Facebookあいことば投稿記事 【老いたるは、なおうるわし】
正法寺住職・愛知専門尼僧堂堂長、青山俊董氏の心に響く言葉より…
久々に中学時代の同級会に出席しました。
かつてそれほど美しくなかった友が、深いしずけさをたたえた美しい人になっていました。
反対に美しかった友があまり目だたなくなっていました。
何十年か会わなかった間の、一人ひとりの友の生き方に思いをはせたことです。
深い美しさをたたえた友の人生は、必ずしも幸せなものではなかったようです。
“上手に苦労をした人だな”。
不幸なできごとを肥料と転じて、人生を深く豊かなものにしてこられたのだな”と思ったことです。
「仏法とは、此方(こちら)の目や耳や頭を変えることじゃ」これは沢木興道老師の言葉です。
沢木老師は幼くして両親や、預けられた叔父さんを失い、最後に遊郭街の裏町にある沢木家にもらわれていきました。
ある日、廓(くるわ)遊びをしながら死んだ男の姿を見て、「いつなんどきお迎えがくるかわからん。内緒ごとはできんわい」と悟られ、「両親や叔父が相ついで死んでも目がさめない私のために、菩薩(ぼさつ)がこのような活劇を見せてくれた」と悟り、出家されました。
廓通いをしながら死んだ男さえも菩薩の化身と拝むことができたとき、沢木少年の心には菩薩として、光として刻みこまれてゆくのです。
一般世間では嘲笑ものでしかないことも。
問題は向こうにあるのではなく、どこまでも受けとめる側、自分にあるといえましょう。
女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるは なおうるわし 《ホイットマン》
若さ=美しさは自慢にはなりません。
「老いたるは なおうるわし」、皺(しわ)がなくて美しいというのではない。白髪がなくて美しいというのでもない。
皺の一本一本、白髪の一本一本に、それまでの人生の一つひとつにどう取り組んできたか、その生きざまが、いぶし銀のように光る、人格の輝き、それが「老いたるはなおうるわし」というのです。
かつて芸大の学長であった平山郁夫先生と対談したことがあります。
そのときの心に残る言葉として、「一枚の絵は、それまでの人生をどう生きてきたかの総決算」であり、「技ではない。日頃、描き手が身につけたもの、蓄積したものしか出てくるはずがない」と語られたことです。
本命はどこまでも「わが人生をどう生きてきたか」であり、それが一枚の絵の味わいとしておのずからにじみ出るというのです。
早稲田大学の美術の先生で、歌人でもあった会津八一先生は、「御同様(ごどうよう)、気をつけて、美しき人になりたく候」と知人に書き送っておられます。
日々を大切に生きて、美しき人になりたいと思うことです。
《これまで生きてきた人生の総決算の姿が、今の私》
『泥があるから、花は咲く』幻冬舎
蓮(はす)の花は、泥の中で咲く。
人生としてそれを考えるなら、泥とは、困難や、つらいこと、不幸なできごと。
しかしながら、蓮の花は、その泥の臭(にお)いや、厳しさを、その身に少しも残さず、きれいな香りを放って咲く。
不幸なできごとを肥料と転じて、味わい深く生きてきた人だ。
反対に、つらいことや不幸なことに対し、始終、不平や不満をいい、他人やまわりのせいにしてきた人は、底意地の悪さや、いらやしさ、恨(うら)みなどが顔に出る。
つらいことや不幸なことなど、酸いも甘いも噛(かみ)分けて、善き人生経験を積んできた人の顔には限りない魅力がある。
「老いたるは、なおうるわし」
男も女も、老いてますます美しい人でありたい。
■【人の心に灯をともす】のブログより❗
https://note.com/phi000heart/n/ncd9183705ee2 【「泥があるから、花は咲く」を読んで。】より
ちなみに私は蓮の花を横から見るのが好きです。上から見たら…ねぇ…結構にグロテスクというか…私は集合体恐怖症なので、苦手です。ホラーです。たまに癖になって「うわぁぁぁ無理!」と言いながら何回も見るという不可解な行動に出ますが。
蓮って仏教のお花として有名ですね。この本のタイトルにあるように、泥がなければ咲かないから、だとか。清流では育たないらしいですね。泥の栄養分が必要なのかなぁ。
さて、この本は尼さんによって書かれた本です。色々な話が載っていて、説法を聴いているかのような気持ちで読めました。
私が中でも気づかされたのは、この本の第2章の「人生を円相で考える」の言葉たちです。私は人生は曲がっている道で、一本。円として考えるとは全くイメージがつかない中、この章を読みました。
