鯨に関わる伝説

https://gotofan.net/simogoto/fukuejima/fukue-045/ 【五島列島 福江島のクジラ 捕鯨の跡地を訪ねて】

https://gotofan.net/kamigoto/nakadorijima/nakadori-01/ 【五島列島 福江島のクジラ 捕鯨の跡地を訪ねて】

https://www.catv296.ne.jp/~whale/33kujira-densetu4.html 【長崎『西海の鯨伝説・民話』】

https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12551856928.html  【「いざなき・いざなみ」(神名)の語源】より

「ゆささねなき・ゆささねなみ(揺さ種(核)な男・揺さ種(核)な女)」。「ゆ」は「い」に交替しました。「ゆさ(揺さ)」は動き出す動態を表現します。静止している構成が緩み(揺れ)、動き出します。発動です。「さね(種・核)」は動き・発動の根(ね・もと)を意味します。「な」は何かを認了します。「き」「み」はそれぞれ男・女を意味します。古代には男を「き」、女を「み」とする表現がありました→「おきな(翁)」「おみな(嫗)」→「き(男)」「み(女)」の項。「ゆささね(揺さ種(核))」は発動している根、発動の根(もと)、です。その発動している発動の根(もと)なる「男」と「女」が「いざなき・いざなみ」。この「いざ」は人の気持ちを湧き立たせ誘ったりする、「いざ鎌倉」などの、「いざ」と解され、相手を誘(いざな)って結婚してことによる名、などとも言われますが、この二神による後の「島生み」は男と女による生命の誕生によって現(あらは)されてをり、男と女が『いざ』『いざ』とそうしたことへ相手を誘うか疑問です(つまり、男と女がお互いに『いざ』『いざ』と言って性的関係へ入ったり結婚したりするか、ということです)。

これは神名です。表記は『古事記』では「伊邪邦岐命(いざなきのみこと)・伊邪邦美命(いざなみのみこと)」『日本書紀』では「伊奘諾尊・伊奘冉尊」。『日本書紀』の表記は漢字の古い音に由来するもの。『古事記』によれば、「天(あま)つ神(かみ)」(下記※)がこの二神に「諸(もろもろ)の命(みこと)」もち「この漂(ただよ)へる国(くに)を修(を)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ(修理固成是多陀用弊流之国)」(これは一般に行われている読み)と詔(の)り、「ことよせ(言依せ・事依せ)」、その後、「天(あま)つ神(かみ)」から賜(たまは)った天(あめ)の沼矛(ぬほこ)を「ここををろろ」に畫(か)き鳴(な)して引き上げ塩がしたたり落ち島(「おのごろじま」)となり、その島で「国生み」が起こります。この「天(あま)つ神(かみ)」の詔(の)りは、壊(こわ)れているものをしっかりさせろ、とも聞こえますが、漢文の部分は、理(リ)を修(をさ)め、固(コ)に成せ(しっかりさせろ)、と言っています。つまり、この部分は「この漂(ただよ)へる国(くに)を理(ことわり)を修(をさ)め固(かた)め成(な)せ」とも読めます(「理」には「つくる(作る)」という意味はありません)。つまり、知的に完成させろ、「こと(言・事)」を完成させろ、ということです。そしてすべての発動源たる「いざなき・いざなみ」により「島生み」が起こります。

※ 「天(あま)つ神(かみ)」とは、「天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」・「高御産巣日神(たかみむすひのかみ)」・「神産巣日神(かみむすひのかみ)」・「宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)」・「天之常立神(あめのとこたちのかみ)」です。


「ゆさ」は地震を連想します。


https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12551301564.html 【「いさな(鯨)」・「いさなとり(枕詞)」の語源】より

◎「いさな(鯨)」の語源

「ゆせあな(湯背穴)」。「ゆ」は「い」に交替しました。湯を吹く背の穴のあるもの、の意。この生物にある外鼻孔排気の印象です。いわゆる(鯨の)「潮吹き」。これは湯気が立っているようにみえます。海に棲息する動物の一種の名。「くぢら(鯨)」 (歴史的表記には「くじら(鯨)」もあります。どちらかと言えば「ぢ」の方が正確だと思います)の古名・別名。様々な種類の「くぢら(鯨)」がいます。

