亡き人を身近に感じる時期

Facebook北村 哲郎さん投稿記事

「あっ、生き返った?!」牧野富太郎、嘘のような本当の話

 「らんまん」も後半に入り、順風満帆に見えた万太郎と寿恵の生活に暗雲が漂い始めました。今後の展開については来週以降のドラマに委ねるとして、ここで万太郎のモデルである牧野富太郎博士のちょっとしたエピソードを紹介します。

 嘘のような、しかし本当にあった面白い話です。

   ◇ ◇ ◇ 

 「彼が口をもぞもぞと動かしてその冷たい感触を確かめていると、『あっ、生き返った!』枕元で誰かが叫ぶ、誰の声ともとっさに識別できない、頓狂な声である。

『まあ、お父さんッ!』

『先生、先生ッ!』

いっぺんに周りが騒々しくなった。 やかましいよ、一人ずつしゃべりなさい、と 彼は叱るように言ったつもりだったが、口がもがもがと動いただけで声にはならなかった。

 何しろもう十日ほども意識不明で、今日は呼吸も絶え、医者も、御臨終です、と一度宣告したあとのことだったので、大変な騒ぎになった。報道関係の人にも発表してしまったのを大急ぎで取消す始末だった。

 一九四九(昭和二十四年の六月、牧野富太郎は、何かいやにひんやりと冷たいものが口の中に侵入して来て、思わずごくりと呑み下してしまった。するとふっと意識が返って来た。このとき牧野富太郎は数え年で八十八歳になっていた。病気は急性大腸炎ということであったが、発病の朝、起き上ろうとしていきなり倒れ、そのまま、意識を失った。 それから十日間ほどそのままで、年齢が年齢だし、何しろ一週間あまり危篤状態であった。心臓がとまったので主治医も駄目だと思ったから臨終ですと言ったはずだった。 しかし、近親の人々が泣きながら唇に運んでいた末期の水があまりに多く口の中に溜 ったのを彼は、冷たいと思い、ふとごくりと飲み下してしまった。すると意識が返ったのであった。今までにも何度か、今度は危い、と言われながら、彼はその都度また持直して来た。しかし、一八六二(文久二)年生れである。病弱な子で通っていて、子供の時は、店の若い男衆などに馬乗りになって押さえつけられ、よくチリケ (首筋)や背中に灸をすえられたものだった。あれが案外身体造りの根本になったのかも知れない。あとから考えると、この年も結構元気で研究書も二冊刊している。 北隆館の『学生版牧野日本植物図鑑』と千代田出版社から刊行された『図説普通植物検索表』である。

 そして数え年八十八歳で習慣のように米寿を祝う宴が、晴れがましい顔ぶれを揃え て、京橋バンガローで開かれもした。いやいやながら取得した博士号はともかく、牧野富太郎はいま世界的な植物分類学者として人も知る存在であった。しかし彼にはまだやりたいこと、やるべき仕事がたくさん残っていた。標品(本)の整理が七分通りしか出来上っていない。

 彼はようやく家中が落着いた状態のなかで、快く、新しく整え直された病床にのうのうと寝ていたが、何かしらひどく孤独な心持に沈んでいった。

『先生、まだやり残したことがあるのですか?』

と誰かが、からかうように言ったのが耳の底に残っていた。 いい気な奴め、人間、仕残したことのない時があるものか、生きている限りは・・・。

そう思いながらうとうとした。何だか大仕事をしたあとのように疲れていた。 目を覚して、

少し淋しいなあ、寂寥の想いありだ!

 そんなことも思った。幼いとき漢文を寺小屋や塾時代にたたきこまれたので、彼はものを考えるときも漢文調で考えると、心にぴったりくるのである。 妻の寿衛子のことを思っていた。 彼女と出逢った大学通い (といっても彼は学生ではなかった。いま考えてみるとよくあんなに熱心に、ということは、大学の教授連にとってはあつかましく、田舎者の無神経さで、あんなに毎日帝国大学時代の植物学教室へ通ったものだ、それも実家がまだ健在だと思って毎日下宿から俥屋を呼んで乗っ て行ったんだから……) していた若い時分のことも、やりきれないような自己嫌悪で思い出した。

 寿衛子には貧乏ばかりさせて、苦労をさせて可哀相だった、と改めて思った。 まだ、やり残したことがあるのですか、と誰かが蘇生さわぎのあとで言ったことを改めて思い、あのことが自分にもし出来たらなあ、と溜息をつくように考えた。

 (以上、大原富枝「草を褥に 小説 牧野富太郎」より)

