井楽(みいらく)というところがある。ここは平安朝の昔から死者に会えると伝えられたところです。下五島の福江市から、さらに西の果てにある三井楽の向うは、茫漠として東支那海が広がっていて、かつて遣唐使がここで船待ちしたと伝えられたところです。

 この三井楽を有名にしたのは、11世紀の「かげろふ日記」(上巻)です。この作者の母親が亡くなったとき、念仏僧たちがこんな話をしていました。「どこかにみみらくというところがあって、そこに行けば死者に会うことができるそうだ。ただ、近くにその姿が見えるので、近づこうとすると消えてしまう。遠ざかるとまた現れる。そんな不思議なところだそうだ」。それを聞いた作者の兄が

    いづことか音にのみきくみみらくの  しまがくれにし人をたづねん

という一首を残しています。これは幻でも良いから、噂に聞くみみらくという島まで行って、亡き人に会ってみたいというものです。みみらくの島はよほど有名だったとみえて、その後12世紀になって、藤原俊頼の「散木奇歌集」という本にも、「みみらくがわが日の本の島ならば、今日も御影にあはましものを」という歌が残されています。おそらく死者の魂の行く世界は、海の向うだったのかもしれないという、仏教以前の日本人の信仰がそこにあったと私は考えています。

長崎県五島列島の三井楽の墓。ここにはいろいろの人の死がある。

 三井楽の岬に立って沖を見ていると、なるほど水平線の向うに漂うものが、死者の幻なのか、カモメの舞なのか見間紛うほどに不思議を感じさせるのが、この三井楽の岬です。この岬には、迫害からのがれて来て、悲劇の生涯を終えたキリシタンたちの墓が、荒波を背にして立っているのも印象的です。

 死者の面影を追い求めてくる人たち、世をのがれて寂しく眠る人たち、そのいろいろの人生が眠る感情の姥捨の海を思わせますが、かつて作家の三好達治は「海よ、僕らが使ふ文字では、お前の中に母がゐる」といいました。たしかに広さと深さで人々の心を包む海は、亡き人の憩い場所としては、いちばんふさわしいところかもしれません。

 ごらんのように、かつての私たちの社会は、老いて果てた人たちに寄せる思いにも優しさがありました。今ではどうです。老人たちは、生きているときはホームに追いやっておいて、死んで墓に眠ってから、盆になると叩き起こして家につれて来て、やれ食え、やれ飲めだって。冗談じゃない。私だったら化けて出てやる。

再生 第73号(2009.6)

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酒井 卯作(さかい・うさく)1925年、長崎県西彼杵郡西海町生まれ。

本会理事。民俗学者。

著書

南島旅行見聞記 柳田 国男【著】 酒井 卯作【編】 森話社 2009年11月

琉球列島における死霊祭祀の構造  酒井 卯作 第一書房 1987年10月

稲の祭と田の神さま 酒井卯作 戎光祥出版 2004年2月


https://tabi-mag.jp/ns0278/ 【尼御前公園】より

長崎県五島市三井楽町、波砂間(はさま)地区と浜窄(はまさこ)地区の境界の海岸にあるのが尼御前公園。五島でも訪れる人の少ない公園で、遣唐使船も立ち寄った三井楽から、貿易目的で唐に渡ろうとした船が沈没し、夫の死を嘆いた尼御前が命を絶ったとも伝えられ、尼御前の墓が残されています。

「西方浄土の島」に暮らした尼御前の悲話

尼御前公園

尼御前の墓と伝わる石塔

尼御前の話は、伝承の域を出ませんが、尼御前の墓には旧暦10日を命日に、波砂間の婦人たちが香花を供えてお参りしていることから、かつて高貴な人が暮らしていたことはよくわかります。

平安時代の後期、大宰府権師・源経信の子・源俊頼は、『散木奇歌集』(さんぼくきかしゅう=自撰家集、10巻、 1622首)で「尼上うせ給いて後みみらくの島のことを思いてよめる」と前書し、「みみらくの我日本(わがひのもと)の島ならば、けふも御影(みかげ)にあはましものを」という歌を記していますが、「尼上」が祀られる尼御前ではないかと推測する人も。

同じ平安時代の藤原道綱母の『蜻蛉日記』(かげろうにっき)には、「亡き人に逢える島―みみらくのしま―」として三井楽は紹介され、後に福江島は死者に逢える西方浄土の島として広く歌枕となっているので、東シナ海に散った亡き夫に会うために、高貴な女性がこの地で暮らしたのかも知れません。

尼御前公園の南側には浜窄港があるので、それを目印にアプローチを。

尼御前公園の背後にそびえる航空自衛隊福江島分屯基地のレーダーが見えるピークは、盾状火山の京ノ岳で、福江火山群のひとつ。

三井楽半島の海岸線は、この京ノ岳の溶岩流で形成され、京ノ岳も活火山ということに


https://moriheiku.exblog.jp/11938506/ 【中世芸能の発生 190 他界 浄土】より

昔の日本人が、海のかなたに他界があり、山に他界があり、地下に他界があり、天上に他界があると思っていた。

浦島太郎は、海のかなたの常世(とこよ)、不老不死の楽土へ行った。

今も墓地とそれを管理する寺が多く山の上にある。

海の他界観は山の他界観に先行してあったと思われ、山の他界観と並んで存在していたけれども、海の他界観は比較的早く忘れられた。

海のかなたの常世は、仏教が入って後は、南方の補陀落浄土、菩薩浄土ということになって、

補陀落浄土に入ることを願って入水、捨身する行、あるいは葬送の形式としての補陀落渡海が行われた。

平家物語の、二位の尼が幼い安徳天皇を抱き、「波の下にも都のさぶろふぞ(波の下にも都がございます)」と壇ノ浦で波に沈んだのも、平維盛が那智の沖で入水したのも、海の楽土、菩薩の浄土をみていた。

古代から日本人は個の霊魂という概念を持っていたようだ。

平地に住む人々にとって、亡くなった先祖の魂は、死んだらあの山にいって山の一部になってわれわれを見守り、恵みをもたらす存在になると考えられて、集落の背になる小高い丘や山の斜面に、よく墓地や聖地跡を見かける。

そうした山は、水源と重なっていることも多い。山の上の平地は、神や霊の鎮まる場所と考えられたようだ。山の姿に神々しさを感じることがある。

山上の平地である「高間原(たかまのはら)」は、神話では神々の集まる “神々のパンテオン” 「高天原(たかまがはら)」となって、山中他界観は天上他界にも重なった。

宮崎や奈良葛城などの高天原の名を持つ土地は、こうした背景があるかと思う。

山の上の、山中の平地が古い霊場になっていることがある。

高野山、恐山、立山などはその規模の大きなものだけれども、それは山中の他界観からきており、山中他界は、仏教が重ねられてからは、地獄でもあり浄土でもある場所となった。

前に行った天野などもそうした場所かと想像する。

仏典(※)に、極楽浄土は西方十万億土、西に十万億土のかなたにあるとあるけれど(※※)、

※西方浄土三部経 : 阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経

※※西方浄土

それでも古い絵画、文学や芸能に見られるように、ほとんどの日本人は、仏教の浄土を、山や海の他界観に重ねて見ていて、五来重さんが書かれているように、それまで持っていた他界観と離れては、仏教の浄土も地獄も感じられなかった。

神道は、古来の民俗信仰を体系立て、系譜化したものと思う。

古来の実感的民俗の上に、似た思想を幾重にも重ねて、新しい思想を取りいれてきた。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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