◎「いさなとり(枕詞)」の語源

「いさ」は『さぁ...』と言葉を濁らせているものであり、これは不知(知らぬふりも含め)や迷いなどを表現します→「いさ(不知)」の項(11月24日)。「なとり」は「な取り」であり、「な言ひ」(言ってはなりませんよ)のような、取るな、という禁止表現(→「な(助・副)」の項)。これは「な・動詞連用形」で柔らかな禁止を表現します。たとえば「な触れ」(触れてはいけませんよ)。これに「そ」がついて「な触れそ」と言ったりもします。「いさなとり(枕詞)→『いさ…』な取り」は、さぁ...、よくわからない、というような不知や明瞭に判断できない態度はとるな、の意。不覚を取るな、のような意。これは枕詞ですが、「海、浜、灘(海の難所)」といった海に関係したことにかかります。海は危険だからです。また、これは「いさな」すなわち「くぢら(鯨)」を取るという勇猛なことをする二重意にもなっているのでしょう。

「いさなとり海の濱藻(はまも)の寄る時時(ときとき)を」(『日本書紀』68:これは、ずっとあなたと一緒にいられるわけではない、稀(まれ)にいらっしゃるその時を逃(のが)したら会えない、というような歌)。


https://www.catv296.ne.jp/~whale/kujira-densetu.html 【日本の鯨文化:鯨に関わる伝説・逸話】より

日本各地にクジラに関わる、言い伝え・伝説・逸話・物語などが沢山あります。地名のいわれ、平家義経伝説、サカナをつれてくるエビス伝説、恩返し・お礼、神社への鯨のお参り伝説など内容もさまざまで面白いお話と思います。

寄り鯨を捕って得たお金の一部で建てたクジラ学校・クジラ神社など欧米ではあり得ない逸話が見られます。将来の人を育てる為の鯨学校建設の話は米沢藩の『米百俵』の話と似ています。現在の学校の先生や親たちに聞かせてやりたい逸話ですね! クジラが石や岩になった鯨石の話、山になった鯨山、形からきた鯨島のはなし、夢枕に出てきてお参りが済むまで捕るのを待って欲しいという鯨、親子鯨伝説、鯨に呑み込まれたり、疫病、不幸になるという鯨の祟りなどは国内に多数あり、鯨は神・海神の使い、和尚は鯨など面白い話が見られます。

詳しくは下記のテーブルをご覧いただき、ネット検索で調べてください。(以下略)


https://www.churchofjesuschrist.org/study/liahona/2018/12/children/jonah-and-the-whale?lang=jpn 【ヨナと鯨】

神様はヨナに伝道に行くように言われました。ニネベという町に行って,人々にくい改めるように伝えなさいと言われました。でも,ヨナは行きたくありませんでした。ヨナは別の町に向かう船に乗りました。

すると大きなあらしにおそわれました。船乗りたちは,船がしずんでしまうのではないかとこわくなりました。ヨナは,神様があらしを起こされたのは,自分がにげたからだと分かりました。ヨナは船乗りたちに,自分を船から投げ出せばあらしはやむだろうと言いました。

神様はヨナをすくうために,クジラを送ってくださいました。ヨナは3日間,クジラのおなかの中にいました。ヨナはいのりました。くい改めて神様にしたがうことにしました。神様はクジラに,ヨナをかわいた地にはき出すようにお命じになりました。

ヨナはニネべに行きました。ヨナはそこに住む人々に教えました。そしてニネべの人々はヨナの言うことを聞きました。もう一度,神様にしたがうようになったのです。

わたしが間違った選びをするとき,くい改めて,もう一度やり直すことができます。神様はヨナを愛しておられます!神様はわたしのことも愛しておられます!


https://francesco-clara.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-ba08.html 【映画「ピノキオ」に隠された神学~附:ヨナ書からの教会学校説教案】より

