人と自然はひとつ

Facebook一指 李承憲(イルチ イ・スンホン)さん投稿記事

私たちは自分が住んでいるこの地球を破壊することもヒーリングすることもできます。

これは私たち一人ひとりにかかっています。

環境問題を解決する第一歩はすべての人と自然はひとつだという事実に心から気づくことです。科学や技術、経済的なメカニズムだけで環境問題を解決できると考えるのは実に愚かなことです。

人間を除いた環境はありません。自分が環境だという自覚が重要です。

自らの人間性が回復すればそこから変化が始まります。

毎日、時間をつくり地球に愛とヒーリングのエネルギーを送ってみましょう。

ささいな行為でも心を込めて行うと地球に変化をもたらすことができます。


https://www.wwf.or.jp/activities/statement/4540.html 【人と動物、生態系の健康はひとつ~ワンヘルス共同宣言】より

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的大流行(パンデミック)により、人類は歴史的な危機に陥っています。近年、COVID-19を含む新興感染症の発生が増加する傾向にあり、これらの約7割が人獣共通感染症(人と動物の共通感染症)であると考えられています。このような感染症発生の背景には、人類が自然環境におよぼしてきた負の影響、すなわち地球規模の異常気象、大規模な森林の破壊、土地利用の転換や農業・畜産業の拡大、さらに野生動物の商取引・消費といった問題があると指摘されています。人に感染しうるウイルスは最大で82万7000種類あると推測されるなか、予防的対策にかかるコストはパンデミックによって被る被害額の100分の1と推計されており、今こそ予防的アプローチによる、人と自然が共に生きられる社会の実現が急務となっています。

私たち、人と動物の医療や公衆衛生、環境保全に携わる機関・団体は、日本、そして世界での新興・再興感染症の発生予防、パンデミック防止に向け、「人」「動物」「生態系」の健康をひとつと考えるワンヘルス(One Health)の理念のもと、それぞれの力を集結、連携し、さらに政府との対話を通じて、下記に取り組んでいくことを誓います。

生態系の健康を守ります

地球規模での人間活動の拡大が、森林伐採などの自然破壊を引き起こし、新興感染症の発生要因となっている現状を認識し、環境問題の危機を訴えていきます。

新興感染症の発生や新たなパンデミックを防ぐために、生態系を構成する健全な生きもののつながりに配慮し、これまでの過度の自然環境への立ち入りや過剰な利用を含む野生動物との関わり方を見直していきます。

地球上の生態系が、人と動物の生命を支えていることを忘れず、その保全と回復に取り組み、そのための行動を社会に呼びかけます。

動物の健康を守ります

私たちが接触する動物には、ペット(コンパニオンアニマル)や家畜だけでなく、暮らしの中で意識することは少ない多くの種類の野生動物も含まれていることを強く認識します。

人と動物の間で感染症が伝播することを認識し、動物たちとの距離感を見つめ直し、適切な関わり方を考えていきます。また、感染症リスクの高い野生動物の利用や取引を削減していきます。

そのために私たちは、病原体の保有リスクを含めた野生動物の生態への理解向上や、家畜や野生動物の健全性のモニタリング、ペットや家畜の感染症対策、飼育動物の福祉向上を進めます。

人の健康を守ります

健全な生態系の確保は、人の身体的・精神的な健康と豊かさにつながることを強く認識し、より多くの人に訴えていきます。公衆衛生に深刻な脅威をもたらす気候変動、森林破壊、水質汚染といった環境問題を、国際、地域、様々なレベルでの協力・連携のもと解決し、心身両面の健康に貢献することを目指します。

生態系の保全、生物多様性の確保、飼育動物との適切な関係の構築を通じて、人獣共通感染症(人と動物の共通感染症)、薬剤耐性菌の蔓延、食品汚染などによる健康被害を防止し、公衆衛生の向上に貢献します。

ワンヘルスの考え方や諸活動について、幅広い世代の市民に啓発し、ポストコロナのライフスタイルを創生し、人と自然が共に生きる社会の実現を目指します。

生態系の健康、そして動物の健康を守ることが、人の健康を守ることでもある、という事実を認識し、これら3つの健康をひとつの健康と捉え、守っていきます。

呼びかけ団体名(12団体 五十音順):

