人は愛することで健康になれる (愛のホルモン・オキシトシン)

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人は、命が在るから、元気でイキイキ生きられる。これは誰もの周知の真実なのに、命を使って、健康な人格、健全な心身を創造できることを知りません。不思議なことです。

かって、僕は、歯医者に虫歯が直せるか?(創元ライブラリ)の著書で幸せホルモン、βーエンドルフィンを,ネズミに投与すると、虫歯や歯周病を予防できるばかりか、ガンや糖尿病や肝臓疾患などいわゆる生活習慣を非特異的に、一気に予防できることを報告しました。

ハッピネスホルモン、βエンドルフィンが分泌される様な生活スタイルで在れば、元気にイキイキ生きられると言うことです(命のレシピ&両国橋あかでみっくかふぇ:動画参照)。

この様な、動物研究から、さらに地域保健を、進めていくと、快楽、歓喜、慶賀、法悦 と言った 四つのよろこび の中で 日々の生活を進めている 高齢者は、ほとんど心身は健全であり、人格的にも健康で、愛深き菩薩さまの様な生き方をされていました。

今回、高橋徳先生の著書、人は愛することで健康になれる と言う考えに触れて納得、納得、と、皆さんにぜひ読んでいただきたいと思っています。

僕は、命の2つの力、イノチといのちを使うと、人は愛することで健康になれる (愛のホルモン・オキシトシン)

http://www.aichidenshi.jp/blog/page/4/ 【空海は三度泣く】より

私の人生の師でもある統合医療のパイオニア、矢山利彦先生にとって、空海の研究は趣味を越えた切実な医療のための研究と実践の場だそうです。

私も矢山先生に触発されて先生のご著書『空海の人間学』を繰り返し読ませていただき、

空海大師の悩みの超え方などから多くのことを学ばせていただきました。

今回は、出口光さんがメールマガジンで「空海が三度泣く」と、大変興味深い切り口で空海の哀しみ、嘆きについて述べられていますので、ご紹介させていただきます。

一、空海は性霊集の中で、愛する人との別れを次のように言っています。

「哀(かな)しいかな、哀しいかな哀(あわ)れが中の哀れなり。

悲しいかな、悲しいかな悲しみの中の悲しみなり。

覚りの朝(あした)には夢虎(ぼうこ)無く 悟りの日は幻象なしというといえども

然れどもなお夢夜(ぼうや)の別れ 不覚の涙に忍びず。」

この意味は、「哀しくて哀しくて、哀れといってもこれほどの哀れはありません。

悲しくて悲しくて悲しみの中の悲しみです。

悟りを開けば何物にも惑わされないというけれど、現実に愛する人との別れには涙を流さずにはいられません。」愛する人との別れをこのように語る空海人間らしくて魅力的ですね。

あなたにも愛する人はいますか。そんなに悲しむことができますか。

二、空海はこんな風に嘆きます。

「径路(けいろ)未だ知らず。岐(ちまた)に臨んで幾たびか泣く。」

「どの道に進んで良いかわからない。人生の分岐点に立って、何度泣いたかわかりません。」

若き空海が、どのように生きたら良いのかわからないで何度も泣いたというのです。

今の多くの若者は、「生きがいがない。」「働きがいがない。」といいます。

私たちが人生に悩み、嘆いて当然ですね。空海は「愛」に泣き、「生き方」に泣き成長していきました。安易なプラス思考は吹っ飛びます。人生は甘いも酸いも味わってこそ。

あなたも悲しいときは思いっきり泣いてみませんか。

三、空海は性霊集でこんな風に言います。あなたも声に出して読んでみてください。

「虚空尽(つ)き 衆生尽き 涅槃(ねはん)尽きなば 我が願いも尽きん」

いったいどういう意味でしょうか。

いろいろな解釈がありますが、私はこんな解釈が好きです。

「大虚空である宇宙も全ての生命や人間の迷いも悟りの世界も全ては、私たちの心が創りだした世界だと皆が知り、悟ったときに私の願いが叶います。」

これは空海が開いた高野山で、たくさんの燈明で埋め尽くす「万燈会」を催した時の願文です。空海の「志」がここにあります。全ての人が悟った世界を創る。

これが成し遂げられたとき、高野山に今でも生きているとされる空海は滂沱(ぼうだ)の涙を流す。3度目の「泣き」は私の創作ですが本当にそうだと想います。

「愛に泣き」「生き方」に迷って泣き、「志」を果たして泣く。

これはまさしく、人間の幸せな生き方なのかも知れません。

空海は三度泣いた・・・あなたは?

