Facebook長堀 優さん投稿記事·
私の手元には、ある方から頂いたシーボルトの著書「日本」(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト著 中井晶夫訳)の写しがあります。
シーボルトは、長崎郊外に鳴滝塾を開き、若い門人を集め、西洋医学や自然科学について教える傍ら、じつは、彼は門人たちから日本国内の情報を集めていました。
そんなシーボルトのもとに当時知識人の間で話題になっていた義経チンギスハン伝説が届きます。
彼の著書「日本」の一節からです。
「憶測をたくましくしようとは思わない。
ただ義経が蝦夷に脱出したことを証明しようとし、またこの日本の英雄が蒙古の戦場に出現したということにいくらかでも推測を加えることで、今世紀豊富な資料が開拓されたこの記憶に値する世界的事件に、歴史家の注目を集めたいのである。」
れっきとした科学者であるシーボルトをして、ここまで言わしめたものは一体何であったのでしょう。
その理由の一つとして推測されるのが、シーボルトと親交のあったことで知られる間宮林蔵の樺太探検です。
文化五年(一八〇八年)、幕府の命により松田伝十郎に従い、樺太の探索に向かった間宮林蔵は、樺太が島であることを確認し、さらに、鎖国破りが死罪になることを知りながら、海峡を渡って黒龍江(アムール川)の下流を調査しています。
間宮が得た情報は、おそらくはシーボルトにも伝えられたのでしょう。なぜなら、シーボルトは後に作成した日本地図において、樺太・大陸間の海峡最狭部を間宮海峡と名付けているからです。
間宮林蔵の樺太探検の目的の一つは、じつは義経伝説の真偽の解明もあったといわれています。間宮は、アムール川流域で義経に関する何らかの足跡を発見し、それがシーボルトに伝えられた可能性は十分にあるでしょう。
この熱気は、その後、明治時代にも受け継がれていくことになります。
アメリカ合衆国で学んで牧師となり、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいた小谷部全一郎氏(1868年~1941年)は、アイヌの人々が信仰するオキクルミ(アイヌ伝承に登場する国土創造の神)が実は源義経ではないかという話を聞き、義経北行説に興味をもちます。
その後、満州・モンゴルに旧日本軍の通訳官として赴任する機会を得て、「成吉思汗=義経」の痕跡を調べるべく、満蒙を精力的に取材しました。
1920年帰国し、勲六等旭日章を授与されていますが、彼はこの調査によって、義経が平泉で自害せず、北海道、樺太にわたり、さらにモンゴルに渡ってチンギスハンとなったことを確信していくのです。
著書「成吉思汗は義経なり」はベストセラーとなり、各方面に多大な影響を与えました。
ハバロフスクの博物館にはこの地方から発掘されたという日本式の古い甲冑の一部や笹竜胆と木瓜の紋章のある朱塗の経机があり、ハバロフスクには義経を祀った神社があったと言います。
小谷部氏は、これらを実際に見た人物として、新潟県岩船郡出身の栗山彦三郎氏を挙げています。
内藤家舊(旧)藩士であった栗山氏は、日清戦役の前年、部下を率いて沿海州に入り、ハバロフスク地方を探検しています。
当時、土地の人が崇拝する日本式の神社があり、これを「源義経(キヤンウチョ)」の廟と称していたと言います。
栗山氏は部下と倶に人のいない機会を窺い廟内に忍び入り、ご神体を検すると笹竜胆の紋のある日本式の甲冑を着けた武者の人形であったというのです。
また、ウスリースク(写真)に、在留邦人が義経公の碑と称する古碑があり、現地邦人医師によると、摩滅した碑面に幽かに笹龍胆と義の文字が読めたといいます。
しかし、大亀の形の巨大な臺石のみ残り、その上に建てられていた石碑はロシア人がハバロフスクの博物館に持ち去ってしまいました。
大正7~8年にかけ、小谷部氏が属する守備隊がこの公園の正面に屯営しています。
この臺石を確認した小谷部氏は、その上に載せられていたという石碑を確認するため、ハバロフスクに赴こうとしました。
