共感覚比喩

http://labellavitaet.blog40.fc2.com/blog-entry-162.html 【芭蕉と共感覚】より

共感覚についていろいろ調べていると気になる記事を見つけた。

共感覚と俳人・松尾芭蕉を取り上げている。

■芭蕉は共感覚者?

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 Harrison、J. (2001)"Synaesthesia:the strangest thing." Oxford University Press.Harrisonの本では、共感覚か比喩かというタイトルの章で、ボードレール、ランボー、スクリャ-ビン、カンディンスキーなどと並んで、我が芭蕉がとりあげられている。鐘消えての句が上げられているが、英訳がわかりやすいので一緒にしめす。

 鐘消えて花の香は撞く夕哉

 As the bell tone fades、

 Blossom scents take up the ringing、

 Evening shade.

ここでは、消えゆく鐘の音(聴覚)が花の香(嗅覚)とまじりつつ、夕暮れ(視覚)に広がっていく様子が描かれている。Harrisonは、共感覚者では一方の感覚の刺激でもう一方の感覚を同時に感じる事を指摘し、この句で表現されている、鐘のringingから花の香のringingへの遷移は、共感覚者の経験の描写ではなく(他の証拠がないと芭蕉自身が共感覚者でないという結論は出せないがと断りつつ)、花の香のringingは比喩的な表現だと結論している。この結論は妥当であると思う。むしろ興味深いのは、西欧人の眼からみて、芭蕉が共感覚者かと真剣に問題にしている点である。

<<<芭蕉と共感覚より

もう一つ芭蕉の句と解釈を見てみよう。

 牛べやに蚊の声暗き残暑かな

 In the cowshed

 mosquito voices are dark

 the lingering heat

ここで興味深いのは、『芭蕉は共感覚を用いて“蚊の声暗き”という表現と”残暑”という季語から、夏の終わりとまもなく訪れる秋を予感させているのだ』と解釈しているところだ。しかしこれらは明らかに共感覚ではなく、共感覚比喩というべきだろう。

■ある俳句入門サイトで“construction techniques for haiku:Synesthesia (sense switching)/俳句の構成テクニック:共感覚(感覚の切替)”とあるのが、「sense switching」はある感覚を他の感覚を使って形容することを指し、この場合の「Synesthesia」も同様に共感覚比喩である。

[参考]詩人や小説家が多く共通に持っているものは共感覚ではなく比喩表現力である,BBC

比喩表現か否かは日本人ならば感覚的に分かりそうだけど。古くは和歌、百人一首や俳句のように、自分の中にある情景や想い・感性をルールの枠内でいかに豊かに表現するか。その創意工夫の中で日本語はさまざまな表現方法を模索してきたのだろう。「まったり」「こっくり」などフランスよりも日本の方が味の表現が多いと言われるのも納得。

■日本語と共感覚比喩(synesthesia metaphor)

日本語において、共感覚比喩とは昔から言語学的に論じられ、体系化されている。共感覚比喩にみられる比喩の左から右への一方向性、つまり「一方向の右端に位置する視覚・聴覚の形容詞が、本来未発達で非常に貧弱であるために、他の感覚分野から借りるばかりで、それゆえ共感覚比喩に頼っている」という仮説は長く奉じられてきた。しかし、この「一方向性の仮説」に近年は反論の声も上がってきているのだが、そのあたりは共感覚と離れてしまうのでここまでにする。

[参考]比喩(メタファー)研究について

■芭蕉はなぜ共感覚比喩を用いたか

芭蕉と共感覚では「なぜ芭蕉は共感覚的な表現を用いるようになったのか?」という疑問に対して、禅の影響を指摘している。

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禅では、概念やシンボリズムによってではなく、具体的身体的な経験そのものに密着し、これを組み替えることによる、あらたな視点の獲得、悟脱を目指す。禅林詩における共感覚表現技法はこうした背景から生まれたものである。もちろん芭蕉の俳句は仏教的思想の表現ではないが、芭蕉の俳句における共感覚的表現などに、感覚への密着を通じ、一種の日常を越えた視点を表現しようとしたものがあるのは、禅の影響によるものだろう。有名な「静けさや岩にしみいる蝉の声」などの句は、共感覚表現とは言えないだろうが、声が岩にしみいるという比喩、声の静けさという撞着語法がつかわれ、より禅語録に近い表現になっている。

