日本航空ジャンボ機123便

Facebook長堀 優さんさん投稿記事

日本の教育では、感性(感じること)より、理性(考えること)が求められます。

 しかし、もっと大切なことは、考えることより、教えたことをそのまま記憶すること、であるかもしれません。

 ある小学校の先生が子供たちに「雪がとけたら何になる?」と聞いた時に、ほとんどの子供が「水になる」と答えた中、たった一人だけ「春になる」と答えた子供がいたそうです。

 その先生は、「水になる」を○に、「春になる」を×にしました。

 このようにして、感性の芽は摘まれていくのです。

 そんな世情のなか、コツコツと感性論哲学を世に説いて来たのが芳村思風(しふう)先生でした。

「Do'nt think, feel(考えるな、感じろ)」

「考え方が人間を決めるのではなく、感じ方が人間を決める」

 今月号の「致知」には、芳村思風先生と、芳村先生を世に紹介した行徳哲男先生、そして読書家として知られる関ジャニの村上信五さんが登場されています。

 村上さんが、テレビ番組でお二人の共著を紹介されたことがきっかけとなり、今回の三人の対談が実現したのだそうです。

 異色の対談にも思えますが、三人の話は見事に響き合い、とても面白く読めました。

 実は、私は、個人的に芳村先生と行徳先生に何度かお会いしてます。

 そのきっかけを作ってくれたのは、友人で女性デュオ・コクーンのメンバー本多裕子さんでした。

 彼女の紹介で、私は芳村先生の講演会に参加したのです。と言っても、先生のお話を伺ったのは、わずか数回に過ぎません。しかし、その教えに深く感銘し、大きな影響を受けました。

 拙著にも「感性」は幾度となく登場し、新刊でも「魂の直感」に言及しましたが、いずれも芳村先生のお話を聞いていたからこそでした。

 そればかりではなく、決して偉ぶらず、初対面の者にも礼を尽くし、深々とお辞儀をされる先生の誠実さにも、私は深く感動しました。

 従来の常識が通用しなくなってきた今の時代、必要なのは理性ではなく感性です。

 混沌の中にあって、未来への展望を見通せるのは、理性ではなく、常識に左右されることのない感性なのです。

 感性を起動させるのは理屈ではなく、腹の底から湧き上がる感動です。

 感性、感動こそは、潜在意識を通じて命の本質につながり、理屈や遺伝子を超えた火事場の馬鹿力を発揮させるのです。

 常識に基づいた理性ではこのような力は起こせません。馬鹿力はあるけれど、利口力はないのです。

 自分は馬鹿なことをしているんじゃないか、もっと賢い生き方があるんじゃないか、

 そんな疑問が湧いてくることもありました。しかし、その度に私は芳村先生のお言葉に勇気づけられてきたのです。

 この特集をきっかけに、芳村思風先生の「感性論哲学」に目を向ける人が、さらに増えてほしいと願っています。

 明日は八月十二日、JALの事故から三十五年が経ちます。犠牲になられた方々のご冥福を、御巣鷹の峰に向け祈ります。

「一二三 ひふみ 祝詞

 ひふみ よいむなや こともちろらね 

 しきる ゆゐつわぬ そをたはめくか 

 うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」

 一日も早く御巣鷹の真相が明らかとなりますように。


Facebook髙橋 眞人さん投稿記事

こんばんは。【今日の名言】川上 慶子(日航機墜落事故の生存者、当時12歳)

あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。

突然、トイレの辺りから、ビリッと音がして、その後、パーンという音と一緒に、天井が吹っ飛んだ。斜め後ろに1メートル四方の穴が開き、白いものが、そこから前に出て来た。口の中が痛くなったけど、しばらくしたら、痺れもなくなった。

その後、後ろの穴から、プロペラみたいのが、ゆっくり回っているのが見えた。そして、酸素マスクが落ちてきたので、それを付けた。

お父さんが「慶子、頭を下げろ」と叫んで、私と妹の咲子、それにお母さんの三人を、両手で抱きかかえて、守ってくれた。そして、急降下していきました。

落ちるとき、「お父さん、苦しい」と言うと、お父さんは「ナイフを使って、ベルトを切れ」と言った。

気がつくと、真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。

みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。

父に「手や足を動かしてみ」と言われて、足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり、左手を左足の方に伸ばした。足首がぬるぬるしていて血だなと思った。父は、私の右脇から下半身に載っていた。

手足は動いても、体は動かない。「助けて」と、父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きができない」「助けてやりたいけど、どうしようもないわなぁ」と言われた。

父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。

咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手を伸ばして触ってみるとやはり冷たかった。

その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんから、やってみ」と言うと、妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。

突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、喋らなくなった。一人になってしまったと思い、その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。