私の座右の書、矢山利彦先生の『空海の人間学』を紹介させていただきます。

矢山先生が超訳された『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』『般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)』は、私の人生の羅針盤として大切に読ませていただいています。

4月にご紹介させていただきました高橋徳先生の新刊出版記念講演

『自律神経を整え、ストレスをなくす~最強の脳内物質オキシトシン健康法~』

が、オキシトシンリッチフォーラムにて開催されますので、ご案内させていただきます。

健康で思いやりに満ちた社会を創造する可能性を秘めた”信頼”と”愛情”のホルモンを学ぶ

第一回「オキシトシンリッチフォーラム」

オキシトシン研究会が提供する医師・研究者・代替医療の専門家・育児支援者・ヘルスプロモーションの

専門家が集い、オキシトシンリッチな未来を創るためのアクションプランを創りだしていくための情報共有・研究活性化の"場”、それが”オキシトシンリッチフォーラム”です。

【童謡「むすんで ひらいて」】より

「むすんで ひらいて」は、明治14年に「小学唱歌集」でひろく日本に発表されました。

このメロディーを聴くと幼いころの思い出が鮮明に蘇ってくる方も多いと思います。

ウィキペディアによりますと、作曲家はフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーですが、作詞家は不詳だそうです。

「むすんで ひらいて」の歌詞は、日本人の心の中に深く刻まれていると思います。

この歌詞についての考察が金光教 木津教会誌「和賀心」で述べられていますので、

ご紹介させていただきます。

「むすんで ひらいて てをうって むすんで またひらいて てをうって そのてを うえに むすんで ひらいて てをうって むすんで」

まず、「むすんで」とは、”結び”です。人との出逢いやあらゆる出来事はすべて”結び”なのです。人は縁あって他人と出会い、様々なことを経験します。そのひとつひとつの出会いや経験から人は成長するのです。

次に、「ひらいて」とは、”解き(ほどき)”です。他人と出会えば必ず別れがあります。

この別れが”解き”です。また、これがモノや出来事であれば「執着しない」または「手放す」ということを意味します。この”解き”からも人は様々なことを学びます。”結び”が学びならば”解き”もまた学びなのです。

そして、「てをうって」とは、”理解”です。人は「なるほど!」と思った時、思わず手をうちますよね。それに、もう一つ意味があります。それは「感謝」です。

つまり”結び”と”解き”から得た学びを理解し、納得し、感謝する。

そうすることで、また次の新しい”結び”へとつなげていくことが出来るのです。

さらには、「そのてをうえに」ですが、ある人との出会いやある出来事から何を学べばいいのか分からない時があります。または、どうしていいのか分からない時もあります。

その時は「その手を上に」して天を仰ぎ、神様にゆだねるのです。ときには「その手を頭に」置いて、理性で考えることも大切です。ときには「その手を胸に」当てて、自分の素直な気持ちに聞いてみるのもいいでしょう。

さらには「その手をお腹に」当てて、自分の腹の底、本心はどうなのかと問うてみると

答えが出るかもしれません。

それでも答えが得られないのであれば、「その手を上に」して天を仰ぎ、神様にその判断をゆだねてお任せするのです。つまり「人事を尽くして天命を待つ」ということです。こうして人は何度も「むすんで ひらいて」学びを深め、成長していくのです。

”結び”も”解き”もそれぞれ学びですから、「良い・悪い」はありません。

人は、”結ぶ”ことでしか学べないこともあれば、”解く”ことでしか学べないこともあります。

たとえば、一般論でいえば「結婚」は幸せなことで、「離婚」は不幸せなことですが、

神様の視点で見れば両方とも学びです。

離婚もそれを学びに変えれば新たな”結び”につながるので、幸せなことととらえることも出来ます。

さらに言えば「結婚しない」ことでさえ”結び”です。結婚しないことでしか見えないものもあります。もしあなたが結婚したくても出来ないのであれば、それはまだ学びの途中なのかもしれません。そうしたものを手放した時、必ず新たな”結び”が現れるのです。

