Facebook相田 公弘さん投稿記事【元気にさせてくれる人】
精神科医、斎藤茂太氏の心に響く言葉より…
「元気にさせてくれる人」というのは、プラス思考の言葉の使い方が上手だ。
まず、この練習として、喜びを表す言葉を素直に口にしてみよう。
喜びを表せる人は、相手の立場に身を置くことができる。
相手を「だいじょうぶ」と励ませるのも、相手の気持ちをくみとれるからだ。
プレゼントをするのも、喜びを表す行為である。
そうはいっても、お中元やお歳暮では、義理で贈っているケースも多いだろう。
ある人は、お歳暮の中に、「互い、今年も無事に過ごせそうだ。お世話になってありがとう」と、一筆したためて入れるという。
そんなひと手間に、相手は素直に喜ぶのではないだろうか。
またたとえ、そんな一筆状が同封されていなかったとしても、電話をかけて「いいものをいただいて、うれしい」と喜びを伝えるのがいい。
中元歳暮は「義理」であっても、お礼の電話でしばらく会っていなかった人の声を聞くことができる。
喜びを表すというのは、無精者にはなかなかできないことである。
ほとんどの人は、心は喜んでいても、なかなかひと手間ができない。
お礼の電話をするのさえ億劫(おっくう)になるときもある。
だから、「人を元気にする」というのは、まじめな人といえるのかもしれない。
以心伝心、私の思いを相手はわかっているはず…と考えている人や、やることをやっていれば私が文句をいわれる筋合いはない…とばかりに愛想を忘れている人がいる。
熱心なのにあまり人には好かれない、友達が少ないと嘆いている人は、喜びの言葉が足りないからではないだろうか。
友達にいいことがあったら、「いいねぇ、私なんか何もない」と羨(うらや)むのではなく、「よかったね」と一緒になって喜ぶことができる人になりたいものだ。
プラス思考で喜ぶことができれば、友達はあなたを気持ちのいい人と思ってくれるはずだ。
「人を元気にする人」とは、素直に喜びの言葉を口にできる人でもあろう。
『「あなたに会うと元気になる」といわれる人』(新講社)
小林正観さんは、「元気にさせてくれる人」、「エネルギーを与える人」はつぎのようなタイプの人だという。
「元気な人」
「明るい人」
「前向きな人」
「向上心をつねにもっている人」
「いまやっていることに自信を持っているけれど、うぬぼれたりせず、謙虚さを保ち続けている人」
「いままで積み重ねてきた体験をベースに、人格に深い魅力や奥行きを持っている人」
「一つのことを何年も何十年もやってきている人」
(心を軽くする言葉・文庫ぎんが堂)より
「人をがっかりさせる人」「人を嫌な気持ちにさせる人」は、嫌な言葉や冷たい言葉を使う。
ひと言いわれただけで、元気がなくなる。
奪う人だ。
反対に「元気にさせてくれる人」は、与える人。
温かな言葉や、元気の出る言葉や笑顔を相手に与える。
また、それとは別に…
元気を与えてくれる人には、「何歳になっても何かに挑戦している人」や、「愚痴もいわず、何かをコツコツと何十年も続けている人」というような、「凡を極めて非凡に至った人」がいる。
凡事を徹底して、長くコツコツと続けることができた人だ。
これは、商売でいうなら「老舗」の経営と同じ。
時代によって変えなければならないことは変え、変えてはいけないことはしっかりと守る。
その積み重ねの年月の重さが、人に元気を与える。
何千年と生き続ける老大木が人に感動を与えるのと同じだ。
老舗が長く続くということは、その長い歳月、まわりの人たちに喜ばれてきたということ。
喜ばれ、役に立ってきたからこそ、存続できた。
これは、人もまた同じだ。
人を元気にさせる人でありたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより
https://www.facebook.com/hitonokokoro
Facebookさん船木 威徳記事 【 「ことば」の力 】
あと、何週間か何ヶ月か。あるいは、数日のこともありますがこの地上での人生を終えることになる患者さんの家族に、これから起きること、を話す時が私にはたびたびあります。
伝えるべき内容が内容なので相当に「ことば」を選びますし、わずかなニュアンスの誤解が
ずいぶんと異なる結果に繋がってしまうこともありました。
私は、「ことば」がもたらす不思議な効果を幾度も体験してきたし人を癒し、人を生かすことがあるのも、たくさん見てきました。
「ことば」には、とてつもない力があります。
とは言え、私も、ことばで人を責め 人を傷つけ、自分を守るために ことばを利用することがたくさんあったことを悔いています。
ですから、なおさらのこと、これからは、「ことば」を人を生かし、人を守り、人を癒すため
「だけ」に使っていきたいと思います。
6年前の投稿を引用。
〜王子北口内科クリニック院長・ふなきたけのり
6年前 この日の思い出を見る 船木 威徳 2014年7月23日 · ~見送り~
「もう、このままだと、数ヶ月は生きられないです。」と、私が伝えてから、もう2年。
「先生が、生きるとか、死ぬとか言うから、こっちも、意地になるよ。」とか、言いながら、
すべての飲み薬も、ご自分で中止し、月に一回、「ちゃんと、生きていることの確認」を
するんだと、私のもとに通院していた患者さんがいた。
それから、2年。いよいよ、歩くことができなくなり、ご自宅に訪問することに。
連日の、訪問で、目に見えて、弱っていったけれど、最後まで、点滴の一本さえも、
受けない、いらない、と、最初の方針を貫いた。
正直、なにもしないのであれば、私が、枕元に伺う意味もあまりないように感じていたけれど、それでも、奧さんを通じて、往診はして欲しい、と言っているというのを聞いていた。
はっきりした声を聞いたのは昨日が最後。
今日は、首を動かすだけで、それから半日たって、苦しむ様子もなく、旅立った。
死亡診断書を渡したときに、奧さんは、言っていた。
「主人は、一日に何度も何度も、『先生はいつ来るんだ、明日はいつ来るんだ』って、
そりゃ、しつこくききました。『先生が来てくれると安心する』って」
この2年間、本当に「ただ」横で「見ていただけのような」時間。
それなのに、亡くなってから聞く、その一言で、ただただ、「見せてもらえて、よかった」と思う。ただ、心から、よかった、と思う。
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