http://www.kishimojin.or.jp/nani.html 【鬼子母神様って?】より
ここは法華宗(本門流)という宗派のお寺です「吉祥寺・さどわら鬼子母神」は神社でも、神仏混合のお寺でもありません。やっぱり、「鬼子母神」って最後に“神”がつくからでしょうか。いつも、いつも、神社さんに間違われます。
国道の標識にも「鬼子母神社」とあります。(T.T)例えば帝釈天や梵天などという神様も
今では仏教の神様として祀られていたりします。神道の神様とはちがうんですね。
「じゃあ、鬼子母神って一体なんなの?」というわけで、このページのはじまりです。
それはお経のなかに・・
鬼子母神様はお釈迦様のお説きになられた「法華経」というお経のなかに説かれる神様です。お名前をサンスクリット語(古代インドの言語)でハーリティー”(Hariti)といい、これを訳して“鬼子母神”または音訳して、“訶梨帝”(かりてい)などと呼ばれます。
鬼子母神様には、ひとつの伝説があります。
鬼子母神は般闍迦(Pancika パーンチカ)と云う神様の妻であるとても美しい女神で、500人ものたくさんの子どもがいました。鬼子母神はこの愛する子供たちを育てるため人間の子供をさらってなんとこれを食べていたのです、人間達は子供たちをさらわれることを恐れ苦しみ、お釈迦様に相談しました。
お釈迦様は一計を案じ、鬼子母神がもっとも可愛がっていた一番下の子供の姿を神通力によって隠してしまいました。鬼子母神は嘆きそして悲しみ、必死になって世界中を気も狂わんばかりに探し回りましたが、勿論見つかるはずもなく、途方に暮れついにお釈迦様の元に行き、自分の子供が居なくなり見つからないことを話し、助けを求めました。
お釈迦様は鬼子母神に「500人の子供の内、たった1人居なくなっただけで、おまえはこのように嘆き悲しみ私に助けを求めている。たった数人しかいない子供をおまえにさらわれた人間の親の悲しみはどれほどであっただろう。その気持ちがおまえにも今わかるのではないか?」とはなし、「命の大切さと、子供が可愛いことには人間と鬼神の間にも変わりはない」とおしえられ、子供を鬼子母神の元に返しました。
鬼子母神はお釈迦様の教えを受け、改心し以後は全ての子供たちとお釈迦様の教え、またお釈迦様の教えを信じる全ての人たちを守ることを誓いました。これ以降、鬼子母神は鬼ではなく仏教・法華経と子供の守り神となりました。
「鬼」の字のお話
さて、Topページの一番下に小さく書いてあるように、 さどわら鬼子母神の“鬼”の文字は本当は←のような、普通使わない文字を使います。なぜでしょうか?
それは上のお話のように、鬼子母神はお釈迦様とお会いになる前、まさに鬼のような事をしてきました。しかし、お釈迦様の教えを受け、改心し鬼ではなくなったのです。
そのことをあらわすため、“鬼”の字の一画めの点すなわち「ツノ」を取った字を使うのです。
鬼子母神様とざくろ
鬼子母神様は右手にざくろの枝をもち、ふところに子供を抱いています。鬼子母神様がざくろを持っていることについてよく「ざくろは人の肉の味がするから、子供を食べられなくなったかわりに食べている」といわれます。
鬼子母神様は今でも昔の悪い行いを捨てられないそんな神様なのでしょうか?
そうではありません!!
ザクロの実をみると1つの実の中に又たくさんの小さな実があり、その一つひとつがそれぞれに小さな種を持っています。
このことからザクロは古くから子孫繁栄をあらわす縁起のよい果物として「吉祥果」ともいわれています。鬼子母神様がこのザクロの枝を手に持つのは子供を守る神として子孫繁栄の願いが込められているのです。
上の写真がザクロの実です。
当山の鬼子母神御尊像の写真を掲載すれば分かりやすいとは思うのですが伝統として大祭の2日間にのみご開帳することとなっておりますのでご了承ください。
http://www.kishimojin.or.jp/taisai.html 【さどわら鬼子母神大祭】より
伝統的な宮崎の三大春祭りは「生目神社大祭」(目の神様)「宇納間地蔵尊大祭」(火伏せのお地蔵様)そして、最後を飾る ~こどもの神様~「さどわら鬼子母神大祭」です。
お子さんやお孫さんの健やかなる成長と幸せを。
御参詣お待ちいたしております。
令和4年3月5,6日中止となりましたご開帳はいたします
状況を鑑み、協議の結果お祭りは中止となりました。ご開帳、参拝、ご祈願は通常通りです。
鬼子母神大祭の起源は古く元和元年(1615)旧佐土原藩、三代藩主島津久雄公の寄進により諸病平癒・諸願成就の祈願所として鬼子母神堂を建立し鬼子母神を勧請したことに始まります。安産や子宝の御祈願に参詣する方、子供の健康・発育円満を願う親子連れ、また吉祥寺の鬼子母尊神像は伝統として毎年この大祭二日間にのみご開帳され、この縁日以外はそのお顔を拝することが出来ないこともあってそのお顔を一目拝見しようとする人等、県内各地はもとより鹿児島,熊本など九州各地から二万人近い参詣者で賑わいます。
境内、参道を初め周辺の道路約300mに渡って、地元佐土原町の名物←「くじらようかん」や
(今から遡ること約330年、幼くして佐土原藩三代藩主となった万吉丸(後の島津惟久)をめぐるお家騒動で生母松寿院が政敵に囲まれながらも「鯨のように大きく、力強い男の子に育って欲しい」との願いを込めて菓子屋に作らせ、我が子の無病息災を祈ったのが始まり。)
京都伏見人形の流れを汲むという「さどわら人形」など様々な郷土色豊かな露店が80店程立ち並び、昔懐かしい縁日の賑わいそのままです。
~こどもの神様・さどわら鬼子母神~として親しまれています。
鬼子母神大祭には、特に「育子」(やしないご)として鬼子母神様に自らの子どもを鬼子母神様の子どもとしてお守り下さる様にとの願いを込めて、家族そろって参拝に訪れる方が大勢いらっしゃいます。地元の俗謡に「♪音に聞こえた鬼子母(きしも)の神よ、稚児の手を引く親子が続く」と唄われるほどで、お子様の発育円満・健康・成長の祈願は鬼子母神様へ、お参り下さい。
また、当山の鬼子母神御尊像はそのお優しいお顔からは想像しがたいのですが、(写真は公開致して居りません。ご了承下さい。)今を去る四百年の昔、関ヶ原の合戦において敗勢の西軍にありながら、家康公の本陣を突破し、その武名を全国にとどろかせた名将島津公の陣中の守護神であったと伝えられています。
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