旧約聖書の十二小預言書の一つ、ヨナ書は、映画「ピノキオ」の原作の一つとして知られています。ピノキオやゼベットじいさん達が鯨の腹に呑み込まれてしまう元ネタが、実はヨナ書だからです。

「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」(旧約聖書 ヨナ書2:1新共同訳)

この箇所は、イエス様も引用されましたね(マタイ12:38~40)。

教会学校で、このヨナ書の話をする予定でした。(都合により、中止となってしまいましたが・・・)

ヨナ書と「ピノキオ」との関係から、説教の際に、少し「ピノキオ」のDVDを見せたら、と考えました。そこで、「ピノキオ」のDVDをレンタルしました。

「ピノキオ」は過去に2回ぐらいDVDとTV放映で観たことがありますが、今回観た版は、「プラチナ・エディション」とのことでした。

画像が圧倒的に鮮明で、その美しさにすっかり魅了されました。

(経年劣化や細かい傷など、かなり修正されているようです。)とても1940年の作品とは思えないほど!

絵が動くオドロキ、美しさは、フルCGで描かれた昨今のアニメよりもすばらしいとさえ思いました。

ヨナ書の元ネタの鯨のシーンだけ使えばいい、と思っていましたが、作品全体を見ると、驚くばかりにキリスト教神学の要点が詰まっていることに気づきました。

神学用語を羅列してみると・・・

三位一体、創造、堕落、罪、回心、贖罪、復活、新生・・・子ども向けと思ってあなどってはいけません!「三位一体」はどこに出ているか、というと、

父=ゼベットじいさん(創造者、放蕩息子を待ち続ける父)、

子=妖精(奇蹟を行い、命を与える。聖霊を与える。)、

聖霊=ピノキオの良心であるジミニー・クリケット。

ここから「創造」も出てきますね。

「ピノキオ」は、ある意味、私たちそのものです。

ピノキオが学校に行こうとする際に、ゼベットじいさんがりんごを持たせるシーンがあります。創世記3章の「知恵の実」を指し示しているように思えました。

その後、ピノキオは誘惑や堕落の道へとどんどん進んでしまいますね。これが「堕落」です。

ピノキオや町の不良少年たちがロバに変身させられるシーンがありますが、(この映画の中でどうも観るのがツライ場面です。)聖書そしてキリスト教文化圏においてロバは、「ばか者、とんま、のろま、頑迷な人物」という意味を持ちます。

(聖書では、たとえば詩篇33:9など)

ロバへの変身シーンは、犯罪者として刑務所に入れられることの隠喩かもしれません。

具体的な違反と並んで、欲望に引かれてしまう姿は、「罪」を表します。

「回心、贖罪」は、ピノキオがジミニーと一緒に父であるゼベットじいさんを捜し求め、

鯨の腹にまで入り、助け出すところでしょう。

ピノキオは一度溺れ死んでしまいます。耳はロバのまま、つまり「罪」を背負って・・・

(この部分では、ピノキオは私たち人間存在というよりは、

キリストの役目に近いです。私たちの罪を背負って十字架で死なれた主イエス・・・)

「復活、新生」は、死んでしまったピノキオが、生身の人間の子として新しい命をいただき、甦るところです。私たちも、「罪に死に、キリストに生きる」なら、「神の子」として永遠の命に生きることができます。

こう考察してみると、「ピノキオ」を単にヨナ書の元ネタとして紹介するよりも、

むしろ、ヨナ書をスタート地点に、「ピノキオ」から、伝道的な説教を組み立てた方がいいと考えました。

以下が、教会学校で使おうと思っていた説教案です。(結局、お蔵入りになってしまいましたが・・・)

(いつもの通り、「聖書のおはなし」を使う。「ヨナと大きな魚」のところを読む。)

(特に何も説明せず、いきなり「ピノキオ」を見せる。

「ピノキオって、知っている?」などと問いかける。

子どもの反応→どうして「ピノキオ」を見せるのか、という疑問。)(鯨のシーンを見せてから)

