Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
古来、日の本の民は、天国を彼岸に見ず、現実只今 こそ高天原であり、だからこそ、日常茶飯事の中に神を感じ、全てに良かれと、真を尽くそうとしてきたのです。。それが、祈り・・・
https://hanatama.jp/aesculus.html 【トチノキの花言葉/古代日本人を支えた大事な木の実】より
トチノキ属は街路樹のマロニエ(和名:セイヨウトチノキ)を初め、世界の温帯地域で広く植樹、栽培されている、落葉広葉樹です。
マロニエは、バルカン半島の一部の山地の固有種でしたが、16世紀にヨーロッパで街路樹として植栽することが流行し、一気に広まりました。パリのシャンゼリゼ通りの並木道は世界的に有名です。
日本原産のトチノキは、古代人が狩猟生活をしていた頃から、その実(トチの実)が貴重な食材として食べられてきました。縄文時代の遺跡からも、トチの実の化石が多く発見されています。
トチノキの花言葉 トチノキ全般の花言葉『贅沢』『豪奢』『健康』
マロニエの花言葉 『天才』『天分』『博愛』
西洋の花言葉 『luxury(贅沢、豪奢)』(英) 『luxure(贅沢、豪奢)』(仏)
トチノキってどんな花?
和名「トチノキ」の由来は、“十と千”の木という意味からきています。十と千とは“たくさんある”ことを表します。何がたくさんかというと、トチノキには実にたくさんのタネ(実)が実るためです。
たくさんの実をつける前には、たくさんの花が咲きます。トチノキ属の花は、天に向かって立ち上るような円錐形の花序(花穂)をしています。
トチノキの花は乳白色や白が多いですが、マロニエは白花に赤い斑点があるものが一般的です。観賞用の街路樹などは、ピンクの花びらのものもあります。
16世紀にヨーロッパでマロニエが爆発的に人気になったのは、春うららの季節に咲く花の美しさが人々を魅了したためです。今日では、世界中の街々の街路樹や公園の植栽に使われています。ヨーロッパでは、春に花の鑑賞会も開かれており、日本のお花見の桜のようなものでしょうか。
花言葉の由来
クリじゃないけどクリそっくり
マロニエの英名は、Horse-chestnut 学名(ラテン名)は、hippocastanum
どちらも、「ウマグリ(和名)」という意味です。
ヨーロッパではかつてマロニエの実が馬の治療薬に使われていました。そして、その実の見た目から、昔はクリの仲間と思われていたのです。
フランス語では、マロニエの実の名前だった
「marron マロン」が、クリの実の名称としても使われています。日本にもこれが伝わり、クリは英語の「chestnut」ではなく、「マロン」と呼ばれています。
これらは、クリの花言葉です。
西洋では比較的花言葉のくくりがおおざっぱなので、名前が共通している植物は、別品種でも一緒の仲間扱いされることが多いです。英語その他多くの言語では、マロニエはクリの花言葉の範疇となっているか、クリと同じ花言葉が付いています。
日本では現役の食材
トチノキ属の木の実には、アルカロイド系のサポニンなど、毒性物質が含まれています。ブナ科クリ属のクリの実は加熱すれば甘くなりますが、トチノキやマロニエの実は見た目がクリでも、そのままでは苦み渋みが強くて、微毒のため食べられません。手間をかけて渋抜きすることで食材になります。
西洋では、かつてはマロニエの実も食べられていました。記録によると、最初のマロングラッセは、マロニエの実で作られていたそうです。が、クリの実のほうが加工しやすく美味しかったので、食用は次第にクリ主流となり、現在では食べるマロンはすべてクリの実です。
一方、縄文時代からトチの実を食材にしてきた日本では、今も尚、渋抜きした実から採れるデンプンを練って作る「トチ餅」や「トチ団子」が、郷土食として食べ継がれています。
飢饉の時などは、貴重なデンプンとして主食の代用にもなってきました。
ちなみに、これがトチの実です。マロニエと違い、殻にトゲトゲがありません。
トチノキの実 『健康』の花言葉は、貴重なエネルギー源となってきた食材に感謝する意味も込められているのでしょうか。