 いかにも牧野富太郎博士らしい奇想天外なお話である。牧野博士が「黄泉の国から生き返った」この年は、折しも私が生まれた年のその月であった。むろん私はそのことを知る由もない…。


Facebook玉井 昭彦さん投稿記

「あなたのおかげで、今があるんだよ。ありがとう」

(こころのはなし)亡き人を思い、供養するとは 陸前高田・普門寺の住職、熊谷光洋さん

 ■感謝とともに、精いっぱい生きる

 8月は亡き人を身近に感じる時期でもある。広島、長崎の原爆の日、終戦の日。お盆には田舎に帰り、家族そろって先祖を迎える。亡くなった人に会いたい気持ちは、いつの時代も変わらない。東日本大震災で1800人超の死者、行方不明者が出た岩手県陸前高田市にある普門寺(ふもんじ)は、身元不明の遺骨を受け入れ、安置してきた。遺族らの気持ちを形にしようと、寺の参道脇には遺族らがつくった石仏群「五百羅漢像」も並ぶ。今も毎朝の読経を欠かさない熊谷光洋(こうよう)住職(71)に、亡き人を思い、供養することについて聞いた。

 ――震災直後から市の依頼を受け、身元不明の遺骨を預かってこられたそうですね。

 今も11柱を安置しています。多いときには360柱を超えていました。

 ある時、「お父さん、やっと帰ってきたね」とお骨を抱きしめた女性がいました。日本人はお骨があることで、亡き人の存在を感じるんですね。

 別の日には、身元不明の遺骨の前に、赤ちゃんをあやすガラガラが置いてありました。身元がわかってから遺骨を引き取るまでに手続きがあり、その間に親が置いたと思います。あれは、つらかった。

 津波で流された息子のかばんが見つかったとき、中身を見た父親が「あいつ、こんなことを考えていたのか」と初めて笑いました。遺骨が見つかれば、どんなに喜ぶかと思います。

 ――今年で震災から十三回忌ですが、遺族の悲しみは変わりませんか。

 震災に限らず、誰だって大切な人を失えば、心の傷は決して消えません。

 何が変わるかというと、亡き人のいない生活が当たり前になります。朝から晩まで亡き人を思い、「そばにいてくれたら」と寂しさを募らせていたのが、だんだんと「あなたの分もがんばっているよ」に変わります。だけど、思い出すと、悲しい、悔しい、苦しい。心の安心を得るには手を合わせること、供養が大切です。

     *

 ――寺には亡き人を思い、多くの人がお参りに来ていると聞きました。「五百羅漢像」のように、思いを形にすることも大事でしょうか。

 寺には犠牲者を悼み、全国から1300体を超す仏像が奉納されています。これに加えて、2013年から5年間、お盆の時期に五百羅漢像を彫ってもらいました。震災の遺族はもちろん、全国から多くの人が訪れました。イギリス人や取材に来たイタリアの記者も彫りました。弔う気持ちに仏教もキリスト教も関係ありません。

 羅漢像は500体を超えましたが、ほとんどが笑顔です。悲しい顔、苦しい顔はありません。子どもを失った母は「あなたの笑い顔が大好きよ」と彫ります。亡き人を思うとき、誰もが穏やかな気持ちになります。

 ――亡き人に会いたくなったら、どうしたらいいのでしょうか。

 お墓に行って、手を合わせることです。仏壇でも写真でもいい。亡き人を思い浮かべられるものなら、ブレスレットでも何でもいいと思います。

 日本には節目節目に亡き人を思い出す風習があります。命日や法事、お盆、お彼岸です。

 なかでも、お盆には先祖を迎えます。お墓参りをして亡き人を連れて帰ります。迎え火や盆提灯(ぢょうちん)も、そうです。あっちの家のほうがおいしいものがありそうだけど、間違えずに帰って来て、という明かりです。

 亡き人とともに過ごすことで、生きている人たちがやさしくなれます。みんなが集まり、「お父さんはこうだったよ」と悪口を言ってもいい。それが亡き人に対する供養です。

 ――お盆の意味を知らず、たんなる夏休みとしか思っていない人も増えました。

 ひと昔前までは、お盆にはお坊さんが来るからと、みんなで待っていました。そういう家が減りましたよね。

 お坊さんが来ても、駆け足でお経を読んで、お布施をにぎって帰っていく。それを見ている子どもたちにとって、ありがたくも何ともない。お盆が生活から離れたのは、お坊さんの責任が大きい。自戒もこめ、そう思います。