しかし、当時同地は過激派に占領されていたため、官憲が行くことを許しませんでした。
そのため、帰国に際し、友人であり当時ウラジオストク派遣軍司令部の弘報部(原文ママ)主任であった中岡中佐に、この石碑の調査を依嘱しています。
後日、同中佐より以下の報告が送られてきたといいます。
「ハバロフスク博物館に在る所謂義經の碑と稱するものは白色を帯びたる花崗岩の一種なり。
右石碑の表面には厚くセメントの漆喰を塗り何物か彫刻しあるものを隠蔽せり。」
地元の人によれば、日本軍がハバロフスク撤退後に過激派が行ったことであり、博物館長は、この漆喰が何れの時に塗られたのか覚えていないと答えたといいます。
中佐の友人は、碑面の漆喰を打ち壊して碑文をみようとしましたが、巡警がきて制止されてしまいました。
小谷部氏は、この行為について
「露國人が殊更に此の古碑を漆喰にて塗り碑文を隠蔽せしは自國に不利なる記事あるが故なるべし」
と非難しています。
このような出来事を通じ、小谷部氏は大陸における義経の活動を確信していくのです。
歴史上、チンギスハンは、モンゴル高原中央からではなく、なぜか沿海を動き、女真族、高麗を相手にした戦闘を開始していくのです。
母国からは遠く離れており、兵站路を全く無視した動きと言えます。
その後モンゴル高原に至り、夜襲、朝駆けはもちろん数々の奇襲戦法を用い、タタール、ケレイト、ナイマンといった難敵を攻略していくのです。この辺りは誰かとそっくりです。
そして、捕虜として捉えたタタトゥンガとともに、ウイグル語をもとに、ほぼ日本の五十音図そのままのモンゴル表記文字を制定し、文字のなかったモンゴルに広めるのです。
驚いたことに、ウイグル語に新たに加えられた三つのモンゴル文字はひらがなによく似ているのです。
しづやしづ しずのおだまきくりかえし
むかしをいまに
なすよしもがな
静御前が鎌倉へ連れてこられ、決死の覚悟で頼朝の前で舞った時のうたです。
しずやしずと呼んで愛しんでくれた義経への変わらぬ恋心を歌い上げた切ない詩ですが、頼朝を激怒させたといいます。
作家の高木彬光氏は、成吉思汗は、なすよしもがな、と読めることを作品にて紹介しています。
さらに、人気推理作家らしく、成吉思汗を
吉野で別れた時に交わした「また会おう」という約束を成す、今でも水干(汗はこのように解釈できる、水干は白拍子たちが身にまとった平安装束であり、静御前の象徴)のことを思う、
と読み解いています。これは偶然のでしょうか。
まだまだ書きたいことはあるのですが、長くなるので、今回はこの辺で止めておきます。
https://www.mlib.kobe-du.ac.jp/bulletin/kiyou_old/08/thesis/07-05.html
【シーボルト達がみた瀬戸内沿海域の景観が持つ固有価値の再評価に関する試行的研究
A Study on the Revaluation of Scenic Value of SETOUCHI that Siebold et al. Saw】より
4.文献調査
4-1 シーボルト著『日本』『江戸参府紀行』『シーボルト日記』の概要
シーボルトは、参府旅行の際、日本の文化・地理・植物研究を行うために、出発に先立ち、ケンペルやツュンベリーが先行して行った日本研究を学び、その知識を得た上で研究を行っている。シーボルトは、1826年に長崎から江戸への参府旅行にのぞみ、後1862年にも二度目の参府旅行を行い、これら2度の機会に瀬戸内海を渡航した。
航路は図3に示すように、最初の航行では、往路は1826年3月1日に北九州市小倉を出発し、下関・上関・屋代島牛ノ首崎(牛ヶ首崎)・三原・阿伏兎岬・日比・豊島・小豆島を経て、7日後の3月7日に室(室津)に到着した。残る行程の室津から大阪までは、陸路、山陽道を行き、3月13日に大阪に到着した。復路は同年6月14日に大阪を出発し、船で尼崎まで行き、そこからシーボルト一行は兵庫まで陸路をとり、荷物は船で運んだ。16~18日の、向かい風により船足が遅くなっている荷物を待つ間は兵庫で過ごし、6月19日に兵庫を出発し、明石海峡・室(室津)・日比・鞆・御手洗・家室島(沖家室島)・上関・下関を経て、11日後の6月30日に小倉に到着した。2度目の航行では、往路は1862年4月18日に水島灘を航行、復路は、1月17日に紀淡海峡から瀬戸内海に入り、淡路・明石・大畠(児島半島にある村)・鞆の浦・姫島を経て、1月21日に関門海峡を抜けた。この2度目の航行は、『シーボルト日記』*8にメモとして記述されているため、詳細は不明である。