『天才』『天分』『博愛』これは、マロニエの花言葉とされていますが、トチの実の“天から賜った”食べ物のイメージに由来しています。
マロンとシャテーニュ
本場のマロングラッセ
さて、フランスでも、一般的にクリ(châtaignier シャテニエ)の実は「Châtaigne シャテーニュ」と呼ばれています。
もう一度クリとマロニエの実の写真をよく見てください。クリはひとつのイガに2、3個の実が入っていますが、マロニエはほぼ1個の実です。このため、マロニエの実はまん丸の形をしています。
フランスでは、厳密には、クリの中でもひとつのイガに1個だけ入っていたまん丸のものだけを「マロン」と呼び、他は「シャテーニュ」として区別しているのだそうです。本場のマロングラッセは、もちろん、マロンを使うのが原則です。
https://story.nakagawa-masashichi.jp/39541 【出雲神話は存在しない?!『古事記』もう一つの読み解き方】より
古事記、出雲風土記などの書籍がテーブルに広がる
2016年に映画化されて話題を呼んだ『この世界の片隅に』。その作者、こうの史代さんの作品に『ぼおるぺん古事記』があります。『古事記』上巻を原文 (書き下し文) そのままに絵巻物にした漫画です。
これがすごく面白かったのです。今から1300年以上も前に書かれた日本神話たちにこれほど惹きつけられるなんて!と興奮しました。
3冊で『古事記』上巻を描いた『ぼおるぺん古事記』 (平凡社)
なかでも物語の中心部分、現在の島根県出雲地方を舞台にしたスサノヲノミコトのヤマタノオロチ退治、オホクニヌシによる国作りや国譲りなど、いわゆる「出雲神話」に興味が湧きました。そこで、詳しく書かれていそうな『出雲風土記』も現代語訳で読んでみることに。
風土記とは、その土地の風土や産物、神話などをまとめて中央政府に提出する報告書。
当然『古事記』に記載されているようなドラマチックな土地の物語が読めるのだろうと思ったのですが‥‥。
なんだか、神話の部分がすごくさっぱりしている。載っている物語自体も少ないし、『古事記』で数々のドラマが繰り広げられた舞台とは思えないのです。同じ土地の話を取り上げているはずなのに不思議です。
そこで、専門の先生に聞いてみよう!と、上代文学(古代文学のうち、太古から奈良時代までの文学)を研究されている青山学院大学の文学部日本文学科教授、矢嶋泉 (やじま・いづみ) 先生を訪ねました。
青山学院大学
この訪問が、まさか今まで自分の持っていた『古事記』や『日本書紀』のイメージを大きく覆すことになるとは。学問の視点から覗く神話の世界へ、ご案内します。
出雲神話は存在しない?!矢嶋泉先生に教わる、史料の読み解き方
『古事記』研究の第一人者の矢嶋先生
——— 先生、『古事記』と『出雲風土記』を読んでみたのですが、神話の描かれ方の印象がまるで違うんです。なぜでしょうか。
「出雲について語る前に、まずは文献の読み解き方についてお話ししましょう。
そもそも『読む』という行為はとても曖昧なものです。作者が他のことを意図して書いていたとしても、読み手はそれを易々と乗り越えて、違うことを読み込めるし、あるいは読み違えることもできる。
これは人間が持って生まれた才能ですから、読者は自由に楽しめば良いのです。ただし、研究となると、そうはいきません。『作品の意図』を理解した上で解読を進める必要があります」
——— 作品の意図、ですか。
「古代の読み物については、ここ最近まで、作者の一貫したテーマや意図など存在しないものだと考えられていました。単なる資料集と言いましょうか‥‥『作品』としては低く見積もられていたのです。そんな先入観がずっと何百年も先行していました。
そのため、『古事記』や、同じく古代の歴史書である『日本書紀』については、作品全体の構想がどうなっているか、どんな意図があるのか、という作品論が十分に研究される前に、素材そのものの面白さや読み解きが先行してきた経緯があります」
——— 素材そのものというのは、個々のエピソードということですか?