今日の聖書のお話は、ヨナのお話でしたね。ヨナは大きな魚に呑み込まれてしまいますね。

そういえば、「ピノキオ」の中にも、まったく同じシーンがありましたね。

実は、「ピノキオ」のその場面は、ヨナ書が原作なのです。

ところで、みなさんは「ピノキオ」の話を知っていますか?(反応を見る。)

(ピノキオの話をざっと説明する)

ある意味、ピノキオというのは、私たちの姿のようです。神様がすばらしいものとして私たちを創られましたが、神様から離れてしまい、自分中心の生き方となってしまいました。

しかし、「悪い子」となってしまったピノキオを、作ったゼベットじいさんは、見捨てたでしょうか?いや、海の底までも、探しにいきました。

そのように、神様は私たちを探し求めておられます。私たちをこよなく愛しておられるからです。私たちは、本当の「神の子」になるためには、何をしなければいけないでしょうか?

神様の方へ向き直し、罪を認め、イエス様を信じることです。

神の愛を信じることです。私たちも、神様に背を向け続けるのではなく、神様を求めて生きていきたいものですね。


https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story032/ 【鯨とともに生きる】より

ストーリーSTORY

鯨は、日本人にとって信仰の対象となる特別な存在であった。

人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏れたものの、時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが、やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。

熊野灘沿岸地域では、江戸時代に入り、熊野水軍の流れを汲む人々が捕鯨の技術や流通方法を確立し、これ以降、この地域は鯨に感謝しつつ捕鯨とともに生きてきた。

当時の捕鯨の面影を残す旧跡が町中や周辺に点在し、鯨にまつわる祭りや伝統芸能、食文化が今も受け継がれている。

鯨は、古来より、日本人にとって富をもたらす神“えびす”であった。浜辺に打ち寄せられた鯨の肉を食し、皮や骨、ひげで生活用品を作るなど、全てを余すことなく利用してきた人々は、この“海からの贈り物”に感謝し崇めながらも、やがて自ら捕獲する道を歩み始める。

熊野灘沿岸地域では、江戸時代初期に組織的な古式捕鯨(網で鯨の動きを止め、銛を打つ漁法)が始まり、地域を支える一大産業に発展した。現在も捕鯨は続けられ、食・祭り・伝統芸能などが伝承され「鯨とともに生きる」捕鯨文化が息づいている。

古式捕鯨の歴史

熊野灘沿岸は、背後に急峻な熊野の山々を擁し、橋杭岩(はしくいいわ)などの岩礁が目立つリアス式海岸が続いている。その海岸近くを、黒潮が最大4ノットの速さで南方から北へ向けて流れ、多くの海の幸をもたらしている。

この地域は、鯨が陸の近くを頻繁に回遊すること、またその鯨をいち早く発見することのできる高台、捕った鯨を引き揚げることのできる浜という、古式捕鯨にとって最も重要な地理的要件を備えていた。

そして、人々は古くより生きる糧を海に求めたため、造船や操船に秀で、泳ぎに長けており、海に関する知識が豊富であった。これは、この地域の人々が、古くに熊野水軍として名を馳せ、源平の戦いでは海上戦の勝敗を左右する活躍をしたことなどからもわかる。

江戸時代、この能力を活かし、新たな産業として着手したのが捕鯨である。最大の生物である鯨を捕獲するには、船団を組み、深さ約45mから60mにも及ぶ網で鯨を取り囲み、銛で仕留めるという、他に類を見ない大がかりな漁法が必要であった。命の危険を伴うこの漁は、勇敢さと統一ある行動が求められた。この意味で捕鯨は、水軍で培われた知識と技術が、そのまま有効に活用できる漁であり、その壮大さは「紀州熊野浦捕鯨図屏風」などに生き生きと描かれている。

漁においては、500名を超える人々が役割を分担し、地域を挙げて捕鯨に従事していた。その役割は、鯨を見張り到来を知らせるほか不足資材や漁の状況等の情報の伝達をする者(山見(やまみ))、鯨に網を掛ける者(網舟(あみぶね))、銛を打つ者(羽差(はざし))、仕留めた鯨を運搬する者(持双舟(もっそうぶね))、操業中各舟で不足した資材・食料を運搬する者(納屋舟(なやぶね))、また資材の管理や修繕を行う者(大納屋(おおなや))など多岐に渡っていた。