     *

 ――葬儀も供養の一つです。

 葬儀は、ただ単に遺体を埋めたり焼いたりするだけのものではありません。仏教の教えに従った儀式を通して、極楽に導きます。

 かつては親類や近所の人が助けてくれるものでした。遺族に代わって食事を作り、お寺へのお使いもしました。香典も、遺族が金銭的に困らないためです。遺族は香典返しをしても、残ったお金で葬儀代をまかなえ、休んで収入がなかった分の生活費にもあてられました。

 それが今は家族葬です。弔問は断り、香典も拒否します。立派に見えますが、誰も助けてくれません。多くの人が集まってガヤガヤするなかで、遺族は慰められてきたのに、それもできなくなりました。規模の小さい葬儀は楽に見えますが、一番大変なものだけが残されたと思います。

 ――法事はどうでしょうか。

 残された人が亡くなった人の安寧を願うプロセスと言えます。この世からあの世に向かうのが四十九日。泣くことを卒業し、その人に頼らなくても歩き出せるようになるのが百カ日。一周忌は「みんな元気でいるよ」と亡き人に報告し、「やっぱり、あなたがいないと大変」と慰め合う場でもあります。

 長い歴史のなかで培われてきた信仰の形、供養のあり方をおろそかにしてはいけません。それには、われわれ僧侶がもっと自覚を持たなければならないと思います。

 ――供養とは何でしょうか。

 思い続ける人が1人でもいる限り、亡き人は生き続けられます。大切なのは、どのような形で亡き人を思い続けるのか、ということです。今を生きる自分自身を大事にし、今を精いっぱいに生きることで、初めて亡き人が成仏できるのではないでしょうか。

 「あなたのおかげで、今があるんだよ。ありがとう」と、最後に「ありがとう」と言える人生を送ることが、亡き人の一番の供養になります。(聞き手・岡田匠)

     *

 くまがい・こうよう 1952年、岩手県陸前高田市生まれ。父は普門寺の前住職。駒沢大学仏教学部卒。曹洞宗大本山永平寺で1年間修行し、駒沢大大学院修士課程修了。普門寺の副住職時代から、陸前高田市福祉事務所の家庭児童相談員を務める。83年から住職。

(朝日新聞8月9日)

https://digital.asahi.com/sp/articles/DA3S15713414.html


https://chikouken.org/report/report_cat06/14752/ 【死者とともにある文化】より

著者 大正大学地域構想研究所 客員講師 小川 有閑

お盆は死者と過ごす時間

全国的に8月はお盆シーズンですね。もともと旧暦の7月に全国で営まれていたお盆。明治5年12月3日を新暦の明治6年1月1日にするという改暦により、カレンダーが約1か月前倒しになります。お盆も移行するかと思いきや、現在、新暦の7月にお盆を営むのは東京や神奈川の都市部、とても限られた地域のみ。ほとんどの地域では8月、つまり旧暦の7月にお盆を迎えています。この理由は、お盆が農耕生活と関連した行事のため、暦に合わせた時期の変更が難しかったためと言われています。夏の収穫を終え、ご先祖様に収穫をお供えし、おもてなしするのがお盆でしたから、まだ忙しい新暦7月にお盆はできなかったわけです。ご先祖様をにぎやかにおもてなしする盆踊りは、生きている我々にとっても、収穫を終えた後のレクリエーション、エンターテインメントでもあったのでしょう。

お盆の期間はご先祖様があの世からこの世に、家に戻ってきてくれるとされます。今もお盆休みに、多くの人が帰省をしますが、その本義は、ご先祖様を一族みんなでお出迎えするというもの。いかに先祖を大事にしていたかが分かります。今は、お盆にご先祖様が帰るといっても、何代も前の顔も分からない人たちではなく、祖父母、両親など顔も名前も分かる、親しみのある近親者をイメージする人が多いのではないでしょうか。

いずれにしましても、お盆に帰ってくるのは亡き人、死者です。死者を迎え、死者とともに過ごすのがお盆ですから、8月は1年でもっとも死者を身近に感じる月と言えるでしょう。

グリーフワークの視点

ややこじつけのようで恐縮ですが、そんな8月だからこそ、生きている私たちと死者の関わりについて「グリーフワーク」の視点から考えてみたいと思います。グリーフとは死別によって生じる悲嘆反応のこと 。死別体験によって生じる心理的・身体的・社会的反応を指します。悲嘆というと心理的なものと考えてしまいがちですが、より広い範囲の概念になります。身体的反応としては、食欲不振や不眠、活力の低下、社会的反応としてはひきこもり、他者批判や過活動などがあげられます。死別による心理的反応というと、悲しみや絶望感などが容易に想像されますが、不安、怒り、罪悪感、孤独感、安堵感なども誰にも起こりえる自然な反応です。そして、様々な悲嘆反応に自らを適応させていったり、折り合いをつけていったりすることをグリーフワーク(喪の仕事)と呼びます。

