Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事
いつも同じことを繰り返し同じ人と会っている人は「今」に何の意味があるのかと問うかもしれません。しかし「同じ」というのは錯覚です。
どんなことであっても同じことを繰り返すことはできません。
私たちには常に「初めて」だけがあります。
昨日は過ぎ去りました。私たちはいつも違う場所に居て、違うことをし、違う人と会います。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
映画「君の名」に登場するミツハの故郷は、監督の故郷近くの諏訪湖がモデルといわれてます。
写真を撮影した諏訪湖を見下ろせる「立石公園」は映画『君の名は』の聖地となっているそうです。
新海誠監督・脚本の映画「君の名は」は日本人の集合無意識に潜む「象徴」「比喩」「暗示」が重層的に含まれた映画でした。
主人公の宮永三葉(ミツハ)の名前は『古事記』の弥都波能売神(みづはのめのかみ)『日本書紀』の罔象女神(みつはのめのかみ)がモデルと思わせます。
ミヅハノメは泉などの水の出始めを表す水の女神です。
そして落下する彗星の名前のティアマトはシュメールの水の女神です。
シュメールの太陽系神話ではニビルの衛星とティアマトが衝突してティアマトは二つに分かれます。その内の一つは粉々になり小惑星帯となり、もう一つは地球と月になりました。
監督はゼカリア・シッチンの「謎の惑星ニビル」から着想を得たようです。
もう一人の主人公の名前が男子高校生の「立花瀧(タキ)」でどちらも水に関係しています。
ミツハは神社の娘で映画では巫女舞を舞いますが、その巫女舞は新海監督の出身地、長野県の佐久市にある新海三社(しんかいさんしゃ)神社の浦安の舞いでした。
新海三社神社では、年に一度映画にでてくる口噛み酒を奉納する儀式が行われています。
お酒を作る職人を杜氏(とうじ、とじ)と呼びますが、元は女性の尊称を表すトベからきています。
古代日本のリーダーは女性でトベという尊称で呼ばれていました。
女性の戸主はトジと呼ばれていました。
ミツハのお父さんが神社の婿養子なのは、古代の母系社会を思わせます。
ミツハの実家、宮水神社のご神体は磐座です。
磐座で主人公の立花瀧(タキ)は口噛み酒を飲み次元を超える体験をしました。
日本の神体山の山頂には必ず磐座があります。
古事記でイザナギとイザナミは、この世とあの世の境にある千曳岩を挟んで会話しました。
死者と生者の間の通信装置が磐座でした。
古代の神事は、磐座で巫女が祭儀を執り行い神々とつながったのです。
古い時代は磐座の上で祭祀が行われていました。
大阪交野の星田妙見宮は、大空から星が三つに分かれて落ちた伝説があります。
妙見山には織女石(おりめいし)という磐座があり、星田妙見宮の祭神は牽牛・織女の二神です。
天の川が流れる星田の里には、天女である七曜の星の一つが地上に降り、羽衣を隠され天に帰れず妻となり、その子が部族の長となる七星型羽衣伝説があります。
この地は古代物部氏が支配していました。
星田には、物部氏の祖神ニギハヤヒを祀る、磐船神社が鎮座しています。
君の名の男女が入れ替わるストーリーは、すぐに平安時代後期に成立した物語を思い起こさせました。やっぱり劇場パンフレットに「とりかへばや」をモチーフにしたとあります。
ユング心理学では、男性の中に現れる女性像をアニマ、女性の中に現れる男性像をアニムスといいます。
アニメーションの語源は、ラテン語で霊魂を意味するアニマに由来し、生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味します。
巨石や巨木、泉や山に精霊が宿るとする信仰は、アニミズムと呼ばれていますがアニマからきています。
石が神の依代として、そこに神が顕現します。
男性性と女性性は、バランスが取れることで全体性が保たれます。
映画では、男性的傾向が強い女性の奥寺ミキが、主人公のタキに入れ替わったミツハの女性性に惹かれるというエピソードがでてきます。
男性性は分離、独立し、女性性は一つに融合、調和します。
現代の理論物理学は、複数の宇宙の存在を仮定しています。
泡のように多数存在する並行宇宙の集団が、もっと大きな「マルチバース(多宇宙)」を形作る構造になっています。
並行宇宙同士は、相互に影響しあい関係しています。
この映画では、時間が過去現在未来と一直線に流れません。
映画の重要な言葉が、「組紐」に出てくるムスビ(むすひ)です。