円相で考える、と読んだとき、「それって無限ループ…」とニーチェ的な考え…?と思ったものです(笑)
輪廻の概念など、仏教には円が大切に思われているようですね。面白いものです。
私は「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。」というガンジーの言葉は知っていますが、作者青山俊菫さんの「死を忘れたら、生もぼやける」、「誰にでも、予告なし、待ったなしに死は訪れます。死を意識しない人生は、何もできない人生ともいえます。」には驚いた。
中世ヨーロッパで流行した「メメント・モリ(memento mori)」、と同じような意味なのかなぁ。「死を思え」のラテン語。
確かに、死は誰にも分からないものです。癌などの病気によって、余命を宣告されたとしても、それが確実なのか、それとも違うのか、長く生きるのか短く生きるのか、それは神のみぞ知る、というものです。
私だって余命とっくに超えちゃってるしね!今月行く病院で寿命突破への一言を言われるかもしれないくらいです(笑)
しかしながら、日常的に死を意識し続けるのはなかなか難しい。「もうチャンスはない」と思って常日頃から行動していれば、何かと本気の度合いは異なってくるだろう。「まぁいいや」とかで行動するよりは。だからこそさぼってしまうというか、「死ぬ気で」を文字通り毎回実行するのは難しいものです。
後悔しないように、という意味でならできそうかなぁ。やってみるだけやってみようかな。
「死を忘れたら、生もぼやける」、生の方に焦点を当てるとそうなるのか。なんだか「死を思え」の言葉を反対側から知った気持ちです。生もぼやける、なるほど。
言葉一つでも、見方が違うと感じ方もまた違ってくる。素敵な言葉に出会えました。
さて、次に私の印象に残った言葉は、「あきらめるな、出なおすことができる」、「どんな人生でも見なおし、出なおすことができます。逆に、どんな立派な人生も、気を抜くと悪の道にそれてしまいます。」というもの。
人生は完全に同じスタートをやり戻すことはできません。リセットボタンはないのですから。ついでに、デリートもない(笑)
けれど、出なおすことはできるんですよね。「もう一度!」な自分の気持ちさえあればできる。…資金とか何とかはあるかもですが!
あきらめこそ、自分が終わらせてしまうきっかけかもしれない。時に諦めの気持ちは大切です。私はそう思います。私がいくら諦めずに夢を追っても、まぁ不可能です。そこに執着しても変わらない、そんな現実もあります。私はそう思う。
けれど、それ以外のことは諦めると自分が自分を見限ってしまうのと同じかもしれない。自分の可能性を自分でつぶしてしまっているのかもしれない。
私は仏教=無欲、というイメージから「あきらめない」という言葉は全くもって連想できなかったのですが、この本を読むにつれて「あきらめない」ということが分かってきた。不思議なものですね。
全体を通して、本が話しかけてくれているように感じる。素敵な本です。上手くいかないなぁ、と思ったとき、誰かの助けになると思う。
こういった仏教系の本を読んでいると、いかに自分が「うわぁ罪まみれ」と思うものです。これがキリスト教、特にカトリックだったら告白すれば何とかなりそうですが…仏教だとどうなるんだろう。
仏教に関わる本を読むと、「一生極悪人!」な感じはなぜか見られません。悔い改め、というとキリスト教風に聴こえてしまうけれど、自分の今を善い行いをすることで変わっていく「次」を与えてくれそう。そう思います。
宗教の本、面白い。人の心は遥か昔から変わっていなくて、やっていることも変わっていなくて。時代背景は大きく異なるのに、心は同じです。悩んだり迷ったり、何かを求めたり。欲と言うものは変わらなくて、それに対する心も変わらない。
歴史は繰り返す、と言われます。それはこれからもずっと変わらないかもしれない。歴史を左右する人間そのものが変わっていないのだから。
きっとこの本も、ずっと先の未来の人が読んでも心に響くのだと思います。もちろん、今の人が読んでも響くよ!
ちょっと心が疲れた、でもアクションするには元気が足りない。そう思う方、ぜひぜひこの本を探して、出会って、読んでみてください。何かしらのきっかけを手に入れると私は思います。
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