”結び”と”解き”のように、この世界は相対的なことで成り立っています。

「善・悪」「損・得」「幸・不幸」というのも実は自分の見方によるものです。

その自分の見ている世界というのは、自分の価値観や好き嫌いで判断していますから自分の見たいものを見たいようにしか見ていないのです。

たとえば、幸・不幸にしても片方の立場に立ってみればもう片方は見えていない。

つまり、物事の半分だけしか見ていないということになります。全体を見ていないのです。

神様は、右も左も上も下もすべてひと目に見通しておられるのです。そういう神様の目で見たら「すべてはあってある」姿なのです。

つまりあるがままで価値を持ち、存在し、その存在自体が神様のお働きなのです。

そこで、人間にとって必要なのは全てを感謝するということです。

「ありがたいこと」に感謝して、「ありがたくないこと」にも感謝する。嫌なことや辛いことに「無理にでも感謝しなさい」ということではありません。

「感謝できないこと」は「感謝できないこと」として受け止めるのです。

受け止めたうえで手放すのです。そして「感謝出来ないこと」からも何かを学び

「感謝出来ること」に変えていくのです。それがすべてを感謝するということです。

すべてが「神様のおかげ」と見た時、あなたに起こった出来事の一つ一つが意味を持ちます。そして一つとして無駄なことなどなかったことが分かります。(神様=サムシング グレート)

私も今年、古希を迎えます。まだまだ不安・心配の種はつきませんが「むすんで ひらいて」の歌の意味を考えると頭の中のモヤモヤや、胸の中のざわめきが薄らいで腹に落ち、とてもすっきりとした穏やかな気持ちになれます。

皆様も童心に帰って「むすんで ひらいて」を口ずさんでみて下さい。

「惜福」「分福」「植福」の法則 金光教 木津教会誌「和賀心」より

私たちの人生には、どうやら幸運と不運が交互にやってくるようです。考えてみれば、幸運であるか不運であるかは私たちの心の持ち方次第ですから、不運である状態が続けば、たいていのことは幸運と思えるものですし、逆に幸運が長く続くと、普通のことでも不運に思えてきます。

このように幸運と不運は相対的なものですから、交互にやってくるのは珍しいことではなく、むしろそれは自然の法則なのです。

しかし、興味深いことは、「人間万事塞翁が馬」というように交互にやってくる幸運と不運とが互いに無関係という訳ではなく、不運と思っていたことが実は後に幸運につながる要因だったり、逆に幸運だと思っていたことが不運につながったりと、幸運と不運がお互いに因果関係にある事がよくあります。

ということは、不運だと思った経験も、それを活かすことが出来れば幸運につながるはず。

逆に幸運であることに慢心していると、それが不運につながるということもあるのです。

慢心して不運にならないようにするためには、「惜福」「分福」「植福」という心がけが必要となります。

一、惜福

惜福「福を惜しむ」というのは、福を使い果たさないで大切に扱うことを言います。

お金が、時間が有り余っているからと無駄に消費してしまうのは惜福の対極です。

惜福の一例として挙げられるのは、時間を無駄にしないということがあります。

それも隙間時間を有効に活用することが大切です。

僅か十分や十五分という隙間時間こそ無駄にせず有効に使うことです。

惜福を一言で言いますと、「もったいない」という心です。

自分に与えられ恵まれたものを大切に扱い、できるだけ無駄をなくし、活かしていくという工夫のことです。

二、分福

福を惜しむということは、ややもすると吝嗇、すなわちケチと誤解されがちですが、幸運をつかむためには運を独り占めしないことが大切です。これが二番目の法則である「分福」です。分福とは、自分の得た徳を他人に分け与えること。

いわゆる「おすそわけ」というのが分福にあたるわけです。

惜福はどちらかというと個人の心がけとして重要ですが、分福は人の上に立つ者にとって

とくに重要な心がけです。

三、植福

幸運をつかむためには、「惜福」「分福」の心がけが大切だと申してきましたが、福を使い切ってしまえばそれでおしまいです。そこで、より大切な心がけとして「植福」という考え方があります。植福とは、自分の力、情、智恵でもって世の中に幸福をもたらす物や知識を提供することです。

植福には、遠い将来も含めて社会に対して貢献するという意味のほかに、植福する人自身にとっての福を植えるという意味があるのです。いわゆる徳を積むということになります。

植福した結果、自分の福を収穫できると共に、社会の福も収穫できるのです。

◎一粒の種もおろそかにしない

喉の渇いた人に一杯の水を与えるくらいのことは誰でもできるし、

飢えた人に一椀のご飯を振る舞うくらいのことは、どんな貧乏人にでも

できるはずだといいます。

それなのに、そんな小さな行為に何の価値があるだろうかといって

実行しないのは明らかに考え違いです。

一粒の種子が巨木に育つことがあると理解出来れば、些細なことが

必ずしも些細なことで終わらないことを理解できるはずです。

3回に亘って幸運をつかむ「心の法則」を紹介させていただきました。

皆様の人生の指針となりましたら幸いです。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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