映画のセリフ「よりあつまって形を作り、人をつなげることも、糸をつなげることもムスビ。捻れて絡まって、 ときには戻って、途切れ、またつながることもムスビ。時間が流れることもすべてムスビ」は目に見えない非物質的な微細な領域を表しています。
非物質的な領域は時間と空間がねじれています。
「ムスビ」つまり「むすひ」は結ぶことで男性性と女性性が一つであることを意味しています。
男の子が「ムスコ」で女子は「ムスメ」です。
ムスヒがついた日本神話の神様の名前タカムスヒ、カミムスヒは陰陽和合の象徴になっています。
そして映画にでてくる究極の問いが『あなたは誰だ。私は誰か?』です。
人間の魂は本来、神の世界に属していますが肉体に閉じ込められ、本来の神性を忘れて眠っています。しかし、イニシエーション(儀礼)で自分自身の本質に気づくことで、肉体の囚われから解放されます。
転生輪廻の苦しみから解放された魂は、物質的な肉体から自由になって神と融合します。
それまで魂は、マトリックスの中で深い眠りに陥って、自分が誰であるか忘れています。
それが密議宗教の基本構造です。
自分が何者かの問いが起きるのは、目が覚めた時に意識と肉体が分離していることに気がついた時です。
大いなる全体から分離していることに気がつくと、全体を求めて魂の探求の旅が始まります。
囚われから離れて目覚めると、陰陽のエネルギーは螺旋状に上昇し一つになります。それが神秘主義の神聖結婚(ユニオミスティカ)です。
主人公のミツハとタキは、時間と空間という次元を超えて影響しあい結ばれるという、魂の旅のストーリーになっています。
物語で、ミツハは祖母から「夢を見とるな? 」と言われます。
ミツハとタキは夢の中で出会います。
私たちは目が覚めるまで、夢の世界を現実と思い込んで眠っています。
誰もがミツハとタキであり、記憶を失った状態で夢見の中で魂の旅をしています。
映画では最後に二人は四谷の須賀神社で出会います。
須賀神社の祭神はスサノオです。
出雲の須賀の地にある須我神社は「日本初之宮(にほんはつのみや)とよばれスサノオと稲田姫が結ばれた地であり奥宮には磐座があります。
大陸からやってきた渡来人であるスサノオが、母系の先住民・稲田姫の婿養子になって日本の国が始まったことを示唆します。
終わりは始まりです。
高校生の頃 修学旅行の車中で 友人に「電車に乗っているのは夢か現実かを証明できるか?」と議論を吹き掛け、うんざりされたことがあります。
脳はイメージしたことも、体験したことも 同じインパクトのある刺激として受け取ると言われます。
このことをアメリカで実験した例があります。
囚人から被検者を募り 目隠しをして手首に鋭利な刃物で切ったような刺激を与え(実際は傷なし)血が滴り落ちることを連想するよう 水滴をぽとぽと落とし続けると 全員死んでしまったという報告です。
オーストラリアで冷凍車に作業員二人が閉じ込められ 翌朝こちこちに凍った死体として発見されたというニュースが報じられました。
冷凍車には電源が入っておらず 庫内は常温であったにもかかわらず。
スポーツ選手がイメージトレーニングで実際のトレーニングより高い効果を上げることも知られています。
フラシィボ効果も一般に知られるところです。唯識論では全ては 心の現れであると説きます。
自分の身体に現れる全ては、「心(スリーインワン的には 顕在意識、潜在意識、ボディ意識)」の現れともいえます。
では 霊現象も心の現れなのでしょうか?
脳の情報が 身体に顕れることを知りながら、そして実体験よりもイメージ体験の方が強力であることを知りながら潜在意識の表れが 霊現象として 身体に体現したとは和多志にはどうしても 思えませんでした。
和多志の霊魂とは違う何かが 和多志とは違う意志をもって 肉体を乗っ取り(憑依)続けたと考えずにはおれません。
しかもたくさんの意識体のおぞましい限りの働きかけを実感しました。
霊現象の中で受け取ったメッセージが幻影だということも 受け取ることはできませんでした。
なぜなら 魂の呼応が伴うからです。
全ての現実はマトリックスに過ぎないことは知りながらも、潜在意識に眠る記憶を たとえ全て甦らしても それは和多志の個人的な情報(信じ込み)の集大成に過ぎないことを 知りながらも血の涙と吠える嘆きの故 その記憶を確認せずにはおれませんでした。
この矛盾をどのように捉えることができるのでしょう?
心は ころころ変わるもの・・・
つまり心・ハートは反応エネルギーであり 「選択の主体であるセルフ・魂」とは別のものと考えられるということなのでしょうか?
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