暗闇の中、ヘリコプターの音が聞こえてきて、目が覚めた。赤い灯りも見えて、真上まで来て止まって、「あぁ、これで助かるわ」と、みんなで言ってたら、ヘリは引き返した。

これで、場所が判ったから、またみんなで、たくさん来てくれると話したけど、それっきり来んようになった。そのうち、みんな話さなくなった。

その後、ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から、二本の木が見え、太陽の光が差し込んできた。生きているんやな、と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い、努力した。

人の気配がして、「生きている人は、手や足を動かして」という声がした。足をバタバタさせると、人が近寄って来た。ぼさぼさの頭、ショートパンツで、勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。

※1985年8月12日、日航機123便が群馬県の山中ヘ墜落し、乗客乗員524人のうち520人が死亡、生存者は川上慶子さんを含め4人でした。墜落原因や自衛隊による捜索の遅れなどについて、今なお数々の疑問が提起されています。


https://www.mag2.com/p/news/504980?fbclid=IwAR3aY0x1WaIOJlVNNcCb9utcq9pWZhfnp5iQRwGqi0cHYvtAsqOnLk2CExs 【日航墜落機「所在不明」の怪。中曽根元首相は何を隠そうとしたのか】より

1985年8月12日、東京羽田空港発大阪伊丹空港行きの日本航空ジャンボ機123便が非常事態に陥り、群馬県多野郡上野村の山中に墜落。乗員乗客524名のうち520名が死亡する惨事となりました。この“事故”には多くの謎があり、真相に迫ろうとするドキュメンタリーやノンフィクションも多くあります。今回のメルマガ『佐高信の筆刀両断』では、著者で評論家の佐高信さんが、青山透子さんによる2冊のノンフィクションに関連し、日航がメディアと癒着とも言える関係を築いていることや、事故当時の中曽根首相の不可解な言動に疑惑の目を向けています。

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日航機墜落と中曽根康弘

私が『時代を撃つノンフィクション100』(岩波新書)の1冊に選んだ『日航123便 墜落の新事実』(河出文庫)の著者、青山透子から『日航123便墜落 疑惑のはじまり』(河出文庫)が届いた。

青山の本は墜落に米軍機がからんでいたことを示唆しているが、中の手紙に「日本航空会長植木義晴氏の示唆で、一部の日航社員らによる、青山透子への訓謗中傷や、事実無根の内容で悪意をもった流言飛語の嫌がらせがありました」と書かれていて、日航は変わらないな、と思った。

日航をモデルにした山崎豊子の『沈まぬ太陽』が映画化された時、日航からの妨害を押し切った角川歴彦を励ます「公開を成功させる応援団・総決起集会」が開かれた。2009年10月18日のことである。私も高杉良やなかにし礼と共に参加したが、メディアの人間はほとんどいなかった。

それは異様なほどで、『腐った翼 JAL消滅への60年』を書いた森功と対談した時、私が、「なぜ日航はそんなにメディアに対して高飛車になれるかというと、海外取材なんかで多くの記者が…」と言ったのを受けて森は、「タダで乗せてもらったりしているんだと思います。『沈まぬ太陽』の中にもほぼ実話として登場しますよね。記者がファーストクラスでヨーロッパに行く。ひどい話になると、休暇の時にヨーロッパにファーストクラスで連れて行ってもらった某新聞社の記者もいらっしゃるそうですから」と皮肉った。

青山にとって墜落機で亡くなったスチュワーデス、すなわち客室乗務員は「手取り足取り」仕事を教えてくれた先輩だった。123便が落ちた群馬県上野村の元村長、黒澤丈夫が声を荒げて青山に語ったという指摘も忘れられない。黒澤は当時の首相、中曽根康弘の海軍の先輩である。

「墜落現場が分からない、こういう問題に対して日本政府は何も準備していなかった。だいたいこのような大事故が起きた時は、誰が事故収拾の最高責任者かというと、もちろん総理大臣だ。空から山が燃えているのが見える。そんな状況なら昔の海軍のやり方では、燃えている上空でヘリなり飛行機なりに何ヘルツの電波を出せと言って出させる。それを東京から測る、前橋から測る、それで2つがぶつかったところの下が地図で燃えているところだ。そういうことを誰かやる者がなかったのか。(中略)

あの後、あれよりも小さいが、イギリスで似たような航空機墜落の事故が起きてね。その時、何十人か死んだが、そうしたらサッチャー氏はたちまち、現場に首相として飛んで行ったわけですよ。皆の労をねぎらい、きちんと指示するところを指示した。ところが当時の日本の総理大臣は軽井沢でゴルフをやっている。運輸大臣も何も言わない」

軽井沢から戻る列車の中で墜落を知った中曽根は「私が合図するまでは公式に発表してはならん」と指示したらしい。何か隠さなければならない事実があったのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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