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この、『禅と共感覚表現;感覚への密着と切替』というキーワードでまたいくつかおもしろいエピソードを思い出したけど、それはまた別の機会に。。


https://toseminar.wordpress.com/2013/06/16/%E3%80%900616-%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E3%80%91%E3%80%8E%E4%BA%94%E6%84%9F%E3%82%92%E3%81%82%E3%82%89%E3%82%8F%E3%81%99%E8%AA%9E%E5%BD%99%E3%80%80%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A%E7%9A%84%E6%AF%94%E5%96%A9/ 【【0616 山地】『五感をあらわす語彙 共感覚的比喩体系』】より

『五感をあらわす語彙 共感覚的比喩体系』 著:国広哲弥

言語学の本です。(書評と言っていいのか疑わしい内容に…)

言語は人間が極めて長い時間をかけて作りあげてきた複雑な記号系である。この記号系はある日突然、天才のひらめきによって発明されたものではなく、多くの世代にわたって、それぞれの言語集団の要求に適合するようなかたちで発展してきた。言語の起源については無数の不確かな説が出ていたが水掛け論にしかならないため、言語学の学会では長らく論じられなかったそうだ。(最近になってようやく有力と思しい論が発表されたようです。)

人間は、言語という記号系を持つにいたったために、外的世界(物理的な世界)に生きるだけではなく、言語を介在する複雑な内的世界(精神的な世界)を構築することも可能になった。言語学は、こうした基本認識にたち、私たちが言語を通じていかにして外的世界を取り込み、内的世界の秩序づくりを行っているのかを考察することに役立つ。本書では特に、五感を表す(主に日本語の)比喩体系の分析によって、人間による世界の認識がいかに言語に反映されるのかが述べられている。

表題にある共感覚(synaesthesia)とは、“音を聞くと色が見えるというように、一つの刺激が、それによって本来起こる感覚だけでなく、他の領域の感覚をも引き起こすこと。(大辞泉)”である。テレビ番組などでは、仰々しく歴史上の偉人を例にとって、あたかも特異な感覚であるかのように言われているが、言語を共有する人間のあいだにある程度共通した色と音との対応関係が認められている。

例えば『[a]、[i]、[u]というそれぞれの音を聞いたとき、[赤]、[青]、[黄]のどの色をイメージが浮かぶか』という問いを投げかけたところ、法則性が見られた。(ここには言語の形式と意味の関係は恣意的なものであるのかどうかという別の重要な問いが絡んでくるが、今回は脇におく)

私たちが日常使う言葉にも共感覚比喩はある。「おとなしい色」は聴覚を視覚に変換し、「甘い香り」は味覚を嗅覚に変換している。筆者が調べたところによると、この比喩にも法則があって、触覚が最も多くの感覚に変換されるらしい。(下図参照:矢印の向きは変換が行われている関係性)

ここから分かるのは、私たちの外的世界との物理的な接触が多い感覚(触覚や舌で感じる味覚)ほど、比喩として用いられているということである。興味深いのは、共感覚表現「目ざわり」「耳ざわり」は不快な感覚を表すのに使うが、「手ざわり」「肌ざわり」「舌ざわり」「歯ざわり」は快・不快の両方の意味で使われる。(“障り”と“触り”の漢字の違いの話ではない。)

一見、前者は受動的でも受け取る刺激、後者は能動的になって受け取る刺激であるように思われるが、ここにこそ私たちの世界との関わり方が現れている。前者の「目ざわり」「耳ざわり」は、科学的に見れば決して受動的でいても受け取ることのできる刺激などではない。実際には私たちの持つ器官の反応であり、網膜で外界の光を受けて像を結び視神経によって脳に伝えられた、自らの脳が見せる映像に過ぎない。つまり、私たちの“内側”で起こっていることである。にもかかわらず、それを“外の世界”で起こっているものとして認識してしまっている。(外界投射)

言語はソシュールの言うように、恣意的な側面を持っているものの、さまざまな次元において有契的な側面を有している。これは自然言語が、人間的なものの見方を反映していることに起因している。自然言語の仕組みを研究することは、人間が世界をいかに認知しているのかを解明する手がかりを与えてくれることになる。

(蛇足かもしれませんが芸術について)

言語学に踏み入る最初の一歩としてよく問われるのが思考と言語の関係である。言語を伴わない思考は果たして存在するのか。サピア・ウォーフの仮説(Sapir-Whorf Hypothesis)は、「言語はその使用者の思想様式や精神構造に一定の影響を与える。」と言うが、本当に私たちは言語によって規定されたものの見方を乗り越えることは出来ないのだろうか。

上で述べた共感覚比喩についてのみ考察すると、言語の成り立ちの解明が人間の世界の認知の方法に結びついていることから、サピアの主張に反論し難い。ゴーギャンの『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』という作品が頭に浮かんだが、この問いは言語によってのみ思考するしかないのだろうか