「そうです。たとえば、『古事記』や『日本書紀』に登場する話の一部は、一般的に『出雲神話』なんて呼ばれていますね。でも、実際にはそういう神話は『存在』しないんです」
——— え!出雲神話が、存在しないのですか?『古事記』を読んでいて、出雲の存在感を強く感じましたが‥‥。きっと大きな影響力があった土地なのだろうな、と。
「そういう印象をもたれる方は多いですよね。でも、『出雲に特定の勢力が存在して、その人たちが中央でも無視できないような強大な力を持っていた』、あるいは『その人たちが伝承した素材が古事記や日本書紀に大きな影響を与えている』というのは、研究の世界では、実はありえない話と考えられています。
具体的には後ほどお話ししますが、出雲神話というものは、『古事記』にも『日本書紀』にも基本的になかったものなのです。
今日はそのあたりを解説していきましょう。きっと小俣さんが出雲風土記に抱いた違和感の答えも見つかりますよ」
——— ドキドキしてきました。ぜひ詳しくお聞かせください。
古事記、出雲風土記などの書籍がテーブルに広がる
イザナミが死なないパターンも。意図によって改変される神話
「『古事記』が日本各地の物語を寄せ集めて作られていることをご存知の方もいるかもしれませんね。
現在の研究では、『古事記』の編纂には大きな目的があったと考えられています。それは天皇が統治する国家を磐石なものとすること。
この目的を果たすために、歴史の『あるべき姿』をかため、物語を綴ります。そこで使われたのが各地の神話や伝承です。
ヤマト朝廷に服属した国々は、自分たちの大切なものを捧げました。土地や財産はもちろん、自分たちのルーツを語るものとして重要視されていた神話や伝承も含まれます。そうして集まった神話や伝承を『古事記』の構想に基づいて取捨して、改変、再構成していきます。
例を挙げると、イザナキ・イザナミが登場する冒頭の国作りの物語には、淡路島の海女たちの伝承を取り入れているんです」
——— 服属した地域の神話などを、「意図に合わせてパッチワークのようにつなげて物語を作っていった」ということでしょうか。
「パッチワークだったら、元の伝承の原型が見えるのですが、素材の取捨選択だけでなく『改変』もした上で再構成されています。そのため、原型を留めているとは限りません」
「例えば、『古事記』ではイザナミは死にますが、『日本書紀』ではイザナミは死なずにイザナキとともに国土を完成させます。登場人物の生き死にまで異なっているのです。
『日本書紀』では、イサナキ・イザナミによって国土が完成してしまっているので、『古事記』に登場する出雲を舞台にしたオホクニヌシの国作りのエピソードは、ごっそりと削られています。
これは、『古事記』とは異なる意図を持って『日本書紀』が書かれていることから生まれる違いです。それぞれの作品の構想に合わせて、素材を大胆に料理しているわけですね。
編纂者にとって、神話の舞台は出雲でも、そうでなくてもよかったのかもしれない。さらには、他の地域のよく知られている話から面白い部分を抽出して混ぜ合わせて書かれている可能性だってあるのです。
ですから、今現在の研究では、この中から直接当時の出雲を伺い知ろうとすることは不可能と考えられています。はじめにお伝えした『出雲神話は存在しない』というのは、このことです」
出雲大社から見る、「出雲ニュータウン」説
「こんな文献もありますよ。鳥越健三郎さんの『出雲神話の成立』 (創元社) 。
この本は、出雲大社ができたのは、神話の時代のずっと後の8世紀初頭だという説を述べたものです。『古事記』や『日本書紀』ができて、その中身が定着したころにやっと出雲大社ができたと考えられると言っています。
出雲大社をお祀りしていた出雲国造家は、元々は熊野神社をお祀りしていた人たちで、松江に住んでいました。それがあるときに、だいぶ遠く離れた、現在の出雲大社 (杵築大社) のある木築 (きずき) に引越しをしているんです。
出雲国造は大領 (だいりょう) という役職も兼務している人たちで、本来持ち場を離れてはいけないはずなのに移動している。おそらく、朝廷から指示されて、移住したのだと考えられます。
そして、『出雲国造神賀詞 (いずものくにのみやつこのかむよごと) 』という出雲国造家の服属詞章 (服属の証に天皇の前で述べる文章) ができあがります。『古事記』の中の天孫降臨 (出雲に天皇の祖先となる神様が降り立ち統治することになったエピソード) をなぞりながら朝廷に服属を誓うものです。
これが書かれたのは716年ごろ。ちょうど『古事記』が出来上がった時期に、出雲国造家がこのエピソードを歴史として語り始めた、というのが鳥越さんの主張です」
「さらには、出雲の古墳の状況を調べると、出雲大社の周辺地域にはほとんど古墳がない。一方、松江には前方後方墳という巨大な古墳がある。このことからも、出雲大社のある地域が元々栄えていたわけではなく、8世紀の初頭に突然開発されたのだということが見えてくる。
付け加えると、『日本書紀』の顕宗(けんぞう)即位前記に、「出雲は新墾(いずもはにいばり)」、つまり出雲は新開拓地だと書いてある。何にもなかった土地を新たに開発して人が住めるようにしたという文章が出てきています」
——— 新開拓地。いまで言う「ニュータウン」のようなものなんですね。
「まとめると、鳥越さんが述べていることと、他の文献が述べていることを照らし合わせると、もともと未開拓の地であった出雲の地に、突然とんでもなく立派なお社が出来上がったというわけです」
——— そこまでして出雲大社をつくる理由があったのでしょうか?