国際自然保護連合日本委員会、(公財)世界自然保護基金ジャパン(WWFジャパン)、(公社)東京都医師会、(公社)東京都獣医師会、(公社)日本医師会、(公財)日本自然保護協会、(公社)日本獣医師会、(公財)日本野鳥の会、日本ワンヘルスサイエンス学会、人と動物の共通感染症研究会、認定NPO法人 野生生物保全論研究会、(一社)リアル・コンサベーショ

https://weekly-haiku.blogspot.com/2010/02/21_7373.html 【自然の手触り ……髙柳克弘】より

「俳句と自然」というテーマにおいて、一つ、看過することのできない問題がある。それは季語の「本意」の問題である。

「本意」とは、詩の素材のもっともそれらしい、本質的なあり方のことである。伝統的詩歌においては、和歌・連歌の題詠を通して、「本意」が構築されてきた。本意は季語(ここでは便宜的に私たちに馴染み深い季語という呼称で呼ぶ)に限らないが、俳諧では、本意といえば主に季語の本意をさすとしてよいだろう。

「もっともそれらしいあり方」といっても、それは必ずしも自然科学的な実際を言うのではない。たとえば、連歌の題の意義についてまとめた里村紹巴『連歌至宝抄』(一五八六年)の中には、次のような記述が見られる。

五月雨の比は(略)水たん〱として野山をも海にみなし候様に仕事、本意也

「野山をも海にみなし候様に」とは、実際の五月雨の情景に比べ、ずいぶん大げさな印象を受ける。そのような違和感は、江戸人も感じていた。中で、もっとも先鋭的に、その違和感をつきつめ、伝統的な本意に挑んだ作者の一人が、芭蕉であった。

五月雨の降り残してや光堂  芭蕉

すべてを海のように浸してしまうという「五月雨」の本意に対し、ひとひねりを加え、そのような滂沱たる中にもまぎれない輝きを発している「光堂」の荘厳さをたたえている句だ。

雨にけぶる「光堂」の輝かしさの発見に、芭蕉が『おくのほそ道』の旅によって得た、実感・実情が生きている。そして、その実感による把握が、一句の新しさを担保しているのだ(蕉門においてはそうした技法は「うちかへす」と表現されている)。「降り残してや」と問いかけるような口調は、一抹の俳味をこの句に与えるのと同時に、先人たちへの軽い異議申し立てのようにも受けとられる。

季語の本意は、絶対的なものではない。本意が変容していくケースには、大きく二種類あると考えられる。ひとつは、生活の変容。時代の更新にしたがって、ひとびとの暮らしや感性が変わっていく。季語の本意のあり方も、そうした変化と無関係ではいられない。もうひとつは、詩歌によって読み替えられていくことでの変容である。『至宝抄』は、ある時代に権威的な力を持ちえたが、芭蕉をはじめとする俳諧師たちはさかんにその読みかえを試み、本意そのものの書き換えも行われた(『俳諧雅楽抄』などの伝書にそれをうかがうことができる)。先にあげた「光堂」の句は、その端的な例といえよう。俳句の先人たちは、伝統的な本意と、いま・ここを生きる自己の実感との、せめぎあいの中で、みずからの作品の詩情を打ち立ててきたのである。

ひるがえって、現代俳人は必ずしも、季語の本意を意識して作句しているわけではない。むしろ、自分が見たもの、感じたものに即して句を作る、という姿勢のほうが一般的だ。

今回のシンポジウムの中で、「身体性」というキーワードがしばしば登場してきた。自分の身体を通過したリアルを信じ、作品化していく。必ずしも新しいキーワードとはいえないが、「ゼロ年代」と呼ばれる、ある共通する喪失感を土台にした世代に、最後に残されたよすがとしての「身体」だとすれば、その意味合いは切実さを増してくる。季語の本意と、「身体性」とは、矛盾するようであるが、詩歌においては、互いに反発しあうこの二つの要素の止揚が、重要な課題となってきた。

現代俳句における本意の意識の復活などということを、叫ぶつもりはない。ぺダンティズムの跋扈など、負の効果のほうが大きいかもしれない。だが、俳句が先行するテクストとのかかわりの中で詩情を見出してきたことは確かである。それは、意図するか否かにかかわらず、現代においても、鮮烈な詩情の生起する現場で、しばしば起こっている。

小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり  関悦史

『新撰21』から例示した。「小鳥」(「小鳥来る」)の季語が醸し出す天使的イメージが「姉」に転化されることで、そこに一抹の淫靡さが付与されている。この句の本義は、「姉」と名乗る「小鳥」を飼っている主体の異常性を浮き彫りにすることにあるが、そのような主体のあり方の導き手として「小鳥」という季語に実態の存在感を与えている。先行テクストと、いま・ここで書いている「私」との、緊張感ある関係性が、言葉に過ぎない「季語」に、いきいきとした自然の手触りをもたらすのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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