現在、六本木の国立新美術館で『貴婦人と一角獣展』が開催されているが、これは当時の人の世界の捉え方が顕著に表れている。展示されている6枚のタピスリーのうち5枚にはそれぞれ「味覚」「聴覚」「視覚」「嗅覚」「触覚」が表現されている。そして5つの感覚には序列があるらしい。中世では(『貴婦人と一角獣』は中世ヨーロッパの作品)人が外界を知る術の五感を次元の低い感覚と捉えていたそうだ。だから外界との接触の多さで序列が決められ、次元の低い順に「触覚」「味覚」「嗅覚」「聴覚」、そして聖書を目で読む「視覚」が最も高度だという考え方だった。これは日本語での検証で法則性が認められた共感覚比喩の上の相関図とほぼ同じである。ここで私は言語の相対性と普遍性への示唆を提供されたような気がして、ますます言語学に好奇心をそそられた。

マルティネの仮説「類似する音は、そうすることによって過度に意味の喪失が起きない限り、やがては併合される」というのが確からしいという今年に入っての面白い記事(http://wired.jp/2013/02/13/protolanguage-generator/)もあるが、やはり言語は美しく、興味深い。


https://blog.goo.ne.jp/kanekuti3515/e/a270ed2ec194aa41a2e5e980a25a8ec8 【比喩表現であっても季語?】より

 今日の午前中は曇り、午後晴れ。それで午後からの健康体操へ行くのに見れば車内温度は33度と…でも街頭にあった温度計では26度でした。フォーユーの体操会場は3階の大ホール。エアコンは28度以上にならないと入れて貰えませんので、たとえ暑くってもガマンなんです。でも、今日は風がよく通ってとても快適に運動ができました。ヨカッタ!

 ところで、以前比喩の〝寝釈迦〟は季語にならないということを書きました。これは我が結社での話であって、他所では比喩であっても季語と認めるところもありますので、一概に全てがダメということではありません。ご了解を。それぞれ考え方や目指す方向が違っていれば当然やり方も違うでしょうから、それはそれでいいと思います。

 先日現代俳句の方の句集をいただき、拝読させてもらいましたが、やはり全く違いますもの。もちろん共鳴する句はたくさんありましたが、さっぱり分からない句もたくさんありました。まあこれは仕方のないことかも知れません。同じ結社でもそういうことはありますから。

 初心の頃というのは何も分からずに入門するので、出会った師や友人や本などにとても影響を受けますが、だんだんやっているうちに自分の詠みたいものが見えてくるようになります。すると、今の詠み方では満足できないようなことも起こるでしょうし、言葉やリズムなどもありきたりではイヤになってくるかも。それで破調に詠んだり、難しい漢語を用いたりと…あれこれ模索して悩みます。その結果で自分なりの結論に到達すればいいのではないかと、私は思っています。

 しかし、そこまで自分では努力せずに人の句の批評ばかりする人がいますが、それはおかしいのでは…。でもそのような人も実際にいるんですよね。私もまだまだ勉強不足ですから、偉そうなことは言えませんが、今自分が到達しているところまでのことは一応分かります。それで、俳句を勉強しようと頑張っている人には、私の知っていることは全て教えてあげたいと思ってしまうのです。やはり、これは〝教師根性〟なんでしょうか?いつか言われたことがあります。初めて会話した人に〝あなた、もしかしたら先生してた?〟と。そうだと答えるとやっぱり!と言われてしまったことがありましたもの。30年以上もやっていると染みついてしまうんでしょうかね~。

 さて、先日の兼題の〝更衣〟にも比喩表現で更衣を詠んだ句がありました。〈更衣緑へ変る棚田かな〉という句。これは棚田が緑に変ってまるで更衣をしたようだと思って詠んだと、作者。

 ではここでちょっと考えてみて下さい。棚田が緑になるのはいつ?それは〝草萌〟の頃なので、春の初めでしょう。だったら6月頃の〝更衣〟とは全く合いませんね。もし、この情景をどうしても詠みたいと思うのなら、例えば〈いつせいに棚田草萌え更衣〉とかすると、〝草萌え〟が季語になり、枯れ色から緑へまるで更衣をしたようだという比喩になります。しかし、更衣という季語の〝冬物から夏物へ〟という本意が完全に無視されることになるんです。このように〝更衣〟ということを、季節に関係なく〝衣を替える〟即ち、変化するということだけの見立てで詠むというのは、やはり季語として認めたくはありませんね。みなさんはいかが思われますか?

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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