解体・加工は、「鯨始末(しまつ)係」が担った。鯨始末係は、鯨を引き揚げるために轆轤を回す“頭仲間(かばちなかま)”、解体をする“魚切(うおきり)”、骨や皮などを釜煎りし鯨油を採取する“採油係”などに細分化され、総勢80余名で構成された。彼らは、肉の大半を塩漬けにして樽詰で出荷し、ヒゲや筋は道具の素材とし、採油後の骨や血液の粉、胃の中の食物等は肥料とするなど、持てる知識と技術を発揮し、巨体の全てを活用した。

鯨は、“一頭で七郷が潤う”と言われ、当時セミクジラ1頭で約120両にもなり、年間95頭捕れた天和元年(1681年)には、6,000両を超す莫大な利益をもたらした。このことは、遠く離れた大阪にも伝わり、井原西鶴の著書「日本永代蔵」には、鯨を取って得られる金銀が、使っても減らないほど蓄えられ、檜造りの長屋に200人を超す漁師が住み、船が80隻もあり、鯨の骨で造られた三丈ほどの「鯨鳥居」があるなど、この地域の繁栄ぶりが記述されている。

捕鯨が発展を遂げた背景には、捕鯨という一次産業にとどまらず、解体や加工、鯨舟を造る船大工、銛や剣を作る鍛冶屋、浮き樽を作る桶屋、販売・経営を司る支配所など、二次・三次にも及ぶ広い業種が関わり、地域全体が利益を享受できるシステムを構築していたことが挙げられる。

捕鯨が育んだ文化

この地域には、多くの鯨にまつわる祭りや伝統芸能が今も受け継がれている。飛鳥神社の「お弓祭り」や塩竈(しおがま)神社の「せみ祭り」では、的に取り付けられた「せみ」(セミクジラを模した木や藁で作られたもの)という縁起物を用い、豊漁や航海の安全を祈願している。「河内祭(こうちまつり)」のハイライトは、豪華に飾り立てた鯨舟の渡御であり、かつて捕鯨がこの地域の生活を担う誇るべき産業であったことを物語っている。

また、鯨踊は、かつて大漁を祝う鯨唄の調べとともに、勢子舟(せこぶね)に渡した板の上に座したまま、あるいは浜で舞っていたものだが、この踊りにおける一糸乱れぬ動きは、鯨との死闘を見るようである。新宮市や太地町では、多くの小学生が、学習の一環としてこの踊りを習い、次の担い手となって継承しており、今では神事の際や祭りで披露し、郷土芸能として浸透している。

平素の生活においても、今も続く捕鯨により得られた肉は、郷土の味として定着している。

熊野灘沿岸の各地には、古式捕鯨時代の山見台跡や狼煙(のろし)跡、総指揮を行う支度部屋(したくべや)跡などが残り、当時の勇壮な漁の様子を想像できる。

また、太地漁港周辺に残る集落全体を取り囲む石垣の一部や、集落の入り口にあたる場所にあった“和田の岩門(せきもん)”などは、かつて地域が一つの共同体として捕鯨に取り組んでいた面影を今に残しており、江戸時代以降、この地域の産業と文化の根幹であった古式捕鯨の名残を今も伝えている。

左上:塩竈神社のせみ祭り/右上:三輪崎の鯨踊/左下:河内祭りの御船行事/右下:燈明崎 山見台跡

左上:塩竈神社のせみ祭り/右上:三輪崎の鯨踊/左下:河内祭りの御船行事/右下:燈明崎 山見台跡


https://www.maff.go.jp/j/pr/aff/1607/spe1_01.html 【特集1 鯨(1)】より

[History]日本人と鯨

有史以前から日本人は鯨と独特の関係を築いてきました。

日本人と鯨の奥深い世界をご案内しましょう。

歌川国芳の「宮本武蔵と巨鯨」。剣客・宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説に基づき描かれたもの。