「なぜこの時期に出雲大社を作る必要があったのかというと、神話ではなく『歴史』として、事実として人々に認識させようという狙いがあったからです。歴史である以上、それを裏付けるモニュメントが必要だった。私はそう考えています。
その役目を出雲国造家が引き受けたわけですね。出雲国造家は、その後平安朝の間もずっと、この服属詞章を奏上 (天皇に申し上げること) し続けています」
地方官僚はつらいよ‥‥。風土記に見る、古代国家の様子
——— お話を伺っていると、当時の朝廷がすごく強くて厳しい存在であったように感じます。
「かなり厳しかったと考えられますよ。地方は、中央から派遣された国司によって見張られ、統治されている状況。それこそ、地方官僚がお金をささやかにごまかすことすら難しかったでしょうね。
厳しい支配下にあったことは、地方の報告書である『風土記』からも伺えます」
「『常陸国風土記』にはこんな記述があります。『ここは常世 (理想郷) の国と同じだ。いい国だ』と、長々と自分たちの土地の豊かさ素晴らしさを書いた後、ハッと我に返ったのか『唯 (ただし) …』と言い始める。『豊かとは書いたけれど、大したことはないのですよ、水田も小さいものばかり、天候によっては農作物の収穫は不安定です』などと記されています。
各地はお国自慢をしたいし、朝廷から評価されたい。しかし、あまり自慢しすぎて豊かだと知られてしまい、税が重くなることは避けたい、そんな思惑が伺えます。
また、風土記には土地や農作物についての報告に加えて、神話や伝承についても奏上するように指示されています。各地は中央の伝承につながり、天皇との関連性のある場所の存在を記すことで自分の土地に価値を見出したい。
『古事記』や『日本書紀』に登場する神話や伝説の一部にすりよるように、ただし突出することで反感を買わないように、『そのとき天皇がお座りになった場所がこの土地です』というようなこと遠慮がちに書いている。
悪目立ちするような独自の伝承を書くことなく、中央の伝承を元に差し障りない部分を少しだけ付加する。それが本当に涙ぐましい。『出雲風土記』を読んで持たれた違和感はここから来ているはずですよ」
——— 遠慮がちに書かれているから、簡単な記述のみで『古事記』とほぼ同じ、なおかつ大人しめなエピソードしか見つけられなかったのですね。地方官僚の苦労が伺えます。
「『古事記』を読んで、出雲の存在感を強く感じたとおっしゃっていましたね。その読み方は、人が文学を楽しむ行為としてあってよいのですよ。話の舞台となった土地に興味を持ったり、歴史的な意味を考えたり、想像も含めて自由でいいのです。
ただ、研究として作品の意図と共に読み解くと、全く違った様子が見えてくるんですね」
矢嶋先生のお話を伺って、研究の視点から分析される作品の読み解き方に衝撃を受けました。
いずれにしても、『もののけ姫』の世界に迷い込んだかのような神々しい山々、美しい夕日、清々しい空気‥‥出雲に宿る特別感は変わりません。出雲で大きな役目を担った出雲国造家の人々の苦労や、壮大な物語を綴りながら磐石な古代国家を作り上げたヤマト朝廷。彼らの様子も思い浮かべながら出雲の地を訪れると、これまでと違う視点で旅が楽しめそうです。
*さんちの出雲特集はこちら。
<参考文献>
『新校 古事記』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2015年 おうふう
『出雲国風土記』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2005年 山川出版社
『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉 2016年 山川出版社
『日本神話論考 出雲神話篇』 神田典城 1992年 笠間書院
『古事記の世界観』 神野志隆光 1986年 吉川弘文館
『出雲神話の成立』 鳥越健三郎 1971年 創元社
文・写真:小俣荘子
*こちらは、2017年10月26日の記事を再編集して公開しました。研究とは、研ぎすまし究める。その意味の通り奥深い世界に触れることができました。
古事記「高天原と出雲を考える」阿波古事記研究会副会長 三村 隆範氏本居宣長記念館令和4年8月28日
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