私たちが死別の悲嘆を消化していくグリーフワークの段階には諸説ありますが、J.W.ウォーデンの四段階説 はシンプルで分かりやすいと思います。少しご紹介します。

①喪失の現実を受け入れる

その人が亡くなって、もう帰ってこないという現実と正面から向き合うことです。死の現実はなかなか受け入れがたいもので、現実の否認をともなう場合もあります。「明日起きたら、お父さんは生き返っている」なんてことを願ってしまうのもおかしなことではありません。

②悲嘆の痛みを消化していく

事実と向き合い死が現実になると、喪失感や後悔など悲嘆の苦痛が生じてきます。そんなときに安心して悲しめる場所・時間が大切だとされます。日本では、悲しみなどの感情を表に出さないことを良しとする傾向が今も、特に男性には見受けられますね。しかし、悲嘆感情を表出することは健全なこととされ、一方で感情を押し殺し、思考を止めたりすることは、喪の過程を長引かせることになると言われます。たとえば、親を亡くした二人きょうだいが、葬儀の席で、一人は表情を変えずにいて、もう一人は泣き崩れていたとしたら、普通は前者より後者の方が悲しみや喪失感が深いのだと見なすでしょう。でも、泣いていないから大丈夫というわけではありません。表情を変えずにいる前者の方が、悲しみを押し殺し、感情に蓋をしているために、喪の過程が長引く可能性も十分にありえるのです。

③故人のいない世界に適応する

遺族は、それまではいることが当たり前だった人がいない世界に適応していかなければなりません。たとえばそれまで家事全般を担っていた母親が亡くなれば、その担っていた役割を家族でやりくりしなければなりません。家計を支えていた人が亡くなれば、誰かがそれを補わなければなりません。それらの物理的な適応だけでなく、内面的な適応も大きな課題です。私たちは、誰かの関係において「自分」を認識する生き物です。たとえば、幼子を育てる母親は、子の面倒を見たり、子に求められたりするなかで「母である自分」を認識するでしょう。もし、その子が亡くなってしまえば、「母である自分」も失われる。その喪失感は関係が深いほど大きく、時に生きる意味さえ見失わせるほど。そうした内面の適応は簡単には進まないものです。

④新たな人生を歩み始める途上において、故人との永続的なつながりを見出す

ウォーデンは、心のなかに亡くなった人を適切に位置づけられたなら一つのゴールと言っています。「故人が見守ってくれている」、「こころのなかでいつも一緒に生きていく」などは、みなさんもイメージしやすいのではないでしょうか。

以上、ウォーデンの四段階説を紹介してきましたが、すべての人が同じ段階を踏むわけではありませんし、段階を踏まなければいけないものでもないことはご留意ください。いつまでも家族の死を受け入れられない人もいますし、それも自然な反応なのです。

– 寺院を会場とした介護者カフェでは介護中の悩みだけでなく、介護を終えた遺族からグリーフが語られることもある。(米沢市・西蓮寺「わげんカフェ」)」 –

お盆も大切なグリーフワーク

さて、グリーフワークの視点で日本の仏事を見てみますと、とても理にかなったものと思えてきます。臨終後の枕経、通夜、葬儀などの葬送儀礼は、死別の現実を受け入れる機能を持っているでしょう。今は少なくなりましたが、通夜で遺体と一晩ともに過ごすという風習などはまさにそれですね。親族で酒を酌み交わし、思い出を語るのも悲嘆感情の表出になっていたのだと思います。そして、回忌法要を重ねて、過ぎ去った時間を振り返るというのは、徐々に故人のいない世界に適応していることを自覚する機会なのではないでしょうか。

あらためてお盆を考えてみると、この世からいなくなってしまった故人が毎年しっかり戻ってきてくれる。そして、ともに食卓を囲み、おもてなしをして、「また来年ね」とお見送りをする。まさに「故人との永続的なつながり」を実感し、「心の中に亡くなった人を適切に位置づける」行事ではと気付きます。

みなさんもお盆には、親しい亡き方々と、ともに楽しい時間をお過ごしください。

J.W.Worden:悲嘆カウンセリング―臨床実践ハンドブック(山本力監訳),誠信書房,p38-54,2011

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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