歌川国芳の「宮本武蔵と巨鯨」。剣客・宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説に基づき描かれたもの。

©PPS/アフロ

葛飾北斎の「千絵の海 五島鯨突」。各地の漁の様子を描いた10枚のうちの1枚で、五島列島の鯨漁の様子が分かる。

葛飾北斎の「千絵の海 五島鯨突」。各地の漁の様子を描いた10枚のうちの1枚で、五島列島の鯨漁の様子が分かる。

©Bridgeman Images/アフロ

河内祭(和歌山県串本町)では、華麗な装飾を施し軍艦に見立てた古式捕鯨の御舟の水上渡御(とぎょ)が行われる。

河内祭(和歌山県串本町)では、華麗な装飾を施し軍艦に見立てた古式捕鯨の御舟の水上渡御(とぎょ)が行われる。

適度な硬さと柔軟性を併せ持つ鯨のヒゲは、文楽の人形を動かす操作索として用いられた。

適度な硬さと柔軟性を併せ持つ鯨のヒゲは、文楽の人形を動かす操作索として用いられた。

©Fujifotos/アフロ

日本遺産に認定された鯨と生きた人々の物語

〈人々は、大海原を悠然と泳ぐ巨体を畏(おそ)れたものの、時折浜辺に打ち上げられた鯨を食料や道具の素材などに利用していたが、やがて生活を安定させるため、捕鯨に乗り出した。〉

この文は、地域の文化や伝統を語るものとして文化庁が認定し、国内外に発信していく制度である日本遺産(平成28年度)に選ばれた和歌山県の「鯨とともに生きる」の概要です。

江戸時代初期に熊野水軍の末えいが鯨組を結成し、手投げの銛(もり)を用いた捕鯨を始めた熊野灘沿岸には、今も沖を見る鯨山見(くじらやまみ)跡や狼煙場(のろしば)跡などの史跡が点在しており、鹽竈(しおがま)神社のせみ祭り(那智勝浦町)や三輪崎の鯨踊(新宮市)などの伝統行事が大切に受け継がれています。

畏敬(いけい)と感謝の念を持ち大切に利用されてきた鯨

日本で太古より鯨捕が行われていたことは、長崎県壱岐市の原の辻(はるのつじ)遺跡から出土した弥生時代のかめ棺に描かれた捕鯨の図からも確認できます。

江戸時代には網捕り式捕鯨が開発されたことで捕獲量が増え、庶民の食料として普及していきます。仏教の伝来とともに獣肉が忌避されていた日本で、鯨は貴重な栄養源として、肉だけでなく内臓も脂肪層も無駄なく食用にされました。また、食べるだけでなく、ヒゲは釣りざおやゼンマイに加工し、鯨油は灯用や石けんの材料にして、さらに余った部位は鯨肥にして、徹底した活用が図られたのです。

捕鯨が行われた地方には鯨の骨を御神体とする神社があり、1頭ずつ戒名をつけて法要を行い、過去帳に記録する寺があります。

「鯨一つ捕れば七浦潤う」と言われるほどの恩恵をもたらす巨大な生物はやがて信仰の対象となり、富や食べ物をもたらしてくれる恵比寿の化身とみなされるようになりました。

捕鯨の近代化と環境保護主義の台頭

1899年、汽船に搭載した砲で網のついた銛を発射するノルウェー式捕鯨が導入され、日本でも近代捕鯨が始まります。第二次世界大戦後に、食料難に苦しんでいた日本人を救ってくれたのが南極海の鯨でした。

環境保護主義の台頭で、日本人と鯨の独特な関係は国際社会で単純化され、「知的で絶滅にひんする鯨を救え」と主張する人々から非難されています。しかし、日本を含め鯨を資源として利用することを否定しない国々は、この主張に真っ向から反対しています。

現在、国際的な取り決めにより一時的に大型の鯨は商業目的で捕獲ができませんが、国内外で鯨は重要な食料資源として利用され続けています。

取材・文/下境敏弘

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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