シーボルトは、航行の様子を、スケッチ二十数枚と文章で記録してまとめた。シーボルトが連れていた画家・登与助や画家・ゲッサイに依頼して描かせたその時のスケッチは、下関(図版1)・上関(図版2)・日比(図版3)の町の風景や、上関海峡(図版4)・鞆の浦(図版5)・兵庫(図版6)の港の風景、阿伏兎岬(図版7)・室津(図版8)の宗教施設の風景、関門海峡(図版9)や室津(図版10)・周防灘(図版11)・屋代島牛ノ首崎(図版12)からのパノラマ風景等、実に多彩な風景が詳細に描かれている。文章記録は、地名や位置(緯度・経度)、風景を構成する岩石や植生等の要素が科学(地質学・植物学)的に詳しく書かれ、上陸した場所―例えば、下関における町の様子やその付近の植生や風景、周防大島牛ヶ首崎における地質・植生・パノラマ、日比における地質・植生・製塩所での製塩方法、与島における地質・植生・造船所の仕事風景、鞆・室津の町の様子等、人の営みも含めて詳しく記載されている。海上航行中の風景については、クロノメーターによる緯度・経度の測定や、船上から前後左右に見える島々の島名・地名を頻繁に確認して船の位置を把握し、またそれらの島々の植物群、海上を行き交う漁船や商船等についても記述している。その他、阿伏兎岬や琴平山の宗教的な風習の話も見聞し、記録している。
以上のような風景に加えて、周防灘から塩飽諸島までの「船が向きをかえるたびに魅せられるように美しい島々の眺めがあらわれ*6」るシークエンス体験や「海上の活発な船の往来*6」といった海上の賑やかさ、瀬戸内海の自然風景の体験を振り返って、「この航海を始めて以来、われわれはこれまで日本に滞在していた間で最も楽しみの多い日を過ごした*6」と瀬戸内沿海景観を評価している。その他に、日比の製塩所では、そこで働く労働者を見て、ヨーロッパの工業都市の労働者と比較し、日本の人間的な労働システムを評価したり、室津の賀茂神社参篭所からの瀬戸内海のパノラマ景の美しさも評価している。
4-2 シーボルト達がみた瀬戸内沿海景観の考察
4-2-1 瀬戸内沿海景観の把握
本項では、文献調査の資料があり且つ現地調査を行った地域として、1兵庫津、2室(室津)、3日比・向日比、4鞆、5阿伏兎岬、6牛ヶ首崎、7上関・上関海峡、8関門海峡の8箇所を選定し(図5)、1)沿海景観、2)土地利用と住居集合、3)営みと生活文化の3特性について考察する。それぞれ、1)沿海景観は、町や集落の立地を把握できる景域の「遠景」、2)土地利用と住居集合は、居住域の土地利用と住居集合の全体像が把握できる景域の「中景」、3)営みと生活文化は、生活とその構築物との関係が把握できる景域の「近景」と定義し、このような風景把握のヒエラルキーに従って瀬戸内沿海景観の特性を捉える。
4-2-2 シーボルト達がみた瀬戸内沿海景観の考察
シーボルト達がみた瀬戸内沿海景観の特性をまとめると、シーボルト達は瀬戸内海を進んでゆくときに、遠くから目標物を把握し、そこに向かって進んでいくという様子が読み取れる。町や集落が近づいてくると、それがどのような要素によって構成されているかを把握し、町や集落の中に入って、人々の生活を把握するという、風景の遠景から近景までを連続して把握し、理解していることが分かる。また、理解した風景というものは、単体の理解ではなく、他地域と比較しながら、瀬戸内海全域の風景を連続して捉えてもいる。(表1)
表1 シーボルト達がみた瀬戸内海風景の特性(略)
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